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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2011年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年01月

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♪「あすという日が」

先日、「あすという日が」という歌を偶然聞きました。
そして、今日、夏川りみさんと秋川雅史さんが紅白でこの歌を歌っているのを聴きました。
歌詞が素晴らしいです。


生きていること それはとてもすばらしいこと。
あす、何があるか、何がおこるか誰にも分からない。
でも、しあわせを信じて、今日を生き、明日も生きていきたい。

「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える」
星野道夫さんが著書で書かれていました。

生きることはすばらしいこと。
そして、たとえ明日世界が終わりになろうとも、その時がくるまで、一所懸命生きる自分でありたいと思います。


いま 生きていること
いっしょうけんめい 生きること
なんて なんて すばらしい
あすという日が あるかぎり
しあわせを信じて
あすという日が あるかぎり
しあわせを信じて




歌詞はこちら 

| ひとりごと | 22:08 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「感謝をこめて」

今年もあと数時間で終わります。
本当に大きな大きな一年、忘れてはいけない一年だったと思います。

3・11以降、生きる意味を問うたり、あるいは考えたりする、そんな時が多くなった・・・。

あの大震災を通して、当たり前だと思っていた日常、それは当たり前のことではなくて、本当は恵みなのだと気づいた。
温かいベッドで眠り、朝が来れば子ども達は学校に行き、仕事をしている人は働きに行き、そして帰る家がある。
喉が渇けば普通に水を飲み、お腹が空けば、何の心配もせずご飯を食べる。
買い物に行っても、国産であれば産地を気にすることもなく、買い物をしていた。

そんな日常がなくなってしまった。

3・11以前の状態に戻ってほしいと思っても、ある一点だけはもう戻せない。
それが人災であり、一握りの人たちの強欲のために引き起こされただけに、許せない。

今もなお、多くの日本人は忘れていないと思います。
でも、反省もせず、それを忘れさせようとし、問題をすりかえようとしている人たちは健在。
そんな人たちにはもう欺されない。

ただ、一般庶民に何が出来るのか、というそんな思いはある。
そんな思いがするとき、心に響いてくるのが、あの卒業式の答辞。


 時計の針は14時46分を指したままです。でも、時は確実に流れています。生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。

 命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。

 私たちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても、何をしていようとも、この地で、仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。

 後輩の皆さん、階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしてください。



あのような大震災があったにも関わらず、まるで他人事で、相も変わらず自分の欲に突っ走る人たち。
そんな人たちは、きっとどこにでもいるのだろう。
ただ、そんな中にあっても、この中学生が語ったように、
生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていく。
苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく。
「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしていく。

そんな人として生きていきたいと思います。


今、雨雲の中に輝いている光(聖書 ヨブ記37:21)
このみ言葉を
太陽の光は見えなくても、雲のかなたで輝いている」と解釈された方がいるのですが、どんなに暗闇が支配していようと、今は見えないだけで、光は必ずある。

そのことを確信して、やはり希望を持って、新しい一年を迎え、歩んでいけたらと願います。


被災をされ、今もなお大変な毎日を過ごしておられるお一人お一人が、希望を持って新しい一年を迎えられますように。


つたないブログですが、ブログを通し、この一年も新しい素敵な出会いがありました。
その出会いに、心から感謝をしています。

訪問して下さった皆さま、本当にありがとうございます。
そして、また、新しい一年が、なお素敵な一年となりますように。


神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。(聖書 黙示録21:3~4)

神である主が彼らを照らされる・・・(聖書 黙示録22:5)




書いてきて、ふと口ずさんだ賛美歌・・・

Because He lives



いつくしみ深き

| ひとりごと | 18:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『失明地平線』

失明地平線―絶望からの贈り物・光失明地平線―絶望からの贈り物・光
エムナマエ

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これは、糖尿病で中途失明されたイラストレーターの手記です。
絶望の淵から「ぼくは失明してよかった、生まれてきてよかった、と心の底から思えるのです」と思えるに至った、その物語。

