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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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『五体不満足』を読んで

ある方のブログを読んで、初めて読んだ『五体不満足』

五体不満足五体不満足
(1998/10/16)
乙武 洋匡

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乙武さんのことは知っていた。
この本のことも知っていた。
漸く、今になって初めて読んでみた。


まず、書き留めて起きたい言葉・・・

「今だけかわいがってやることは、いくらでもできる。だが、この子はいつかひとりで生きていかねばならない。その将来を考え、今、何をしてやることが本当に必要なのかを考えていくのが、私の役目」(著者の小1~4の担任の言葉)

「できること」と「できないこと」をしっかりと区別しなければならない。

お互いの「違い」を「持ち味」として生かす・・・

「障害者」を生み出しているのは、紛れもなく、環境の不備なのだ。




障害の程度としたら、重度の障害であるにも拘わらず、明るく、力強く前向きに生きている。
本には20年近く、自分が障害者だとは感じなかったようなことを書いていたけど、
でもどこかの段階で手や足のないことに、不便さを感じたことはあるのではないだろうか。
でも、本当にポジティブに生きている。
それは、友達や先生に恵まれたこともあるだろう。

「心のバリアフリー」に貢献していきたいという著者に、エールを送りたいと思う。


ただ、読んでいて思ったのは、彼のように見た目にはっきりと分かる障がいを持っている場合と、
発達障がいのように、見た目には分からない障がいでは、理解度が違ってくると、私は思う。


『子ども力 母親力』という本にこんな一節があった。

たとえば風邪をひいて熱を出して学校を休んでいるときに「怠けている」とは言わないけれど、
不登校は心の風邪にもかかわらず、そういうふうにならない。

足を骨折している人に「走れ、走れ」と言う人は誰もいないけれど、
心が四十度の熱を出している、心が複雑骨折している状態のときに
無理矢理走らせようとするのはあまりに酷ではないでしょうか。



見た目に明らかな時は、無理強いはしないだろうし、あたたかな言葉もかけやすい。
でも、目に見えないことには、案外厳しいことをしたり、要求してしまったりするのではないだろうか。

勿論、甘やかすだけではいけない。厳しさも必要だ。
ただ、身体的な傷でいえば、骨折はしているような場合でも、それが目に見えないが故に、走れ、走れ、さあ走れ、と追い打ちをかけてしまうことがあるのではないだろうか。

あるいは、逆に、表だって見えないが故に、見えてないことを理由に、受けられるはずのヘルプや理解を受けることができないこともあるのではないだろうか。


「障害を言い訳にしない」と著者は言う。
私もそう思うし、子供を育てていく上で、障がいを言い訳にしたくないなと思う。
でも、「できること」と「できないこと」を考えていく上で、あるんですよね。

| 本・人生、啓発 | 15:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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とらえ方の違い?

昨日、音楽の授業の出来事を書いた。

http://lovematchy.blog59.fc2.com/blog-entry-547.html


音楽の授業中に起こったことについて、子供に聞いた。
担任が書いてある通りの行動はとっていたが、
それには彼なりの理由があって、そのことを担任に伝えた。

そして、連絡ノートにあった担任のコメント。

  支援に入った人の話とは合致しないところがありますが、
  とらえ方のちがいなのでしょうね。



とらえ方の違い

当の本人が、担任から伝えられている自分のとった行動を、否定せずに認めた上で、
その時の気持ちをはなしているのだから、
とらえ方の違い、というものではないと思う。

ただ、その時一緒にいた支援員の背景認識の欠落ではないのかと思うのだけど・・・


発達障がいを持った子供の言い分は、認めてもらいにくいのか・・・

「とらえ方の違い」との言葉には、ちょっと悲しいものがあった。
信頼している先生であるが故に、なお・・・

| 発達障がい | 20:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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神のわざがこの人に現れるためです

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
 この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
 神のわざがこの人に現れるためです。」
(聖書:ヨハネによる福音書9:1~3)


