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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2011年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年02月

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『生きる意味』

生きる意味 (岩波新書)生きる意味 (岩波新書)
上田 紀行

岩波書店 2005-01-20
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上田紀行氏の著書。
先に読んだ『生きる覚悟』『慈悲の怒り』とダブるところもありましたが、この本もよかったです。
その中から2箇所だけ。


「人」と「ヒト」。この「ヒト」という表記に何を感じるか。
新聞等でこのような表記を見ても、私は特に考えることなく、読み進めていました。

構造改革『骨太の方針』で日本経済再生の基本とされた「効率性の低い部門から効率性や社会的にニーズの高い成長部門へとヒトと資本を移動すること」という文章に、経済学者の高橋伸彰氏は強い違和感を投げかけたとして、上田氏は次のように書かれていました。

「人間である労働者を「カナ書き」でヒトと呼び、人格のない資本と同列に並べて、そのヒトが人間として生きてきた歴史やそのヒトを取り巻く環境、あるいはそのヒトへの意思を考慮することなく、市場における効率性の基準だけで生産性の低い部門から高い部門へと「仕事」を変えることが日本経済再生への基本だと言うのです」(『新しい経済学』)

 ここには「人のための経済成長」ではなく、「経済成長のためのヒト」という転倒した主張があると高橋は指摘する。私たちの人生を豊かにするために経済成長が必要だというのなら分かる。しかし、経済成長のために人は生きているのだと言われればどうか。しかし、現実には経済成長のために、あなたは無記名のヒトとされ、効率性の低い部門からリストラされるのだ。
 (中略)リストラされた人たちに自殺者が増加しているのは、経済的な利得が失われたということ以上に、自分が人格のない「ヒト」として扱われ、人間であることを否定されたことへの怨念があるのではないのか。



ある一人の人、その人はかけがえのない一人であって、他の誰かと交換できるというものではありません。
でも、「人」を商品のように、足りなければ補充し、過多になれば削る、そんな簡単に取り替えがきくかのように捉える、そんな官僚や政治家たちの意識が「ヒト」という言葉に象徴されているのでしょうか。
だから、福島原発事故であのように、被害にあった人たちを、そしてまた国民の命を軽視するような言動がとれるのでしょうか。



次に「数字信仰」。
「経済成長」への信仰には、「数字信仰」が隠されているけれど、この「数字信仰」は様々な分野に広がり、「生きる意味」の実感を阻んでいるのではないか、「数字信仰」からの解放が求められている、と著者は言います。

例えば、学校でのテスト。
もちろん、小学校の「読み書きそろばん」レベルであれば、きちんとできるようになってほしい。
また、テストの点数もいいにこしたことはないかもしれない。
と前置きした上で、こう言います。

ひとりひとりが固有の「生きる意味」を持つ存在だということを無視して、誰に対してもいい点数を取りなさい、いい学校に進学しなさいといった言説を、何の疑問も感じずに発し続けることは、他者の人生に対する根本的な尊厳を欠いているのではないか。そして、そのような言い方ばかりを聞かされているうちに、私たちは、ひとりひとりがかけがえのない「生きる意味」を持った存在だという間隔を失ってしまう。人間ひとりひとりが生きることの尊厳を感じられない社会への道は、実は日常生活の何気ない言葉の繰り返しから生まれているのではないか。

(中略)

「生きる意味」が無視され、「数字が50点の生徒」といったように、数字がその生徒全体を表現する指標ででもあるかのように扱われるとき、私たちは傷つき、しかしそれでも「いい子」になろうとする若者は、数字の支配下に自ら入ることを選び、「生きることの意味」を数字へと明け渡していくのである。


飛び抜けていなくてもいい、平均点で。みんなと同じくらいで。
そうしているうちに、自分がよく分からなくなってしまう、著者が危惧している「透明な自分」へとなっていってしまうのかもしれない。

みんな同じような感じになってしまい、だから、他の誰かと交換可能なのだととらえられていくのでしょうか。


それが今の日本を覆っている空気なのでしょうね。
そして、それはすぐには変わるものでもないでしょう。

だから、子どものことを考えると、今、本当に家族のあり様が大切になるんでしょうね。
外に出れば、数字で評価される。数字一つで、あたかもこれからの人生が方向づけられてしまうような。
だから、子どもにとって家族は
社会の中で、信頼できる、ぜったい見捨てることがない、困ったときや傷ついたときに、一緒にいてくれる、そんな支えとなる、安全基地となれるように。
そういったものが、私たちの「内的成長」を深く支える基盤になる、そんな支えがあるからこそ、私たちは人生にチャレンジをすることができる、と著者は言います。

そして、生きる意味を、見出していくのでしょう。
自分は、人生から何を問われているのかを、その答えを見つけだしていくのでしょう。


ストレスの多い日々の中で、疲れてしまったとき、傷ついてしまったとき、そこにさえ帰れば、安らぎがある、そんな家庭、家族となりたい。

| 本・人生、啓発 | 18:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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勇気

聖書を読むときに併用している冊子、Word for today の今日・1月29日のメッセージ。
原文コチラ


なぜ勇気が必要なのか?

