FC2ブログ

Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

『国境なき医師団を見に行く』(2)

 数日前に書いた『国境なき医師団』の続きを少しだけ書きます。心に残った言葉を二つ転載します。

(ギリシャで難民について)
 移動の間に、あらゆる暴力があります。レイプがあります。強奪があります。病気や怪我にさいなまれます。それでも彼らは安住の地を求めて動き続けるしかありません。

 しかし彼らは自分たちが非合法だと思っているから、誰を非難することもない。訴えることも出来ない。ただただ耐え忍んでいます。そしてひたすら、自分たちをとおしてくれと言うだけです。しかし、人道に非合法か合法などという区別はありません。

 生きるために紛争地を逃れてきた身に、非合法なんてことはあり得ません。


 そう言われなければ全く気づきもしませんでした。「生きるために紛争地を逃れてきた身に、非合法なんてことはあり得ない」と。

 長男が小学生の時に、『いわたくんちのおばあちゃん』という絵本を読みました。あの8月6日、実際に広島で被爆したいわた君のおばあちゃんの実話に基づくお話を絵本にしたものです。読み終わって、私も長男も泣きました。そして、長男が言いました。

 「戦争がどうしてもしたいのなら、誰もいないところですればいいんだ」と。

 戦争は絶対反対です。でも、どうしてもしたいと言うのなら、長男の言う通り、誰もいないところですればいい。誰も巻き込まない、傷つけない所で。そうすれば、生き延びるために紛争地となった自分が住む町を逃れなければならない人はいなくなるだろうし、戦争のために住民がそこで命を失うこともなくなるだろうから。
 


鳩は自己の安全を信じて舟を去ったのでなく、去って新たな世界を作ろうと意思したのではないか。それが平和を生むべき人間の、大切な行動の指針になるのではないか、と。
(ここの鳩は、聖書のノアの箱舟の鳩から)


 聖書の話なので、ノアの箱舟の鳩のことまで知っている人は少ないかもしれません。40日40夜、降り続いた雨が止み、どのくらい水が引いたかを知ろうと、ノアは鳩を放します。1回目には、鳩はそのままノアのところに戻ってきました。2回目はオリーブの枝を加えて戻ってきました。3回目に放ったとき、鳩はもう戻ってきませんでした。それで、水が地上から乾き始めたことを知ったノアは、方舟から出ました。

 口で平和を唱えるのは簡単なことです。でも、本当に平和な世の中を作ろうと意志するのならば、取らなければならない行動というものがあって、それには覚悟がいるんですよね。

 でも、そういう覚悟をしっかりと決めることって、なかなかできないような気がします。ただ、そういう覚悟を決めることのできる人も、最初は怖かったと思うんです。出来ることを一つ一つ積み上げていって、それが支えとなったのではないかとも思います。

 まずは知ること、そして、感じて、考えて、出来そうなことからやっていく。
 それにしても、こういう類いの本を読むと、毎回同じような思いになるということは、まだまだ口先だけということ。

| | 19:16 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

『国境なき医師団を見に行く』

  善意を差し出して他人のためになろうとする者の命、人生、生活、子どもの頃からの個人史、息づかい、家族との関係、まなざし、口調、そしてこれからの日々を短い爆撃で消してしまう権利が誰にあるというのか。

 圧倒的に弱い立場にある患者たちのそれらも。
 俺はこの非道な行為をしつくこく非難する。
 
 死は数字ではない。(P42)


 国境なき医師団の活動について書くに当たっての著者の言葉、叫びです。私もその通りだと思います。



 世界の様々な場所で活動する「国境なき医師団」。この本ではハイチ、ギリシャ、フィリピン、ウガンダでの彼らの活動について書かれています。今回はウガンダのことについて筆者が書いたことで、特に気になったことを書きます。「国境なき医師団」の活動そのものからは逸れますが。

 ウガンダは難民受け入れに寛容な国で、難民の数は150万人以上、その7割は隣国の南スーダンからの避難民ということです。その南スーダンと言えば、自衛隊が派遣され、武器の携行命令が出ました。この自衛隊の件については、周知のことだと思います。

