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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2011年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年10月

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9/30 朝日新聞「池上彰の新聞ななめ読み」より

今日の朝日新聞に池上彰氏のコラムがありました。

「鉢呂発言 安易な批判で問題隠すな」

・・・「死の町」と発言したことに飛びついて批判するマスコミの多くは「いつ死の町でなくなるのか、いつまでも死の町なのか」という重大で深刻な問題に向き合うより、発言者を批判するという安易な道を選択したのではないか。
 鉢呂発言を受けたマスコミがすべきなのは、「人が住めるようになるのはいつか、もし住める展望がないなら、それを住民に告げるべきではないか」との問いを政治家や行政に投げかけることではないでしょうか。そうでないと、住民は今後の生活設計が立てられないからです。
 深刻な事態はなるべく見ないようにして、それにふれた発言だけを問題にする。これでは、事態に正面から取り組む人は出来ません。結局は事態を解決することを遅らせることになりませんか。



鉢呂氏の発言に対するマスコミの姿勢については、本当にあきれたというのか、言葉は悪いけれど、バカじゃないのかと思いました。
また、この一連の報道に関して、池上さんはどんなふうに思っているのかなと、その思いを知りたかったのですが、その答えを知ることが出来ました。
多くのマスコミ報道のように、「けしからん」というお考えではなかったことに、さすがだなって思います。

今日のこの池上彰氏のコラムを読んで、その通りだと多くの人が思ったのではないでしょうか。
マスコミ、ジャーナリズムの使命が何なのか、少なくとも、誰かの発言の揚げ足取りではないことだけは確かだと思います。

東日本大震災以降、日本の色々な姿があぶり出されているように思うのですが、自分が思っていた以上に、本当は危険な国ではないのか、そんな思いがよぎるのです。


世論誘導のために情報操作。
保身のために情報隠避。

一番間近では、陸山会事件判決に見られる法曹界の堕落。
(男を女に変える以外なら、何だってする、という人もいます。)


考え過ぎならいいのですが・・・。
実際のところ、どうなのでしょう。

| 新聞記事 | 19:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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雑草

雑草とはなんだろう。その美質をいまだ見出されていない植物である。

What is a weed? A plant whose virtues have not yet been discovered.


アメリカの思想家・哲学者エマソンの言葉。
今日初めて知りました。
いい言葉だなって思います。


子どもの、隠れている美質を見出し、引き出していける母でありたいな、と。


雑草で思い出す言葉がこれ。
踏まれても踏まれても、負けない雑草になれ
リンゴの無農薬・無肥料栽培がなかなかうまくいかない木村さんを、励ましたお母さんの言葉。

踏まれても踏まれても負けない、そんな強く生きられる人間に、と子を思う親の気持ち。


ただ、みんながみんな強く生きていくことができるわけでもないと思います。

子どもが自殺してしまった、ある母親の言葉・・・
強く生きる子をつくることばかりでなく、弱い子もいきられる社会を残してください。
 どうやったって、強くなれない子は出てくるのです。



親としては、踏まれても踏まれても負けないような人に成長して欲しいとは思いますが、でも、この母親の言葉も忘れてはいけないと思います。
強い子もいれば、弱い子もいる。
色々な人が集まって社会ができている。

格差社会、弱肉強食、競争原理至上主義社会の日本だと言われます。
でも、多くの人はそんな社会を望んでいないと思います。
望んでいるのは、人間が人間らしく生きていける社会、助け合い、補い合える社会、誰も排除されない社会。

ただ、そんな社会は黙っていて、自動的に作り上げられるものでもない。
どんな社会に生きたいのか、どんな人生を歩んでいきたいのか、そんなことを考える、今はまさしくそんな時なのではないか・・・。


雑草にも隠されている美点があるんだよ、とそんなゆとりとでもいうのでしょうか、欲しいな。


(『格差社会をこえて』暉峻淑子著 を参照しつつ・・・)

| 心に響いた言葉 | 21:50 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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あなたのおかげで

あなたのおかげで
 また今夜も
  笑って
   閉じられます。
日記帳--。


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子どもが寝る少し前に、とても些細な事で子どもを叱ってしまった。
それが何かは書けないほどに、あまりにも些細なことでした。

ごめんね・・・

寝る前にフォローはしたけれど、今でも痛むな、心。
私がそうだとすれば、子どもはなおさら・・・。


自分を励ましてくれる言葉が無性に欲しくなって、本を開いてみたら冒頭の言葉。


色々な事があった一日だけど、笑って終われるよ・・・。
そんな思いをプレゼントしていきたいな。


そんな風に、全ての人が一日を終えられるなら、それが平和なのかな。

たしかに
人間だけの宇宙ではありませんが
そこは
まちがいなく
あなただけに与えられた
場所ですよ。


置かれているこの場所、この時を大切に。

| 心に響いた言葉 | 20:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『希望は絶望のど真ん中に』