1955年、ローザ・パークは、白人に席を譲るのを拒否してアラバマで逮捕されました。
その後、アメリカ連邦最高裁判所が、人種差別が憲法違反と判決を出すまで、ボイコットと流血が続きました。
ローザは記しています。
「何をしなければならない分かれば、恐れを追い払うことができます。その日バスに座ったとき、歴史が作られるとは考えてもいませでした。家に帰りたいだけでした。しかし、私は決断しなければなりませでした。席を渡さなかった為に、その後、私が直面しなければならないことや犠牲は、重要なことではありませんでした。どんなことに私が直面しても、その事に耐える力を主(イエス・キリスト)が与えてくださると私は感じました。誰かが、立ち上がらなければならない時だったのです。私の場合は、座ったままでいることでしたが…」

予想もしないときに勇気が示されます。
そのようなとき、あなたのすることがあなたを変え、周りの人も変えることができるのです。

変わった慣例をもったあるペルシャの将軍の話が伝えられています。死刑を宣告されたスパイの話です。
将軍はスパイに「射殺部隊」か「大きなドア」かのどちらがいいか尋ねました。
そして、スパイは射殺部隊を選びました。
将軍は側近に言いました。
「人は知らないものよりも、知っているものを好む。しかし、私は選択を与えているのだ」
すると、側近が大きなドアの後ろには何があるのかを尋ねました。
「自由だ。だが、そのドアを選ぶ勇気のある者はほとんどいない。」
と将軍は答えました。

ありきたりと成功を分ける線は勇気です。
ソロモンに王座を譲るとき、ダビデ王は「強く、雄々しく、そして事を成し遂げなさい」と言ったのです。



勇気の有る無しが何かを変えるときがある。
ローザの勇気は、歴史を作りかえるきっかけとなった。
スパイの勇気の無さは、自身を破滅へと導いた。

ローザの勇気は、なかなか持ち得るものではないと思う。
スパイの勇気の無さは、多くの人に見られるものではないだろうか。
知らないことより、知っていることを好むことも。


ローザの勇気、聞くだけなら、「素晴らしい」と思うのですが、私にはとてもそれほどの勇気は持ってないとも思います。
小さな声をあげるのが精一杯。でも、

小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています」とは、イチローの言葉。

だから、まずは出来ることから。
あきらめずに、コツコツと。

| 心に響いた言葉 | 20:23 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ふと思い出したこと

本当にひとり言・・・ふと思い出したこと。


7~8年程前でしょうか、3ヶ月程、派遣会社から地元の電力会社の仕事を在宅でしたことがあります。
ある原発建屋の手書き図面をCADで描き直すというものです。

1枚仕上げるのに簡単なものもあれば、複雑なものもありましたが、とにかく単価がかなりよかったのです。
3ヶ月程の短期のものでしたが、労働時間を考えれば、普通に働くよりは時給計算すると、よかったと思います。
当時は電力会社がどんなものであるか、全然理解していませんでしたので、電力会社の損にはならないのかしら、と思っていました。


ただ、それ以上に驚いたことがあります。
それは、図面の所々に、素人の私にも分かる間違いがあったのです。

手書きで書かれている数値で配置していくと、全体の数字が合わない。
平面図と断面図の整合性がなく、明らかにどちらかが間違っている。
・・・といったような間違い。

特に、平面図と断面図の整合性がないものは目に尽きました。
図面を読むのはプロというわけではありませんので、主人に見てもらっても、やっぱり間違っている、と。
私 「こんないい加減な図面で、よく建設できるよね」
主人「所詮、あいつらは何も現場のことなんか分かってないからな」
そんな会話をした覚えがあります。

そして、会社に問い合わせると、やはり図面が間違っていたのです。
そういう小さな所さえいい加減だったので、そんな小さな綻びが積もりに積もっているのかもしれない・・・。


確かに間違いは誰にでもあるものです。
ただ、それを放っておくか、直ちに修正するかで、結果は違ってくるでしょう。
手書き図面が間違っていたとしても、現場でその図面を見ながら建設していくときに、間違いがあれば修正するはずです。
そういったことを、「小さな間違いだから」ということで放置しておいたのでしょうか?