私は聖書のこの箇所が好き。
人間的な目で見たら、悲しいと思える出来事、どうしてこんな事が……って思える出来事の中にあっても、神様は働いておられる。

ある牧師がこの箇所でこんな風に語っておられる。

この一節をあえて解釈するなら、
『目が見えなくても何も悪いことはない。何も世を憚ることはない。
 生まれるべくして生まれた人なのだから。
 そして、この人を不幸にしているものがあるとすれば、目が見えないことではなく、
 周りの人々の偏見であり、差別だ』ということです。
自分や人を不幸にするのは、障害や病気でありません。
それぞれの胸に潜む偏見、差別、頑なな心がそうさせているのだと思います。
神は、私たちの中にある偏見、差別、卑屈な思いを見つめて、これこそが人を不幸にしていると知り、「不幸感」から解放されるチャンスを与えてくれているのではないでしょうか。



その人が障がいを持っていても、持っていなくても、
その人は、生まれるべくして生まれた。
神様がそのように意図されて創造された。

でも、だからと言って、悩みや心配事がなくなるわけではない。
いつもどこかに、あるんです。

そして、そこから解放されたいと思う。
そのために、どうするか。
忘れる、なかったことにする、愚痴る・・・
一時的な解決にはなるかもしれないけれど、正しい対処法ではない。

でもクリな私だけど、これが起こることをよしとされた神様は、何を私に教えようとしているのか、私に何をせよと言われているのか、そのことに思いを馳せたいと思う。


お兄ちゃんのことで、5年生になってから、何かとトラブルが起こっている。
悲しくなるようなこともあった。
もっと理解してほしいなって思う事も。

ただ、どうして、今のこの時期に、立て続けにこういった事が起こるのを、神様が許されているのかと思うと、
私が何かとても大事なことを見落としていて、それに気づかせようとしている、
あるいは、
お兄ちゃんのこれからの事をもっとしっかりと見据えていくために、見逃してはいけない事を教えようとしている、
そう思える。


お兄ちゃんのことに関して言えば、
今は、周りの状況でお兄ちゃんの言動が大きく影響されている。
だから、環境に拘わらず、落ち着いて行動がとれるようになればと思う。

ただ、そうするのが難しい、というのが特性でもある。
だから、今まで何度となく伝えてきていることが、出来ないでいる。

ただ、どんな環境でも動ぜずに行動できる人も、大人と雖もそう多くはないと思う。

環境が変わっても、少しでも気持ちよく過ごせるように、
手抜きせず、諦めず、しっかりと、お兄ちゃんに伝えていこう。



ずぼらな私が、漸く動き始めたのかな。

『苦悩は活動への拍車である。そして活動のなかにのみ、我々は我々の生命を感じる。』(カント)


『子供は神さまからの預かりもの。どの子のなかにも神さまがいて、どの子のなかにも宝物がいっぱい詰まっている。』(山谷えり子)

我が子も、あの子もこの子も、その宝物が輝き出でますように。

| 発達障がい | 15:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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音楽の時間に、また問題発生・・・

お兄ちゃんの連絡ノートに支援学級の先生から今日の様子が報告されていた。

音楽の時間、早めに音楽室に行った のん とA君(同じ支援学級の児童)が教室で隠れんぼをしていたから、音楽の先生が注意した。
すると大声で「輪唱しない」と言い出した。
またプリントを破ったり、物を床に投げつけた。


最近、音楽室でのトラブルが2回程あったので、支援学級の担任も音楽の授業のことが気にかかっていたようだ。(音楽の授業には支援学級の先生はついていかない)

上の報告は、おそらく音楽の先生から伝えられたようである。

で、連絡ノートを読んで、お兄ちゃんに聞いてみた。
そしたら、また状況が違っているのだ。

隠れんぼをしていたのは、お兄ちゃんだけ。で注意されたことに対しては、腹が立ったということはない。

「輪唱しない」と言ったのは、グループに分かれて輪唱することになっていて、グループに入れなかったから、「輪唱しない」と言ったと言う。
グループ決めを先生がしたのではなく、子ども達で決めたらしく、どのグループに入ればいいか決めることが出来なかったし、誰も「入ったら」と言ってくれなくて、結局、グループに入れなかった。
だから「輪唱しいない」と言った。