「ジャーナリズムはとうにくたばった。
 死んだものは生き返らせることはできないけれど、
 ジャーナリズムを死なせてはおけば社会そのものが死んでしまう。
 だからみんなで大奇跡を起こしてジャーナリズムを生き返らせるためにいのちがけでがんばろう……」


1991年に開催された新聞・放送・出版・写真・広告の分野で働く800人の団体主催の講演会で、今現在96歳になるジャーナリストの むのたけじ氏が語った言葉です。
むのたけじ、この本で初めて知った方です。

本の題名に引かれて読んだのですが、96歳とは思えないパワーに満ち、引き込まれるように読みました。
題名からすると哲学関係の本かと思いそうですが、そうではなく、人類発生の頃から現在までを振り返りながら、人間にとっていちばん大事なものはなにかをとても熱く語っています。
お薦めです。

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世界中の新聞社、放送局、出版社の一か所でもほんものが生きていたら、世界中の人びとはとうに一つの重大な会見ニュースに接していたはずだ、と むの氏は言います。

何でしょう。

それは、
アルカイダのミスター・ビン=ラディンの会見だと。

しかし、彼はアメリカの兵士たちによってさつ害された。
そういう事態になる可能性があったからこそ、ジャーナリストがビン=ラディン氏とじかに対面して、彼の言い分を世界中に伝えねばならなかった、と書いています。

ビン=ラディン、彼はテロリストと、アメリカ側の世界からは呼ばれていました。
私たちに伝わってきたのは、アメリカ側から見た言い分だと思います。
彼の行ったテロ行為は決して許されるべきものではないと思います。
ただ、彼の行為を断罪するのならば、例えば、パレスチナ問題で、多くの一般市民がその命を奪われているけれど、イスラエルの行為を黙認しているアメリカはどうなのでしょう。

筑紫哲也氏が広河隆一氏の写真集に寄せた言葉に

9・11の前にもあとにも、もっと多くの「罪もない人々」が殺され続けた。
彼らについては、9・11のように個々の物語が語られ、メディアの脚光が当てられ、大々的な追悼行事が行われることはない。
アメリカ人もアフガニスタン人もパレスチナ人も、生命の価値は同じはずなのに、ここには不当といってよいほどの情報の「非対称」が存在する。


というのがあります。
ジャーナリズムが本当に生きているのならば、不当なまでの「情報の非対称」というものは存在しない。
そういうことに思い至らないほど、私は考えることをしていませんでした。


ジャーナリズムの本質について、むのたけじ氏の言葉です。
ジャーナリズムは、私の考えでは(中略)個体と全体をつなげる絆の大切な一本です。世の中の続発する動態についてその原因と過程と結果を明らかにして、さらに一つの結果が次の新しい原因となる筋道を明らかにする作業、これが何よりの任務です。

でも、どうなのでしょう、日本のジャーナリズム。
日本の情勢は、ますますこんがらがっていっているような気がします。

日本のジャーナリズムについては、多くの人が原発事故を通して感じていると思いますが、ただ、お上の言うことを、ほとんど検証することなく、そのまま繰り返す、スピーカーに成り下がっている。

情報産業の株式会社たちはますます休息に本来の性質や任務から離れていっていき、そして社会情勢はますます深刻な苦悶を増やしていく。
世の中のそういう空気を吸いながら、ひとりのジャーナリストとして自分の任務を果たしたい、果たさねばならぬという思いを高ぶらせてきた。


そんな思いをこめて、この本を書き進められていかれたようです。




むの氏は今の日米関係は間違っている、と。
それは一対一の関係ではなく、日本は合衆国政府にとって「ステート・ナンバー51のサーバント」だと述べています。

吉田茂内閣このかた歴代政府の大部分を担当してきた保守主流の政党は(中略)実際には合衆国の威光をカサに着て、自分らの利益中心に働いてきた。
国民の生命や仕事や家屋敷や田畑などを安全に守ろうとする誠意も熱意も全くいい加減だったことが、自然の災害のたびにむき出しにされてきた。


原発事故が起こるまでは、そんなこと思ったことはありません。
でも、今はそう思います。
政治家たちが伺っているのは、アメリカの顔色。

最近、こういった話をちょくちょくネット上で目にするようになったので、書きとめました。




本から少し抜粋。

 教育という営みは、教えて育てているなんていう無礼な行為ではない。
教育行為はまさに引き出す情熱、その努力から始まる。
若者たちの内面にあるものを丁寧に引き出して光を当てて、吟味して改めるべきものを改めながら、あらゆる可能性を存分に伸ばして育つようにする、それが教育の本質です。