「仕事にプライドを持っていないのかな」って思ったのですが、プライドを持ってないから、人の命を危険にさらすことができるのでしょうか?



この日記とはあまり関係ありませんが、仕事に関する名言を探してみました。

知るということが難しいのではない。知ったことをどう自分に役立てることができるのかが難しいのである。(by 韓非)

賢者は歴史に学び、愚か者は経験に学ぶ。(by ビスマルク)

| ひとりごと | 21:11 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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グループ分けから思ったこと

お兄ちゃんの担任から聞いた話です。

家庭科の時間に、お世話になった先生方にサンドイッチを作るから、そのグループ作りをすることになった。
子ども達が好きにグループ作りをすることに。
そして、お兄ちゃんは同じ支援学級の男の子と女の子3人の5人グループに。

先生がやってきて、「このグループでいいですか」とみんなに聞いたそう。
すると、お兄ちゃんが「いつも同じような友だちなので、今回は今まで一緒になったことのないお友だちとのグループ作りがいいと思います。」と先生に言ったそうです。
すると、先生もいい意見だということで、みんなに聞いてみたのですが、もうグループができたあとだったこともあり、お兄ちゃんの意見はお流れに。

これを聞いて、お兄ちゃんも成長したなってしみじみと感じました。
その場の空気を読んでしまうと、そういった発言はなかなかしにくいものだと思いますが、空気を読まないお兄ちゃんは自分の思うことを発言できる。
空気を読まない人のことを「KY」と揶揄することがありますが、考えてみれば、そういった発想は貧しいのではないかと思います。
「空気」って読まないといけないものなのでしょうか?

鎌田實さんが『空気は読まない』という本を書かれているようなので、一度読んでみたいと思います。



グループ分けで思い出すことがあります。
それは、「自主性」と「したい性」。

以前ブログにも書いたのですが、新聞でこんな記事を読んだことがあります。

高2の長女が小2の頃、学校で「好きな子同士でグループを」ということが多くなった。
娘がおろおろしているうちに遠足、校外授業などでグループができた。
3年の終わり頃、「好きな子同士で固まっていないとみじめなんだ。自分でなくても誰かがグループに入れないのはつらい」と打ち明けられて知った。
 担任は「自主性に任せようと話し合い、好きな子同士と、子どもたちが決めた」と言った。
PTAの友人も「好きな子同士の方が子どもも喜び、思い出になる」。



それを読んだ時に、私はそれは「自主性」ではなく、「したい性」ではないかと。
渡辺和子さんがその著書の中でこんなことを書かれています。

 今、子どもたちの主体性を重んじる教育ということがよくいわれていますが、
 現実には、「したい性」が伸び放題になっているのではないでしょうか。
 子どもたちが真に自由になるためには、したいことを我慢し、または自分に「待った」をかけて、しなければならないことを先にする "もう一人の自分" を育ててゆくことが大切なのです。

(『目に見えないけれど大切なもの』より抜粋)



また、mixiで知り合ったある方は、こんなコメントを寄せて下さいました。

自主性と自律性は、常にセットなんですよね。
自らを律し、制することのできない者に、真の主体性は無いと。

でもこれは、大人でさえ難しいことです。
「しなければならないこと」が、自律ではなく他律になってしまうと、これはこれで、非常に危険なことだからです。
不当な要求に対して、「自我」を主張することも必要です。

子供たちには、理屈よりも具体的に、まずはどんな場合でも、自分のしたことの結果をよく見つめさせ、考えさせ、良きにつけ悪しきにつけ、自分自身で責任を取らせ、次に結びつける。
仕事も勉強も、そうした積み重ねが大切だということを、一緒に悩み、考え、成長してゆけたらと思います。



今日のお兄ちゃんの学校での様子から、この「自主性」「自律性」「したい性」ということを考え、こういったメッセージを読み返したときに思いました。

また、日本の現状のことになってしまうのですが、為政者たちが持っているのは「したい性」。
リーダーシップをとって何をしなければいけないかを考えたり、決めたりしているのではなく、ただ自分達のしたいことだけをしている。
その結果がどうなっても、責任をとるなんてことは眼中にはない。
そしてそれは多分、結果が出てくるときには、責任を取らなければいけない立場にいない、と思っているから。
だから、できるときに、したいことだけをしているのではないか。

そして、そういった政治家や官僚が多いのは、点数至上主義の教育の故なのでしょうか。

| 今日の出来事 | 20:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント』

慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント
上田紀行

朝日新聞出版 2011-06-17
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先に読んだ『生きる覚悟』とも重なる部分もありますが、今まで気づかなかった、そこまで思いを馳せることができなかった視点に気づかせてくれました。


「震災後を生きる心のマネジメント」というタイトルを読むと、被災された方々の心のマネジメントについて書かれているのかと思ってしまいそうですが、そうではなく、「被災地から離れたところにいて、実際に被災していない人たちの心のマネジメント」について書かれています。


色々と深く教えられましたが、その中で一つだけ書きたいと思います。


震災から復興していくために、日本人には何が必要かと聞かれたら、何と答えるでしょうか?

