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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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『ねぇ、おかあさん』

ねぇ、おかあさん―子どもの悩み子どもの本音ねぇ、おかあさん―子どもの悩み子どもの本音
山谷 えり子

女子パウロ会 1992-04
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7年程前に読んだ本です。この本に書かれていた「強さ」について、よく思い出します。以下、数カ所引用します。


★強さ(山谷さんのお父様の言葉)
 「強いって、いいぞ。強いというのは、いばるためのものじゃない。昔、北海道を開拓した屯田兵という人たちがいた。彼らはくじ引きで耕す土地を決めたが、強いリーダーは自分にいい土地が当たると、それを弱い人に譲って、自分はあえて悪い土地を耕した。強くなるってことは、そういうすてきなことができることんなんだ。」

 この言葉は折に触れてよく思います。そういうすてきなことは簡単にできることではありませんが、「強さ」というものがどんなものであるか、子ども達に知っていてもらいたい。


★親の役目
 親の役目とは、子どもがどんな状況になっても、生きていることに感謝する心と思いやりをもち、その人らしさを失わずに生きていく力や、ものの見方をつけてあげることだと思う。

 できていません。私がそう出来ていないからなのでしょう。やはり子どもに望むなら、まずは自分が範とならなくちゃ。


★時
 同じ人間でも時が満ちてこなければ、愛や自分らしさを外に向けて表現するのがむずかしい。
どうして、こんなに急ぐのだろうと思うことがある。
すべてに”時”があり、その”時”に合う花を咲かせていくのが人生なのに、”時”より早く花を咲かせることに夢中になって走り回る。
・・・
無駄とも見えるもののなかに豊かさがあり、人を育てるものがあることをスピード信仰、効率至上主義信仰の現代社会は無視している。
・・・
勉強、生活-すべて急ぎすぎ。生命のリズムを軽視し、もたもたした泥臭いやり方を嫌う。その結果子供は不安神経症になったり、親はいらいら病にかかったり、肝心なことが見えなくなったりしている。



聖書は言います。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者の書 3章1節) 
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書 3章11節)



何でも早くできることがいいと思ってしまいますが、物事にはそれぞれにふさわしい時がある。子ども時代にはその時でしか味わえない、楽しみや喜び、あるいは悔しさ等がある。
子どもがその時々に合う花を咲かせ、それが実を実らせ、次へと続く種子を生み出すことができるよう、時にかなった判断ができますように。


(それにしても、山谷えり子さん、この本を書かれた時のような気持ちはもうもってないのでしょうか。)

| 本・子育て、教育 | 21:20 | comments:6 | trackbacks(-) | TOP↑

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子どもを叩いたことは?

「子どもを叩いたことのない人はいますか?」

と問われ、「一度も叩いたことはありません」と言える人はいったい何人くらいいるのでしょうね。
恥ずかしながら、私、子どもを叩いたことがあります。
そして、叩いたことの理由なら、”しょうがないでしょ”の如く上げられます。

でも、この言葉を目にして、”しょうがない”ことではないのだと、ガツンときました。

平和の原点はまず「子どもをたたかないこと」


今回読んだ本、『暴力は絶対だめ!』の帯に書かれていました。
この本は、『長くつ下のピッピ』で有名なリンドグレーンが、ドイツ書店協会平和賞の授賞式でのスピーチを本にしたものです。

彼女はスピーチで「暴力と権威主義、特に子どもたちが最も被害を受ける家庭内暴力の問題」について強く訴えようとしたために、主催者側から挑発的だと見なされ、内容を変更してほしいとの要請があった。

でも、スピーチの内容を変更しなくてはならないのなら、授賞式への参加を見合わせるとはっきりと答えました。結果、主催者側が折れて、予定していたスピーチでOKとの回答。

このあたり、日本とは違うなって思いました。


世界には戦争、理解できないほど残忍なこと、暴力、圧政が溢れ、独裁者や専制君主も現れてくる。
子ども達はそういうのを見聞きして、暴力は当たり前に起こるのだと思うかもしれない。

だから、物事を解決するには、暴力以外の別の方法があることを、まずは自分の家庭で、お手本として示さなくてはならない。

「暴力は絶対だめ!」

「そうすることで、もしかすると、少しずつではあっても、世界平和に貢献できるかもしれません。」

とリンドグレーンさんは言います。


「暴力は絶対だめ」と、子どもを叩いたことのある人でも案外口にすると思います。
でも、
「平和の原点は子どもを叩かないこと」と言われたら?

