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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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そうは見えないけれど

子どもと一緒に教会に集っています。長男はにこやかなこともあって、教会の人たちには「良い子だね」みたいに言ってもらっています。

今読んでいる本に、こんな記述がありました。

本来の発達障害では、二次的に愛着の問題が起きていなければ、世間ずれしていない天真爛漫さや無邪気さがみられることが多い。・・・「心がきれい」と表現したくなるような純粋さや素朴さに出合う。(『発達障害と呼ばないで』岡田尊司著より)


教会では長男のこれに近い姿が見られるのでしょう。親ばかですが。なので、教会の何人かの人には発達障がいのことを伝えていますが、「そんなふうには見えないわ。そんなに気にしなくていいんじゃない」と、大概言われます。

初めのうちは、そんなものなのかなって、そういう言葉を特に気にはしていませんでした。でも、先日こんなツイートを目にしました。

「発達障害があるように見えないね。でもだからこそ大変なんだよね」という認識がもっと広がってほしい。

このツイートを読んで、これも確かにその通りだと思いました。
そう見えないからこそ、なかなか理解されにくい。特に普段時間を過ごすことが多い同年代の人たちからは。見えないから、「なんかちょっと違うよな・・・」。そうは思えないから、「配慮は必要ないだろう。」
分かって貰おうという、こちらの努力も足らない部分はあるのですが・・・。


「そんなふうに見えない」としたら、それはきっと長男の今までの頑張りの賜物。でも、私も気がつかないところで、それなりに大変な思いはしているのだと思います。そんなことを、このツイートを読んで思い、改めて長男がなんとも愛おしくなりました。


そんな長男、4月からは県内ですが寮に入る予定です。子離れできるかしら・・・。

| 発達障がい | 18:40 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「今日で卒業です」

「今日で卒業です」

長男が5年生の頃に今通っている病院に変えましたが、長男が4歳の時から、18歳の今日まで14年間、次男は13年間発達障がいの発達相談に3~4ヶ月おきに通っていました。

今日、4ヶ月ぶりに子どもを連れて相談に行って来ました。子ども達が入ると、先生が「二人とも表情が変わったな」と、成長をとても感じると仰いました。特に次男は今までになく、先生の質問に堂々と答えていて、先生も少し驚かれていました。

次男の通っている私立高校は偏差値的には低い高校です。でも、その高校では成績が上位で、学校での授業が「分かる」ことに自信がついた。また、お正月明けに高校の友だち4人と遊びに出かけたのですが、友だちと遊びに出かける、という経験が次男には生まれて初めてのことで、それがとても楽しかったようで、自分はやっていける、と自信を持てた。そういうことが次男を前向きにしていて、それが次男の言動から確かに感じられたのでしょう。

長男は大学も決まり、彼もまた一段と明るくなり、自信を持てている。

そんな二人を見て、話して、最後に先生が、「困ったことや相談ごとがあれば、また来てくれたらいいですが、(定期的な相談は)今日で卒業です。」とおっしゃり、息子達と握手をされました。

問題がなくなったわけではありません。これからも色々と問題はでてくると思います。その先生には8年間お世話になったのですが、8年間息子達と接し、その表情や言動を診てきて、もう大丈夫だろうとの判断なのでしょうね。その時には特に感じなかったのですが、こうやって振り返って書いている今、なんだか涙が出てきて・・・。

何かとありました。長男も次男も4歳になる少し前に「広汎性発達障がい」、「自閉症」と診断名がつき、結構泣きました。でも、「神さまの栄光が表れるためです」との聖書のイエス様の言葉にすがり、すべては神さまから来ているのだからと、ただ神さまに信頼していこうと決めてからは、障がいがあることをくよくよしなくなりました。そして、関連の本を何冊も読んで、自分なりに理解を深めてこられたかなと、思っています。

定期的な相談は一応今日で卒業となりましたが、これからも何かとあると思います。何か起こったり、あるいはどうしようかと悩んだ時、今日先生がアドバイスしてくれたように、「マイナスに考えるのではなく、どうしたらプラスになるのか、そのことを考えていく」、その姿勢を守っていきます。