人それぞれに答えはあると思いますが、著者の上田氏は「怒り」「憤り」だと言います。
そして、怒りには2種類あり、必要なのは「慈悲の怒り」だと。

「慈悲の怒り」とは、社会的な問題に心からの関心を寄せて、何とか社会の不正をただしていきたいという気持ちによって生じる怒り。
そして、怒りが向かう先は「人」ではなく、「行為」。
自分に危害を加えている相手に対して、「あいつを殺せ」という言葉をぐっとこらえ、その相手がなぜそのような悪となってしまったか、人を苦しめるその根本的原因、システムを解明し、改善していくこと。

もう一つの怒りは、悪意から生じているもので、怒りは「人」に向かう。
例えば、誰かから危害を受けたら「こいつが悪い、こいつを殺せ」と叫ぶようなもの。
ある状況の中で、誰かを名指して怒りをぶつけるだけで、水戸黄門的な勧善懲悪で溜飲を下げる文化に長年親しんできたため、その悪を生みだした状況自身を変えていくことができない。そして同じ過ちが何回も繰り返される。



このところを読んでいて、思ったのが東電のこと。
東電は赦せない、そういう感情を持っている人はかなり多いと思います。
私もその一人です。
ただ思ったのは、そうやって感情的に東電は赦せないとの思いを国民に持たせ、「東電国有化」などのような言葉を操り、国民の怒りを収めようとしているのではないか。
国民に好きなだけ「東電バッシング」をさせ、ただ感情的な怒りだけを利用し、「水戸黄門的な勧善懲悪で溜飲を下げ」させ、時が経って、ある程度収まった時点で、何ごともなかったかのように、今回の事故を引き起こしたシステムは温存させようとするのではないか。


人間の中には善と悪の両面があります。そのどちらが出てくるかは、まさに縁起によって、つまり関係性によって決まるのです。
(中略)
ですから、私たちが考えるべきは、この社会をいかに人間の善きところを引き出せるようなシステムにしていくかということです。
そしてもし現実の世界が人間の悪の部分を引き出してくるようなシステムであれば、「大きな怒り」を持って、そのシステムを変えていくことなのです。



東電や官僚や原子力村の人たちに対して怒りはあるよ、でもそれ以上に、この怒りを、そういった状況を生みだしたシステムを変革するためのエネルギーに変えていくからね。
今度こそ本気だから、もう誤魔化しは通用しないと、著者の言葉を借りれば、「心を鬼にして、不動明王の憤怒相をもって、慈悲からの怒りを発さなければいけない」。
そんな覚悟をしっかりと示していかないといけない。


「慈悲からの怒りを発さなければいけないのです」との著者の主張はそうだと思います。
ただ、それだけでは足りないとも思います。

人としてどのように生きるか、哲学というのでしょうか、そういったものがなければ、どこかぶれてしまうのではないかと・・・。


内山節氏の『文明の災禍』に書かれていたメッセージを思います。

経済は私たちの生活のための道具にしなければいけないものなのに、いまでは働く人たちの生活を犠牲にしながら経済発展だけを考えるような体制ができてしまった。経済発展を軸にして社会を再整備していくという「戦後の思想」を、みつめなおす、ということが不可欠なのだと思います。


巨大システムにのみ込まれた時代から、しかもその巨大システムがとり返しのつかない禍さえひき起こす時代から、そしてこの構造のなかに人間たちがのみ込まれてしまった時代から、人間たちが確かな生を取り戻していく時代への転換が、私たちにとっての第一の課題なのである。それができていけば、政治も経済も社会も少しずつ変わっていくだろう。巨大な政治システムや巨大な経済システムに翻弄されていく時代を、人々は終わらせていくだろう。



今の政治をみると、なかなか厳しい道のりだとは思いますが、子ども達に残したい未来を、未来の子ども達が確かに手にすることができるために、人としていかに生きていきたいの考えながら、あきらめずにいければと思います。

| 世の中のこと | 20:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「未来が楽しみ」と言えたらいいな