 南スーダン政府軍と反政府軍の紛争は激しく、銃撃戦は起こり、何万人もの人が亡くなり、家は焼き払われ、レイプは起こり、自軍に入れるために誘拐される子どももいたそうです。その出来事を、日本の当時の防衛大臣は「衝突」と呼びました。
 8月には5万人、9月には8万5千人もの人が家を捨てて逃げなければいけない事態にかかわらず、その防衛大臣は7時間の滞在の後、「状況は落ち着いている」と言いました。

 この一連の発言について、南スーダンの当時の情勢を説明して、筆者は「意味がよく分からない」と控えめに書いています。
 あの大臣のことだから、保身のために適当なことを言ったのだと私は思いましたが、でも、もしあの発言が彼女の偽りのない言葉だったら・・・と思うと怖くなりました。

 彼ら(政治屋とか官僚とか)にとって、住民の命が奪われようと、犯罪に巻き込まれようと、住んでいた土地を追われようと、彼らに害が及ばない限り、「何でもないこと」なのではないか。

 「何でもないこと」だと思ったからこその、あの発言だとすると、怖い。

 今年の夏に参院選がありますが、私たちが選ぼうとしている人たちが、彼らの目の先に何を見ているかを、知らなければならないと痛切に思います。

| | 15:23 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

老い

 昨日、特養に入所している父の所に行きました。いつもとは違って閑散としていて、フロアにあったテーブルも見当たりません。父の部屋に入ると、父は寝ていましたが、気配に気がついて目を覚ましました。2~3分経った頃、施設の人がやって来て、「インフルエンザ流行中で今は面会禁止になっています」とのこと。それで、直ぐさま施設を後にしました。それなら、そうと連絡ぐらい欲しかったな・・・と思いながら。

 父の所に行くのは月に1~2回。行く度に父はいつもベッドの上で寝ています。そんな父に「寝てばかりいると、ますます体が動かなくなるよ」と言っていました。
 でも、そんな私の考えは正しくなかったと分かりました。『死を生きた人々』(小堀鷗一郎著)を読んで、「老い」ということに対し、目が少し開かれたように感じています。

 著者の小堀氏は外科医師でしたが、定年後に訪問診療医となりました。訪問診療を行うなかで、患者、あるいは死に向き合う姿勢が変えられていった方です。ちなみに、森鴎外の孫でもあります。

 本の冒頭に小堀は次のように書いていました。

患者が食物や水分を口にしないのは、老衰でものを飲み込む力がなくなったからである。飲んだり食べたりしないから死ぬのではなく、死ぬべきときがきて、食べたり飲んだりする必要がなくなったと理解するべき。

 人間の体について、知識のある人には当然のことなのかもしれませんが、私には目から鱗の指摘でした。
 父がベッドの上でじっとしていることが多くなったのは、体を動かすことが少なくなったのが一番の原因ではなく、その力がなくなってきていたから。それなのに、「体を動かさないとだめだよ」なんて言われたら、辛いです。

「老い」は戦うべき相手か
 
 日本人がこの100年間に考えなくなったこととして、二つのことをあげています。一つは、「死ぬこと」。もう一つは、「老人らしく老いること」。

 このことについて、ある二人が書いたことを引用していたので、少しだけ転載します。


 (高齢者に学習療法を行い、脳が若返ったとのドキュメンタリー番組を見ての感想)
 高齢者の脳を若返らせて、一体何を目指しているのだろうか。目標もなければ、高齢者が何を望んでいるのかもお構いなしに学習療法を強調している。あの人が取り組まないのは気力がないからだ。気力を付けるために目を合わせて話をしよう。・・・

 これを見ていて、高齢者に何が必要なのか、高齢者の尊厳を尊重するにはどうしたら良いかについて謙虚に考えないで、自分が良いと思い込んだらそれを一途に押し付けている・・・



 
介護予防という言葉には、介護は予防されるべきもの、という考え方が露骨に反映されている。つまり、要介護状態になることは否定的にとらえられているのである。もちろん、元気に長生きできたらそれに越したことはない。しかし言うまでもなく、誰しも年をとる。であれば、誰もが要介護状態になりうるのである。介護される側になるというのは決して特殊なことではなく、人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、自分もそうなるのだ、といった想像力が、介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていくための必要条件だと思えるのだ。