「子どもを叩く」ことは、ある場面では仕方ないこともある、と言いたくもなるでしょう。
でも、子どもからしたら、叩かれることは力による脅かしで、暴力なんですよね。
親は”しつけ”と言うかもしれないけれど、それは親からの言い分であって、子どもからしたら、脅かしですよね。

リンドグレーンはこうも言っています。

「もちろん子どもたちは親を尊敬すべきですが、
 本当のところは、親もまた自分の子どもを尊敬すべきです。
 ……すべての親子が、たがいに愛情に満ちた敬意を持てるようにと願っています。」


このリンドグレーンの言葉を受けて、”おわりに”に次のように書かれていました。

「平和と正義は、子どもたちが自ら考え、自分の行動に責任を持つように勇気づけられることによってはじめて成し遂げられる、だからこそ、体罰や屈辱的な叱責をともなう専制的なしつけをしてはならないのだ」

「子どもたちに尊敬の念を抱いてほしければ、我々は子どもたちに同じだけの尊敬の念を抱かなくてはならない」


もちろん、これらは、子ども達を成り行きに任せて、したいようにさせることではありません。規範もなしに成長することを意味してはいません。

物事の解決には、暴力以外の別の方法があることを、子どもたちに示していく。


「生命への畏敬の欠けたところに教育はない」
とは、林竹二さんがその著書で繰り返し書かれていた言葉ですが、子どもへの尊敬の念、自分と同じ人間としての尊敬の念を忘れてはいけない。

暴力は絶対だめ!暴力は絶対だめ!
アストリッド・リンドグレーン 石井 登志子

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リンドグレーンで思い出したこと。

彼女は『長靴下のピッピ』で有名ですね。
『長靴下のピッピ』は読んだことはありませんが、『やかまし村の子どもたち』は大好きで、小学校の時何度も借りて読んでいた記憶があります。

この『やかまし村の子どもたち』で、覚えていることが今でもあって、それは何かというと、レモネード。
この本で初めて、「レモネード」という飲み物があることを知り、いつか飲みたいなぁって思っていました。小学生の私には憧れの飲み物でした。

| 本・子育て、教育 | 16:46 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『一筋の道を歩くなり』

6年程前に特別支援教育の広報紙に掲載されていたある詩。
調べてみると、それは武者小路実篤の詩でした。


『一筋の道を歩くなり』

旅人は一筋の道を歩くなり
他の道が美しくもあり立派でもあるが
彼は自分に許された一筋の道を歩くなり。

その道を歩けば
何処にゆくかは彼は知らぬなり
されど歩くなり
その道のみ
彼に許された道なり。

淋しくも歩くなり
こつこつと歩くなり
つまらぬ道と他人は言えども
彼はその道を愛して
こつこつと進むなり。

平凡な道なれども
その味わいは限りなしと思うなり
いくらでも見あきぬ道なり
彼は感謝しつつその道を歩くなり。

自分にも歩ける道
自分に相当した道
自分に許された道
謙遜な気持ちで
彼はその道を歩くなり。

彼は倒れる迄歩くなり
死ぬまで歩くなり
生きている限り歩くなり
歩けなくなるまで歩くなり
いくら歩いても道は遙かに遠く
つづくなり。

旅人はいつのまにか歳をとりたり
されど歩くなり
無限の道を歩くなり
希望の天使に護られながら
歩くなり、死ぬまで歩くなり
歩ける処まで歩くなり
旅人は一筋の道を歩くなり。



一人一人、歩む道は違います。
この道ではなく、あの人が歩いているあの道を歩きたいな。
この道はちょっとつまらないから、あっちの華やかそうな道を歩きたいな。
くねくねすぎるから、もう一つのまっすぐな道を歩きたいな。
そんなふうに思うことはあるでしょう。

神様は一人一人に歩んで欲しい道を備えて下さっている。
その道を、感謝をもって歩いて行けたらいいな。
私も、息子たちも。

| 本・子育て、教育 | 19:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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こんなことがこんな身近で起こるなんて