今日、「ALWAYS 三丁目の夕日'64」を観てきました。
良かったです。
泣いて笑って、心がほっこり温かくなりました。
一作目・二作目よりも涙、涙でした。

1964年と言えば、私が生まれた年。
映画の舞台は東京で、私が生まれ育った宝塚とは違いますが、でもあのような風景の中で母は私を産んでくれたのだなって。
生まれたばかりの私には当時の風景は記憶にはありませんが、でも、あの頃が懐かしいなって感じるのは、やはりどこかに当時の風景が記憶されているからなのでしょうか。

三浦友和扮するお医者さんが「幸せって何でしょうな・・・」って、つぶやく場面がありました。
相田みつをさんの詩に、「しあわせは いつも じぶんのこころがきめる」ってありますが、自分の心が決めることであるかもしれないけれど、同時に、やはり身近にいる人も、「色々あるけれど、幸せだ」って思えることも大切。
そんな、色々あるけれど、幸せそうな風景がこの映画から感じられる。

また、薬師丸ひろ子扮するお母さんが、息子を見つめながら「未来が楽しみだわ」って、ポツリと言います。
「未来が楽しみだわ」、そう純粋に思えたあの時代。
でも、今は「未来が楽しみだわ」とは、なかなか言えないのではないかなって。
どちらかと言うと、「未来が心配、不安」と思うことのほうが多いのではないかな。
「未来が楽しみだわ」って言える、そんな日本であってほしい。

そして、映画を観ていて一番感じたのは、あの頃はつながり、助け合えるつながりがあったのだなって。
近所の人が、お節介なところもあったかもしれないけれど、気に掛け合い、ちょっと座り込んで愚痴を言い合ったり、時には喧嘩をし、でもいざという時には助け合う。
そんなことが普通にできていた時代だったのかなって。


『慈悲の怒り』の中で、こんなことが書かれていました。

3・11直後、東京でも買い占めが起こり、スーパーから商品が消えていきました。
そういった風景は寂しい。
でも、その行動には前提がある、と書かれていました。

その前提とは、なんでしょう?

私には想像できなかったのですが、それは、
「自分が困っても、誰も助けてくれない」という前提
誰も助けてくれないから、買い込んでおかなければいけない。

考えてみれば、なんとも寂しいことだと思います。
身近にそういうつながりを感じられないから、携帯やネットで誰かとつながっていると感じていたいのかもしれない。


困った時にはお互いに助け合いましょう、それは本当はきっと人として当たり前のことなのだと思います。
でも、「勝ち組」「負け組」という言葉が広がり、なにかあれば「自己責任」という言葉で当事者を切り捨てていく。
そんな空気が日本に蔓延してしまい、「勝ち組」「負け組」っていう言葉に嫌悪感を抱いていたとしても、「勝ち組」にはなれなくても、「負け組」にはなりたくないと思い、自分が何とか勝ち抜いていくことに汲々としてしまっているのかも・・・。


「勝った、負けた」の世界ではなく、困った時には助け合い、支え合う、そんな社会をもう一度築き上げていく必要があるのでしょうね。
そして、助け合い、支え合うことは、国民一人一人が、その生きている場所でできることなんですよね。


幸福というものは、一人では決して味わえないものです。(by アルブーゾー ソ連の劇作家)

| 心に響いた言葉 | 18:50 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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どの方向に進んでいくの?

大事なのはわれわれが占めている場所ではなくて、われわれが進んでいる方向である。(ホルムス)
(『文読む月日』トルストイ著 1月24日より引用)


『文読む月日』はトルストイが古今東西の聖賢の名言を集め、序文だけでも100回以上の推敲を重ね、6年の歳月を費やし、心血を注いで完成させたものということです。

簡単に言ってしまえば、一日一章のような本ですが、かなり読み応えがありそうです。


今日、1月24日の名言は8つ紹介されていて、冒頭の言葉はそのうちの1つ。

「われわれが進んでいる方向」との言葉に、やはり日本のことを考えてしまいました。
どの方向に進んでいこうとしているのかと。

「これだ」とそう簡単には答えは出せないと思いますが、でも、未来を見据えた時、その中で守らなければならない大切ものは、今の段階でも分かると思うのです。
でも、そういった姿勢は為政者からは感じられない。


『生きる覚悟』を読んだのですが、そこで福島の子ども達のことが紹介されていました。
去年の9月に福島の子ども達を静岡に招いて東京の子ども達とキャンプをしたときの様子です。

食事で野菜が出るたびに、産地を聞いてくる子どもが何人もいる。
その中で、ある中学生はこう言ったそうです。
「もし放射能に汚染されている野菜なのだとしたら、僕が率先して食べて、小学生の子ども達には、もっと安全な野菜を食べさせたい」