著者のエムナマエさん。
失明されているのですが、イラストを描かれるのです。
エムナマエさんの公式サイトに、イラストがいくつか紹介されているのですが、とてもほのぼのとした絵です。
またエッセイもあって、まだ一つしか読んでいないのですが、少しだけ抜粋します。

友人の僧侶に、人生とは三つの命を生きることだと聞かされた。それらは生命、寿命、使命。この与えられた「生命」を費やし、許された時間「寿命」の中で、いかなる「使命」を果たすか。これが人生である、というのだ。だが、ぼくはそれに敢えてもうひとつの「命」を加えたい。それが「運命」だ。人間社会は不平等を作っているが、しかし運命は突然、誰にでも平等にやってくる。その運命が、いかなるものかは別の問題としても。いずれにせよ、個人はこの「運命」をも引き受けなくてはならない。その上で人生は完結するのである。人生とは四つの命の総合体なのだ。
(中略)
誰にでも運命はいきなりやってくるのだ。そして、どんな境遇にあろうとも、悲嘆することより、その運命と共に生きることこそ、新しい人生を開く鍵となり得るのだ。



『失明地平線』、そしてこのエッセイを読んで、強いなって。
人生の途中で失明するというのは、絶望という言葉では済ませることのできないものではないかと思います。

その事実を受け入れるのに、どれだけの苦しみ、もがき、怒りがあったでしょうか。
それを受け入れ、乗り越え、新たな一歩を踏み出すのにどれほどの勇気がいったことでしょうか。


ぼくは確かにそこにいた。生きる理由を求めながら、生きる目的に迷いながら。これまでの自分は誰だったのだろう。何のために生きてきたのだろう。かつて、与えられただけの仕事をして、ただ金を稼ぎ、大きな家で暮らし、うまい物をたらふく食ったこともある。だが、そのときの自分は本当に生きていたのだろうか。この世界で、ぼくの存在理由はただひとつしか考えられなかった。それは画家であること。
(中略)
けれど、その画家である自分を葬って、どこまで生きていけるのか。今、前方に広がる新世界の地平線、絵筆を文筆に換えた画家が、果たしてこの荒野の彼方に緑の大地を発見できるのだろうか。分からない。でも、確かにぼくはそこにいた。生命を与えられ、そこまで生きて、運命との出会いに迷いながらも思考し挑戦するぼくがいた。


自分の存在理由はあるのだろうか、生きていけるのだろうか、と言う著者の叫びが心にささりました。
これから生きていく、その果てがどうなるのかは分からない。
でも、それでも生きていく、挑戦していくとの決心。
そして、それは誰にも奪うことのできない、著者の宝となると思います。


著者のエムナマエさんは「あとがき」でこう書かれていました。

出会いと別れ、そして出来事。全ての過去が自分という人間を作ってくれた。出来事は良くも悪くもなく、それ以上でもそれ以下でもない。貧しさや病気や不運も敵ではない。むしろ、それらを敵にしてしまう自分こそが本当の敵かもしれないのだ。すべての出会いや出来事を自分の味方にしてしまえば、人生に失敗などあり得ない。これこそが真実の楽観主義である。未来に不安を抱いても、何も生まれやしない。未来は今の自分が選び、作るものなのだから。

病気や不運は敵ではない。
人生で体験するあらゆることを自分の味方にする。
これが、生命、寿命、使命、運命という4つの命を全うする秘訣なのでしょうか。


そして、私はやはり思うのです。
命を全うする力は、私たち一人一人を創られた神様からくるのだと。



人は見ている方向に進んでいく。夢は現実の卵であり、真心からの祈りと願いは、不思議な偶然を招く。『今』を大切に生きることは『過去』を輝かせ、『未来』に無限の可能性を与えてくれる。過去も未来も、『今』という瞬間から生まれ変わることができるのだ。 (本文172頁)