「まさか、こんなことが起きるなんて」・・・そう思った事がありました。

長男の担任から電話がありました。
「お兄ちゃん、また何かやらかしたのかな?」と思いましたが、先生の話を聞いて、もうとにかく驚きました。

授業中にその教科の先生が面白い事を言って、みんなが笑ったそうです。
長男も笑ったのですが、どうもその受け方が人よりも大袈裟だったようです。
すると、横にいた女の子が「うるさい、だまれ」言いながらカッターを出して、長男に向けたということです。

それを見ていた子たちがそれを担任に報告して分かった事なのですが、今回が初めてではなく、何回か長男にカッターを向けることがあったということです。

幸い、「事件」にはなりませんでしたが、ニュースで見聞きするのと似たようなことが、我が子に降りかかっていたとは、ただただ驚きましたし、ショックでした。


うるさいから、ちょっとむかつくからと、気に入らない相手に、カッター等をつきつけるなんて。どうして言葉で言わないのか。
脅かしのつもりかもしれませんが、万が一それが、本当に相手を傷つけてしまったらどうなるのか、そういうことを考えないのでしょうか。

ただ、子どもたちがそのような行動をとってしまう一番の原因は大人の作り出している社会にあるようにも思うのです。暴力的な光景をテレビで結構目にしてしまうような気がします。


こういう事があると、「相手の親が謝罪したいと言ってるから、電話をしてもいいですか」ということになるのですが、今回は大事に至らなかったし、その子も学校や親からきつく叱責されている。また、電話があったとしても、「申し訳ありません」「もう、いいですよ」ということになる。なので、わざわざ電話してまではいいです、と伝えました。

保護者である親が子どもがしてしまった良くない事について、謝罪をする事は当然のことだと思います。
何か深刻な事をしでかして、怒られて、反省して、謝罪して、親が謝罪したら、それだけでいいのか、とも思います。

灰谷健次郎さんが教師をしていた時に小学校3年生の子が万引きをした。そのことがバレて、母親に連れられて、「ごめんさない」という意味の簡単な文の紙切れを持ってきた。その紙切れを見て、灰谷健次郎さんは「本とのことを書こうな」と一言言った。そして、こう続けます。

盗みという行為と向き合うことは本当に苦しいわけで、彼女は許しを請うことによってそから解放されようとしている。しかし、許しを請う世界からは魂の自立はないという思いがぼくにある。・・・盗みという行為によっていったん失われてしまった人間性を回復するためには、もう一回盗みというものと向き合うしかない。

そして灰谷健次郎さんは彼女と一対一で向きあった。女の子は一字書いては泣き、一行書いては泣く。泣いている時間の方がはるかに多かった。

灰谷健次郎さんは「なぜこんなむごいことをしているのかという思いが片っ方ではあるのですけれども、ここでこの時間を中途半端に終わらせてしまえば、彼女の人間性を回復する道は永久に断たれてしまう。いまここで苦しむことが、彼女が強く生きるということにつながっていくんだと思うと、どうしてもやめるわけにはいかない」

そして、女の子は泣きながら「チューインガム一つ」(read moreに書いています)という詩を書いたのですが、これだけのことを小学校3年の子どもが書いたとは・・・どれだけの格闘があったのだろうと思います。

「許しを請う世界からは魂の自立はない」と言う灰谷健次郎さんの言葉の意味を、感じ取ることができます。


今回、長男にカッターを向けた女の子はどうなのだろう。


こんな私ですが、毎朝お祈りをしています。その時にいつも祈っている事があります。それは
「子どもをあらゆる悪い事から、お守りください。事件や事故の被害者や加害者になることがないようにお守りください。」

自分の子どもだけではなく、すべての子どもたちが守られるようにと、心掛けて祈っていけたらと思います。

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| 本・子育て、教育 | 20:09 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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『反省させると犯罪者になります』

反省させると犯罪者になります (新潮新書)反省させると犯罪者になります (新潮新書)
岡本 茂樹

新潮社 2013-05-17
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とても刺激的なタイトルですが、まっとうな事が書かれていると思います。
当たり前だと思っていたことが、子ども達を追い込んでいたのではないか。