キャンプが終わり、別れの時、東京の子ども達が「今度は僕たちが福島に行くね」と言ったら、
「ダメだよ、君たちはぜったい汚染された福島なんかに来たら」と言いつつ、福島に帰るバスに乗り込んでいった。



ここを読んだ時、泣きそうになりました。
筆者の上田氏も書かれているのですが、「子ども達に、こんな思いをさせては絶対にいけない」


どの方向に進んでいくのか、すぐには答えは出せないかもしれないけれど、でも、子ども達はどんなことがあっても守る、それだけは大切にして欲しい。

これからの日本、あるいは未来を担っていくのは、子ども達。
どこかのお偉い御用学者さんや、省益しか考えない官僚ではない。
次の選挙のことしか、既得権益しか頭にない政治家ではない。

子ども達。

子ども達に、自分達が受け継いできた美しい地球を残していきたい、そう思うならば、進む方向は見えてくると思うのですが。



それにしても、上田紀行氏はいいですね。
『慈悲の怒り 震災後を生きる 心のマネジメント』も読んだのですが、これもお薦め。
また、教えられたことを、2~3日内に書こうと思っています。
図書館で借りて読んだのですが、ぜひとも手元に置いておきたい一冊。


トルストイは好きな作家の1人です。
トルストイの言葉で今でもよく覚えているのがこれ。

悪魔のしわざはみごとでも、神のしわざはゆるがない

| 心に響いた言葉 | 20:43 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『生きる覚悟』

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私たちの社会での自明性、これが当たり前と思われているものと、私たちが本当に望んでいるものが、かけ離れたものになってしまっている。
それにもかかわらず、私たちは自分が望んでいない、社会の自明性のほうに従って突き進んでしまうのは、なぜなのか?

そんな筆者の問いかけがあります。

何故なのでしょうか?

私がまず一番に思い浮かんだのは、「考えていないから」。

筆者は一言で言えば、こういうことだと言います。
私たちが自分で望んでいるものよりも、他の人からどう見えるか、「人」の目からの評価を無意識に優先させてしまっているからでしょう。

そしてまた、
公約数的な自明性の高い言葉を言って「そうだよね」などと頷いているうちに、そのレベルの絆しか築けなくなってしまっていったのではないか。


著者は言います。
今まで大多数の日本人は大勢に流されて生きてきたのではないか。
みんなとなんとなく上手くやっていけたらそれでいいじゃないか、そういうところで生きてきたのではないか。
そして、そこで思考停止してしまっている。

でも、もうそんなことではいけない。
ただ大勢に流されて生きる、社会の自明生にとらわれて、自分の頭で考えない、他人の評価ばかりを気にする、そんなことはもう止めて、ちゃんと自分の頭で考え、何を心の軸として生きるのか、自分の人生という大地にしっかりと根を張り、人生の幹を太く育てる、生きる覚悟を持って生きよう、と。


楽なんですよね、きっと。
自分の頭で考えて判断して生きるよりは、大勢に流されて生きていく方が。
人と違う考え、行動をしていては、ういてしまう。
無難に生きなきゃ。失敗するのはいやだし・・・。
だから、自分が本当に望んでいることよりは、他人がどう思うかの方を優先させてしまっている。

でも、その結果が、あの福島原発事故でもあるのです。

 これまで私たちは、世間の中でいかにうまく生きていくかという「処世術」ばかりを追求して、自分の人生をいかに処していくかという、いわば「処<生>術」の次元をなおざりにしてきてしまったのではないでしょうか。

(中略)

 世間に流されるのではなく、世間に向き合い、人生に向き合い、そこから一歩踏み出していく「処生術」への転換こそが求められているのです。
 そして生きる「覚悟」です。
 自分の中に確固とした「覚悟」を築くこと、それが私たちに求められています。世間に流されて生きるのだけが人生ではない。他人の期待どおりに生きるのだけが人生ではない。そして社会の自明性に添って、自分の頭で何も考えず、ただただ処世に生きるのが人生ではない。
 自分自身が、自分の人生という大地にしっかりと根を張ること、そして人生の幹を太く育てること、それが生きる「覚悟」を持って生きるということです。世間から何を言われて、ちょっとやそっとじゃびくともしない。自分はこういう生き方を志して、自分の人生を生きている。しっかりとそう言って生きていけるかどうか。



また、なるほどと思ったのが、今まで蔓延していた「得」の絆から「徳」の絆を目指そう、とのメッセージ。

この「絆」の中にいると、「得」をする。この人とつながっていると、「得」をする。だからつながっていようといった「絆」が、これまで蔓延していたのではないでしょうか。そうした「得」の絆を選択してきてしまったことによって、「徳」の絆が見失われてしまったのではないか。