『今』を大切に生きる。
小さくても、出来ることを一つずつ、一つずつ。

| 本・評論、新書、エッセイ | 19:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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励まされた言葉

落ち込んだり、不安にとらわれたりしたときは、まず"なぐさめ本"に「君の気持ちもわかるよ」とうなずいてもらう。 ちょっと元気になってきたら、次に"はげまし本"に「大丈夫だから、一歩踏み出せ!」と檄を飛ばしてもらう・・・
(『つながる読書術』日垣隆著)

読書には7種類あると書かれていて、その1つが「行動のバネにする読書」。
そこに書かれていた一節がこの文章。
読みながら、「その通り」だと。


そして、今の私は「励ましの言葉」が欲しくて『ピンチの裏側』という本を開いたら、この言葉たち。


 踏まれても
笑顔を
 返す
たんぽぽの
 花



この詩を読んで、星野富弘さんのこの詩が思い浮かびました。

わたしは傷を持っている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる


この詩を以前ブログに書きました。
その時に、こんなことを書いていました。


傷つきたくない、そういう思いは誰にでもあると思います。
でも、傷つかないで一生を過ごせる人はいないはず。

きっと、どこかで人は傷つく。
でも、傷ついてもいいじゃない。
その傷を通して、人の優しさをしみじみと感じることができるから。
そして、傷ついたから、今度は傷ついた人に優しさを注げるから。



自分で書いた言葉に、自分が慰められています。

下の詩は、あらゆる出会いに、こう思えたらいいなって、そう思わされた詩です。

 1/50 億の奇跡

地球の人口 50億
あなたは ひとり
あなたに会える確率
50億分の1

あなたに会えたのは
奇跡です きっと

奇跡の出会い
大切にします
どうぞよろしく


ピンチの裏側―山本よしき詩集ピンチの裏側―山本よしき詩集
山本 よしき

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| 心に響いた言葉 | 19:53 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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帰省中のできごと

23日から帰省していました。
予定では26日までだったのですが、予定変更、25日に帰ってきました。

ちょっと 問題勃発・・・

帰省と言っても、純粋に実家に帰省というわけではありません。
私の両親は私の結婚前に離婚していて、母は再婚。
お互いに、25年近くおつきあいをしての再婚でした。

なので、私が帰省するときは、母が再婚相手と暮らしている家に泊まります。
かなり気を遣うのですが、母は孫のことが大好きなので、顔を見せに行きます。
でも、本当に気を遣うので、長くても3泊4日。

相手の方には、子ども達が軽度の発達障がいを抱えていることを伝えています。
でも、なかなか理解できないようです。


そして、問題発生。

日曜日の朝、子ども達がテレビを見ていました。
お兄ちゃんが何かの用事で部屋にいないときに、相手の方が弟に「ニュースを見るから、チャンネルを変えるよ」と。
それで、その方はニュースを見ていました。

しばらくして、お兄ちゃんが部屋に戻ってきて、ひとこと・・・
「7チャンネルを見たいな」
すると、相手の方が
「今、おじちゃん、ニュースを見てるやろ」

私はふすまを隔てて隣の部屋にいたのですが、その言葉を発した後、相手の方が大声で
「人がニュースを見てるのに、一体、どんな神経してるんや。」
その方は、その日、仕事があったのですが、母に
「今日、俺は帰ってこないからな。旅館かどっかに泊まってくるから。もう今から仕事に行く。うるさいから」
と、怒り心頭といった口調。


相手の方とは、私たちは何の繋がりもありません。
その上で、長期の休みに2泊あるいは3泊でも泊めて頂けるのは感謝しています。
お兄ちゃんの一言は好ましくなかったかもしれないし、子ども達がワイワイとうるさかったのも正直なところです。
ただ、大の大人が、そんなにブチ切れて怒ることでもないのではないかなって、正直思いました。
と同時に、とにかく悔しくて、涙が出てきました。