 「老い」とか「介護」とか、父が特養にお世話になるまでは、考えたことはありませんでした。でも、「老い」は必ずやってきます。その時に、自分はどう引き受けてもらいたいのか。

 尊厳を大切にする、このことを著者の文章から感じられます。私もそうです。 老いて、できることが少なくなっても、一人の人間としての尊厳を大切にしてもらいたいって思います。


尊厳を大切にする

 その人の尊厳を大切にするって、ではどういうことなのでしょう。その一つは、「その人の人生の厚みを知ること」だと教えられました。

 こんなエピソードが書かれていました。ご主人に余命1ヶ月の宣告がなされた女性は、医師からのある言葉が嬉しかったと語っています。どんな言葉でしょう。


 「ご主人はどんな人ですか」

 今までは患者でしかなかった夫。教師として40年近く勤め上げた経歴も、自分にとってはかけがえのない夫であることも、治療には関係なかった。でも、「ご主人はどんな人ですか」の問いかけに、人間修理工場の技師ではなく、病気になった人を治そうとしてくれる、夫に敬意をもって関わろうとしてくれていると感じたそうです。

「ご主人はどんな人ですか」、この問いかけを思うだけで、涙が出そうです。


 「お母さんはどんな人ですか」「奥さんはどんな人ですか」 そう家族が聞かれる時が来たとしても、家族が困らないように、誠実に生きていこうと改めて思いました。


| | 15:18 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』

 ある1冊の本を読みました。読みながら、憤りを感じ、涙が流れてきました。そして、自分自身の無知、いや無関心を情けなく感じました。その本は、PKOでカンボジアに派遣された文民警察官の死について記したもの、『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』です。



 この本については、Amazonレビューに多くの感想が寄せられています。

 この本を読んで私が考えさせられたのは、国益、国、国際貢献、平和、人ってなんなのだろうかということ。
 「停戦合意がなされている、安全だ」と言われ、カンボジアの各地に派遣された文民警察官たち。でも、彼らが派遣された地域は「戦闘地域」。その地で何が起こっているか、その治安情勢については日々日本政府に報告されていたけれども、その事態の深刻さが日本で大きく報道されることは国益を損なうと考えられ、伏せられていました。

 「国益を損なう」、この言葉を今まで何度も耳にし、「また言っている」と、特に気に留めることもありませんでした。でも、何なのでしょうね、国益って。人の命が奪われるかもしれない、そんな危険な状態に人を晒してもなお守らないといけない「国益」って。「国益」とは言うけれど、損ないたくないのは、自分の面子、評判ではないのか。

 国際貢献は大切なことなのは分かります。ならば、それなりの準備、支援をするのは国の義務であり責任でしょう。でも、文民警察をカンボジアに派遣するとき、手落ちが余りにも多すぎたように思います。
 他国の文民警察官は軍警察や軍事訓練を受けた警察官で構成されていたり、ジャングルで3週間のサバイバル訓練を受けたりしていた。防弾ヘルメットや上半身の前面と背面を覆う防弾チョッキも携行していました。
 でも、日本の文民警察官は紛争地での特別な訓練を積んでおらず、行ったのは予防接種や保険の説明などの事務作業と、高尾山での健脚訓練、四輪駆動車の車両訓練。彼らが携行していた防弾チョッキはライフル弾を止めるようなものではありませんでした。

 「平和」のために、時に人が犠牲になっています。それが仕方のないことなのか、それとも、そんなことがあってはならないのか。「あってはならない」と言うと、非現実的にすぎるような気がします。かといって、「仕方のないこと」と言うのは言い訳に過ぎないというか、思考停止しているのではないかと思います。
 平和のために、どうして時に人が犠牲になってしまうのでしょう。
 ただ、この時犠牲になった高田さんに関しては、避けることができたと思うんです。政府がちゃんとなすべきことをしていたら。

 「平和」ということを思う時、矢内原忠雄のこの言葉がよぎります。

多くの人が考える平和論は、再び戦争のために死ぬることは御免だ、戦争の被害者となることがいやだ、という感情論であります。これは一般的な強い感情でありますが、少し考えてみると、その浅薄であることがわかります。正しいことのためなら、自己を犠牲にすることは、人間としてなすべき当然の義務であります。ただ自分が死ぬのがいやだ、家を焼かれるのがいやだ、子供を死なせるのがいやだと言う感じだけでは、平和論は確立しません。われわれは事に臨んでは自分の一命を捨てなければならない、自分の子供も犠牲にしなければならない、自分の財産も捨てなければならないことがあるのです。