子どもが問題行動を起こしたとしたら、その時、親や教師はどんな対応をするでしょうか。
よくあるのは、本人が取った行動がどういものか責め、反省をさせるというものではないでしょうか。
そして、本人が「ごめんなさい。二度としません」などと言えば、それが本心から出たものでなかったとしても、「反省」の言葉さえ聞けば、それでよしとするということはないでしょうか。

著者は言います。
「反省させる」前にやるべきことがある、と。
もし、親や教師がただ「反省」だけをさせるなら、子どもは抑圧された気持ちを持ち続けるかもしれない。

著者は受刑者の更生の支援をしているのですが、彼らと話すと、被害者への否定的感情を持っているということです。
その感情を取り扱わないで、ただ反省だけさせても、それは形だけのものとなってしまう。

まずは、加害者の視点から考えてみること。どうしてそのようなことをしてしまったのか。それなりの理由がある。
加害者が自分の内面を見つめ、抑圧された気持ちを吐き出すように導いていく。
そして、当事者が自分の内面に気づくことが大切。反省はその後にやってくる。

そして、親や教師も、問題行動を起こしてしまった子どもが、どんな不満や怒りなどの否定的感情をもっているのかを知る必要がある
それをしないで、ただ責め、反省させるだけではいけない。
と著者は言います。

例えば、いじめ。これは絶対に許されるべきことではありません。
ただ、誰かをいじめるということは、いじめることに至る、何らかの原因がある。

人を傷つける人は、自分自身が傷ついていると理解できます。自分自身が傷ついているから、自分自身を大切にできないのです。自分自身を大切にできないと、他者も大切にできません。自分自身を大切にできず、自分の「心の痛み」に鈍感になっているから、他者の「心の痛み」にも気づけなくなります。

被害者のことを蔑ろにしていいということでは、決してありません。
罰を与える前に、問題行動は「必要行動」と捉え直しをする視点を持って、「手厚いケア」をしてほしい、と。

反省は、自分の内面と向き合う機会を奪っているのです。問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内側の問題に気づくことになるのです。この場合の「内面の問題に気づく」ための方法は、「相手のことを考えること」ではありません。・・・最初の段階では「なぜそんなことをしたのか、自分の内面を考えてみよう」と話すべきです。問題行動を起こしたときこそ、自分のことを考えるチャンスを与えるべきです。周囲の迷惑を考えさせて反省させる方法は、そのチャンスを奪います。それだけではありません。寂しさやストレスといった否定的感情が外に出ないと、その「しんどさ」はさらに抑圧されていき、最後に爆発、すなわち犯罪行為に至るのです。
(犯罪行為に至る、というのは、その本人はそうでないとしても、その子ども、孫・・・へといつかの代ででてくるかもしれない、ということ)

日常的にひどい言葉をかけられたことによって、「人を傷つける言葉」に対する「感覚」が麻痺していたとも言えます。

「人間は弱い生き物」なんですよね。
「強い」と感じる人は確かにいますが、でも、弱い生き物だと思います。
何よりもそれは、人は1人では生きてはいけないから。助け合いながら、迷惑をかけ、かけられながら生きていきます。

そのことは頭では分かっているけれども、親は我が子には「強くあってほしい」「我慢強い子であってほしい」「しっかりとした子どもになってほしい」って思う。それらを当たり前のことだと思っています。

しかし、著者は言います。

「我慢できること」「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観は、社会生活を送るうえでは大切なことです。・・・  しかしこれらの価値観は、子どもに(大人にとっても)生き辛さを与える側面がある・・・「我慢できること」は、見方を変えれば、「自分の気持ちをださ(せ)ないこと」になります。・・・「人に頼らない態度」を身につけることになり、他者との間に良い人間関係を築けなくなります。

それは、見方を変えると、「人とつながること」を阻害する要因にもなる
、と。


「我慢できること」「1人で頑張ること」「人に迷惑をかけないこと」、それらは当たり前のことかもしれないけれども、それだけを教えるのではなく、人に頼ることも大切だと伝えていくことも、忘れてはいけない。

なぜなら、
人に頼って生きていくことができれば、彼らは「人」の存在の重要性に気づくことが期待できる、から。

 「我慢できること」という価値観を強く刷り込まれた者は、「我慢できない人」を見ると、その人の我慢できない態度が許せなくなります。・・・相手に対して抱く不快感は、自分の心の中に受け付けられた価値観が原因となっているのです。
 自分のなかに、正しいと思って刷り込まれた価値観が多ければ多いほど、他者に対して「許せない」部分が増えてきます。

