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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2009年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年09月

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ほめる

「早く起きないとダメじゃないかとか、忘れものしちゃダメじゃない・・・
 とお母さんが言う。それは言うけれども、ぼくがきちんと起きた時に
 褒めてくれたことがない。ぼくが忘れものをした時だけ怒るけれども、
 しない時に一度も褒めてくれない。」

と、子供達が園長先生に言うそうです。(「『ひと』として大切なこと」:渡辺和子)


「ひと」として大切なこと (PHP文庫)「ひと」として大切なこと (PHP文庫)
(2005/08/02)
渡辺 和子

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この一文を読んで、ドキッとした。

「褒めて育てよう」とは心がけてはいるけれど、
それは、親の目からみて、子供が何かいい事をした時、子供のよい所だけ、
という場面が多いと思う。

朝早く起きる、忘れ物をしないとか、そう言うことは、
私の目から見たら、当たり前のこと。
でも、それってあくまで、大人目線のことであって、
子供の立場に立ったら、
「学校に遅刻しないように、朝早く起きられるように気をつけよう」とか
「忘れ物をしないように、ちゃんと用意をしておこう」とか、
頑張っていることなのかもしれない。

今日、子ども達をきつく叱っしまった。
明日から学校で、その準備をしようとしたら、持っていくべき物が見つからない。
子ども達は片付けが苦手というより、しない。
口をすっぱくして言っても、どこ吹く風で
消しゴムなどの小物がなくなるのは日常茶飯事だ。
で、子ども達に
「お片付けが出来ないなら、もう何も買いません!!!」って
言い放った私・・・それを聞いて泣き出した子ども達・・・

そう言い放つ前に、どうして一言聞けなかったのか、
「どうして、お片付けが出来ないのかな?
 どうしたら、お片付けできるかな?」って。

もしかしたら、子供としては彼らなりにお片付けを心がけているつもりなのかもしれないのに。

それに、子ども達が私が何も言わなくてもお片付けをした時に、
私はその事をちゃんと見ていないような気がする。
そういう事が続けば、子供だって親の言うことなんか聞きたくなくなる。

「当たり前のこと」と思うのではなく、
「よくやってるね。頑張ってるね」って、子供に届けていきたいと思う

| 子育て・教育 | 22:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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生き方選ぶ「自己責任」で(朝日新聞記事より)

今日は選挙投票日。私は朝に済ませた。
今までは議員名を書き、党名を書くだけだったが、
今回初めて、最高裁判所裁判官国民審査にも意思表示をしてきた。
今までは、最高裁判所裁判官国民審査と言っても、
その裁判官がどんな事例を裁判したのか分からなかった。
でも、今回新聞やその他のメディアを通して少しだけ知識を得た。
その知りえたことを判断材料にして、意思表示をしてきた。

ちょっと目を向ければ、視野は広がる。
40代半ばになって、漸くこんなことに目覚めた私・・・


今日の朝日新聞に、作家の落合恵子さんの記事があった。
以下少し抜粋。


生き方選ぶ「自己責任」で

00年から母を在宅で介護し、一昨年の夏に見送りました。
この間、介護、医療、雇用、育児、教育、年金制度という、
社会全体で差避けなければいけないものが崩壊していきました。
大本に「自己責任」の概念がある気がしてなりません。
生老病死がすべて自己責任でくくられ、
弱肉強食の時代に突入してしまった。

少子化は問題だといいながら、
妊産婦を乗せた救急車を受け入れられる病院は限られ、
医師不足は相変わらず。

政治をつかさどる人に聞きたい。
年を重ね、病んで、介護されることは自己責任なのですか。
リハビリを必要としながら、
病院を出ていかなくてはならないことは自己責任なのですか。

自己責任を言い募るだけで他人の痛みを感受しない人が政治をつかさどるのは罪深い。
ワーキングプアにせよ、派遣切りにせよ、リストラにせよ、
そんな政治が生み出しています。
ただ、国民はその国の民度にあった政治しかもてないとすれば、
そんな政治にしてしまったのは私たちの自己責任でもあります。