今日1/6の朝日新聞で、中高生が心に響いた言葉とエピソードを綴る「私の"折々のことば"コンテスト」の結果が発表されていました。最優秀賞でありませんが、「栄光ゼミナール賞」の高校生部門で次の言葉が選ばれていました。

プラスはマイナスから書き始める(投稿者の高校生の友達の言葉)

いつか実を結ぶという意味と、一本書き加える努力が大切という意味。


マイナスの人生の出発なんてないと思いますが、なんらかの障がいがあると言われるのは、やはりその当初はマイナスなんです、当事者にとっては。でも、それをプラスへとしている息子達に、惜しみなく拍手を贈りたい。

そして、今でも心に残っている場面。数回書いていますが、これだけは忘れられない場面なんです。

息子が小学生だったとき、支援学級の参観での出来事です。

始めに、一人一人が前に出て自己紹介をし、先生がビデオに撮りました。
発表が終わった後でビデオを見ながら、予め言われていた注意点について自分はどうだったかを「○か◎」で評価しました。
その後に、クラスのみんなはどう思ったかを「○か花丸」の札をあげました。

その中で、どちらかというと自閉傾向の強い子が発表しました。姿勢はくねくね、声は小さく、明瞭でなく、何を言っているのかよく聞き取れませんでした。半分くらいの子どもが「○」の札をあげました。

その時に、6年生の女の子が発言しました。

「○○君は、去年は一人で発表が出来なかったけれど、今日は一人でできました。だから『花丸』です」


それともう一つ。これは、支援学級の先生から聞いた話です。

次男が5年生の時、学校での水泳クラス対抗マッチでの出来事。

当時次男は顔を水につけるのがやっとで、泳げませんでした。でも、全員参加なので、泳げない次男も出場します。
次男は、ビート板で25mを泳ぐことになりました。そして、一度も足をつかずに25mを泳ぎ切ったそうです。

対抗マッチが終わると、クラスの男の子がこう先生に言ったそうです。

「今日、一番頑張ったのは、○○(次男の名前)君だね。だって、今日は一度も足をつかずに25mも泳いだんだから」



障がいがあってもなくても、人はみな成長していきます。そのスピードは人それぞれ。一人一人、それぞれの持てる力の中で頑張っています。その頑張りは誰かと比べるためではない。その結果も誰かと比べるためではない。自分自身がどうあったか。

あの女の子のように、男の子のように、見るべきところをちゃんと見ている人は必ずいて、「だから、『花丸です』」と言ってくれる人がいる。

「だから、『花丸』」。素適な言葉です。

息子達の「卒業」に、今までのことをちょっぴり思い出して、今も少しばかり涙している私でした・・・。

「いのち」という、カトリックのシスターが作った歌が思い出されました。

| 発達障がい | 16:03 | comments:8 | trackbacks(-) | TOP↑

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「未来」のためにあるものなのかも

声優の林原めぐみさんがご自身のブログ(こちら)で、あるファンへのメッセージが話題ということで読んでみました。

そのファンの方は高校生。最近自閉症だと診断されたそうです。そう診断されて、とてもショックなこと、母親に対して申し訳なくて辛いと、その胸の内を吐露しています。

それに対する林原めぐみさんのメッセージは、あたたかい。

ファンの方に、まずは「心が揺れたことでしょうね」と、その心の内に思いを馳せています。そして、その上で、前向きなメッセージを伝えています。

病名や診断っていうのは、そもそも、『未来』のためにあるものなのだと思う。

そこからどう生きるか、これからどうするか、を手に入れた。

この先、どう生きることが、あなたにとって苦しくないかを探すことでもある。



子どもを育てていて、「もしかしたら我が子は発達障がいかな?」って感じる親御さんはいると思います。
でも、体調を崩したら、お医者さんに診て貰い、例えば「インフルエンザです」とか「盲腸です」とか診断してもらいますが、そのようにはお医者さんに診てもらうことに抵抗を覚えたり、勇気がなかったり、そういうケースもあります。