それで、母に迷惑をかけるのもイヤなので、一日繰り上げて、帰ることにしました。



母は子ども達にとっては、おばあちゃんです。
でも、相手の方とは何の繋がりもありません。
だから、たとえおばあちゃんの家に行くと言っても、よその人の家にお世話になる、それなりのマナーを心がけなければなりません。
でも、それがきちんと出来ない我が子どもたち・・・。


今までいつも「行っていいのかな。泊まっていいのかな」って思いながら泊まっていました。
でも、やっぱりもう行かない方がいいな、と今になって、やっと悟りました。


そんなこんなで、ちょっと凹んでいた私です・・・。

| ひとりごと | 16:02 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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心を離さなければ・・・

 うちのルールは午後9時には絶対寝ることになっているんですが、学校から帰ってきて宿題や食事、風呂、やることを全部済ませて、寝るまでに時間があったらテレビでもゲームでも好きなことしていいよ、としています。そうすれば、やらなければいけないことをがんばって前倒しでやるくせがつきます。ゲームの時間を決めてくださいと学校のプリントには書いてあるんですが、そういうやり方は好きではなくて、自分で時間を有効に使うことを覚えさせたいと思っています。

 決めてもなかなか守れないという話も聞きますが、うちは9時に寝ると決めたら、たとえ宿題をやってなくても寝かせます。やってなければ、次の日学校で怒られればいいんです。ルールを守れなかったら、全部自分に降りかかってくるよ、だれも助けてくれないよということなんです。

(中略)

 子どもたちの、のみ込みの早さ、ゲームへの集中力はすごいですね。週末はずっとやっているので、目が悪くなるんじゃないかと心配もしますが、子どもは親のロボットじゃないし、そんなもんですよ。



これは、今日の朝日新聞「リレーオピニオン」に掲載されていた北斗晶さんのインタビュー記事です。
「ゲームのお作法」ということで話されていたものです。


読みながら、こんな親のスタンスっていいなと思いました。

親として譲れないルールを決める。
やるべき事をまずやる。
その上で、時間があれば好きなことをしていいよ。


自分を振り返ってみると、どこか子どもを支配しようというのか、指示で動かそうとしていたと。
親がルール、枠組みを作り、あとは、やるべきことをやったなら、自分で自由に時間を使っていいと、ゆったりと構えていられたらいいのでしょうね。

自立してほしい、自分で考え、判断できる人間になってほしいと思っていても、何かなら何まで親が指示をしていたら、育たないですよね。

構えすぎたら、お互いにそのうち窮屈になってしまうかもしれない。


赤ん坊の時は肌を離すな。
幼児の時は手を離すな。
子供の時は目を離すな。
少年の時は心を離すな。

北斗さんの記事を読んでいて、この言葉が思い出されました。


就寝時間を過ぎたら、宿題をやってなくても寝かせる。
それで次の学校で怒られたとしても、それは自業自得。怒られればいい。


この考え、豪快というのか、動じないというのか、いいなって思います。

どうでもいいことですが、北斗晶さんも私と同じマッチファンなんですよね!

| 子育て・教育 | 20:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『アイデンティティと暴力』

アイデンティティと暴力: 運命は幻想であるアイデンティティと暴力: 運命は幻想である
アマルティア・セン 大門 毅

勁草書房 2011-07-09
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ノーベル経済学賞受賞のアマルティア・セン氏の本。
彼のケイパビリティアプローチという考え方に感銘を受け、その後彼の著書を読んでみました。
ただ、ちょっと難しくて途中で挫折。

この『アイデンティティと暴力』は朝日新聞だったと思うのですが、紹介されていて、興味を引かれたので読んでみました。
これは、分かりやすく、面白かったです。(と言っても難しい箇所もありましたが・・・)
何回も行きつ戻りつしながら時間をかけて読んだのですが、でも、もう一度読み返して頭の中を整理したい。
お薦めです。