 戦争を始めて、すでに何千年も続けてきている。なぜですか。もしかしたら地球を壊すかも知れないほどの爆弾を作ったのは、何のため何故ですか。この問いを人びとが自分で自分自身に突きつけて答えたら、後悔をしないで済むのではありませんか。

 私たち人間みんなが人間らしく生き、喜べる世に造り変えたい。そのための根本の仕事は何か。この世から戦争をなくすことだ。人と人が大量にころし合う状態を許して、それを正当化させて、幸福も正義もへったくれもあるわけがない。戦争を無くせば、他のどの問題も道理に基づいておのずと解決していく。

 問題の本質をごまかしたり、すり替えたりしてはいけないよ。常に問題の本質と真っ正面から取り組んで、やるべきことをやり抜かないといけないよ。その努力を続ければ、きっと活路が拓ける。



 今の世には明るいものはあまりに少なく、暗いものはあまりに多く見えるが、両者は別個のばらばらではない。
絶望と見える対象を嫌ったり恐れたりして目をつぶって、そこを去れば、もう希望とは決して会えない。
絶望すべき対象にはしっかりと絶望し、そえを克服するために努力し続ければ、それが希望に転化してゆくのだ。
そうだ、希望は絶望のど真ん中のそのどん底に実在しているのだ。




「変わらないかも知れない・・・」と閉塞感を覚えます。溜息もでます。
でも、それであきらめたら、見て見ぬふりをしたら相手の思うつぼなんですよね、きっと。


雨を通して虹を望むには、真の信仰を要します。
しかし、虹が出るのには、暗い雨雲もまた必要なのです。

| 本・評論、新書、エッセイ | 13:06 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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どんな社会に生きたいのですか?

9/25朝日新聞
9/19 の「さよなら原発集会」を取り上げ、「原発のあり方 私たちで考え、決めたい」と記事がありました。
その中で、今回のこの集会では
「私はこういう社会に生きたい」という主語のはっきりした言葉が路上にあふれていた。
と書かれていました。

「私はこういう社会に生きたい」
「私はこんなふうに生きていきたい」

人それぞれに思い描いていることがあると思います。
ただ、その根底にあるのは、安心して暮らしていきたい、ということではないでしょうか。
東日本大震災で東北地方の方々が経験された災害や苦しみ、あるいは働く場がない等のような経済的な困窮等、そういったものに直面しないで生きていけるのならば、その方がずっといいです。
でも、一生の間で、いかなる苦しみにも災難にも遭わずに生きていけるというのは、ほとんどないことだと思います。
ただ、そのなかで、どうしようもない状況にあるけれど、でも、安心して生活できるような社会で生きていきたいとは誰もが思うのではないでしょうか。


この朝日新聞記事を読んで、思ったのは、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの「人間の安全保障」という考え方です。
その思想について、詳しく知っているわけではありませんが、今、彼のこの考えは本当に必要なものではないかと思います。


国際協力機構のサイトで分かりやすく、この「人間の安全保障」という考え方について説明されています。
以下、少し引用。(詳しくはこちら

「人間の安全保障」の考えとは、
人々が安心して生活できるような社会づくりを行うための枠組み。
人々が「恐怖」や「欠乏」から解き放たれ、安心して生存でき、人間らしい生活ができる状態をつくることを目指す。



人間中心であること:国家よりも個人や社会に焦点をあてていること
外敵からの攻撃よりもむしろ、多様な脅威から人々を保護することに焦点をあてる。


脅威:国家の安全に対する脅威とは必ずしも考えられてこなかった要因を人々の安全への脅威に含めること
環境汚染、国際テロ、大規模な人口の移動、HIVエイズをはじめとする感染症、長期にわたる抑圧や困窮までを視野に入れる。


担い手:国家のみならず多様な担い手がかかわってくること
国家のみが安全の担い手である時代は終わった。地域・国際機関、非政府機関(NGO)、市民社会など、「人間の安全保障」の実現にははるかに多くの人が役割を担う。


能力強化:その実現のためには、保護を越えて、人々が自らを守るための能力強化が必要であること
安全を確保することや人々や社会の能力を強化することは密接に結びついている。人間は危険な状況に置かれていても、たいていの場合自ら解決の糸口を見出し、実際に問題を取り除いていくことができる。



人が生きていく上で不利益を被る様々な要因に目を向け、人間がより安全に暮らしていけるようにする枠組み、とでも言うのでしょうか。
今まで、「発展、成長」ということばかりに目を奪われて、「人間がより安全に暮らしていける」という姿勢を忘れていたのではないかな。

