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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』

『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』という本を読みました。
君とまた、あの場所へ: シリア難民の明日君とまた、あの場所へ: シリア難民の明日
安田 菜津紀

新潮社 2016-04-22
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 シリア。今も戦火が飛び交い、人口2000万人ほどの国で約1000万人が避難生活を送っていると言われています。その難民となった人達の思いや現状が書かれています。

 シリアの他にも、紛争が絶えない地域は他にもあります。どうして紛争は終わらないの?そう問う著者に答えるイラクの青年の言葉にドキッとしました。

「人間だから、じゃないよ。どうせそういうものだって諦めてしまう、人の心がそうさせるんだよ」

 諦めてしまう。それはどうして? 相手があまりにも強すぎるから? それもあるでしょう。でも、もっと大きな理由は自分たちが"忘れ去られている"と感じてしまうからなのかもしれない。

 「そこに生きる人々の声を伝えることで、彼らを孤立させない」と著者が言うように、忘れてはいけない、無関心になってはいけない。直接には何も出来なくても、世界の何処かにまだ、自分たちのことを気にかけてくれている人達がいる、と分かれば、少しは力になるのかもしれない。そんなことを考えた一冊です。

| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 20:35 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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『それでもパレスチナに木を植える』

久しぶりにパレスチナに関する本を読みました。

7~8年前でしょうか、パレスチナ、それからアフガニスタンに関心を持ち始めたのは。それまでは何も知りませんでした。
図書館でたまたま広河隆一さんの本が目につき、借りたのがきっかけで、関連する本を読むようになりました。

今回読んだ本は、『それでもパレスチナに木を植える』(高橋美香著)。

それでもパレスチナに木を植えるそれでもパレスチナに木を植える
高橋 美香

未来社 2016-11-28
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パレスチナに生きる人々と一緒に生活をし、その彼らの日常を伝えています。
でも、その日常は私の日常とは大きく違う。死が隣りあわせと言っても過言ではない状況下での日常生活。

イスラエル軍兵士による残虐行為。平気で人の命を奪い、家や田畑を車両で踏み潰す。検問所での嫌がらせ、暴力行為。
8歳の少年の足を銃で撃ち、12歳の少年の両足を銃で殴り、折って、ゴミ捨て場に放置。白血病の5歳の少年。状態が悪くなった時に、イスラエルでしか治療を受けられないのに、通行証を母親にしか出さない。父親や兄に通行許可証がおりたのは、入院して数ヶ月後。

それでも、もてなす心を忘れず、またお互いを気にかけながら日常を生きている人々。もし私がそうだったら・・・。

イスラエルによるパレスチナに対する軍事攻撃。それは「パレスチナ人がナイフで襲ってきた。ロケットを撃ってきた」、そういうニュースで始まる。でも、それまでの日々に、パレスチナの人々が日常的に苦しめられている常態化した線量も封鎖も抑圧も人権侵害も語られず、まるで突然発生したように語られる。そう著者は書いています。

筑紫哲哉さんも同じような事を書いています。

9・11の前にもあとにも、もっと多くの「罪もない人々」が殺され続けた。
彼らについては、9・11のように個々の物語が語られ、メディアの脚光が当てられ、大々的な追悼行事が行われることはない。
アメリカ人もアフガニスタン人もパレスチナ人も、生命の価値は同じはずなのに、ここには不当といってよいほどの情報の「非対称」が存在する。

9・11の「衝突」に至る道筋の根源として「パレスチナ問題」があり、その解決なくして、どんな「衝突」が繰り返されようとも終わりはやってこないことは今や明らかである。


私はパレスチナの為に何もできません。でも、せめて知ることだけはこれからも続けていきたいと改めて思った、そんな一冊。
この本で紹介されていた『歌声にのった少年』を見てみたいです。



| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 20:17 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

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『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』