この本の内容を簡潔明瞭に説明するのは、私にはちょっと無理かなと思えるので、ネットで見つけた堂目卓生(経済学者・大阪大教授)という方の書評を・・・

 アイデンティティとは、自分を自分として認識するときの拠り所を意味し、年齢、性別、民族、国籍、居住地、職業、宗教、政治信条、趣味などが含まれる。通常、一人の人間は、複数の拠り所をもち、時と場所によって、何を優先すべきかを選択する。また、それぞれの拠り所に応じて、特定の人間関係が形成される。複数の選択可能なアイデンティティは、私たちの生活を柔軟で豊かなものにする。

 著者は、宗教や民族など、何か一つの基準によって世界を分割し、個人を分割された集団に従属させようとすることに断固反対する。宗教であれ、民族であれ、単一の基準を絶対的なアイデンティティとして構成員の心に植えつければ、集団の結束力と活動力を高めることができるかもしれない。しかし、一方で、個人の考え方や行動は一面的で硬直的なものになりやすい。さらに、他の面では多くの共通点をもつ他集団の人びととのつながりが断ち切られ、偏見や暴力が生まれる危険性が増す。著者は、世界中で繰り返される暴力と紛争の多くが、アイデンティティの複数性と選択可能性を無視した結果生じたものだと考える。




アイデンティティ・・・「自我同一性。自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念」。

この本を読むまでは、私のアイデンティティについてよく考えた事もないし、これだと定義したこともない。
よく分からなかったと言うのが正しいかな。
アイデンティティって一つだと思っていたから。

でも、アマルティア・セン氏は言います。
人は単にひとつのアイデンティティを持っているのではなく、同時にたくさんのアイデンティティを持っている。
そして、「人はその時々の局面でどのアイデンティティを選ぶか」という権利と自由を持っている。
アイデンティティは与えられたり、人から押しつけられたりするものではなく、理性によって選択するのだ
、と。

また、アイデンティティは一つしかないという、単眼的な見方が暴力や恐怖の源になってしまうとも言います。
それは、例えばイスラム教を「テロ」と関連づけてしまうことに見られるように。


人には多くの異なった帰属関係があり、お互いに実にさまざまな方法で交渉しうることを明確に認識しなければならない。

人はそれぞれのアイデンティティをどれだけ重視すべきか判断しなければならず、その重要性もまた状況によって変わってくる。



「なるほど・・・」と、ただ頷きながら読んでいました。

ただ、ふと思ったこと。
例えば紛争へと扇動する人たちがいるのは確かなことで、そんな人たちに、「彼らも我々と同じこんなアイデンティティを持っているでしょ。」と言えるとも思えない。
「アイデンティティは複数あるのだから、単眼的な見方に陥ってはだめだ」と一個人が思っても、それで紛争が減っていくのだとは思えない。

監訳者が解説でこう書かれていました。
対立・紛争の扇動者は敵対的なアイデンティティ像を押しつけようとする。ゆえに、人々は選択する自由をもつべきなのである。いわば、個人の理性にもとづく自由選択を認めることが、紛争の扇動に惑わされずにいることにつながる。」


アイデンティティに対する正しい認識を持ったからといって、一朝一夕に紛争などが解決するわけではないでしょう。
でも、理性を持ってきちんと考えていく人が増えていくなら、今までのように扇動者の思惑通りに事は運ばなくなる可能性は大きくなるのかな。

人間の矮小化に抵抗することによって、われわれは苦難の過去の記憶を乗り越え、困難な現在の不安を抑えられる世界の可能性を開くこともできるのである



難しいことは分かりませんが、やはり大事なのは単眼的な見方にならずに「考える」ということなのでしょうね。


(ちゃんと消化されていない・・・もう一度読み直そう・・・)

| 本・その他 | 21:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「南極大陸」を見て

生きる。生きる。
日本の明日を信じて、必死に生きていた。
みんなをちゃんと未来に送り出すことです。
(「先生の夢は何ですか」と子ども達に問われて)