政治家も官僚も、国の道筋をつける仕事をしているのだとは思いますが、その前に、一人の人間、誰かの父親であり、母親である、そんなことをまず第一に思う時、まず人としてどう生きていきたいのか、どんな社会をこれからの子ども達に託していきたいのか、「私はこう思う」と一人の人間としての発言を聞いてみたい。

「国のために、経済成長のために」というけれど、国というものは、そこに住んでいる人々が集まってできたものであって、国がそれ一人で存在しているわけではない。

野田首相は所信表明演説で
「一人ひとりの国民の声に、心の叫びに真摯に耳を澄まします」と訴えたという。

でも、彼の態度はどうだろう。
国民の声に真摯に耳を傾けているとは思えません。
国連での演説で原発推進、原発輸出を口にしました。
彼が代表戦に出る頃から言われていたことですが、やはりアメリカ、松下政経塾、官僚のいいなりでしかない。
市民グループが、各党首あてに原発国民投票の賛否を問う質問状を送ったそうです。
自民党でさえ、否定的な見解ではあるけれど回答しているのに、民主党は回答しなかったという。


あなたはどんな社会に生きたいのですか。
その答えに大きな差違はないと思うのですが、甘いのかな?

| 新聞記事 | 16:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「被災地には生活が続いている」

『大震災のなかで--私たちは何をすべきか』を読みました。

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33名の方の小論かならなる本です。
色々な視点から今回の震災について語られていて、新たな発見もあります。
その中で、一番心に残っているが、湯浅誠氏が書かれた「被災地には生活が続いている」です。

先日、彼の本を読んだばかりということもあるかと思いますが、視点が被災者の方に一番寄り添っているのではないかと感じました。

以下、少し抜粋。


 被災者にとって、被災地は「生活」の場だが、それ以外の者にとって、被災地は「事件」の場だ。「事件」の現場と思って赴くと、そこには「生活」がある。あたりまえのことに不意を衝かれる感覚。阪神・淡路大震災という事件が、地下鉄サリンという新たな事件に取って代わられたように、「事件」はつぎの新たな「事件」にとって代わられる。被災地外は「事件」から「事件」へ飛び移るが、被災者は、どれだけ物理的に移動しても、それぞれの「生活」から離れることはできいない。被災地と被災地外とのさまざまなギャップは、ここに起因する。


 今回の大災害が、さまざまものの転機になってくればと私自身も思う反面、壮大な文明史感を持ち出すような前のめりの言説に違和感を抱くのは、それが「事件」の切断面にのみ着目しているよう見えるからだ。

  復興プロセスは、被災地のこれからの「生活」を左右する。逆から言えば、被災地の「生活」は復興プロセスによって振り回される。にもかかわらず、被災地の「生活」を軽視した復興プロセスが行われるのだとしたら、それは二次災害である。

 だから私は、それを「便乗復興論」と呼ぶ。「復興便乗論」には、被災地の「生活」がないことの原因あるいは帰結として、論者自体の「生活」もない。大災害前から連綿と続き、良くも悪くも一人ひとりがそれに縛られている「生活」がなく、まるで「事件」がすべての経緯・文脈・歴史・「生活」から人々を解き放ったかのように、「事件」の切断面周囲に浮遊する。したがって、歴史的な事件だと強調しながら「便乗復興論」には歴史性がない。


  「復旧ではなく復興」というそれ自体としては至極もっともな意見に対しても、必要なのは「『生活』に呼応した復興」であり、「『事件』に呼応した復興」は、しばしば「『生活』の復旧」に劣後する、またときに対立しさえする、という留保をつけるべきだと思う。



東日本大震災で被災された方々のことを思うと、心が痛みますし、元通りというわけにはいかないかもしれないけれど、少しでも日常へと回復していけばいいなと思います。
関係のないこと、だとは全く思いません。
ただ、私はやはり当事者ではないから、日常生活を送っているなかでは、忘れてしまったわけではありませんが、以前ほどに思いを馳せることはありません。
この、当事者と、当事者でない違い、それは、この湯浅氏の文章を読んで気づいたのですが、被災地が「生活」の場であるか、「事件」の場であることの違いなのだということです。


震災の被害を受けた方々のことを思う時、同情し、どうしてこんなことがと憂いや悲しみの感情が出てくる。
でも、とても言葉は悪いかもしれないけれど、それはあくまでも画面の向こうの出来事であって、今、自分に危険が差し迫っているわけではないから、どこか安心して心配しているのではないだろうか。

あまりにも酷すぎる悲しみや苦しみ、犠牲を見聞きする。
でも、そういう経験を一度もしたことがないならば、例えば私のように、そんな時は自分にはやってこないのではないか、やって来たとしても、それはもっと遠い将来ではないか、正直なところ、そういう気持ちはある。