わたしたちが正しい場所に
花はぜったい咲かない 春になっても。

わたしたちが正しい場所は
踏みかためられて かたい内庭みたいに。

でも 疑問と愛は 世界を掘りおこす
もぐらのように 鋤のように。
そしてささやき声がきこえる
廃墟となった家が かつてたっていた場所に。

(イェフダ・アミハイ『わたしたちが正しい場所』)


『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(アモス・オズ著)に、この詩が紹介されていました。

狂信主義、正義と正義のぶつかりあい等について、講演集ということもあって、分かりやすい言葉で語られています。
今まで読んできた本とは、ちょっと違うにおいのする本だなって感じますし、著者の言うことに全面的に賛成できるわけでもありません。でも、なかなか興味深い本だと思います。

イスラエル・パレスチナ問題がベースとなっていますが、それだけにとどまらず、私たちが陥りやすいところについて、気づかされるのではないでしょうか。

異なった者どうしがどんな関係をもつにせよ、「自分がぜったいに正しい」と思ったとたん、相手を理解しようとする気持ちもなくなり、かたく閉ざされた姿勢となる。・・・それは「踏みかためられて かたい」から、他者をわかろうとする柔軟な心が消える。

人はたいがい、自分は正しくありたいと願うと思うし、黒か白かはっきりと決着をつけたいと願うでしょう。

でも、あらゆることがそうきっぱりと黒か白に分かれるものではない。
不確実なものを抱えて生きているのだから、ある種の曖昧さを残しておくべきだと著者は書いています。

ただ、私はやはり人の命、尊厳というものに直に関わる問題には、曖昧さをなくしていかないといけないのではないかって思います。

わたしたちが正しい場所に花は咲かないわたしたちが正しい場所に花は咲かない
アモス オズ Amos Oz

大月書店 2010-03
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| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 19:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『ぼくと山の学校 アフガニスタン』

『ぼくと山の学校 アフガニスタン』

アフガニスタン ぼくと山の学校アフガニスタン ぼくと山の学校
長倉 洋海

かもがわ出版 2014-10-10
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アフガニスタンの子ども達の笑顔が本当に素適。笑顔でない写真も勿論ありますが、なんとも言えない愛おしさがこみ上げてきます。
そして、この本を読んだ後の清々しさ。悲しいくだりもあるのですが、人と人のつながりって素適だと素直にそう思えます。

図書館で借りてきたのですが、手元において何度も見返したい一冊。この著者の長倉洋海さんは他にも本を出されていて、他のも読んでみたくなりました。

この本は、長倉さんが取材活動で知り合ったパンシール渓谷ポーランデ地区の子どもたちのために、支援者達と学校を作り、その学校に関わる人々の様子を報告したものです。詳しくは、ぜひこちらのサイトを読んでみて下さい。(アフガニスタン 山の学校の会

学校に通うのに、片道1~2時間かけて歩かないといけない子ども達がいます。そして、その子ども達も含め、子ども達はみなそれぞれの家族で自分たちの役割があります。
羊や牛の世話をする、水を汲みにいく、歩き始めたばかりの幼子だってジャガイモや玉ねぎのかわむきをする。
屋根に積もった雪をおろすのも手伝います。しかも使うのは、木のスコップ。

勉強だけしていればそれでいい、好きなことだけしていればそれでいい、というわけにはいかない。「この地で生きるためには、家族がそれぞれの役割を果たさなければならない」ことを、子ども達は知っていると長倉さんは言います。

そんな子ども達の様子に我が子たちを思うと・・・。

勉強やお手伝いばかりではありません。楽しみも勿論あります。

長倉さんがもっていったスイカで行ったスイカ割りを楽しむ子ども達の表情、
日本の人たちから贈られたリュックや手袋や、鉛筆などの文房具、サッカーボール。それらを手にする子ども達の本当に嬉しそうな顔。