とも著者は述べています。


子どもに対する私の態度はどうかと、とても考えさせられました。
「正しいこと」と信じて、必要以上に、子どもに押しつけていなかったか。
問題行動を起こしたら、その行動に目を奪われて、そこに至る思いにまで、思いを馳せていたか。


問題行動が起こったら、「何をしているの。反省しなさい」と怒る前に、まずはそういう行動を起こしてしまった気持ちに目を向け、抑圧された感情を吐き出せるように導く。自分の内面に気づく。そうして、自分のした行動について、心からの反省ができるように導く。

「反省しなさい!」と怒るよりは、時間のかかることですが、大切なことなんですよね。


子どもだって感情を持っているんです。それが否定的な場合、うまく伝えられなくて、また伝えられるような器量をもった大人が周りにいなくて、抑圧された、鬱屈した感情がある行動になって出てしまう。だから、まず先にすることは、そういう感情に、思いに向き合っていく。


思い込み、当たり前だと思っていたことが、実はそうではなかったことを教えられたのですが、一番はっとしたのがこの言葉です。

人に頼って生きていくことができれば、彼らは「人」の存在の重要性に気づくことが期待できる。

「人」の存在の重要性に気づかない、ということがあるのだということ。
「人」の存在の重要性に気づかない、ということは、それだけ孤独な思いをしてきたということなんですよね。


考えさせられた一冊でした。

| 本・子育て、教育 | 19:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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言葉だけを待ってはいないか

『14歳の子を持つ親たちへ』を読み、そのことを少しだけ書いたのですが、今日も続きを少しだけ。

14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書)14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書)
内田 樹 名越 康文

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日本人は自分の意見をきちんと言えない、と耳にします。
そして、大人になったときに困らないようにと、ディベートを教育の現場に持ちこまれているようですが、このディベートについて、名越氏も、内田氏も「最悪の教育法」だと述べています。

小学校の教育現場で「自分の意見をはっきり言いましょう」ということを原理原則にしているけれど、これはおかしい。
小学校の低学年の子が、自分の想いとか意見とかをはっきりした言葉で言えるはずがない。言葉に詰まってしまうとか、あるいは複雑な感情だったら語彙が追い付かないから黙ってしまうというのが小学生中学生にとっての「当たり前」なわけであって、ほんとうに感受性が優れていて、言葉を大切に扱う子は、口ごもって「シャイ」になるはずだ。


言われてみれば、そうですよね。
自分の意見をはっきりと伝えることは大切なことですが、それイコールコミュニケーションができる、ということではない。

コミュニケーションとは、自我をはっきり持って、それで自分の意見をはっきりと発信できることだということになっているが、むしろ逆。何を言っているのかはっきりわからないことを受信する能力のこと。

発せられた言葉からどれだけの意味を感得できるか、どれだけのことを自分の中に取り込むことができるか。それこそが大事なことなのに、教育からどんどん抜け落ちてきている。

むしろ言葉に詰まる子に対して、いくら言葉に詰まっても構わない、先生は待っていてあげるから大丈夫だよ、と告げることの方がずっと優先順位の高い教育課題ではないか。
それと同時に、どこかでその終わりなき呟きを断念することも教えないといけない。百ピュアな、言葉と思いがぴったりと合致した理想的なコミュニケーションなんてありえない、ということも教えてあげないといけない。もうこれ以上適切な言い方はみつけられそうもない、この辺で手を打とうという断念も、やっぱりコミュニケーションにおいては必要。

言葉による完全な表現を断念した人間だけが、豊かな言葉を獲得してゆくことができる。自分の思いを確実に表現した言葉だけを選択しようとすると、「むかつく」とか「うざい」とか「かわいい」とか、そういうほんとうに貧しい言葉しか残らない。


この発言に、私も子供たちに「言葉を発する」ことだけを求めていたのではないかと反省させられました。
特に長男に対しては、自分の意見をはっきりと発信することを求めすぎていたのではないか。

子供が自分の言いたいことを自分の言葉で表現しようとし、思いを巡らしているのかもしれない、そういうことには考えが及ばないで、「どうなの。はっきり言いなさい。」と急かしていたような・・・。