プリントを破ったのは、お兄ちゃんには必要ないと思ったから。先生が「プリントを必要な人は手を挙げて」と言った。
僕には必要ないのに、プリントが配られたから、破った、と。

物を床に投げつけたのは、授業が終わってから、ある男児に「失格」と言われて、それで腹が立って、物を床に投げつけたという。


連絡ノートを読んだ時は、「また音楽の授業でトラブルか・・・」って思った。
でも、お兄ちゃんの話を聞いたら、ノートに書いてある事とはいささか違っている。

お兄ちゃんがとった行動を一つ一つ、個別に取り上げたら、行動自体は確かに、お兄ちゃんがとったこと。
でも、その背景には、お兄ちゃんなりの理由がある。
そして、その背景部分が完全に欠落して、支援学級の担任に伝えられていた。

それも、仕方のないことなんだけど。
支援学級の担任でもない限り、背景部分を読み取れたり、読み取ろうとする余裕は持ちにくいと思うから。

お兄ちゃんには、今日の音楽の授業で「問題行動」と思われたことに関して、どんな言動をとればいいのかは伝えた。

ただ、お兄ちゃんの話を聞く限り、理由もなく「問題行動」を起こしたのではない。
「困った」から、その困り感故に発生した一連の言動。

お兄ちゃんは、「困って」しまった。
でも、それをその場ですぐに、適切な言葉で表現できない。
だから、その「困り感」を取り除く、一番手っ取り早い方法を選んだ。

言葉による適切な言い回しが出来ない。
また、「入れて、止めて」が言えない。
それが原因で、発生している問題が多い。
それをきちんと言えるように、って思うし、折に触れて、どんな風に受け答えをすればいいのかは教えているつもり。
私の伝え方が十分でないことは勿論あるけれど、そうすんなりと出来ないのがお兄ちゃんの特性でもあって、どのあたりで折り合いをつけるか、つけてもらえるのか・・・。

当然出来るはず、と思われることが出来ない。
でも、だからと言って、やっていないわけではない。
やろうとしているのだ。
ただ、なかなかそれが上手くできない。


お兄ちゃんが超えていかないといけないハードルかもしれない。
ただ、ほんのもう少しでいいから、理解を求めることは難しいのかな?

| 発達障がい | 21:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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よかった探し

中学生の頃だったか、高校生の頃だったかはっきりとは覚えていないけれど、
日曜日夜のカルピス劇場で「ポリアンナ物語」が放送された。


確か初めてみた時は、こんなストーリーだった。

貧しい牧師の娘のポリアンナ。
お母さんが亡くなった後も、お父さんと二人で住んでいた。
でも、そのお父さんも、亡くなってしまう。
そして、お金持ちのおばさん(お母さんのお姉さん)のお家に引き取られていく。

とても素敵なお家で、ポリアンナはこれから自分が使う部屋は「この素敵な部屋かな」ってワクワクしながら、おばさんの後をついていく。

でも、「この部屋よ」と言われた部屋は、屋根裏部屋。
最初、ポリアンナは、他にもっと素敵なお部屋があるのに、どうして・・・って悲しむ。
でも、「この部屋からは素敵な景色がみえるわ。よかった!」


ポリアンナ、人ががっかりしてしまうようなことにでも、「よかった探し」をする。
「よかった探し」、それは、お父さんが教えてくれたこと。
そして、初めはポリアンナにきつく当たっていたおばさんの心を変えていく。


「よかった探し」・・・やってみよう。
ともすれば、不平・不満が口に出やすい。

出てしまってもそれは、仕方ないかもしれないけれど、
その後に、「でも、やっぱりよかった」って言える私になりたい。




| ひとりごと | 21:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「障がい」って何?