子ども達の中には障がいをもった子どもたちもいます。
例えば、小児麻痺の後遺症で両足が内側に曲がっている高校生。彼は杖を使わず3時間はかかるであろう道を自力で歩いて通っているそうです。
そんな子ども達も、のけ者にされたりはしないそうです。

「助け合わないと生きていけない生活だからこそ、まわりの人を自然に助けることができる。・・・障がいをいじめの対象にするのではなく、普通の仲間としてごく自然に扱う。"助け合う"ことは、特別ほめられるような美徳でも押しつけられる義務や道徳でもない。それが『ともに生きる』ということなのかもしれない。」

と長倉さんは書いています。
学校などで「助け合いましょう」とはよく聞く言葉で、そう言われることに何にも感じていなかったのですが、そう言わないと助け合えないとしたら、それは問題なんですよね。


長倉さんが東日本大震災の様子を山の学校の子ども達に見せたら、中2の女の子が、被災地の子ども達への気持ちをペルシャの詩に託して次のように言い表したそうです。

私たちは一人の人間(アダム)から作られた同じ人間
一つの手足が痛むとき、ほかの手足も同じように痛みを感じる。
それを感じられなければ、人と呼ばれる価値はない。


自分たちも苦しいけれど、あの人達も苦しんでいる。その痛みを感じることができる。


長倉さんによると、アフガニスタンでは、多くの人が日本人に信頼を寄せているそうです。
その背景には1960年代、ささやかながら日本政府が行った医療支援と水道支援などがあるということです。

この信頼は一朝にして築かれるものではないのですよね。でも、壊れる時は一瞬にして壊れる。
だからこそ、一般の人々が一所懸命築き上げた信頼を、愚かな選択で壊すことをしてはいけない。

「政治的・領土的な思惑ではなく、庶民の生活第一に考えた支援を今も人々は忘れてはいない。」


この本を読み終わって、今日届いたのがこの本。楽しみに読もう。
天、共に在り天、共に在り
中村 哲

NHK出版 2013-10-24
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| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 15:49 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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平和

ガザのことがやはり気になります。
イスラエルとパレスチナは13日、「5日間の停戦延長」で合意したそうですが、1日も早く停戦して、イスラエルはガザ封鎖を解除して欲しいと思います。

そのガザでは食料品が急騰しているようです。(記事コチラ)
イスラエルの攻撃によって、農地や果樹園が攻撃され、農作物が不足し、価格が急騰。

そればかりではなく、発電所が破壊されて電力不足も深刻で、1日に3~4時間だけ電気が使えるそうです。それがどのような事態を引き起こしているか。
電気が使えないということは、水がない、ということで、住民の人たちが水不足で苦しんでいるということです。
そのことを報告したレポートを「追記」に転載しますので、時間があれば、ぜひ読んでみて下さい。

そのレポートに書かれているように、「“人間としての尊厳”を奪われた」ガザの人たち。
そのような状態に追い込んでいるイスラエルを支持する日本政府。

武器輸出を堂々と明言した国家に
平和を語る資格など微塵もない。


とfacebookにありました。
その通りだと思います。
そして、武器輸出で日本の経済成長を、なんて言っている自民党議員がいますが、武器が何をするものか知らないのかと疑いたくなります。

一人一人の心に平和が来ずして、平和なんて来ないと思います。
「武器」に頼っている人の心に平和なんてあるはずがない。

では、私の心に平和は宿っているのか、と言われたら、「はい」と二つ返事で返す自信はない。
「平和」・・・口で言うのは簡単だけれど、平和の人となるのは、難しい。

だから、やはり私は思うのです。一人一人に神様が必要なんだと。

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| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 20:55 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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知性の悲観主義、意志の楽観主義

私はなんと単純なのだろうと、あきれてしまいます。

『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』を読んでいて、その中で「オリエンタリズム」の言葉の紹介で、エドワード・サイード氏の名が記されていました。