そういう気持ちも、やっぱり当事者とそうでない者のギャップなのかもしれない。

そういう気持ちがあることをも認めて、今回のような悲惨なニュースに接したならば、テレビの向こうの人々のために真摯に祈る者になれたらなと思います。

| 本・評論、新書、エッセイ | 20:14 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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雨雲の中に輝いている光

とってもとっても珍しいことですが、主人と一緒に夕方愛犬の散歩をしました。
本当に本当にめったにないことで、明日は雪か嵐か wth_pen08大雪 wth_pen09台風・・・なんて。


西の空を見ると夕焼けがとっても美しくて、携帯で撮りました。

PA0_0040.jpg


これは↓、数日前の夕方の空。空が水色とピンクの層になっている感じがステキでした。

PA0_0049.jpg


下の写真二つは、日の出頃。
PA0_0043.jpg

PA0_0044.jpg


こんな美しい空を見ていたら、聖書のこんなみ言葉を思いました。

あなたは
神を見ることができないと言っている。
訴えは神の前にある。
あなたは神を待て。

今、雨雲の中に輝いている光を
見ることはできない。
しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現れ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。

(聖書:ヨブ記35:14、37:21~22)



聖書の中でも難解だと言われているヨブ記のある一節です。
ヨブ記、簡単に言えば、「正しい人がなぜ苦しむのか」ということをテーマにした書です。
ヨブは族長時代の人物と言われ、聖書は「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とヨブのことを述べています。
家族にも富にも恵まれていました。
でも、ある日子どもを一瞬にして失い、自らも「悪性の腫物」で全身を打たれたと書かれています。
そういう状態になっても、ヨブは神を呪うことをせず、
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言います。

そんなヨブを慰めようと、3人の友人がやって来ます。
彼らと話しているうちに、ヨブは「神に正義はあるのか」と抗議していきます。
3人の友人は因果応報説を述べ、ヨブがそのような災難にあったのは、ヨブに罪があるからだと言います。
でも、ヨブは自分の潔白を訴えます。
3人との議論が尽きたところで、4人目の若者がヨブに対して言った言葉の一部が上の箇所です。


このみ言葉の箇所を以下のように分かりやすく書いている文章がありました。

あなたの訴えは(神の)み前にある。
あなたはそれを確かだと信じ、神の時を待つべきなのだ。
太陽の光は見えなくても、雲の彼方で輝いている。
同じように、あなたの答えも今は隠されているが、その時が来れば明らかになる。



どうしてこんなことが起こるのかと、思わずにはいられないことを体験する。
そして、それに対する答えを、今すぐにほしいと思う。
でも、そんな思いとは裏腹に、答えなんてすぐに見つけられないし、やってこない。

でも、訴えは神様の前にある。
そして、その答えはすぐには分からなくても、時が来れば明らかになる。


私はそう信じていきたいと思う。

| 聖書・信仰 | 22:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『福島 原発と人びと』 広河隆一

福島 原発と人びと (岩波新書)福島 原発と人びと (岩波新書)
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尊敬するフォトジャーナリスト、広河隆一氏の著作です。
白黒ですが、写真が多数掲載されています。
また、この本の印税の一部が国や県に頼らない「市民放射能測定所」のために用いられるということなので、一人でも多くの方に買って、読んで頂きたいです。

福島原発事故の翌日に福島に入った広河氏。
100マイクロシーベルトまで測れる放射線測定器を持っていったのだけど、双葉町役場周辺で振り切れたという。
同行した人が持っていた1000マイクロシーベルトまで計測できる測定器も振り切れたという。
でも、国は「ただちに健康には影響がない」と発表していたので、町の中を自転車やバイクで移動している人がいたという。
そんな人たちに広河氏は測定器を見せ、すぐに避難するように呼びかけた。

パレスチナ問題では、砲弾の飛び交う中、現地で何が起こっているのかを伝え続けた広河氏。
チェルノブイリでは、基金を立ち上げ、子ども達のサポートを行っている広河氏。
大手メディアの自称ジャーナリストとは違って、現地に赴き、現地の人びと-林業を営む人、農家、避難した人、原発作業員たち-に直接取材し、その声を伝えてくれています。


広河氏は事故の隠蔽について、こう語っています。

 この事故は戦争での情報管理に似ている点もある。都合のいいことだけを発表し、都合の悪いことは隠す。湾岸戦争では高性能爆弾がイラクの軍事基地を破壊しところだけを何度も映し出し、そのミサイルが目標を外して、民家に被害をもたらしたときなどは発表されなかった。
 戦争と原子力災害に共通なのは、「加害者は市民の被害を隠す」ということである。そして今回、この"原則"にマスコミが乗り、巨大な「記者クラブ」が出来上がった。


