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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2010年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年04月

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何を「盗んではならない」のか?

目からウロコのメッセージ。

『しかし、勇気を出しなさい』(近藤勝彦著)より要約。




十戒の8番目に 「盗んではならない」とあります。
何を盗んではならないのでしょうか?

通常、他人の物品を盗んではならない、と考えます。
でも、著者はそうではない、と言います。

物品の盗難を戒めているのではなく、
人間を盗んではならない
と言っています。

第6の戒め:「殺してはならない」=人間の「いのち」を守る。
第7の戒め:「姦淫してはならない」=人間の「婚姻」、「人格的な信頼の秩序」を守る。
第9の戒め:「偽証してはならない」=人間の「名誉」を守る。
第10の戒め:「貪ってはならない」=人間の「所有」を守る。

以上のことを考えると、第8の戒め「盗んではならない」は、物品や所有物のことではなく、人間自身を奪ってはならないと言っている。

どういうことかと言うと、
人間の「生命」や「婚姻」「名誉」を守るように、
人間の「自由」や「尊厳」を守っていると言える。

十戒の内容の根幹は、冒頭の神の自己呈示にあると言われます。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(申命記5:6)

この神の歴史的な救済行為に基づいて、契約の民の中では「人間の盗み」があってはならないと言われている。
そこには、「人間は一体、誰のものか」という問題がある。
人間は、その人を奴隷の家から導き出した「神」のもの。

新約の「新しい契約」の民について言えば、
イエス様の十字架において尊い血潮が流され、それによって神の民として贖いとられた。
それほど、人間は尊いのです。

神様はイエス様の尊い血潮をもって、私を贖い出された。
その神様を知ることなしに、人間の本当の尊さを身に沁みて分かることはないのではないか?




私も、子供も、主人も、あの人も、この人も神様のもの。
だから、一人一人尊い。
そのことは、分かっていた。

ただ、「神様のもの」だったら、どうして尊いのか、と考えた事は、なかった。

イエス様がその尊い血潮を流して、私を贖い出してくださった。
そのことは、知っている。そして感謝している。

でも、そのことと、だから「私が尊い」とは結びつかなかった。

「私の目にあなはた高価で尊い」と聖書にある。
聖書にそう書いてあるから、「私は尊い」と思っていいのね、とは控えめに思っていた。

「あなたは尊い」と言われるその根本が、
私を購うために、イエス様が尊い血潮を流してくださったほどの私だから、「尊い」と、深く思い巡らしたことはなかった。

あなたは神様の目に高価で尊い」と言うことが出来ても、
は神様の目に高価で尊い」って、なんか傲慢な感じがして言えなかった。

でも、この所を読んでいて、
そうか私はイエス様がその血潮を流してくださったほどに、尊いのですね、
だから神様も「私の目にはあなたは高価で尊い」と言って下さるのですね、
「私は尊いのですね、ハレルヤ、感謝です!」って、
心を開いて言えます。

そして、それは私の周りの人に対しても言えること。

だから、その人一人一人の 自由や、尊厳、人権等もひっくるめて全て、盗んではいけないのです。

そのことは子ども達に対しても同じ。
神様のもの、神様にとってとても尊い子供。

そのことを、しっかりと子供に伝え、そこから生きる力、生きるべき方向を伝えていきたい。
そして、子ども達が生きる喜びを味わっていけるように。

| 聖書・信仰 | 21:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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聖書は・・・

新聞を読んでいて、目を疑った記事を抜粋する。

米福音派とは、保守的な信仰理解に立つ米国のプロテスタントで、
聖書を本当に「神からの言葉」であると信じ、
宗教的体験で「回心した(ボーン・アゲイン)」人のことである。
こうした信仰を人々と共有し、イエス・キリストに自らの全人生をゆだねる。
普通のプロテスタントは、聖書を「神からの言葉」とは考えないし
「回心体験」の必要性を強調しない。

これは、アメリカのリチャード・サイジックというアメリカ福音派ロビイストの記事。

「普通のプロテスタントは、聖書を『神からの言葉』とは考えない」という下りに驚いた。
それが、アメリカで行き渡っている考えなのか、彼がそう思い込んでいるだけなのかは知らない。
聖書を「神からの言葉」として考えていないのなら、何と考えているのだろうか?
文学とでも?

聖書はすべて、神の霊感によるもの(テモテへの手紙第二3:16)

と聖書に書かれている。
何をもって「神からの言葉」と考えないと言うのだろうか?

また、彼は「聖書と進化論は両立可能」とも書いている。
聖書には確かに、神様が人間を創られたと書いている。


ある事に対して、人それぞれに意見・考えの違いはある。
でも、聖書を「神からの言葉」と考えない、と言われたら、「それは違うでしょ」と言いたい。

| 聖書・信仰 | 09:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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神の前に豊かになる

図書館で聖書関連の本を借りることは殆どなかった。
先日、偶然目にしたタイトルに引かれて借りた本が、「当たり」だった。
と言っても全部読んだわけではないけれど。

『しかし、勇気を出しなさい』(近藤勝彦著)
様々なテーマでメッセージが簡潔に書かれている。
読みやすく、新たに教えられることも多くて、お薦めです。

100319_1835~01しかし、勇気を出しなさい―福音の倫理的力
(2004/06)
近藤 勝彦

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まだ読み始めたばかりですが、「貪欲の底にあるもの」より要約します。




ルカによる福音書12:13~21の「ある金持ちの豊作」よりのメッセージ。

財産を持ち、所有物を持つ、それはお金や評判、地位や名誉であることがある。
それが、「貪欲」「むさぼり」に転じるのは一体いつからなのか?
何によって神の前の豊かさでなく、むさぼりの富になるのか?


と問題提起されています。

御言葉(ルカ12:15)に
「その人のいのちは財産にあるのではない」(新改訳)
「人の命は財産によってどうすることもできない」(新共同訳)
「たくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらない」(口語訳)
とある。

人間がしばしば間違えてしまうのは、
財産により、あるいは仕事の成果によって「命をどうにかしよう」としてしまう。
自分の持っているもので自分の命を確かにしようとする。

どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?
それは、「人の命はどうすることもできない」ということでは不安があるからです。
安心がないのです。魂に安息がない。
そこで「財産をしまいこむこと」によって自分自身に言いたいのです。
「安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と。

「貪欲」の底にあるのは、この「魂の不安」ではないかと思うのです。
「魂の不安」=「人間の心は拠り所を求め、憩いを求めている。確かさを求めている」 、「生きる意味や生き甲斐を求めている」
この「魂の不安」は誰にでもあるもの。

問題は、何によって「さあ、安心せよ」と言えるのか、ということ。

自分が何を持っているかということに頼って、「安心せよ」と言うなら、
その人は今自分が持っているものに必死にしがみつかなければならなくなる。
それが、「貪欲」の始まり。

財産や評判、地位を持つことで人生を安心させよう、生き甲斐を求めるなら、
「何かを所有していることに生き甲斐がある」ということにもなり、
「もっと大きな私の財産、所有物」を持つことに夢中になります。
私の」でないと「生き甲斐」にならないのです。

でも、この所有物にしがみつく生き方では、結局のところ魂は休めない。
なぜなら、持っている物はいつかは必ず失われるからです。
自然に失われるか、あるいは社会的に失われる、つまり奪われる可能性があります。
いつかは失われるものにしがみついていて安心ができるはずはありません。

大切なのは、イエス様が言われるように「神の前に豊かになること」です。
不安のために財産や地位にしがみつくのではなく、
「人の命をどうするか」は神のなさることと、神様に信頼して委ねること。

何か物を得る、所有を豊かにする度に、また仕事の成果を得る度に、
その成果を本当の意味で与えてくださった神に感謝し、神に依存し、
神によって生きている思いを深くするのです。

神に赦され、神に受け入れられた喜びが、
世間体やメンツよりも、はるかに大きく、はるかに深く、
私たちを生かしているでしょうか。

「神の前に豊かになる」というのは、ただひたすら豊かに受けるだけではなく、
主の愛によって豊かにされたものが、
与えられた財産や仕事の成果をどう使用するか、どう用いるか、どう捧げるか
ということの中にも現れてくるのではないでしょうか。

「私の所有を貯める私の倉を大きくする」のではなく、
「神を真の生き甲斐とし、神の前に豊かに生きる」、
これが私たちを救うとともに、時代を救う生き方ではないでしょうか。



ここまで深く掘り下げて、聖書に聴くことができたらなぁと思います。

全くの余談ですが、この本をちらっと見て、息子が一言・・・
「これ、マッチが書いたの?」

(近藤勝彦と近藤真彦、似ているからね・・・)

| 聖書・信仰 | 19:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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主を仰ぐ

『いと高き方のもとに』(オズワルド・チェンバーズ著)より抜粋

あなたの心の内に、測り知れない深い悩みの井戸があるとする。
そこへイエスが来られて、
「心を騒がしてはなりません」と言われたなら、あなたは、
「しかし主よ、井戸は深いのです。
 あなはたこの井戸から、平安と慰めとをくみ出すことはできません」と言うだろう。
しかし、イエスがこれらの平安と慰めを、上から注がれることに気づくべきである。

イエスは、人間の性質の井戸から何かをくみ出そうとはなさらない。

私たちは慰め主なる方のもとへ行こうとはするが、
全能者なる方のもとへ行こうとはしない。

私たちが福音の力に限界を覚えるのは、
キリストが全能者であることを認めていないからである。
過去の信仰体験は握っていても、
イエス・キリストに自らをゆだねていないのである。
困難に出会うと、深みに下って行き、自分で水を得ようともがく。
しかし、主を見上げるなら道は開ける。



サマリヤの女性とイエス様のくだり、何回も読んでいるけれど、いつも簡単に読み過ごしていた。
こんな深いメッセージが秘められているとは、気づきもしなかった。

| 聖書・信仰 | 19:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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