「なんか、どこかで聞いたことのある名前だな・・・」
と思って、ネットで検索してみました。
すると、図書館で借りてきた『パレスチナとは何か』の著者でした。

このザイード氏の講演がYoutubeにアップされていたのを見たのですが、いいです。
「サイードとスラーニ 其の5-カイロ・アメリカン大学」を貼り付けますが、1~5までのシリーズ、見入ってしまいました。
また、何度か見返したい映像です。


その中で印象に残った発言を少しだけ。

●「軍事力によっては、決して勝利することはありません」
●「アイデンティティとは自分が選び取るもの、自分自身の信念とか価値観とか」
●「変革は人間がもたらすもの、軍隊ではなく働く人間や集団の人間としての闘争が起こすもの」
●「アメリカは『国家の安全が一番大切なものである』と言うけれど、それはまったく逆。個人の人権は国益や国家の安全よりもはるかに重要」

そして、なるほどって思ったのが、この言葉。イタリアかどこかの国の人の言葉ですが、
知性の悲観主義、意志の楽観主義

今の日本をみると、希望なんて見いだせそうにもなく、悲観的に陥ってしまいがちですが、そうじゃないでしょ、と勇気づけられました。

「軍事力によっては、決して勝利することはありません」
と発言されていて、イスラエルもパレスチナもどちらも勝利を収めていない。
でも、世界には見本があると述べ、マンデラ氏のことに言及していたのも印象的でした。


他にも調べたら、このような対談を朝日新聞がしていたのを知りました。
「テロは世界を変えたか エドワード・サイード氏に聞く」(記事元コチラ)

2002年9月の記事です。この頃は、政治や世界の出来事にはほぼ無関心だった私。朝日新聞をとっていましたが、こんな記事があったとは、全く知りませんでした。


で、何が単純なのかというと、ザイード氏がこのような方であることを知って、借りてきてなかなかページが進まなかった『パレスチナとは何か』を俄然読む気になった私は、本当に単純だなって・・・。

| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 16:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』 (2)

昨日も書いたのですが、『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』。

本の中で著者が「人権」について書いていました。その視点が、私には全くなかったもので、教えられました。
少し転載します。

 人権をすべての社会に普遍的に妥当するものとして、それが成立してきた歴史を持つ社会の外へ適用していく時、衝突が起きる。現在、「人権VS文化」として語られることの多くは、「西洋文化VS非西洋文化」として解釈することができる。「人権侵害」という判定それ自体が、非西洋文化の側では「文化の侵害」であると響く。この文脈では人権はレトリック以上の意味を持っていない。人権は、最初に使ったほうが勝ち、という極めて反人権的な言葉として強烈な威力を持っている。念仏のように人権を連呼すればたいていの議論にあなたは勝てる。他文化に対する尊敬、自文化に対する懐疑、その両方が見事に欠落した「善人」が、狂信的な熱意を持って、人権という刃物を振り回す。その結果、不幸なことに、人権は『オリエンタリズム』のバージョン・アップの一部品にすぎなくなっている。
 
 私は人権というのは、普遍的なものだと思っていました。でも、著者は"人権=普遍"ではない、それは無邪気な信仰にすぎないと言います。

 西洋社会の発展と共に成長してきた人権を、そのまま非西洋社会に適用できるわけではない、と。例えば、ニューギニア高地人の社会と、ニューヨークの社会に同じ基準を適用して人権侵害を判定することに意味があるだろうかと。

 西洋で発達した人権を、他文化の事情を無視して押しつけようとするなら、そうい人は、
人権が人間社会で果たす原理的機能を無視して、形だけの人権唱導の心地よさに狂信的にひたっている人」であり、「『原理主義』の一般的誤用に従って、僕は人権原理主義者と呼ぶ」と断じています。


 「人権原理主義」。よく「イスラム原理主義」という言葉を使ったり見聞きしたりしますが、そう言われる人たちからすれば、欧米諸国は「人権原理主義」となるのだろう。
 そして、アフガニスタン等中東に豊富にある資源を我が物とするために、「人権原理主義者」は「人権」という名の下に、かの地に爆弾を落とし続けるのだろうか・・・。