自己責任とは本来、自分の生き方を自分で選びとる「自己決定権」と表裏一体のはずです。
ところが00年以降の社会は、人びとは自己責任を負わされる一方、
自己決定権から遠ざかるを得ない日々の中にいた。

一人ひとりが自分の生き方を見極め、
責任をもって選挙に、そして政治に参画したい。



この記事とは全然関係ないが、落合恵子さんの著書『白い女』を大学時代に読んだ。
涙・涙でした・・・
白い女 (1982年) (集英社文庫)

| ひとりごと | 20:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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生きている間に愛する

夫婦の愛が築く子どもの未来 (パトリク・マケリゴット著)

イギリス人宣教師の方が書かれた本です。
その中から少し紹介します。


「人間は生きている間に愛さなければならない。
 子どもがいる間に、正しく愛すべきなのです。
 『もう一度』ということはないんです。
 きょうという日は、もう二度と来ないんです。
 そして、子どもが死ななくても、親の手の届かない所に行くんです。」

当然のことなのですが、言われてみないと案外気が付いていないように思います。

朝日新聞で俵万智さんが月に1回子どもと絵本をテーマにエッセイを書いておられます。
その中で、先日心に残った一言がありました。
  子どもと一緒に本を読めるのは、そう長くはないだろう。
  大きくなったら、一緒に読みたくても読めないだろう。
というような事を書かれていました。

子どもは成長していくものなのに、
どこかに、いつまでもこんな感じでいるのではないか・・・
って無意識に思っているような気がします。


産婦人科の待合室で・・・だいたいの母親はこう言います。
「(男でも女でも)どっちでもいいんです。健康なら、ふつうでいいんです。」・・・
 しかしこれは待合室での話です。生まれてからはまったく違います。
 例えば、近所の奥さんが自分の赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩していると思ってください。
 そしてあなたが赤ちゃんを見て、「ふつうですね」と言ったらどうなるでしょう。
 このことは失礼なんです。
 なぜかいというと、母親にとっては、赤ちゃんが生まれた瞬間から、
 みんなと同じという考え方はふっ飛んでいます。
 自分の子どもに、平均より何かすぐれたもの・・・を見いだそうとするんですね。・・・
 まず、あなた自身が世間体や人並みの基準から開放されなければなりません。
 一人一人の子どもを独自の存在として見てあげなければなりません。




また、『大きな緑の木の下で』でこんな風に書いている。
大きな緑の木の下で―Family essay

「車型の家族にはならないで、カヌー型の家族になってください。」
(車はただ乗っているだけで、何の協力もしなくても目的に着ける。
 カヌーはみんながパドルを持ち力を出して漕がないと目的地に着けない。)

子どもは勉強していたらそれでいい、とか、
子どもに手伝って貰うよりは、私が一人でした方がはかどるわ・・・
なんて思って、子ども達が子ども時代のうちに本当は学ぶべき事を
親の勝手な考えで、取り上げてしまっていないか、
ふと思わされました。

| 子育て・教育 | 16:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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悲鳴から祈りへ

新約聖書一日一章(榎本保郎著)ヘブル人への手紙5章 の箇所より

舟が沈みかけているとき、
私たちは「神様助けて下さい」と祈る。
けれども、神様の御心を問わず、ただ助けて下さいというのは
悲鳴であって、祈りではない。

その悲鳴が祈りになっていくためには、
「しかし、私の思いでなく、御心を成して下さい」
という祈りで結ばれなければならない。



祈る時、自分の願い、思いを込めて祈る。
そして、ちょこっとお決まりの、おまけのように付け加える・・・
「神様、あなたの御心をなして下さい」

祈らないよりは、祈り続けることが大切と、自分に言い続けている。

Prayer changes me and then I change things-
God has established things so that prayer,
on the basis of redemption,
changes the way a person looks at things.
Prayer is not a matter of changing thins externally,
but one of working miracles in a person's inner nature.

(オズワルド・チェンバーズ『MY UTOMOST FOR HIS HIGHEST』)

| 聖書・信仰 | 19:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「なぜ」と考えること

総選挙・・・いよいよ明日が投票日。
新聞では選挙に関連する記載が目立つ。

今日の朝新聞の社説より抜粋・・・


 兄は理想主義の政治学者。弟は有能な官僚。
ともに日本をより良くしたいと思っていますが、
考え方が違い、顔を合わせれば論争が始まります。

 二人はどろうぼうに遭いました。
犯人は働き者だが貧乏な娘。
勉強好きで病気の弟を、進学させ、病院に通わせるお金がほしかったのです。

 すぐに反省し、盗んだ物を返しに来た娘を、官僚の弟は
「国家とは法律の網。その網を破ろうとしたことは償わなくては」
と警察に引き渡そうとします。
そして、「一方で、国家は救いの網も用意している。
安心してこの網に体を預けなさい」と諭します。

 学者の兄は反論します。
「貧しい子が学校に行けず、医者にかかれないのは、なぜか。
その『なぜ』をしっかり受け止めていない方の網に身を預けられるはずがない。
あらゆる『なぜ』を議会に集めなければならない」

 二人は旅先で、ある兄妹に会います。
生きる苦労を重ねた末に再会した兄妹は、お互いの生活を思って歌います。
 「三度のごはんきちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね」

 口論ばかりの二人も、この時は意見が一致しました。
「人間の本当の願いはここにある」と。


記事の冒頭部分では、あの政治家兄弟のことを喩えて書こうとしているのかなって思ったが、
これは、井上ひさしさんが2003年に書いた「兄おとうと」というお芝居だそうです。

   あらゆる『なぜ』を議会に集めなければならない。
と書いているが、
普段の生活で『なぜ』と感じる事は色々とあるのだろうが、
それを発信することって、ほとんどないような気がする。
結局は何も考えていない、ということなのか。

昨日、朝日新聞の投書にこんな記事が掲載されていた。
その人は、最近、広島平和記念資料館を訪問した。
2度目の訪問だそうだ。
そしてその後、「硫黄島からの手紙」を見たという。

それでその人がどんな事を感じたか。(以下本文そのまま)


・・・日本人の愚かさである。
それも戦争をした当時の日本人にではなく、現代の日本の社会に対してである。
 今、日本では1年間の自殺者が3万人を超え、交通事故死者数の約6倍にのぼる。
これだけ悲しい過去を持ち、
唯一の被爆国として命の大切さを知っているはずの日本で、
なぜ、こうも多くの人が自ら命を絶たなければならないか、
と資料館で感じた。
 核廃絶と世界平和を訴える日本は、
生きることの大切さも発信しなければならないのに、と思う。
とはいえ被爆者にも自殺者にも何もしてあげあれらない自分がもどかしい。



私はこれを読んで、このように思いを馳せることが出来るということに心を打たれた。
そして、どんな人が書いたのだろうと名前を見ると、
18歳になる高校生の女性だった。
それを知って、もっと心打たれた。

18歳と言えば、大学受験を控え、「勉強」に追われているだろうと思う。
でも、そういう目の前の「勉強」だけではなく、
自分が住む社会の「なぜ」に目を向けることが出来ることに、
驚きと共に、頼もしさを感じた。


「なぜなんだろう」って、そういう思いを持つことは、とても大切なことだと思うが、
その大切な気づきをもうちょっと発展させて、
では、私はその気づきに応えるために何が出来るだろうか、
そう考えられたらと思う。

また、「なぜなんだろう」って疑問を持っても、世の中は何一つ変わらない・・・
そんな閉塞感に押しつぶされないような、そんな社会になっていけばと思う。

明日に迫った総選挙、楽しみだ。

| ひとりごと | 11:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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言葉をコントロールする


知人が日本語に訳して送ってくれている Word For Today よりの抜粋。

 「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」 (詩篇34:13)

イエス様がユダに裏切られた時、イエス様はその場所に立っておられただけでした。
ご自分を守るために、天使を呼ぶこともできたのにです。
群衆がやってきて、イエス様に手をかけ、逮捕したのです。
イエス様を守ろうとして、ペテロは剣を抜き大祭司の僕の耳を切り落としたのでした。

しかし、イエス様は言われました。
「そんなことをしてはいけません。そのような方法で物事に対処してはいけません。」
それから、イエス様は、その男の耳に触れいやされたのです。(ルカ22:51)

話を聞かなければならないときに、ペテロは話をしていたのでした。
物事をする必要がないときに、彼はその必要のないことをしていたのでした。

(中略)

私たちのイライラした言葉は、人々が話を聞かない原因になってしまいます。
イライラしても、カッーとなってはいけないのです。
私たちは神の言葉に繊細になり、耳を傾けなければなりません。
もしも、神が私たちに「何も言ってはいけない。」と言われるなら、
黙ってその場所にいなければなりません。
たとえ、そこにいる人が間違っており、自分が正しいと思ってもです。
私たちは言わなければなりません。「はい、主よ、わかりました。」と。

なんと頻繁に、私たちは人の霊的成長を妨げてきたことでしょうか。
神の祝福が、私たちの人生に入ってくるのを、なんと多く妨げたことでしょうか。
そのことは、自分の言葉をコントロールしないことから起こってくるのです。
そんなことは、姦淫や盗みほどではないと思うでしょうが、よく考えてみてください。


「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。」
(箴言13:3)



聖書には、"罪"について、多くの警告を与えてくれている。
その"罪"に、私は勝手に「重い・軽い」をつけていた。
上にも書かれているように、姦淫や盗み、人の命を奪ってしまうような行為は絶対に許されない。
そして、悪口も聖書では同じように"罪"として、しっかりと書かれている。

人の悪口は言わないように心がけてはいるが、唇をコントロール出来ないときは確かにある。

きっと、これくらいなら、神様は赦してくださるわって、自分勝手に思っているのだ。
そんなこと、聖書に書いていないのに・・・

今日ほど、箴言の上の御言葉が心に、グサッときたことはない。

| 聖書・信仰 | 22:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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どうして、私の子が・・・

今日、以前の職場の友人とランチをした。
その時、彼女が彼女の友人、Aさんの話をしてくれた。
Aさんは、どちらかと言えば晩婚で、高齢出産の年齢で初めての子どもが生まれた。
そして、その子はダウン症、今1歳過ぎたところだという。

そしてAさんがこう言ったという。
「私は、神がいるなんて信じない。
 もし神がいるなら、どうして私の子どもが障害をもって生まれてきたのか。
 こんなかわいそうなことはない。
 子どもに障害を与えるなら、私を代わりにそうしてくれたらよかったのに。」

子どもが、何らかの障害を持っていたら、
「かわいそうだ。どうして私の子どもが・・・」って思うのは、親ならきっと当たり前の事だと思う。
我が子が愛しいからこその思いだと思う。

私も、子どもが発達障害を持っていると診断された時は、
悲しくて涙が出てきた。

実は、私は子どもが生まれる前、神様にこんな祈りを何度か捧げていた。
「神様、障害を持った子どもだけは、私に与えないでください。
 私は、障害を持った子どもを育てていくことは出来ません。
 そのことは、神様はよくご存じですよね。
 だから、障害だけはない子どもを与えて下さい。」

でも、子どもが4歳になる直前に発達障害との診断。
「神様、どうしてですか?」
という思いは、正直な所あった。

でも、発達障害があろうがなかろうが、目の前の子どもは昨日と変わらず
笑顔が最高に素敵な子ども。
障害があることが分かったからと言って、子どもが変わるわけではない。
もし変わったとするならば、
"障害"という言葉に対する、世間の偏見、無理解がそうさせていると思う。

『発達に遅れのある子の親になる』で、こんな一文があった。
発達に遅れのある子の親になる―子どもの「生きる力」を育むために発達に遅れのある子の親になる―子どもの「生きる力」を育むために
(2002/06)
海津 敦子

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発達の遅れと人格とはまったく別です。
人格を良くするも、悪くするも、発達に遅れがある、ないと関係なく、
周囲の環境、親の育て方に関係があることで、
遅れがあると困るとか、恥ずかしいとか考える必要はないと思います。
たとえば、どんなに勉強ができたって、
人間的に誰からも相手にされないし愛されない淋しい人もいるし、
発達の遅れがあっても、周囲から信頼を受け、愛される人はいっぱいいるんですよ。
もし遅れがあって、どこかしら人から認められにくいものがあるとすれば、
発達の遅れがあるからそうなったのではなく、
ひとりの人間としての魅力が足りないからかもしれません。
でもそれ以上に、見つめるほうの人に、度量の狭さが問われることが多いのではないですか。


また、この本の中で北海道大学脳科学専攻の教授の言葉が紹介されていた。

脳には色々な機能があって、それぞれがそれぞれで働いて発達しているのです。
ですから、ある能力が遅れている場合は、
他の能力が進んでいる可能性がむしろ高いわけで、
他の脳の領域を伸ばしていけばいいのです。
脳の働きからいえばどこかが遅れていても何も問題はありません。
……遅れている領域にとらわれているよりも、
得意なものを伸ばしてあげることが大切なのです。
得意な部位が伸びることで、遅れている脳領域もひっぱられて伸びる可能性も高いのです。


日本は福祉レベルでは、欧米より20年遅れていると言われていると聞く。
それが現実なのかもしれないけれど、でも、そういう環境にあっても、
周りに目を向けるなら、励まされる情報、有益な情報がある。

そういった情報が、一人問題を抱えて悩む人にもっと伝わるように、
どんな事ができるだろう・・・そう考えさせられた一日だった。

| 発達障がい | 21:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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親の言う通りにはしないが・・・

長い夏休みも、あと4日で終わり。
子どもはかわいいが、毎日朝から晩まで一緒にいて、
それでもって、毎日1回は喧嘩をする子ども達をみると、
こわ~いお母さんになってしまう・・・怒り

口うるさくなり、ガミガミが続くと、
「静かにしなさい!」と言っても、静かにするはずもなく、
子ども達はいつもよりなんとなく、怒りを表しやすくなる。

そして、大人げない私は、そんな状態の子ども達が続くと、
子ども達の言うことを、聞かないふりをしてしまうことも・・・かおまる

すると、子ども達もこちらの言うことを聞かなくなる。
母は、さらに怒る。
そして、なお子ども達は・・・・悪循環だ!

子供は“親の言う通りには、しない”が“親のする通りに必ずする”

偶然、見つけた言葉。(鵜木春海さんと言うお医者さんのサイトで)

私の言うことを、子供が聞いてくれない・・・と思う時はある。
そう、こちらが言っても言っても、聞いてくれない時はある。
子供が聞いてくれない!」って、親は思うけれど、
きっと子供も「お母さん、お父さんは聞いてくれない!」って、
結構思っているんだろうな・・・

「ねぇ、お母さん・・・」
「あっ、お母さんは今忙しいから後でね・・・」
なんて言うことがあるけれど、その「後でね」が永遠に来ないなんてこともある。
それに、よくよく考えてみれば、そんなに忙しいわけではなく・・・


自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
(聖書:ルカによる福音書6:31)
And just as you want men to do to you, you also do to them likewise.

| 子育て・教育 | 21:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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発達障害・・・町の取り組み

発達障害児との関わり方をテーマに講演会があった。
小学校の先生対象だったが、PTA役員ということで、参加の機会を頂いた。

大変参考になる講演だったが、一番心に残ったのは、
発達障害の子ども達が注意されたり怒られたりして一番パニックに陥っている状態というのは、
泣き喚いたり、暴れたり、叩いたりそういうことではなく、
それは、笑っている状態だということだった。

パニックになると、周りとの関わりを遮断したくなるが、
泣き喚いたりしていると、周りが色々とアクションをおこしてくる。
でも、笑っていると、周りは「大丈夫みたいだね」って感じで、
放っておいてくれるから、ということだった。


他の市町村のことは知らない。
私の住む所は小さな町だが、特別支援教育に関して、色々と工夫をしているように思う。
その1つが、町内の支援学級の子供達が集まってする宿泊学習だ。

小学校1年生から中学3年生まで一緒に一泊する。
体を使って遊び、また、
先生方の助けを受けながら、自分たちで料理をしたり、
学校で練習してきた、“出し物”を披露したりする。

保護者は手伝える人は手伝うが、宿泊は子ども達と先生方だけ。

調理する時も、“出し物”をする時も、子ども達は一生懸命。
他の人達がしている時も、ちゃんと見ている。

多分、彼らにとっては、どちらかと言うと、生きにくさを感じる世の中ではないかなって思う。
だから、私は子供達にそんな世の中にあっても、「生きぬく力」を身につけてほしいと思う。

でも、同時に、「きっとまだまだ分かってないだろうから・・・」とかまいすぎるところもある。
渡辺和子さんはこんなことを書かれている。

子どもたちを大切にするということは、
その力を見くびることでは決してないのである。
子どもたちの中にある「良心」、神の声に聴き従う意志の力を認め、
伸ばしてゆくことなのだ。

(『目に見えないけれど大切なもの』渡辺和子著)

目に見えないけれど大切なもの―あなたの心に安らぎと強さを (PHP文庫)目に見えないけれど大切なもの―あなたの心に安らぎと強さを (PHP文庫)
(2003/11)
渡辺 和子

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山谷えり子さんは、こんな風に書いている。
親の役目とは、子どもがどんな状況になっても、
生きていることに感謝する心と思いやりをもち、
その人らしさを失わずに生きていく力や、ものの見方をつけてあげることだと思う。

(『ねぇ、おかあさん』より)
ねぇ、おかあさん―子どもの悩み子どもの本音

「生きていく力」というか、「生き抜く力」をつけてあげることは本当に大切だと思う。
その為には、親が目先の事にとらわれずに、見るべきものをしっかりと捉えていく、
そういう姿勢が大事かな、って思う。


聖書(ピリピ人への手紙4章)に、

 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
 また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも、貧しいことにも、
 あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


このように言い切れるようになれば、と思う。
その為には、まず親である私がそう言い切れるようになりたい。

| 発達障がい | 20:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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受け入れる

大学在学中、「性格発達論」という一般科目を受講していた。
その講義は一般科目にも拘わらず、毎回殆どの人が出席し、最後の講義が終わったときには拍手に包まれた。

その講義の最後で教授が
「この講義を終えるに当り皆さんに覚えておいて頂きたいことがあります。それは“受容”ということです。」
と話され、黒板に大きく“受容”と書かれた。
そして子供を育てる上だけでなく、これからの人生の中でも“受容”、
すなわち“受け入れる”ということが大切だと話された。

上の子が幼稚園に入る前、ある保育園の園長先生が
「集団の中で乱暴な子供を見ると、親はそういう子供と遊ばせないようにするけれど、これは間違っている。色々な子供がいて、中には乱暴な子供もいるけれど、その交わりの中で子供は人と付き合っていくすべを学んでいく。」
という様なことを話されました。

私はこの話を聞いたときに、大学の講義で教えられた“受容”ということを思い出した。
園長先生のこの話を聞くまでは、私も、すぐ人を叩くような子供の傍には息子を近づけていなかった。
でも、この私の態度はその子供を排除していることになるのではないか。
確かに穏やかな子供たちばかりの中にいるのは心地よいかも知れないけれど、
そういった環境で一生を送るなんてまずないと思う。

この世の中には色々な人がいる。自分とは相いれない人もいる。
相いれなくても、受け入れて、どうやったらその人とやっていけるのかを学んでいくというのはとても大切なことだと思う。

そして、周りの人を受け入れていこうとするなら、
その為には、まず自分が受け入れられている、愛されているという認識が必要だと思う。
自分は誰にも受け入れられていない、って思う事もあるかもしれないけれど、
ただ、それが誰であるか思い出せないだけ。
きっと必ず受け入れられている。愛されている。
少なくとも、神様は私たち一人一人を、愛して下さっている。

| ひとりごと | 21:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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