「南極大陸」最終回でのセリフ。
毎週日曜日、この「南極大陸」を楽しみにしていました。
犬たちを南極に置いていくことになってから後は、涙・涙で見ていましたが、もう昨日は号泣。

諦めずに生きた犬たち、そして木村拓哉演じる主人公のセリフをはじめ、ほかの方々のセリフに、涙は止まらず。
この「南極大陸」、視聴率があまりよくなく「キムタク神話崩壊」だとかなんだとか色々と言われているようですが、私はこのドラマ好きでした。
敗戦後の日本で、日本の明日を信じて、必死に生きた人たち。
自分達の次の世へ、またその次の世代へと、つなげていくために。
子ども達を「ちゃんと」未来に送りだそうと。

社会的に大きな事を為した人もいれば、その地域の中で、家庭でひたむきに生きた人たちもいる。
そんな人たちの、「みんなをちゃんと未来に送りだそう」という思い、働きがあって、今の日本へとつながっている。


翻って今の日本は々だろう。
自分達さえ生き延びたらいい、そんな思惑を感じてしまう。

野田の「原発の冷温停止状態、事故収束」発言。
彼は一体その発言を誰に向かってしたのでしょう?
その発言で、原発事故はもう終わったことにして、再び原発政策を進めるため?

彼は国民のことなんてどうでもいいのではないか。
アメリカからいい子、いい子さえしてもらえたら、自分達に属する人間が生き延びることができたら、あとはどうなろうが知らないよ、と言うのだろうか。

この日本は、誰か一人の、ある集団のためのものではない。
それを、あたかも自分の、自分達の所有物のごとく好き勝手にしようとする。
こんな無能なリーダーのせいで、日本がめちゃくちゃになってしまいそう。


「みんなをちゃんと未来に送り出す」
親として、「ちゃんと」未来に送り出したいのです。
いつも順風満帆という人生ということではなく、安心して生きていける、生きていく上での基本的な権利が守られている、希望を持てる未来・・・。


みんな、生きている。
それぞれに精一杯生きている。
そのことを、ちゃんと分かっているのでしょうか。

生きているんです。
過去があって、今があって、そして未来に向かって。
そんな未来を、一握りの人たちの強欲のために汚さないでほしい。



YouTubeで見つけた映像。 昨日の今日だからかな、これを見ていても涙が出てしまう・・・。

| ひとりごと | 12:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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人生いろいろ

今日の午前中、近くで単発のデジカメ写真講座があったので行ってきました。
地元のプロカメラマンが人物を上手に撮影する方法を教えてくれました。
講座自体はためになったのですが・・・

受講者は年配の方が多くて、グループで参加しているおばさんたちもおられました。
で、このおばさんたちがピーチクパーチク うるさかった!pen1_67痛
講師の方が話されていても、質問があって、それに対して答えていても、お構いなしにピーチクパーチク。
人の迷惑顧みず、好き勝手といった状態。

最近の子どもは話を聞けなくなったというけれど、そういうおばさまたちも・・・。


で、午後は市内で県教育委員会主催のある方を招いての講演会があったので、そちらにも行ってきました。
かなり高齢の方で、でも、年齢からしたら背筋もピンと伸びているし、元気なご様子。
でもね、言葉が聞き取りにくくて、聞き取れたのは半分くらい。
期待して行っただけに、ちょっとがっくり。