お兄ちゃんの学校での出来事を通して、今、「障がい」って何なのか、自分はどう捉えているのか、考える時かなって思う。

mixiの方で、こんなコメントを頂いた。

誰だって好きで不自由な場所を持っている訳ではなく病気や怪我が原因でありまたは生まれつきの人もいるでしょう。
それをみんな克服しようと努力している訳で
出来ることをやらないのは怠慢
やろうとしても出来ないのは怠慢じゃない
出来ないことを出来るように努力する姿勢が大事な訳で
一回で出来るようになる人もいれば十回かかる人もいる


このコメントを読んで、確かにそうだなって思った。

やろうとして出来ないのは怠慢じゃない。
やろうとしている。
そして、出来るようになるには、何十回もかかることもある。
もしかしたら、出来ないままでいることも。
でも、何かが出来ないからといって、他の全てまでもが出来ないわけではない。

これは出来る、でもあれは出来ない。
そして、それは誰にでもあること。
そんな時、「ああ、この子は、これは苦手なんだな。でも、あのことはうまいことやってるよね」
って、そんな認識ができればいいのにって思う。




また、ブログにこんなコメントを残してくださった方がおられます。
「人と比べる目線を、自分の中を見つめることに変える勇気があればと思います」

まず最初に、自分を見つめるなら、安易に人を中傷するようなことって言えないと思う。
でも、自分を見つめるより先に、人の目に付く何かを批判・中傷してしまう。
きっとその方が楽だからなのだろう。




「障がい」って何だろう?

人によってその定義は色々だろう。

敢えて言うなら、私は「障がい」と言うのは、人にあるのではなく、その周りというのか、環境というのか、そういうものにあるのだと思う。

例えば、目の不自由な方が外に出かけたときに、点字ブロックや横断歩道での音がなければ、歩く時に、色々と困難を覚えると思います。
でも、その困難を取り除くために、点字ブロックなど、周りの環境を整える、そういったことで困難が取り除かれる。


そしてまた、人を見る一人一人の思いから出てくるもの、かなと。
誰かと比べて、あいつは違う、って思うならば、そう思う本人が「障がい」を作りだしている、って。
その違いを特性(個性)と捉えることができたらいいのに、どこか、その違いをいけないもの、マイナスなものと捉える傾向が往々にしてあると思う(大人の社会もそうだと思いますが)。

でも、人間一人一人、神様が創られた存在だし、「それを見て、よし」と言われたのだから、神様の目から見たら「障がい」なんてないんです。
人間が作りだしたものに過ぎない。





佐藤暁氏が『自閉症児の困り感に寄り添う支援』の中でこんなことを書いておられる。

弱いものは弱い、それではいけないのか。強さを欠いた残り物が「弱さ」なのではない。ピアニシモな旋律がそうであるように、「弱さ」も、それ自体あっていい。

 よく指摘されることだが、現代の社会は、自閉症の子供達の障害を、異質なものとしていっそう際だたせてしまった。そしてそのことは、こうも言えないか。この社会のしくみが、この子たちの「弱さ」を、それをそれとして認めないようになってしまったと。




人の目には「障がい」と見えるものを、持っているかもしれない。
どこか「弱さ」があるだろう。
でも、だからと言って非難・中傷される筋合いはない。
自分の出来ることを、精一杯やって、頑張って生きている。
その子は親にとっては、あたたかな何よりも大切な大切な宝。


私にも、あなたにも、神様は言われる。

私の目には、あなたは高価で尊い。(聖書 イザヤ書 43:4)

| 発達障がい | 19:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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♪You Are The Love Of My Life

心に深く深く染みいる賛美です。



You Are The Love Of My Life
I knew it right from the start
The moment I looked at you
You found a place in my heart

You Are The Love Of My Life
You give me reason to live
You taught me how to be strong
With you is where I belong