自分自身のことを振り返っても、やはり発達障がいだと診断されるのは辛いです。我が子がそう診断された当初は、涙したときもありました。

でも、落ち込んでばかりもいられない。「辛い」というのは親の気持ち。発達障がいがあろうがなかろうが、目の前にいる子どもは日々成長していきます。泣いてばかりもいられないし、抵抗ばかりもしていられません。

その我が子が将来少しでも生きやすいように、できることをしていこう、そう思える日は来ます。どうしていけばいいのか、それを考えていくようになります。

そして、そう思える日は子どもが少しでも若いほうがいいと、私は思います。

「発達障がい」という診断名は辛い。でも、未来のため、これからどう生きていくか、どうしていくかを見出していくためには必要なのだろう・・・そう思って歩んでいければ。


林原めぐみさんに手紙を書いた高校生の女の子と、長男のことがややだぶりました。今は辛いと思いますが、前向きに歩んでいってほしいです。

弱いものは弱い、それではいけないのか。強さを欠いた残り物が「弱さ」なのではない。ピアニシモな旋律がそうであるように、「弱さ」も、それ自体あっていい。(誰の言葉かは忘れましたが・・・)


異なっていることこそ正常です。人間であることに基準などはありません。目が不自由であったり、耳が聞こえなかったりする人もいれば、学習が困難な人、精神ないし身体に障害を持った人々もいます。その一方、ユーモアのない人々、永遠の悲観論者、反社会的、いやそれどころか暴力的な男女もいるのです。
 障害があるというのは異なっているだけのことなのだと理解するのは、われわれが取り組まざるを得ない目標です。

 障害の基準なるものは偶然であり、これが確かかどうかは疑問です。そうした基準の前提は相変わらず、いわゆる社会の要求、とくに合理的で活動的な能力、生産過程における生産能力です。しかしかりに、(共に生きるという)社会的態度が模範的な基準であるとするなら、ダウン症群の人々を見習わなくてはなりますまい。耳や目が不自由な人が肌で感じる感受性を基準にすれば、見えたり聞こえたりする人にこそ障害があるといえます。(ヴァイツゼッカー大統領)

| 発達障がい | 20:39 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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発達障がい

発達障がいのある子どもたち。悲しいことに、そういう子ども達のことを「普通じゃない」と言う人たちがいます。その「普通」の基準は何? この年齢ならこれができて当たり前、と言われることができないこと? 年齢相応の会話ができないこと? 話が伝わらないこと?

発達の子ども達は定型発達の子ども達とは発達の仕方が違うだけで、私たちと同じ人間です。その人間は”普通”とか”普通じゃない”と分類されるものではないはずです。

発達の仕方に違うところがあるから、他の多くの定型発達の子ども達と同じようにさせたいと、物事を無理矢理やらせるのは私は違うと思っています。

その子の状態に応じて、思いを汲んで関わって行く必要があります。それはその子のわがままを許すことになり、周りの子が納得しないと考えてしまう人もいます。”わがまま”と思い込んでしまうことがまず問題なのではないでしょうか。

わがままって、他人のことを考えず,他人に迷惑をかけることになっても気にせず、自分の都合だけを考えて行動することです。それを考えると、発達障がいのある子ども達が、”わがまま”と捉えられる行動は、”わがまま”ではないと思います。

でも、”わがまま”と考えてしまうから、「無理矢理にでもちゃんとさせよう」、「これを放任しておくわけにはいかない」「甘やかしてはいけない」って思ってしまう。


発達障がいは目には見えません。だから、余計に無理をさせてしまうところがあるのではないでしょうか。
足が不自由で車椅子に乗っている人に、「周りの人は車椅子に乗っていないから、あなたも乗らないで」などと言う人はいません。
視力が悪くて眼鏡をかけている人に、「周りの人は眼鏡をかけていないから、あなたもかけないで」とも言わないでしょう。
足を骨折してうまく走れない人に、「さあ、みんなと同じようにがんばって走りなさい」とも言わないでしょう。