「得」の追求や目の前の同調圧力に待ったをかけることができるのは、「心の幹」のしっかりした人、芯のある人。
そして、そうした人は、「向こう側からの呼びかけ」を感じることができると言います。

そんな言葉を使うと、「宗教」って思ってしまうかもしれないけれど、そうとばかりは言えません。
例えば、今ではあまり聞かれなくなったかもしれませんが、昔は「お天道様が見ているよ」と言われることもあったように、そんな「見えない他者」からのまなざしを感じながら生きていた。

そんな「見えない他者」からの呼びかけには、もうひとつ、「未来からの呼びかけ」があるとも言います。
あなたはどんな世界を私たちに残してくれますか?」という未来からの呼びかけ。

「そんなこと、知らないよ」って切り捨てる人はそうそういないと思うのですが・・・。
次の選挙のことしか考えない為政者、官僚、原子力村の人たちくらいでしょうか。

 いま目の前にないもの、見えないものをイメージすることができる、それは、人間を人間たらしめている想像力という最高の能力です。
 しかし、現代社会において私たちは、目に見えているものに意識を集中し、お金や数字といったものが目に見えていちばん確かなものであるかのようにしむけられてきました。(中略)その閉じられた縮小された世界で、私たちの「得」の絆だけが発展していったのです。
 「徳」とは、目先の「得」にとらわれず、大きなまなざしから世界を見るやり方です。そして、自分だけの「得」にとらわれず、ここに見えていない人たちのことを感じ、そして将来世代のことを考えて行動するでしょう。「徳」とは、ここに見えていない世界を感じながら、大らかな視点から行動することなのです。



私たちは今、ここに生きている。
それは紛れもない事実。
そして、それは過去から繋がってきたから。
その繋がりを、未来の世代へとバトンタッチしていく役目があるのでないでしょうか。


ただ流されて生きていける時代ではなくなった。
未来へと命を繋げていくためには。

本当はどんな世界に住みたいのか。
本当どんな風景を見たいのか。

「覚悟」するべきときなのです。


一人一人の生きる覚悟、自分だけの得にとらわれず、徳の絆を築いていく、未来の世代のことを考えていく。
誰かが先頭を切ってやってくれるのを待っているのではなく、自分でも一歩を踏み出してみる。

一人の100のパワーもいいけれど、それよりも1のパワーを持った覚悟を決めた百人。
受け継いできた命を、未来へと繋げていくために。

流されて生きるな。


「がんばろう!」や「絆」に潜む罠等、他にもたくさん、教えられたことはあるのですが、書き出すときりがありません。
お薦めの本です。


著者はツイッターもされていて、ツイートすると返信を返して下さったのですが、それが素直に嬉しかったです。

| 本・人生、啓発 | 12:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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目を疑ったニュース

原発賠償に課税とは
「風評被害」や給与減損失への支払い
収入扱い、被災地困惑

ツイッターで知った、赤旗に掲載されていたニュースです。(記事全文コチラ

(一部抜粋)
国税庁は精神的損害や避難費用などに対する賠償金は非課税としています。しかし、事業の避難指示での営業困難、「風評被害」による減収、出荷制限指示による損失に支払われるものは、事業所得などに関わる収入とみなされ、必要経費を控除した残額が課税対象になります。農漁業や製造業、サービス業など、あらゆる業種が対象になります。

このニュースを読んで、本当この国の官僚は腐っていると思いました。
この原発事故を引き起こした当事者、加害者であるという自覚が皆無なのですね。
東電を守ることには必死だけれど、国民はこのように簡単に切り捨てていくというのが、ここでもしっかりと示されている。
どんな育ちをしたら、こんなことを平気でしようとする人間になるのでしょうか。
官僚や政治家になって、権力やお金を目の前にすると、人間というものはここまで地に落ちるのでしょうか。


トルストイの『文読む月日』の今日、1月24日の箇所にはこんな言葉が。

もしある人が、自分の家に屋根を葺いたり、窓を取りつけたりせずに、雨風のたびに外へ飛び出して、風に吹かれ雨に濡れながら、雨雲に向かってお前は右へ行け、お前は左へ行けなどとどなっているのを見たら、われわれはその人のことを、あれは気が狂っているのだと言うにちがいない。しかしながら人々が悪を行うのを見て、腹を立てて彼らを罵り、自分の内の悪を根絶する努力をいっさいしないならば、われわれもその狂人と同じようなことをしているわけである。自分の内の悪を避けること、つまり屋根を葺き、窓を取りつけることは、われわれにもできることだけど、世の中の悪を根絶することは、雨雲に命令することと同様、困難なのである。もし人々が教える代わりに、ほんの稀にでも自分自身を教えるようにすれば、世の中の悪は次第に少なくなり、人々の暮らしは次第によくなるであろう。