No one's ever touched me
Quite the way you touched me
People search a life time
To find what we have

You Are The Love Of My Life
One thing that's good in this life
I'll spend the rest of my days
Just loving you

You Are The Love Of My Life
The heart and sould of my life
Once I was lost and alone
With you at last I am home

You Are The Love Of My Life
You give me reason to live

You give me so much of you
And leave me room to be free

No one's ever touched me
Quite the way you touched me
People search a life time
To find what we have

You Are The Love Of My Life
One thing that's good in this life
And in a world full of change
One thing I'm sure of

You Are The Love Of My Life
The one thing that makes sense in this world
I'll spend the rest of my days
Just loving you...

You Are The Love Of My Life
And I thank GOD I'm alive
To spend my lifetime with you
You Are The Love Of My Life

| 賛美 | 08:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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お兄ちゃんのこと

昨日、お兄ちゃんの学校での新たなるトラブルのことを知った。
そして、お兄ちゃんに対し「しょうがいしゃ」と言い放つ児童がいることを知った。

支援学級の担任に手紙を書いて、子供に持たせた。
でも、やっぱりこういうことはクラスの状況について、しっかりと先生に話を聞いた方がいいと思い、今日、支援学級の担任と話してきた。

私が感じていることと、支援学級の担任が感じていることが一致していた。
何かと言うと、お兄ちゃんに対する、交流先の一部の児童の風当たりが「きつい」ということ。
交流先には、同じ支援学級の男児がもう一人いるのだけど、その子への対応と比べると、お兄ちゃんに対しては、明らかに「きつい」と。

お兄ちゃんは、思った事をそのまま口にしてしまう傾向がある。
本人には悪気はないし、自慢するつもりもないのだけど、とにかくそのままストレートに何でも言ってしまうので、そういった物言いが、ある一部の児童には気に入らないのかもしれない。


先日、英語の授業の時に、アメリカ人のALTが子ども達に20ドル紙幣を見せた。
その時に、お兄ちゃんから順番に見て、順次後ろに回していったという。
で、ある児童が紙幣の上の一部分が少しだけちぎれていたのを見つけた。
すると、その児童が「これは、きっと一番初めに見た人が破ったに違いない」と言い、
一番初めに見たのは誰か・・・とみんなが見ると、お兄ちゃんだったわけで、
「○○君が破ったんや」 と言われたそうだ。

お兄ちゃんは「僕は破っていない」と言った。
担任も誰が破ったかなんて証拠もないし、始めから破れていたかもしれないし、そんなことを言わない、と叱責してくれたそうだ。

でも、お兄ちゃんは、疑われたことにかなり傷付いたらしく、次の音楽の授業にすんなりと入っていけなかったという。


とにかく、今、あれやこれやと交流先のクラスで問題が出始めている。

そういった状況を考えたときに、お兄ちゃんのことをみんなに話した方がいいのだろうか、と支援学級の担任と話した。

ただ、「発達障がい を持っています」という形で話すのではなく、
こんな面が弱い、苦手です、とそんな感じで話した方がいいのかなと思っている。

また、「障がい」ということについても、誰でも、状況設定によっては、「障がい」を持ちうることを話したいとも思っている。


子ども達に、分かりやすく説明できるように、何をどんな風に伝えるのか、しっかりと考えていこうと思う。




先日、ナイチンゲールのこんな言葉を知った。

天使とは、美しい花をまき散らす者ではない、苦悩する者の為に戦う者の事である。

この言葉が何度も心の中で反響している。

| 発達障がい | 20:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「ぼくは しょうがいしゃ じゃないのに・・・」