加害者は市民の被害を隠す。そして、自分を守る。


また、メディアに対しても厳しく切り込みます。

メディアが自分の取材や発表の検証を行わないで、まるで中継のように東電や政府の言い分や分析を伝えることしかしなかったのは、(中略)住民に被曝を強いることになった責任も、東電、政府とともにメディアも負わなければならないのではないだろうか。

NHKはジャーナリズムの本質を忘れ、電力会社や国に使われ振り回されていたと言うのは、言い過ぎだろうか。

取材は、現地に行かなければ不可能だ。しかし、各メディアでは自社の社員の安全を考えて、40キロ、50キロ圏には近づかないようにと指示を出した。その一方で、政府の言う通り住民の安全をうたっていのだから、奇妙な現象に見える。




現地の人びとの葛藤も伝わってきます。

ある親が校庭を使わないでほしい、と言ったら校長は「国の方針を守らなければ国が成り立たないからしょうがない」と答えたという。
彼女は言います。「子どもは守らなくても、国の方針は守るんです

休暇届を出して、子どもを避難させます、と言ったら、「逃げるのか、卑怯者」と罵声を浴びせられたという女性。


あの山下俊一教授のことも取り上げています。
多くの人が山下教授のことを知っていると思いますが、彼の一派を見ると、彼があのような言動を繰り返すのも納得です。

チェルノブイリ事故の放射線影響について、その影響はない、などと発表して、国際的にも批判を受けた重松逸造氏。
その彼の後を継いで放射線影響研究所の理事長となったのが、長崎大学の長瀧重信教授。
彼はチェルノブイリ事故ではあまり被害者が出なかったと発表した(今年の4月15日)。
その長瀧教授と師弟関係にあるのが山下教授。
そして、飯舘村で「大丈夫です」と講演を行ったのが、山下氏の同僚、高村昇教授。

朱に交われば赤くなる、とはこのこと・・・。


キエフ放射線医学センターのタルコ医師の言葉を、関係者は真摯に受けとめてほしい。

「チェルノブイリ汚染地区で人びとの身に起こっていることは体内被曝の壮大な人体実験です。必要なのは、『実験』を続けることではなく、子どもたちを一刻も早く汚染地区から移住させることです。」


この本を読んで、福島に住む人々の苦悩、葛藤というものの一部かもしれないけれど、知ることができたのではないかと思います。
そして、何に怒りを覚えるかというと、棄民とは言い過ぎかもしれないけれど、自分たちは守るけれど、利権は守るけれど、被害は少しでも小さく見せたいからね・・・とそんな国や官僚、東電の姿勢。
「想定外」との言葉で、自らの責任を取ろうとしない無責任さ。
そして、巨大な広告費に目がくらみ、本来のジャーナリズムの本質を捨て去り、お上に迎合する大手メディア。


原発のことに関して、「中立」という立場を取る人たちもいますが、私は直接の当事者でもないし、今まで原発に関して、無関心・無知だったから、こんなこと言える資格はないかもしれないけれど、怒りを感じるのです。
だから、原発はいらない。



広河氏が「放射能から身を守るということ」は何を意味するのか、と問いかけています。
どういうことだと思うでしょうか。

広河氏は言います。それは、

放射線医学の権威者たちから身を守ること、(中略)推進ではないけれども結果的に妥協を繰り返そうとする政治家やメディアから身を守ること、(中略)「・・・ただちに健康には影響はない」などの言葉を用いる人間たちから身を守ることである。

| 世の中のこと | 21:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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だから国策の原発?

原発事故以来、マスコミ報道をあまり信用しなくなりました。
ただ、その中で一つ、テレビ朝日の「モーニングバード」は見ています。
その中でも、木曜日の玉川氏の「そもそも総研」は録画してでも見ています。
古賀茂明氏は何度か出演されていますし、小出裕章氏のコメントなどもよく紹介されています。

今朝のモーニングバードで9月19日に東京明治公園で行われた「さようなら原発5万人集会」の様子を、5分弱くらいだったでしょうか、放送していました。
多くのメディアが無視の姿勢を見せている中、なかなかだなって思えるのですが・・・。

また、福島原発から離れてはいるけれど、福島市など、風評被害で農作物が売れなくて苦悩している農家の方々の声も紹介されていました。

その時にふと、思いました。

経済界の人たちは、電力を止めたら日本の産業が立ちゆかなくなると、だから原発は必要なのだと言います。
(でもきっと、それも建て前で、そうでも言っておかなくては原発を稼働させる口実がなくなるのでしょうね)

産業のために、経済成長のために原発が必要だという人たち。
彼らの頭にあるのは、いわゆる第二次産業だけなのでしょうね。
機械を作るだけなら、別に日本でなくても海外でできる。
だから、そういった企業を国内にとどめておくためにも、原発がなければ・・・なんて、あの事故の後でも性懲りもなく言い続けているのでしょうか。