朝、これを読んだ時に、「自分自身を教えるようにすれば、世の中の悪は次第に少なくなり」というところがひっかかりました。
いくら、自分自身を教えようとも、悪を為す人は、やはり存在するのではないかと。


そんな中、夕方に『生きる覚悟』を読んでいたら、そこに

みんながこう言っているから、こうやっているからと、大勢に世間に流されるのではなく、自分はこういう生き方を志す、自分の人生をいかに処していくか、自分の頭でしっかりと考え、人生の幹を太く育てていく、そんな「生きる覚悟」は、やがてはこの日本社会をより幸せな社会へと変えていく、大きな一歩となる、というようなことが書かれていました。


トルストイのメッセージと共通するものがあるのではないでしょうか。


おかしいことはおかしいと、間違っていると思えることは間違っていると、批判することは忘れずに、そして、一方、自分自身はどんな生き方をしていくのか、生きる覚悟を持ち、大勢に流されないような人々が増えると、ゆっくりかもしれないけれど、日本は変わってくるのでしょうか。

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まだ読んでいる途中ですが、この『生きる覚悟』もいいです。お薦め!

| ひとりごと | 20:45 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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こんな国だけど・・・

勘違いだったのかな。
ブログのハンドルネームを一度変えたのですが、その時に、「愛希穂」としたら、「4文字以上で」とエラーメッセージが出ました。
で、仕方ないから最後に「。」をつけて「愛希穂。」と。
でも、色々とブログを訪問するうちに、2文字の方もおられることに気がつき、試しに「愛希穂」で変更してみたら、いけました。
いったい、あの「4文字以上で」というメッセージはなんだったのだろう?
見間違え?
なにはともあれ、「。」なしの「愛希穂」になりました。




ツイッターをしているのですが、と言っても、他の方のツイートを読むだけですが、ある神学者の方のツイートを紹介されました。
少しだけ読んでみたのですが、その中から2つ。


 対話が途絶えるところに、暴力が発生する。暴力(武力)は暴力(武力)を呼び、恐怖は恐怖を呼ぶ。

これを読んで、先日の保安院での市民の方々と官僚たちとのやり取りを思いました。
加害者である者たちが、何の反省もなく、一方的になおも自分達のやり方を推し進めようとする。
本来なら、加害者は被害者の前に頭を垂れるはずなのに・・・。
対話をしようとしない加害者たち。
全ての責任は彼らにあるのに、彼らの意思に従わない人たちを悪者扱いにする。
その結果、自分達に力の行使がなされたら、それを非難する。
でも、自分達が力の行使をするときには、当然の権利の如く振る舞う。

それって、おかしいと思うのですが……。


 地震や津波が「突然の死」をもたらすのに対して、原発事故は「ゆっくりとした死」をもたらす。日本全土は、居住不可能な「死の土地」になりつつある。それが若干「ゆっくり」進行しているために、目を逸らされやすい。

目を逸らされて、今は、消費税問題に思考をシフトされつつあるのでしょうか?

彼らのシナリオ通りに動くほど、何も考えない国民は、もうそんなにいないと思うのですが、3・11以降は特に。
自分達の信頼はすでに地に落ち、踏みつぶされたことが分かっていないのかな・・・。


昨日のモーニングバードで、売場1坪で年商3億円の和菓子店「小ざさ」社長・稲垣篤子さんが紹介されました。
そこで、稲垣さんのお父様の教えが紹介されました。

「貯金通帳の数字ではなく、お客様の信用を貯金しなさい」

そして、今では多くのファンを持ち、一日限定150本の羊羹を買うために、夜明け前から並ぶ人もいるそうです。
信用を貯金した結果、多くの人の心をつかんだ稲垣さん。

一方、自分達の通帳の数字を増やすことだけに専念した結果、国民の信用をなくした指導者たち。
でも、国民の信用をなくしたことに、何の痛みも感じていないのが哀しい・・・。

ただ、そんな指導者たちのいる国だけど、希望を失わないでいきたいと思います。


最近、よく思い浮かべる詩・・・

二度とない人生だから(坂村真民) 

二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないようこ
こころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く便りをしよう
返事は必ず書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの星星の光にふれて
わがこころをあらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の実現に努力し
そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる若い人たちのために
この大願を書きつづけてゆこう

| ひとりごと | 14:30 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

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