コミュニケーションって相手があってのことで、発信する能力と受信する能力の二つが必要なのに、発信することだけを求めていたように思います。

特に長男の場合は理論立てて話すことが苦手というよりは、できないので、発信することばかり求められて、しんどかっただろうなって今頃になって気づく、至らない母です。

また、同じようなことですが、こういうことも指摘されています。

「子供の話をよく聴こう」、これは大事なことだけれど、多くの親がしていることは、「話してみて」「何を言いたいの」と、「ディベートしなさい」というレベルで、それを子供に迫る。
 結局言葉だけを待ってしまって、子どもが発している信号には反応しない。
「言葉を発せよ」というところから始まってるのが危なっかしい。
「子どもと対話しよう、話をしよう」という前にやることがある。それは相手を認知する、つまり相手の存在をちゃんと視野に入れるということ。


ルーティン感覚も大事だと言われています。

ルーティンというのは植木鉢の土の部分。土の部分っていうのは、同じことを繰り返していくと練れてきて。そうすると初めてそこから木が生えてくる。これがないと何も生えない。ところがみんな土壌を作らないで花だけ咲かそうとする。そんなの無理。ルーティンという土壌がしっかりしてはじめて10本でも20本でも花は咲くけれど、「世界に一つだけの花」を咲かせようと焦って、「土なんかいじっている暇はない」って思い込んでいると、もう根をおろす場所がなくなってしまう。


「世界に一つだけの花」を咲かせようと、焦る必要はないのに、どこか焦っているんですよね。
どんな花かは子供が自ら見つけ出すもので、そのためには、日々の生活の積み重ねが必要なのに、大切な部分は適当にあしらってしまっているような・・・。

気づいたときには、根を下ろす場所がなくなってしまっていた! ということがないように、物事の本質を見失わないようにしないと。

私たちは子供とともに目標を目指しているのですが、
目標が中心となってしまい、
子供の叫びの意味を正しく
理解できなくなってしまうことがあります。

いつでも子供の叫びを聞いて、
正しく理解できる親になりたいものです。
(『大きな緑の木の下で』より)

(フォト蔵より捨身拝借)

| 本・子育て、教育 | 15:31 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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『教育格差の真実~どこへ行くニッポン社会~』

教育格差の真実~どこへ行くニッポン社会~ (小学館101新書)教育格差の真実~どこへ行くニッポン社会~ (小学館101新書)
尾木 直樹 森永 卓郎

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尾木直樹氏と森永卓郎氏の対談。
amazonの内容紹介:
教育格差の要因、実態を究明し、真実を探る
教育格差を生んでいるもの、教育格差がもたらしているものはなにか、
強者と弱者はなぜ生まれたのか。空洞化するニッポンの現実を浮き彫りにし、
教育格差の真実をつまびらかにし、その先にあるこの国の将来を考える。



この本を読んで、改めて私は本当に思考がストップしているのだと、思わずにはいられませんでした。

教育、経済のことについて分かりやすくお二人が話されています。

「格差」という言葉、小泉改革以来よく聞く言葉です。
この「格差」の本質は何か、どうして生まれてきたのか。

私は単純に、様々なことが規制緩和されて、世間で言われるところの「勝ち組」「負け組」が生まれた結果、としか考えていませんでした。
尾木さんは「格差」について、こう話しておられます。

 格差社会をどう生きるかという問題で一番大切なのは、格差の本質をつかむことではないでしょうか。というのも、そもそもこの格差は、"自然現象"でも"歴史的必然"でもないからです。きわめて人為的、政策的、つまり政治が主導して生んだ格差。
 そして、それは教育も同じ。数値目標を掲げ、成果を争う競争原理主義を教育政策にも導入すれば、学校間格差、学力格差などが広がるに決まっている。しかも、その学力が「本当の学力」かどうかもあやしい。



「格差」は自然発生したものではなく、政策的に作られた。
新自由主義者の「お金を持っている人は生き残ってもいいという考え方」そのもの。

森永氏は新自由主義者のやっていることの特徴として4つ上げています。

1)規制緩和や民営化をどんどんやる。そして、強い人だけが生き残ればいいという弱肉強食の考え方が根底にある。
2)金持ちや大企業には思い切って減税し、その減収分を全部庶民に増税する。
3)さらに拡大した格差の下で、金持ち層だけに濃密な、あるいは高い学歴が与えられるしみに変えていく。一般庶民に対する公教育のレベルを落としていき、一般庶民をどんどん無知にしていく。
4)下層に落ちた庶民層というのを戦地に送ってころしちゃう。