でも、土地を中心とした第一次産業は、国内でするしかない。
それに、第二次産業と比べて、彼らに直接大いなる恩恵をもたらしてくれるわけでもないから、眼中にないのかな。


今、東北地方で原発事故のせいで、どんなに多くの畜産農家の人たちが苦悩の中にいるか。
それを直視し、原発事故がどんなに甚大深刻な被害をもたらしているか、そのことに思いをはせたら、それでも原発・・・なんて、そんな考えは出てこないと思うのですが。

農業等に従事している人たちで、「あの事故があったけれども、やっぱり原発は必要ですね」なんて言う人がいるとは、私には思えません。
機械や工場はいくらでも海外に移転、移動することはできるけれど、土地は動かせない。
そこでしかやっていけない。

動かすことができないからこそ、守らなければいけないのに、第一次産業のことを考えているとはどうしても思えなくて・・・。

結局、この国のリーダーたちが向いている方向は日本国民ではなくて、アメリカであって、だから、国民の言動には耳を傾けないのでしょうか。

日本って本当はどんな国なのかなと、今までそんなこと考えもせず脳天気に暮らしてきたので、今になってなんだか不気味なものを感じています。


今読みかけの『大震災のなかで』という本で、私にとっては、かなり驚いた一文がありました。

(国策として、原子力を推進してきた日本ですが)
国策でも、いや国策だからこそ信じたりしてはいけないのだ。ほんとうに必要なものなら国家がやらなくても民間がやる。反対する者を国家権力を使って、"非国民"に仕立ててまでやるのが国策である。だから侵略も原発もちゃんと疑い反対し、うまくいかなかったときの対策を考えておかねばならない。

時間がかかってもいいから原発をやめて他のエネルギーに転換しようという声も強まってきている。だが、財界と政治家たちはそんな政策転換には応じないだろう。もしドイツのように選挙や国民投票で原発をやめようという意見が多数になったとしても自衛隊を使って鎮圧しようとするのではないかと私は本気で心配している。なにしろ彼らにとっては、それまで原発反対派を脅かすのに使ってきた「暴力団」を「暴力装置」に変えるだけのことだから。


この文章を書かれた方の、かなり独特な意見なのか、それともこれが隠された一面なのかは私には分かりません。
反原発デモに対する警察の姿勢を見ていたら、あながち一方的な思い込みだとも思えませんが、政治家でも、少数ではありますが、河野太郎氏や渡辺善美氏等、原発は必要ないと言っておられる方々もおられます。
そう言う方々の声が力がもっと大きなうねりとなっていけば、原発ゼロへの道もありうるのではないか、と思えないこともないですが、甘いかな・・・?


原発ゼロへ・・・ガンバレ、日本!

| 世の中のこと | 21:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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あきらめない

『りんごのおじさん』という絵本があります。
実話を元にした絵本で、感動しました。

りんごのおじさん (おはなしのほん)りんごのおじさん (おはなしのほん)
竹下 文子 鈴木 まもる

ハッピーオウル社 2008-07
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国の指導通り、たくさんの肥料と農薬を使ってりんごを栽培していました。
でも、いつしか自分も奥さんも皮膚が剥け、痕が真っ赤になり、農薬を減らしていきたいと思うようになりました。
そして、有機栽培、それから無農薬、無肥料栽培へと挑戦していきます。
9年間、収穫がゼロという苦難の道を歩みますが、ついに、無農薬、無肥料のりんご栽培を成功させます。

簡単に言ってしまえば、こんなストーリー。
このお話が木村秋則さんという方の体験を元にしていると知り、木村さんの書かれた本があるのではないかと思い、探してみるとありました。

それが、『リンゴが教えてくれたこと』。
この本も読み始めたら止まりませんでした。

リンゴが教えてくれたこと (日経プレミアシリーズ 46)リンゴが教えてくれたこと (日経プレミアシリーズ 46)
木村 秋則

日本経済新聞出版社 2009-05-09
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家庭菜園もままならない私ですが、この本を読むと、色々な野菜を作ってみたくなりましたし、木村さんの所に行って、お話を色々と伺いたい、そんな気持ちにさえなりました。


「あきらめない」のであれば、当然、そのために重ねるべき努力も、あがくことに伴う苦悩も、失敗したときに味わう絶望も、引き受ける覚悟がなければならない。

と、『一億総ガキ社会』の中で著者の片田さんは書かれていますが、その覚悟を持ち合わせた人が、りんごおじさんこと、木村さんだと思います。


リンゴの収穫がゼロの間、現金収入がないので、畑や家財は差し押さえになったり、「あいつは変わっている」と近所からは村八分の状態。

そんな状況にあっても頑張る木村さん。
でも、「リンゴの自然栽培は絶対にできる。必ず答えがあるはずだ」と強く信じていたけれど、全く改善されない厳しい現実に、無農薬・無肥料栽培を始めて、6年目のある夜、死んでお詫びをしようと、ロープを持って山を登っていきました。