まぁ、こんなこともたまにはあるかな・・・。


講演会への行き帰りの電車の中で、こんな本を読みました。
『インテリジェンス 武器なき戦争』

これは佐藤優さんと手嶋龍一さんの対談形式となっています。
手嶋龍一さんのことは全然知りませんでしたが、佐藤優さんと言えば、元外交官のあの方。
以前、彼と中村うさぎさんの対談『聖書を語る』という本を読んだのですが、もう佐藤氏の知識の凄さにただただびっくり。
あまりにも凄すぎで、ついて行けず、この『聖書を語る』については途中下車をしてしまいました。
知の巨人だとか、知の怪人だとか言われているそうですが、もう納得です。


その佐藤氏と外交ジャーナリストである手嶋氏との対談本、まだ半分も読んでませんが、おもしろいです。
その初めの方で、ロシアのことが語られています。
佐藤氏曰く、
ロシア人というのは、「力の論理」の信奉者で、その力には「頭の力」も含まれている。
その頭の力を含めた日本の基礎体力が弱くなってきているという認識を持っていますから、いくらでも小馬鹿にしてくるわけです。


全然詳しくはありませんが、最近の北方領土問題のことを思うと、日本が小馬鹿にされているのもなんか納得してしまいます。


一般庶民の知らないところで、想像を絶する駆け引きだとかが行われていると思います。
映画やテレビドラマの世界の話だと思っていたのですが、そうでもないようで・・・。

難しい事は全然分かりませんが、そんなことしてまで、世界のリーダーでありたいのか、いや、世界を思うままに支配したいのか・・・。

もっと楽に穏やかに生きていけないのかなって、あのおばちゃんたち、ピーチクパーチクとうるさかったけれど、富や権力はあっても、食うか食われるかの世界にいる人たちよりは、ずっと幸せなんだろうなって、そんなことを思いながら帰路に着きました。

| 今日の出来事 | 20:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『この悲しみの意味を知ることができるなら』

どんなに待っても、帰ってこなかった……。
どんなに待っても、もう会えなかった……。
どんなに願っても、かなわない 願いがあることを
ぼくは知った。

(『ずっとつながっているよ』)

世田谷一家殺人事件。1999年大晦日に起きた痛ましい事件。
その被害者のお姉さんが、自分を見つめるため、悲しみから再生への物語として描いた絵本の一節がこの言葉。
まだ、絵本は読んでいないのですが、『この悲しみの意味を知ることができるなら』で紹介されていました。

この悲しみの意味を知ることができるなら―世田谷事件・喪失と再生の物語この悲しみの意味を知ることができるなら―世田谷事件・喪失と再生の物語
入江 杏

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とても仲の良かった姉妹だったようです。
それだけに、妹家族をあまりにも突然、あのような形で失った著者の悲しみはあまりにも深かった。
その著者が自分の気持ちと向き合い、どうやって立ち直ったか、生きなおす力を得たのか、そんなことが綴られています。

この本は柳田邦男さんの『生きなおす力』で紹介されていました。
その中で柳田氏はこの本について、
喪失体験者の魂から発せられた、人間が生きる意味を根源から問いかける、広く読まれるべき人生論の書になっている」と評しておられ、読んでみました。



ささやかなことに目を瞠って、ただごとに感動し、一瞬一瞬をいとおしんでいきたい。日々のたわいない積み重ねを感謝しつつ、笑顔ですごしていきたい。悲しみを知った今だからこそ、そう思えるのだ。これを苦しみの意味というのなら、苦しみからの贈り物を微笑んで受けとりたいと思う。

これは、著者が本の最後に書かれていた言葉です。
「苦しみからの贈り物」を微笑んで受け取れる、そんな勇気を私は持ち合わせていないかもしれない。
ただ、
どんな時も、人生には、意味がある。(中略)
だから、たとえ今がどんなに苦しくても、あなたはすべてを投げ出す必要はない。
あなたがすてべを投げだしさえしなければ、いつか自分の人生に"イエス"と答えることの出来る日が必ずやってくる。
いや、たとえあなたが人生に"イエス"と言えなくても、人生のほうからあなたに"イエス"と光を差し込んでくる時が、いつか、必ずやってくるはずだ。
とフランクルが言うように、大変な苦しみに出遭っても、投げ出すことなく、"イエス"と光が差し込んでくる時が必ずあると、生きていきたいと思います。