すなわち、お金を持っている人は生き残ってもいいという考え方。


国が作ろうとしているのは、従順な子ども。
そして、考えない国民。

尾木氏は「教育とは本来、権力者の行動を看破できる教養や知性、スキルの習得を中心的な責務とし、自立的な人格形成を目指しているはずです。」と述べていますが、残念ながら今の日本はそういう状況にはなっていない、と。

facebookで、日本の教育を「金太郎飴」のようだと書いたコメントがあったのですが、「金太郎飴」というよりは、「たいやき型―むりやり鋳型にはめ込む」とのコメントがあったのですが、うまいこと表現するなって思いました。


また、森永氏が「セーフティーネット、再チャレンジの罠」として話されたことにも、なるほどそうだったのかと。

なぜ、セーフティーネット、再チャレンジが必要かというと、叩き落とすから。
 今までの日本の雇用政策は、雇用調整助成金とかで「不況になっても守ってください。クビにしないでください」という政策。それが今は、「どんどんクビを切ってください。その後の円滑な労働移動を政府は支えますよ」
 構造改革のセーフティーネットというのは、上に這い上がれるチャンスが与えられるものではない。こぼれ落ちても「網から這い上がれる」と思っていたら、ガサッと網で掬われて、非正社員低賃金層に移動させられる、とんでもない網だったというのがセーフティーネットの本当の正体だと思う。


多分、問題意識を持って考えるならば、気がつくことなのだと思いますが、「セーフティーネット、再チャレンジ」という言葉に、根拠のない安心感を覚えてしまい、どうしてそういうことが必要なのかを考えようとしない。


昨日、原発再稼働反対を訴えて国会議事堂前でデモがありました。
でも、そんな声には耳を傾けず、「経済成長の為には、原発が必要」と政府や官僚たちは言う。

2002年から2007年の5年間に、日本の名目GDPは22兆円増えた。でも、その5年間に、働く人への分配金は5兆円も減った(268兆円から、263兆円)。一方、資本金10億円以上の大企業の役員報酬は2倍、株主配当は3倍。こんな経済成長に何の意味があるのか。
と森永氏は指摘しています。

政府や官僚や経団連は「経済成長」「国益」のために、と言うけれど、経済成長して、お金が増えても、それを国民に再配分しようなんて思っていないのではないでしょうか。自分たちだけが潤うことだけを考えている。だから、働く人への分配金は5兆円も減った一方、役員や株主には2倍、3倍の報酬。
こんな「経済成長」のために、原発再稼働なんて、絶対に許されるべきではないと思います。


あと一つ、気になったこと。

一夜にして何億円も稼ぐというような金融資本主義の時代は終焉を迎えるのではないか。真面目にものやサービスを生む時代が再びやってくると思う。ただ、行き場を失ったマネーが、最後のあがきとして、戦争を引き起こすという危険性もないとは言えない。

とは森永氏の指摘。

「戦争を引き起こす」・・・怖いけれどあり得ないことではないと思うのです。
アメリカが戦争を起こす時は、アメリカの経済状態がよくない時だと聞いたことがあります。
そして、それを起こす場所が、日本ではない、とは言い切れないのではないかとも思えたり・・・・・・。

考えすぎだと思いますが、でも、決してそんなことがないように、尾木氏が言うように、「権力者の行動を看破できる教養や知性」を持つ人材を育てていくことが大切なのでしょうね。


我が家のことですが、子ども達は「考える」ということが苦手です。「分からない、忘れた」が口癖のようになっています。
そこで、この夏休み、中学生になった長男と毎日、新聞の記事か社説を取り上げて、それについてどう思うかをノートに書き留めていくことにしました。
始めてまだ4日目ですが、夏休みの終わりには、今よりも順序立てて長男が考えることができるようになっていればいいなと思います。

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この「ひまわり」を見て、「パンジー」と言った、長男ですが・・・pen1_67痛

| 本・子育て、教育 | 20:33 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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