そして、この辺りでと思いロープを投げたら、勢い余って滑り落ちたロープ。
そのロープを拾おうと、目をあげたとき、月光に浮かび上がったリンゴの木。
「こんなところにまだリンゴ畑があったのか」
と思い、よく見てみると、それはドングリの木。
でも、そのドングリを見て、こんな山の中で、農薬も肥料も使っていないのに、これほど葉をつけるのか、
なぜ虫や病気が葉を食い尽くさないのかと、ただ呆然と立ちすくんでいた木村さん。

すると、気がついたのです。
あたりはなんともかぐわしい土の匂いに満ち溢れ、肩まである草をかき分けると、足元はふかふかで柔らかく湿気がある。

そして、木村さんは答えを見つけたのです。
「この土を作ればいい」と。

その土を作るために、木村さんの挑戦が始まります。

ただ、すぐにリンゴが収穫できるわけではありません。
ですので、木村さんはお米や野菜を作ったり、あるいは東京や北海道に出稼ぎに行ったり、キャバレーの呼び込みをしたりと、様々な仕事をされました。
本を読むと、その時の苦労もひしひしと伝わってきます。
どれだけ、無農薬・無肥料栽培を成功させたいと本気で思っていたかが伝わってきます。


リンゴやコメの無農薬・無肥料栽培を成功させた木村さんですが、何が大事かというと、「観察」、ずっと見ていることが大事だと言われます。

一例として、お米を栽培するときにした「イナゴの観察-イナゴを観察してわかったこと」
・オスはひとつもイネを食べない。
・メスは害を及ぼしてもそれが毎日ではなく、産卵する前だけ。
・どれくらいの被害かというと、一本のイネの100~130の米粒のうち、一番被害を受けた穂で5粒だけ。

愛情をいっぱい注いでいる様子がうかがえます。

無農薬・無肥料栽培成功のために、十数年の道のりがありました。
貧乏のどん底も経験されました。
でも、その貧乏にもぶれることなく、その夢をあきらめないで、実現させた木村さん。

そんな木村さんを見ていたら、勇気を貰えます。
ただ、私には彼が経験したような苦労をしてまで、実現させたい夢が今のところあるわけではないし、たとえあったとしても、あそこまでの苦労を引き受ける勇気や気力は、多分ないと思います。


木村さんのりんご園のことで、こんなエピソードがあるそうです。
台風19号で隣の畑は倒木の山。でも、木村さんのりんご園の被害はほとんどなかったそうです。
農薬や化学肥料を使っていないので、蔓に柔軟性があり、しなやかで落下しにくい。ちょっとぐらいの風にはびくともしないそうです。


木村さんの言葉を少しだけ・・・。

失敗に失敗を重ね、この栽培をやって知ったことは、私ができるのはリンゴが育ちやすいような環境のお手伝いをすることぐらいということでした。地球の中では人間も一生物にすぎません。木も動物も花も虫たちも皆兄弟です。互いに生き物として自然の中で共生しているのです。
 人間はもっと謙虚であるべきだと思います。人間は自然の支配者ではなく、自然の中に人間がいるよと考えるべきです。


本の最後の木村さんの言葉--
 奇跡は努力の結晶だと言います。簡単にできたら苦労はありません。一つずつ壁を越えて階段を上っていくごとに、また新たな壁が生まれます。どうしたら壁をクリアできるのか。知恵を振り絞っていくところに人生の意義があります。
 苦しい極限の極貧生活の中でも美しいと思う瞬間がありました。期せずして波瀾万丈の人生となりましたが、「それも楽しいよ」と若い人たちに言いたいです。



本を通して知った木村さんを思う時、フランクルの言葉が思い出されます。
「人間はあらゆることにもかかわらず(中略)人生にイエスということができるのです。」
「たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。
 あなたがすてべを投げだしさえしなければ、いつか自分の人生に"イエス"と答えることの出来る日が必ずやってくる。
 いや、たとえあなたが人生に"イエス"と言えなくても、人生のほうからあなたに"イエス"と光を差し込んでくる時が、いつか、必ずやってくるはずだ。」



こちらで、木村さんのリンゴの花が見られます。
可憐で美しくて、なんだか癒されます。


ただ、福島原発事故の影響で、蜜蜂に被曝の怖れがあるので、「りんご蜂蜜」は中止になったと書かれていたのが、悔しいです。

| ひとりごと | 20:44 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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