生きる力をつけるために、頑張らせたり、無理をさせたりしなければいけない時は確かにあります。でも、「こうあらねばならない」との思いに縛られて、その時を機会を見誤ってしまわないように気をつけなければいけないし、きをつけてほしい。

| 発達障がい | 20:33 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

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発達障がい

昨日仕事が終わり帰ろうとしたら、携帯に次男から電話。2時頃に嘔吐したと・・・。
急いで帰ると、食べた物を全部吐き出したままの状態で、次男はストーブの前でぐったり。長男はパソコンをしていた。

とりあえず汚れた所をきれいにし、洗ってから、次男を病院へ連れて行くと、診察まで90分待ちの案内。一度家に帰り、呼び出してもらい再び病院へ。診察の結果、感染性胃腸炎。点滴を受けて家に帰ると夜の8時。

次男を直ぐに寝かしはしたものの、二階から次男の泣き声が・・・。次男の元に行くと、「お母さん・・・」。

つい先週、中学校を卒業し、4月からは高校生だという男の子が「お母さん・・・」と泣いている。ちょっといくらなんでも甘えすぎ、って思われるかもしれません。そんな幼さから早く卒業させなくてはいけないと思われるかもしれません。そして、私もそうは思うのですが、こういうのも次男の成長のペースなのだと思うと、たまにの事だから、次男の甘えに付き合うのもいいかなと思います。

一方、次男がそんな状態にも関わらず、高校生の長男はパソコンをしていた。(一応パソコンで勉強。スタディサプリをしていた)。
長男に次男がこういう状態なのに、どうしてお母さんに電話をしなかったのか、弟が吐いた物を処理しなかったのか、答えは分かっていたけれど、一応聞いてみた。思った通り、「電話をすることは気がつかなかった。どうやって処理をしていいのか分からなかった。」

高校2年生ともなると、できて当たり前の事が、長男はできない。というか気が回らない。気がつかない。特に今回のように、目の前で吐かれた経験がないと、全く以てどうしていいか分からなくなる。だから、その度に「こういう場合はこうするんだよ」って伝えていくしかない。

長男も次男も発達障がい(アスペルガー症候群、広汎性発達障がい)と診断されているが、このような時、発達障がいの難しさをちょっぴり感じます。

また、長男が高校生になってからは、今までになかった難しさを感じています。

幼児から小学生までの発達障がいに関する情報はたくさんありますが、高校生や大学生となるとそんなにないんですよね。

長男の今後のことをどのように考えていこうかと思っていたら、良い本に出会えました。3/12日曜日の朝日新聞の読書欄で紹介されていた栗原類さんが書いた本『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』。

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もう少しで読み終えるのですが、まだまだ長男、次男が抱える難しさに気がついていなかったと教えられています。


そんなこんなで、昨日は久しぶりのノーパソコンデーとなりました。

| 発達障がい | 13:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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障がいがあってもなくても

昨日、今日と障がいに関する記事を見つけました。
今まで気づかなかったこと、そうだとは思わなかったことについて教えられ、新たな発見を与えられました。
と同時に、私もどこかやはり偏見を持っていたと教えられました。

一部転載します。

一つは、<子どもたちの「働く」を諦めない>(記事元こちら)

彼らはみんな普通の子です。他の高校生と同じですよ。やっぱり誰かに信頼されればうれしいし、仕事を任されたら一生懸命やりきろうとするものです。「仕事しなくていいから君はそこにいればいいんだ」と言われて、そこに喜びを感じられるでしょうか。自分は頼りにされている、自分の仕事がみんなから感謝されてる、そういう感覚が得られることがとても大事なんだと思います。

彼らと私たちは対等であるべきです。例えば、今の時代に「眼鏡」が存在しなかったら、今眼鏡をかけている人のほとんどは障がい者ですよ。眼鏡があるおかげで「障がい者」とは言われませんけどね。障がいというのは、自分の身体のことではなく「周囲が受け入れられない状態になっている」ことなんじゃないでしょうか。つまり、周囲のみんなが普通だと思えば普通になるということ。「障がい」でなくなるんです。

