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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

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思い出すフランクルの言葉

最近、柳田邦男さんの著書を何冊か読んでいる。
ある人にはまると、その人の著作を立て続けに読むのが私のくせ。

その柳田邦男さんの著書でよく目にする言葉がある。
彼に限らず、他の著者の本でも目にしたことがある、ある一節。

そして、私もまたその一節を折に触れてふと思い出すときがある。


人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。


フランクルの『夜と霧』からの一節。
この言い回しは、彼の『それでも人生にイエスという』にも出てくる。

「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。
 今ではもう、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。



ここを引用して、柳田邦男さんはこう続けている。

つまり、人生が何かいいことを用意してくれているかもしれないという受け身の甘い考えしか持てないようでは、先がない人生には絶望しかない。しかし、自分が避けられない死への限られた時間と最悪の状況下に置かれていても、自分なりに何かを為して人生の歩みに創造的な何かを加えようとするならば、精神的に崩れることもなく最後まで生き抜けるというのだ。フランクルは暴虐と飢えと衰弱のなかで、そう気づいたという。



本を読めば、心に響いてくる、色々なことばに巡りあえる。
その中でもフランクルのこの言葉は、ドスンと響いてきた。
忘れっぽい私が、この言葉は忘れないでいる。

次のこの言葉と共に。

 人間はあらゆることにもかかわらず-
 困窮と死にもかかわらず、
 身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、
 また強制収容所の運命の下にあったとしても-
 人生にイエスということができるのです。



過去記事 『それでも人生にイエスという』  『夜と霧』  『生きる意味を求めて』

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