5年生になり、クラス替えがあってから、お兄ちゃんにトラブルが続いている。

昨日、腕に油性マジックで「正 一」という字が書かれていた。
「どうしたの?」と聞くと、
「N君が書いた。僕はすごく嫌だった。」

「止めて」と言えないお兄ちゃんだけど、嫌なことをされそうになったら「止めて」と大きな声で言おうね、と伝えた。

それだけで、相手が止めるとも思えないけれど、言わないよりはいいかなって思う。

そして今日。
「M君が、僕の頭を踏んづけた。すごく嫌だった。」
 (こめかみの辺りを両手で押すしぐさをする)
「えっ? のんは寝転んでいたの?」
「隠れようと思ったけど、間に合わなかったんだ」
「隠れようとしていたの? どうして?」
「暴力を受けたくないから・・・」
「誰か意地悪をするの?」
「ん。M君とか他にも・・・」

どうも話からすると、教室の後ろにある机の下に隠れようと思ったけど、間に合わなくて、寝転んだ状態になったときに、M君にこめかみの辺りを足で踏みつけられたようだ。

それって、いじめ?

その後、お兄ちゃんに他にも嫌なことないの? と聞いて見たら・・・


「僕のことを、しょうがいしゃ しょうがいしゃ って言うの。
 僕は しょうがいしゃ じゃないのに・・・」

この言葉を聞いて、私は泣きそうになった。

確かに、お兄ちゃんは、発達障害を持っている。
定型発達の子どもと比べたら、幼いところもあるし、言語理解も足りない面がある。
だからと言って、「しょうがいしゃ」と侮辱や軽蔑を受けるいわれはない。
「しょうがいしゃ」と叫ぶその子は、何でも完璧にこなすのか?
出来ないことはないというのか?

人を平気で傷つける言動をとる定型発達の子どもよりは、
発達障害があっても、優しい、人をわざと傷つける言動をとらない子どものほうが私は好きだ。

お兄ちゃんが、脳機能的に障害があるとしたら、
「しょうがいしゃ」と人を侮辱する子どもは心機能的な障害者だとあえて言わせてもらいたい。


発達の遅れと人格とはまったく別です。
人格を良くするも、悪くするも、発達に遅れがある、ないと関係なく、周囲の環境、親の育て方に関係があることで、遅れがあると困るとか、恥ずかしいとか考える必要はないと思います。
たとえば、どんなに勉強ができたって、人間的に誰からも相手にされないし愛されない淋しい人もいるし、発達の遅れがあっても、周囲から信頼を受け、愛される人はいっぱいいるんですよ。
もし遅れがあって、どこかしら人から認められにくいものがあるとすれば、発達の遅れがあるからそうなったのではなく、ひとりの人間としての魅力が足りないからかもしれません。。
でもそれ以上に、見つめるほうの人に、度量の狭さが問われることが多いのではないですか。

(『発達に遅れのある子の親になる』より抜粋)

| 今日の出来事 | 18:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平田昌広さんの絵本

『かあちゃんのせんたくキック』で平佐昌広さんの絵本を知り、2冊借りてきた。
笑えるし、優しい気持ちになれた。
子ども達も気に入ったよう。

また好きな絵本作家が増えました。


おとんおとん
(2008/06)
平田 昌広

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お父さんをのことを色々な呼び方で言ってみたら・・・

「亭主元気で留守がいい」って思うこともあるかもしれないけれど、
お父さんと子どもが一緒に読んだらいいなって思う。





おかんおかん
(2009/04)
平田 昌広

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上の『おとん』と同じようなスタイルかなって思っていたけど、違います。
私的には『おとん』より楽しめた。
そして、「ああ、あるある、こんなこと」って、笑って読める本。
大阪弁で書かれていて、私にはそれも読みやすかった。




かあちゃんのせんたくキックかあちゃんのせんたくキック
(2003/04)
平田 昌広

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動かなくなった洗濯機をキックでなおす「かあちゃん」。
「かあちゃん」は他にも色々なものをなおしていく。
そして、「とうちゃん」はどうやって・・・?
これも笑えるんだけど、暖かい気持ちにさせてくれる。


平田昌広さんの絵本いいですね。

ウェブサイトがありました。

平田昌広と平田景のホームページ

| 本・絵本 | 20:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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