「ああ、そういえばヤツは車いすだったなあ、いつも座って仕事してるからついつい忘れちゃったよ」みたいな、そのくらいでいいんじゃないでしょうか。例えすぐにはそうは思えなくても、障がい者の雇用は少しずつよくなってきています。今の障がいが、障がいとは思わなくて済む時代に、少しずつ近づいていけばいいですね。


もう一つは、<社員の70%が『知的障害者』 日本理化学工業という会社が凄い!>(記事元こちら)

会社創立は昭和12年ですが、知的障がい者の雇用は昭和35年2人を雇用したのがスタートでした。このような障がい者多数雇用を目指したのは、禅寺のお坊さんから

「人間の究極の幸せは、1つは愛されること、2つ目はほめられること、3つ目は人の役に立つこと、4つ目は人に必要とされることの4つです。福祉施設で大事に面倒をみてもらうことが幸せではなく、働いて役に立つ会社こそが人間を幸せにするのです」と教わったからでした。



初めの養護学校の先生の話と、二つ目の理化学工業の話は同じことを言っているんですよね。

重たい障がいがあっても、必要とされたいし、感謝されたいし、誰かの役に立ちたいというそういう思いがある。
何等かの障がいがあるから、必要な援助は必要だけれど、援助されるだけではなく、自分も何か役に立ちたい、誰かのために働きたい、そんな思いは同じようにあるのですね。

正直な所、重度と呼ばれる障がいがあると、そんな思いとは無縁だと思っていました。
でも、違うんですよね。
障がいがあっても、それがたとえ重度であっても、抱く思いは同じなのですよね。
だって同じ人間だから。

星野富弘さんが、
「いのちというのは、自分だけのものではなくて、
 だれかのために使えてこそ
 ほんとうのいのちではないか」

「自分のためだけに生きようとしたときは、ほんとうの意味で自分のいのちを生かしているのではない。」

と本に書かれています。

誰かの役に立ちたい、必要とされたい、それは、一所懸命に自分の命を生きようとしているからなのですね。

| 発達障がい | 20:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ありがとうございます。

前回の記事で長男のことを書きました。
何人もの方がコメントを下さり、本当に励まされました。
皆さんのコメントやアドバイスを通して、違った視点から考えることができ、私自身前向きに考えることができました。
本当にありがとうございました。


頂いたコメントを読みながら、ふと数年間に読んだ『トンちゃんってそういうネコ』という本が思い出されました。
以前に書いたのですが、もう一度書きます。

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トンちゃんはネコ。シマシマのネコ。ゲンキなネコ。だけどトンちゃんは足がひとつない。
だから、速く走れない、ネズミや鳥にも逃げられてしまう。

でも、トンちゃんは気にしていない。
三本の足でゆっくり歩いたり、雨の落ちるのを見たり、風のにおいをかいだり、ニボシをたべたりするのが大好き。

作者のMAYA MAXX さんが 後書きで次のように書いています。(一部分ちょっと気になる表現はありますが、そのまま転載します)

この本で私が言いたかったことは、ないものをないと思いわずらうより、あるものがあることを喜ぼうということです。

人ってすごく沢山のいいものを持っているのに、たったひとつでも人と比べて劣っていることがあると悩んだり苦しんだりしますよね。
足が太いとか短いとか、顔がどうだとか、運がとか、才能がとか・・・なんとかかんとか・・・

"トンちゃん"は致命的な欠陥があるけれど、でもそんなこと気にしていないし、自分ってそうなんだと思ってけっこう自分に満足しています。



長男のこと、あんなこと、こんなことが出来ない、と言われます。
出来ないことが出来るようになれば、それはいいなって思います。
だから、努力する。ただ、努力しても、その努力が実らないこともあります。
そのことについては、そういものだと受け入れて。

でも、出来ることにも目を向けて。
そして、そのことを口に出して伝えて。


誰にでも長所、欠点はあります。
その長所・欠点含めて、その人自身、自分自身。
こういう長所があって、欠点がある。それが自分。そんな自分。

それが人間。

| 発達障がい | 19:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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