著者の言葉にはっとさせられることが多く、いくつかを書きとめておこうと思います。

 「あの日から時間がとまってしまった」という言いまわしを安易に使うのはやめてほしい (中略) 遺された私たちは生きているのだ。事件の後も、事件の悲しみや辛さを背負っていかなければならない。亡くなった人たちだって、生きている私たちの中に生きているのだ。遺された者には、いかに亡くなった人たちを生かしていくか、その使命も新たに与えられている。寿命は尽きたかもしれないけれど、生命は使命という新たな命となって、遺されたものの中で生きているのだ。
(中略)
私たちは生きている、一所懸命生きている。一所懸命生きよう、動き出そうとしている人を留めることは誰にもできないのだ。


「生命は使命という新たな命となって、遺されたものの中で生きている」
この言葉に涙が溢れそうになりました。
また、3・11で犠牲になった方々、そしてその一人一人と関わりのあった方々のことを思いました。
あの3・11から何に気づき、これからどのように歩んで行くのか、悲しみを悲しみのままで終わらせないために、新たに与えられた使命をどう生かしていくのか--今生きている私たちは問われているのかもしれない。


 かつて私は、深い哀しみの存在を知らなかったかもしれない。だから持てることを喜びとし、持たざることは悲しみだと思っていた。足ることを喜びとし、足らざることは悲しみだと思っていた。一時の快・不快に左右され、己の幸と不幸を決めてさえいた。だが、苦しみの時間は私に教えてくれた。人間はどんな時にも必死に生きる意味を見つけていこうとする存在であることを。意味を見つけだそうと悩む、そしてあるとき、訪れる気づきの瞬間。


 安易に「心の傷」という言葉を使うのは事実と向き合う機会を失わせるのではないか?現実から目を逸らしていては悲しみを乗り越えることはできないように思う。確かに心ない言葉を投げられた時には、心が血を流している感じた。ただ、その言葉の心なさを責めて、自分の心の傷にこだわるより、偏見の出どころをみつめ、自らの心の成熟を目指したいと思う。


 苦しみを経て、悲しみを経て、私は人の絆のありがたさを知った。私自身、少しは成熟に向かったかもしれない。それはかけがえのないことだ。でも、未熟なままの私でいいから、もう一度、この世で妹たちに会いたい! 実はこんなふうに思ってしまう。そう思いながらも、やはりフランクルのこの力強い言葉に心から感動するのだ。
人生はそれ自体意味があるわけですから、……どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです。……
 人間はあらゆることにもかかわらず--困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても--人生にイエスということができるのです。(『それでも人生にイエスという』)


この箇所は特に共感を覚えました。
「未熟なままでいいから、もう一度・・・」っていう思い。
そしてそんな思いはあるけれど、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」という語りかけ。
そんな相反する思いが心の内でせめぎ合う。
そんな思いが行きつ戻りつしながら、人生を意味あるものにするために、生きる意味を見出していくのでしょうか。


著者はあの事件から再生できるきっかけには、読書、それは時には絵本であり、聖書のヨブ記(著者はクリスチャンではありませんが、ヨブ記を読んでみたそうです)があったと書かれていますが、でも、何よりも大きかったのは、人との出会いだと書かれています。たくさんの人に、特にご主人に支えられて、ここまでくることができた、と。


人は一人じゃない。支えてくれる人がいる。新たな出会いだってある。
だから、辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあっても、生きていけるのだと思う。

周りにいる人たちを大切に、もっともっと大切にしていこう。
ちっぽけな愛しか持ち合わせていないかもしれないけれど、愛を惜しみなく注いでいきたいと思います。

| 本・その他 | 21:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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