 「正しいことのためなら、自己を犠牲にすることは、人間としてなすべき当然の義務であります」「われわれは事に臨んでは自分の一命を捨てなければならないことがある」。とても厳しい言葉です。簡単に飲み込める言葉ではありません。

 一番いけないと思うのが、自分にはそんな覚悟が微塵もなく、安全地帯から一歩も出ないのに、人に犠牲を強いること。そして、今もなお、これは繰り返されています。

 
 平和を本当に願うのならば、どうして武器を作るのか。抑止力なんて言う人もいますが、そんな嘘はいらない。お金儲けをしたいだけなんだと思います。そんなことのために、人の命が奪われていいはずがありません。
 
 
 370ページ程ある本ですが、広く読まれて欲しい本だと思いました。

| | 14:18 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

『いのちの花、希望のうた』

ほっとくと
どんどん冷える
世の中だから
それぞれが灯り
点して生きる

(『画詩集 いのちの花、希望のうた』より転載)

 この詩を書いた人、この詩に添えられている絵を描いた人は2人の兄弟です。2人とも筋ジストロフィーによる障がいで人工呼吸器を使い、生活の全てにおいて介助をして貰っています。手の自由はほとんど利かないそうです。
 
 自由のきかない肉体ではあるけれど、「自分にできることは何か」を求めて、兄は絵を描くこと、弟は詩を書くことに、自身の生きる手応えをつかみました。

 「できなくなったことを悲観するのではなく、できることがまだまだあるんだと前向きに捉えるようにしています」

 そんな兄弟の思いが、この小さな詩画集から伝わってきます。

 本には読書カードがついています。その読書カードがまたよかったです。今まで何枚もの読書カードを目にしてきましたが、こんなにドキッとしたのは初めてです。こんな質問が書かれていました。

「本を手にとってくださったあなたはどのような方ですか。」

即答できなくて、今思案中です。

| | 20:03 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

葉祥明さんの本

17年ぶりぐらいに編み物をしています。その編み物と、読書でパソコンに向かう時間がめっきりと減りました。ヤマトネタもなくなったし・・・。

編み物を始めると、本を読む時間もちょっぴり減りますが、本を読むと、色んな気づきに出逢えます。

葉祥明さんの『Life is ・・・・・・』という本にあった一節を転載します。

がんばってね! は
励ましの言葉

しかし
そんなに無理して
がんばらなくてもいいんだよ!
と言ってあげるのもまた
大切な励ましです





葉祥明さんの描かれるイラストが好きです。優しさや温もりが伝わってくるようなイラストに心がほっこりします。

| | 19:39 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

『夜間飛行』

サン・テグジュペリの『夜間飛行』を読みました。描写が美しくて、引き込まれました。

本に書かれていた「解説」の一節がよかったので、転載します。

すべての挑戦には必ず敗北と喪失の可能性がひそむ。それでも力をつくして突破を試み続ける姿勢のなかに生があるという思いが、(中略)作者の真意ではないだろうか。問われているのは目先の勝敗ではない。人間は表面的な幼い勝ち負けを超えた遙かな目標をもてるという思い(中略)が伝わる。そしてその目標を視界にとらえつづけることこそが、じつは最も難しい挑戦かもしれないのである。

(中略)
人間が、困難のさなかに自己を見失わず、最善を目指して歩みつづけたことそのものが勝利である――サン・テグジュペリはそう告げて作品をしめくくっているようにみえる。そこにあるのは、ひとが全力で生きようとしている姿に捧げられた、深い愛と経緯ではないだろうか。


翻訳者が解説を書いています。翻訳者と同じような感想でなくていいのですが、でも、このように深く読み取れたらいいなと思い、もう一度読み返そうと思っています。


人間が、困難のさなかに自己を見失わず、最善を目指して歩みつづけたことそのものが勝利である
このことを、しっかりと心に刻んでおきたいです。

| | 19:11 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT