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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2009年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2009年12月

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誕生日おめでとう

今日は望の誕生日。おめでとう。ハッピー
もう10歳だね。
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聖君がインフルエンザに罹って、ちょっぴり静かなbirthdayだったね。
そうそう、神戸からおじいちゃんが来てくれたね。
一緒にお祝いしてくれたね。
(お母さんが仕事行っている間、聖を見て貰うために来て貰ったんだけどね)

聖君が調子悪いから、聖君のお世話でお母さんは忙しくて、
せっかくの望の誕生日だけど、じっくり望とお話できなかったこと、ごめんね。

望の誕生日にはいつも思い出すよ。望が生まれた日のこと。
生まれて、元気よく泣きすぎて、肺に穴があいて、すぐ保育器に入ったんだよね。
3日間だけだったけど、その間、お母さんは毎日泣いていたんだよ。
だって、その3日間、望に会えるのは、おっぱいをあげる時だけだったから。

でも、今ではこんなに元気な男の子。優しい子。
望は大切な大切な宝。
本当に、本当に生まれてきてくれてありがとう!

そうそう、望も咳が少し出ているから、気をつけないとね。


望へ・・・
あなたが生まれて もう10年
時が経つのは早いね。

お母さんの腕の中で抱っこされていたあなたが、
もう抱っこは出来ないほど大きくなったね。

あと2年で小学校も卒業なんて
信じられないよ。

時にお母さんは、怒ったり、あなたを泣かせてしまうこともあるけれど
望を愛していることだけは、
確かな、確かなことだから。

これからの望の歩みがどうなるのか
神様だけがご存じ。

お母さんが祈るのは、
望のこれからのすべての歩みにおいて、
神様の守り・導きがあり、
望が神様への信頼を揺るぎなく持って歩んでいくこと。

望、大好きだよ。
お母さんの大切な大切な、かけがえのない子どもです。

これからも、望の上に神様の豊かな愛と恵みと祝福がありますように。

10歳のお誕生日、本当におめでとう!

| 今日の出来事 | 23:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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おとなはみんなおなじことをいう・・・

引き続き、『河合隼雄の"こころ"』より。

この本でこんな詩が紹介されていた。
子どもの作った詩のようだ。

おとな

だれか人がくると
ぼくを見て
「大きなりはったね」
「もう何年生です」
「こんど3年生」
「そう早いもんね、
 こないだ1年生やと
 思っていたのに」
といってあたまをなでてくれる
おとなは
みんなおなじことをいう。


子どもはその中に無限の宇宙をもっているのに、大人はそれにまったく気づかず『みんなおなじことをいう。』
『大きなりはった』と言って頭をなで、
大人たちは子どもと『対話』をしたと思ったり、
『可愛がってやった』と思ったりしている。
しかし、なんのことはない。
子どもの方はちゃんと大人を観察してそのステレオタイプを見抜いているのである。


この所を読んで、ドキッとした。私も同じような事を言ったことがあるから。
そういったことを言うのが悪いわけではない。
ただ、どういう時に発するかといえば、
子どもにどんなことを話しかけたらいいのか分からない時に、
とりあえず何か話さないといけないから、とそんな感じで使う。
で、子どもが答えてくれたら、
「ああ、話してくれたわ」なんて、ほっとしたりしている私。
ステレオタイプなんだな・・・とつくづくと思う。

この本にお勧めの児童書が何冊も紹介されているから、読んでみようと思う。
「児童書」という響きから、大人が読む物ではないと思っていた。
でも、絵本がそうであったように、児童書も大人が読んでも引き込まれるものはあると思う。
すっかり忘れている、子どもの頃の心持ちを思い出すことができるかも・・・

| 本・人生、啓発 | 14:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『河合隼雄の"こころ"-教えることは寄り添うこと』

先週、朝日新聞の土曜版で「河合隼雄」さんの本が紹介されていたので、
図書館で何冊か借りて読んでいる。

その中の一冊がこれ。

河合隼雄の“こころ”―教えることは寄り添うこと河合隼雄の“こころ”―教えることは寄り添うこと
(2008/03)
河合 隼雄

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副題に「教えることは寄り添うこと」とあるように、
これは教師向けの雑誌で連載されたものをまとめたもの。
でも、教師という立場にいない人が読んでも、示唆に富んだものと思えます。

その中でこんなことが書かれていた。

作家の五木寛之さんの談だが、
「日本語には『情報』という言葉がありますが、そこに『情』が込められていないので困るのです」

それでは、「情」を伝えるためにはどうするといいのだろうか、ということで、こんな風に河合氏は書いている。
「情」を伝えるためには、それにふさわしい場に二人がともにいるということが必要である。
同じ「場」に立ってはじめて伝わるものがある。

として、その後に具体例を書かれているけれど、それについては、本を読んでみて下さい。



平成19年度からだったでしょうか、「特殊教育」から「特別支援教育」と改変されました。
これは、「ノーマライゼーション」の世界的傾向に沿って出てきたものである、として
「平等」ということ という章では、こんな風に書かれている。

ノーマライゼーションの考えの根本にある、「人間だれしも、本質的には平等」
・・・
「本質的平等」は、能力が平等と言っているのではない。
能力に個人差があることは認めざるを得ない。
この事実に目を閉じて、表面的に「平等」を叫んでも意味はない。
障害があろうと、能力差があろうと、根本のところでは同じだ。
・・・
一例を挙げる。随分以前のことだが、小学校低学年の学級に相当自閉症の強い子がいた。
ほとんど話をしないし、孤立している。
しかし、担任の先生はこの子にも「本質的に平等」の精神で接していた。
その子はそれを感じたのか、少しずつ先生に接触を求めてきた。
先生がそれを受け入れていると、とうとう、授業中にその子が先生に抱きついてきた。
先生はその子に片手を添わせて、そのまま授業を続けた。

子ども達は、何事もないようにそのまま授業を続けた。しばらく時間が経って、ある子が立ち上がり、
「××ちゃん、ずるい」と言った。
先生は自閉的な子に向かって、
「あんた、ずるい言うてはるで」と言った。
その子は少し考えて、「ほんなら、ボクのとこに帰るわ」と戻ってゆき、授業は最後まで続いた。
先生は、「ずるい」と思った子は、××ちゃんの次に先生に抱いて欲しがっている、淋しい子であることを知っていた。

ここで、大切なことは、先生が子ども達を本当に信頼しているこである。
「平等」とは実に難しいことだ。誰にも同じことをするのが平等ではない。
どうしても抱いて欲しい子は抱いて、他の子は授業をするのも「平等」だ。
そのかわり、「ずるい」と抗議したい子が抗議するのも「平等」である。

先生も少しもあわてず、抗議する子を叱ったり、急に抱くのをやめたりせず、子どもの自主的判断に任せ、すべてはうまく収まってゆくのだ。



この箇所を読んで、素敵な先生だなって思った。
おおらかというのか、懐が広いというのか・・・ 子どもの心に寄り添っているんだと。
教師となると、どうしても「教えなくては」という思いが先にあるから、
この話に出てくるようなことが起こると、
「席に戻りましょう」なんていう言葉が、ついつい出てしまうのではないだろうか。

「勉強」を教えることは勿論大切なことだけど、
それだけに目を捕らわれていたら、もっと大切なことを見逃してしまうこともあるかもしれない。

私は教師ではないけれど、今、学校という場に関わり、毎日子ども達に接している。
明日からに生かしていきたいと思う。

| 本・人生、啓発 | 22:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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新型インフルエンザ?

下の子が新型インフルエンザに罹患?

朝、いつものように教会に行ったら、教会で「寒い、寒い」と言う。
で、おでこをくっつけたら、熱い。
礼拝の途中だったけれど、家に帰って、熱を計った。
37.7℃。
3時頃にもう一度計ると、今度は38.8℃。
しかも、「お腹が痛い・・・」と、その後におう吐。

多分新型かな・・・って思う。
ただ、インフルエンザの恐れのある場合、半日経たないと検査して貰えないから、
今日は家で寝ておくしかない。

で、その後の主人との会話・・・
私 「多分、新型だろうね。」
夫 「俺は、会社で予防接種したから、大丈夫だと思う。」
私 「でも、季節性インフルエンザの予防接種でしょ?
   新型には、効果はないみたいよ」

主人はどうも、季節性も新型も予防接種は一つで済ませられると思っていたらしい。
巷では、新型のワクチンのこと、かなり話題になっているのに、知らなかったのだろうか?

| 今日の出来事 | 21:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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お兄ちゃん

今日は、夕方5時半頃からPTAの打合せで学校に行った。
なので、主人が7時頃に帰ってくれることにはなっていたが、
それまでの間、子ども達二人で留守番をすることになった。
まだ4年生と2年生。1時間と言えども夜の子ども達だけの留守番は不安。

夕食は食べさせて出かけたけれど、
その後のお風呂に入ったりするの、ちゃんと出来るかな・・・って少し不安だった。

夜8時半頃に帰って来たら、子ども達はすでにベッドの中。
で、主人に聞いたら、お兄ちゃんが自分で浴槽を洗い、お湯をいれたという。

とても小さなことかもしれないけれど、
「お兄ちゃん、頑張ったね、ありがとう。」って、本当に嬉しくなった。

お兄ちゃんは、繊細で、涙もろいところがあるだけに、余計にそう思った。
昨日、神戸に住むお祖母ちゃんが怪我をして入院すると聞いて、涙。
お祖母ちゃんの所から帰ってくるときも涙。
毎月頑張っているドラゼミを、今月は全部やり遂げることが出来たと、うれし涙。
私が弟をきつく叱っても、涙。
PTAの用事で帰るのが予定より遅くなったら、泣きながら自転車に乗って学校の方までやってくる。

夕食でお兄ちゃんの好きなものを作ると、
「ありがとう、お母さん! お母さんの料理はとっても美味しいよ。ありがとうね!」と満面の笑みで言いながら、ハグしてくれる。

素敵なお兄ちゃんです。

| 今日の出来事 | 22:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『生きることはすごいこと』

教育というのは教と育にある。
心というのは育のほうで、心は育つんやから、教えるほうがなにもせえへんのがいいんや。
・・・
このごろは、教育と言ったら「教」ばかりだと思っている。
とくに心が関係してきたら、これは「育」のほうで、しかも、それは「育てる」のではなく、「育つ」ものなんです。
・・・
心の教育が大事だからなにかをしようという発想はやめなければならない。
とくに、5歳の子はこれができないといけないとか、6歳はこれをやらないといけないとか、あれがきたら、心は殺されてしまいます。


と、『生きることはすごいこと』に書かれていた。

「教育」は「教」と「育」にある・・・漢字を見たら一目瞭然なのだけど、言われるまでは、「教育」=「教える」とだけ認識していたような気がする。
「育」というものがあったとしても、こちらが「育てる」onlyのような気がする。
子供は「育つ」力を持っているのに、それがないように思って色々なことに口出しをしていたような・・・

どこまでなら許される、どんなことをしたら取り返しがつかなくなる、
自分も含め相手の命が危なくなる、
どんなことをしたら、気持ちよく過ごせるのか、そうでなくなるのか、
子供は色々な経験をして、その距離感をつかんでいくのだと思う。

そういった経験がない状態で、あれやこれや口で言ったとしても、子供には実感がわかないのかな。
ただ教えることに一生懸命で、それを子供なりに消化するのが追いつかず、消化不良を起こしているのに気づいていなかったかもしれない。
だから、そのために、子供の「ちょっと待って。僕を見て」って言うような、そんな声にも気づかずにいたかもしれない。

子供を育てるのは親のつとめだけど、子供が育つのを見守ることもまた大切だと気づかされました。


生きることはすごいこと (講談社SOPHIA BOOKS)生きることはすごいこと (講談社SOPHIA BOOKS)
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| 本・子育て、教育 | 19:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「お母さん、楽しんでる?」

今読んでいる本にこんなことが書かれていた。

例えば、日曜日なんかに、一家揃ってドライブして、ファミリー・レストランで食事をして帰ってくる。
お父さんが日曜日に大サービスをして喜んでいたら、ある日突然、息子が
「もう行きたくない」と言い出す。
「何を言うのか。せっかくみんなで楽しんでいるのに」と言ったら、息子は何と言ったか。

「お父さんだって楽しんでいないくせに」

どこか心に訴えるものがある。
私、子供と楽しんでいるかしら?って。

何かの本で「お出かけ症候群」ってうまいこと書かれていたけれど、
親としては、休日には子供とどこかにお出かけをしないとね・・・って思う気持ちがどこかにある。
それは、子供に楽しんで貰いたいから。

「一家団欒」というのか、休日には家族仲よく過ごそう、という気持ちがある。
それは、決して非難されるようなことではないと思う。
ただ、初めのうちは、子供と楽しい時を過ごすことが目的だったのに、
いつの間にか義務というのか、「出かけねばならない」みたいなことからお出かけしているとするなら、
そのうち、しんどくなってくるのではないかな・・・お互いに。

そして、そのうち子供から
「もういいよ。だってお母さん楽しんでないでしょ」
なんて言われるかも。

もし、そう言われる時があるとしたら、「なんてことを言うの!」なんて言わず、
「そうだね。もういいかな」ってサラッと言えたらいいのかも。


「楽しかった?」と子供に聞くけれど、
子供は子供で、「お母さん、楽しんでる?」って聞いてみたいんだろうな。

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| 子育て・教育 | 21:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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セレンディピティ(serendipity)

セレンディピティ(英語:serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

朝日新聞の土曜版に連載中の勝間和代さんのコラムで初めて知った言葉。
彼女はこのセレンディピティに関してこんな風に書いている。

不運を幸運に、幸運を実力に変える力だと解釈している。
すべてのことは偶然性が強いのだから、その偶然性自体をコントロールすることはできない、でも、自分の身の回りの偶然の中ではベストを尽くすことはできると信じている。
目の前の不幸を嘆かずに、なんとかして今の状況から幸運の種を見つける習慣を身につけることをお勧めします。



聖書の中でパウロはこう言っている。
  私はあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
  私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


パウロは、どんな環境にあってもベストを尽くすことができた、とも言えるのだろう。
置かれた環境に右往左往するのではなく、自分の出来ることを精一杯する。
そんな姿勢を身につけていきたいと思う。

| ひとりごと | 23:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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子どもを泣かせてしまった・・・

イエス様、あなたの愛で、私を覆い、
イエス様、あなたの愛で、子ども達を覆い、
傷ついている部分があれば、それをあなたの愛で覆ってください。

・・・そう思わずにはいられない、そんな一日が過ぎていく・・・

今日は朝9:30に療育相談があり、出かけることになっていた。
それに合わせて、子ども達も率先して勉強をしていた。
お兄ちゃんが算数をしていた。
今日のポイントは「計算を簡単に」というもの。

「34×7」という問題なら、「(30+4)×7=30×7+4×7=238」という形にして答えを求めましょうというもの。
筆算でしたら、計算が得意なお兄ちゃんなら難なく解ける。
でも、「(30+4)×7」までは出来ても、その後の「30×7+4×7」という形にできない。
何度説明しても「30×7+34×7」にしてしまう。
口頭での説明と共に、図示してもできない。
「どうして、こんな簡単なことが分からないの?」と段々とイライラしてくる私・・・
言葉がきつくなってきて、そして、お兄ちゃんが泣いてしまった。

「簡単に計算できる」なら、その方法を覚えた方がいい。
でも、私にとって、Aという方法が簡単であっても、お兄ちゃんにはBの方が簡単かもしれない。
それを、こっちのAのやり方の方が簡単だと言って、泣かせるほどまでしなくても・・・
結果何が正しければいいかというと、「計算の答」。

確かに、学校のテストでは「答を導き出すまでの手順」も見られるから、
きちんと出来た方がいいのかもしれないが、
最終的には「答」があっていれば、困らないわけだから
あそこまで厳しく言わなくてもよかっのに・・・と反省しきりの私。

そんなこんな後、出かけて療育相談に出かけた。
着くと、先生が「あれ、○君、チックが少しでてますね。何かストレスとか最近ありましたか?」と。
なので、出発までのことを手短に話して、「私が怒りすぎたせいです」と。
その後、お兄ちゃんと先生だけで40分程の検査をして、終わり。

予定より早く終わったので、少し足を伸ばそうと国道を走っていたら、
「パン」という音・・・
何かなって思って少し走っていたら、どうもハンドルが右にとられる。
一時停止して車を見たら、なんと左前輪がパンク!
簡単装備のJAFに来て貰ったけれど、それでは間に合わず、
なんとレッカーも呼んで、主人(自動車整備士)の勤務する職場まで牽引することに!!
生まれて初めてレッカー車に乗りました。

レッカー車の中でお兄ちゃんに
「お母さんがうっかりして失敗して、タイヤがパンクして、レッカー車に乗ったって、日記に書いたらいいよ」
って言うと、お兄ちゃんは
「書かないよ。お母さんはうっかりしていないよ。失敗してないよ」
と嬉しい言葉。

朝、たかが計算問題のことで私に怒られて泣かされたのに、こんな優しい言葉をかけてくれます。


一日を振り返って、今日は、本当に我ながら自分にあきれてしまった。
日頃、頭で理解し、そうしていこう、って思っていることが全く出来ていない私・・・

自分たちから率先して嬉しそうに勉強していたのに、それを褒めることもしないで、
些細なことを取り上げて、叱ってしまう。

何度言っても理解できないようなら、大人がやり方を変える、と頭では分かっているはずなのに、
子どもに「理解しなさい」と言う。

いらっときたら、大きく深呼吸3回!等と子どもに言うくせに、私はそのまますぐに口が出る。


本当、今日は子ども達に、特にお兄ちゃんにもう一度しっかりと謝らないといけない。
ごめんね、って。


歩きにくい道
歩きやすい道
あなたは どっちの道が好き?

あなたが行きたいところへ
続いているかしら?

神様のお喜びになる愛の道は
時には、歩きにくく見えるかもしれない。
自分勝手な 人のことを考えない道は
歩きやすく見えるかもね。

世界をお造りになった神様は
どの道もごぞんじ。
あなたの一歩一歩を見守り
あなたが愛の道を選ぶように
助けてくださるかた。

神様、
どの道を行ったらいいか
どうか、教えてください。

(『イエスさまおしえてくださった 主のいのり』より抜粋)

イエスさまがおしえてくださった主のいのりイエスさまがおしえてくださった主のいのり
(2000/09)
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今日という日は二度と戻ってこない。
なくてはならぬ一日だったと、思える「今日」を過ごしたい。
子どもにかけ続ける言葉は、フワフワ、暖かい言葉であるように。

| 今日の出来事 | 16:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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子どもと手をつなぐ

子供と関わる仕事をしている。

歩いていると、すっーと寄ってきて手をつないでくる子ども達(男の子も女の子も)もいる。
その小さな手が本当にかわいらしくて、かわいらしくて・・・

その彼らと手をつないでいて思ったのが、
私、最近我が子と手をつないだのはいつだったかな?っていうこと。
(こちらが一方的に手を握るのではなく、手をつなぐっていう意味で)

弟の方とは、小学2年ということもあって、手をつなぐことはあるけれど、
お兄ちゃんとは、「ん? いつだったかな? 手をつないだのは?」 という感じ。


今日、お兄ちゃんがパソコンに熱中しすぎたあまり、
トイレに行きたいのを我慢して、でも我慢しきれなくなり、
トイレに駆け込んだけど、間に合わず・・・・失敗。

今までに、トイレを我慢することが何回もあり、注意していたので、今日は叱った。
きつく叱りすぎたせいか、泣いてしまったお兄ちゃん。

お兄ちゃんに対して、「もう4年生なんだから」という思いが強く、
私から一方的に、色々な事を要求していたところがある。
確かに、しっかりしてきてはいるけれど、
トイレを失敗することもある「まだ4年生・・・」な部分もある。

私からただ、一方的に子どもの手を握って引っ張っているだけなら、
子どもは目の周りの景色を楽しめないだろう。
そうではなくて、
手をつなぐ・・・私からも、子どもからも手を差し出して、お互いの手を結ぶ、
お互いに共に周りの景色を楽しみながら、
そのぬくもりを感じながら、歩んでいきたいと思った。

| 今日の出来事 | 22:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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