「人権」について、次のようにも指摘していました。

 メディアにおける人権侵害糾弾がエスカレートするうちに、いつのまにかアフガニスタンの戦闘は、人権を擁護する「善玉」と人権を侵害する「悪玉」の間での戦闘にすりかわってしまった。言うまでもないが、人権をめぐっての戦闘など最初から最後までここには存在しない。政権をめぐる闘争が延々と続いているだけなのだ。

 タリバンの人権侵害を非難する国家の行動が明らかにしてきたのは、皮肉なことに人権の本質的軽視のようだ。というのは、そのような国家が一貫してタリバンと同様な政策をとっている他国の政権を糾弾するかと言えばそうではなく、友好国であったりする。また、反タリバン勢力の人権侵害を同様の基準で非難しているかと言えば、これに関しては沈黙している。つまり、最初にタリバンを政権として認めたくないという政治的意志があり、そのために人権が利用されている。人権が政治の道具と化している。結局のところ、彼らはアフガン人の人権など屁とも思っていないのではないかと思わざるをえない。


イラクやアフガニスタン、ガザへの一般人や子どもも巻き込む容赦ない攻撃を思うと、著者の指摘の通りなのかなと思います。

また、発言する者の意図によって、あらゆることが「善玉」や「悪玉」になりうる。その「善玉」対「悪玉」という単純な構図に気をつけなければいけないとも著者は言います。

 「善玉」と「悪玉」の闘争という漫画的なフォーマットに安住するメディアの報道には、カブールの「悲愴」を伝えようとする意思は微塵も感じられない。メディアは(それは我々のことでもあるのだが)、「悪玉」を探し出し、それを叩き潰すことに熱狂する。しかし、「善玉」と「悪玉」に明瞭に区別できる世界が現実に存在するだろうか。その境界はどこまでも曖昧で入り組んでいるということが、歴史から学ぶべきことの一つではなかったのだろうか。「善玉」に自己投影し、「悪玉」を発見し、「悪玉」を叩き潰すと信じて行われる行為が壮大な悲劇を引き起こしてきたではないか。

 争いごとは人の心を痛める。そこに、「善玉対悪玉」という構図が現れれば、非常に心地よいものだ。しかし、その心地よさは何も解決しない。対立をいっそう深化させ、解決の道をこじらせる。単純な構図が与えてくれる心地よさ、これこそが人間の悪魔性を呼び起こしてきたことを我々は知っている。しかし、そのようなことが繰り返し行われ、今も行われつづけている。


「善玉対悪玉」の構図。これは何か事件が起こると、マスコミが得意になって打ち立てるもので、それに多くの人が引きずり込まれていく。
でも、悪玉を仕立て上げ、それを糾弾して、物事がすっきりと解決してきたか、と言えば、そうではないと思う。
それどころか、似たような問題がもっともっと起こってきているのではないか。


では、どうしたらいいの?ってなりますが、陳腐な言葉ですが、「片方側だけからの情報を鵜呑みにすることなく、自分の頭で考える」ことがやはり大切なんだろうな。


アフガニスタンとは直接関係のないことも教えられた本ですが、アフガニスタンのことも知れる一冊。

明日の朝に凍死していないことを祈りながら子供を寝かしつけるアフガンの人たち。
遠方から来た人や助けを求める人たちを厚くもてなすアフガンの人たち。
経済基盤のない内乱状態から、治安を回復させることはとても難しいこと。その困難な中で必死に生きるアフガンの人たち。

どれだけのことを私たちは知っているだろうか?

色々なことを教え考えさせてくれる一冊です。著者のユーモアがあり一気に読める一冊。
タリバンについて、オサマ・ビン・ラデンについて、こんな面もあったのだと知ることの出来る一冊。
お薦めの一冊です。

| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 11:22 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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