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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2012年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年03月

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育児と育自

私が先生になったとき

私が先生になったとき
自分が真実から目をそむけて
子どもたちに本当のことが語れるのか

私が先生になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるのか

私が先生になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにいったいどんな夢が語れるのか

私が先生になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸を張れと言えるのか

私が先生になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるのか

私が先生になったとき
ひとり手を汚さず自分の腕を組んで
子どもたちにガンバレ、ガンバレと言えるのか

私が先生になったとき
自分の闘いから目をそむけて
子どもたちに勇気を出せと言えるのか

(作者不詳;宮沢賢治とも言われたことがあるようですが、どうも違うようです)


渡辺和子シスターの著書『目に見えないけれど大切なもの』に引用されていました。
再読なのですが、全然記憶に残っていませんでした。
いつも訪問している ざまきさんがこの本に書かれていた「自分の人生に左右されること以外でイライラしない」との言葉を引用されていて(コチラ)、もう一度読み直してみましたが、思った以上に内容を覚えていないことにちょっとショックだったりします。


この詩を引用して、渡辺和子シスターは「子どもの教育にあたる者は、まず、自分自らの生き方を正してかかれという厳しさである」と述べています。

同じことは、親にも言えるでしょう。
自戒をこめてですが、自分自身を正さずに、他人にあれやこれやを要求していてはいけない。
よく思うのですが、育児には親の育自も必要だと。

この詩の「先生」を「親」と置き換えて読むと、ズキッとします。



渡辺和子シスターは、学校についてこうも述べています。

学校は、単なる知識の詰め込み、進学のための通過点として存在するのではいけない


教師を通し、また友だちを通し、生きて行く上でのあれやこれやを体得していくのではないでしょうか。
学校がその全てではありませんが、大きな影響を与えるものだと思います。
だから、学校は知識を詰め込み、経済効率の良い子どもを作り出しさえすればいいのだ、というような考えには賛成できません。
もちろん、それなりの知識は必要で、勉強を疎かにしていいとは思っていません。
ただ、片寄りすぎが心配。


 教育の重要な役割は、知識の詰め込みではなくて、子どもたちに、一時的、衝動的善、つまり自分の欲望を抑えてでも、彼らを将来的に幸せにし、自由に導く真の善が選べる人間になるように育ててゆくことにあります。
 人間はとかく、追いつめられると、目先の善に走りがちです。だから私たちは常日頃、心にゆとりを持ち、物事に優先順位をつけながら生きてゆく判断と意志の訓練をすることが大切なのです。
 私たち大人がまず、自分の「したい性」を抑えて、主体性を身につけてゆかないといけないのでしょう。人は、自分が持っていないものを他人に与えることはできないからです。

| 子育て・教育 | 20:09 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「申し立て権 教育の質上げぬ」(朝日新聞投稿より)

今日の朝日新聞投稿欄「声」に「申し立て権 教育の質上げぬ」と中学生の投稿がありました。

「申し立て権」、初めて知りました。
ネットで見てみると、毎日新聞のサイトにありました。
教育基本条例案:大阪府修正案 指導力不足教員、免職も 保護者に「申し立て権」 

保護者が「この先生、指導力不足の困った先生」と思ったら、教師不適格と申し立てる権利を保護者に与え、研修を受けさせたり、場合によっては免職にできるというもののようです。

この「申し立て権」について、中学生はこのように書いています。(一部抜粋)

 教師と毎日顔を合わせるのは子どもであって親ではないのに、教師と子どもの間に親が介入するのはおかしいです。「申し立て権」はそれを助長すると思います。また、本当に悪い先生はいるかもしれませんが、いい先生が親の思い込みで「不適格」とされたら問題です。このようなことが起きたら、教師になりたいと思う子どもは減り、教師の質も下がるでしょう。
 教育の質を上げたいのならば、どうして日々教育に関わる教師や生徒の意見を、もっともっと聞かないのでしょう。橋下氏が本当に私たちのことを考えてくれているのか。じっくり考えなければ、と思います。



確かに指導力不足の教師はいると思います。でも、それは全て教師の責任なのでしょうか。
確かに、自己研鑽の足りない部分はあるでしょう。
大学では確かに専門教科の勉強はするでしょう。
でも、学校で大切な子ども達の関わりは大学では学べないと思います。
それは、現場、すなわち学校でそれを学んでいくのだと思います。
日本はいまだに教師一人に対して35人学級、40人学級。
教師は授業の他にも色々な仕事があり、子どもとじっくり向き合える時間が十分ないのではないかと思います。

しかも橋下氏は小中学校の留年制度も考えているようです。
子どもを追い詰め、教師を追い詰め、それで教育の質が上がるとは、私には思えません。
教育現場を本当に"企業" "モノ"としか捉えていないような発想。

昨日ブログに書きましたが、矢内原氏は、
人間を人格として見る考え方を身につけさせるのが、民主的人間を教育するということの主旨である
正しい人間観が与えられていないと、正しい教育はできない

と言っています。

この大阪府の教育方針にそのような姿勢を全く感じることができません。
あらゆる責任を子どもに、教師に押しつけようしているとしか思えません。
教育は、効率の良い子どもを作り上げることがその目的ではないはず。

ただ、モノの如く見られて子供達が、誰とでも交換可能だと思われて教師が、活力を失わずにいられるのでしょうか。



試験の乱用による過度の圧力はほかにも弊害を生んでいる。・・・子どもたちは、何を学んでいるかより、どんな成績をとるかに汲々としている。・・・
学んだ内容より成績が大切ならば、要は少しでも高い点数を取ることだ。・・・子どもや若い人たちは工場で作られる製品であり、その価値は試験の成績だけで決まるとするならば、彼らには工業製品として以上の倫理や道徳上の心の痛みなどあるはずがない。ものとして扱われた若者には、倫理や道徳上の責任など問われるはずもない。

(『急がされる子どもたち』)


通常、親と学校は子供を挟んで向かい合っているものだ。だから、すぐに衝突する。互いに「つながる」ためには、同じ方向を見て並べばいい。視線の先には子供がいる。
(『校長を出せ!バカ親とクソガキのワガママが学校を襲う』)


視線の先に子どもがいるようにしていくために必要なのは、少なくとも「申し立て権」ではないと思います。

そして、子ども達の声は、この中学生のように
「教育の質を上げたいのならば、どうして日々教育に関わる教師や生徒の意見を、もっともっと聞かないのでしょう。」
というものなのではないでしょうか。

まず、自分たちを見て、と。

| 子育て・教育 | 15:18 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『矢内原忠雄 私の生きてきた道』

原子力は、一方においては人類の生産力の発達を劃期的ならしめたとともに、他方においては破壊力をも劃期的に大きくしました。もしかしたら、人類は原子力の使用によって自滅するのではなかろうか。(中略)人類の文明の盛りにおいて、力の絶頂において、人類と人類が互いに殺し合って全滅するのではあるまいか。 (P138)

これは、1957年11月2日 甲府市で行われた講演会でのメッセージで、『矢内原忠雄 私の生きてきた道』に書かれていました。

この本は、図書館でたまたま目に止まり、借りてきました。
矢内原忠雄氏と言えば、内村鑑三の弟子で、クリスチャン、東大の元総長ということぐらいしか知りませんでした。
なので、どんなことを書かれているのだろうかと、とてもワクワクしながら読みました。
これもよかったです。面白くて一気に読み終えてしまいました。
なかでも「原子力時代と教育」の章はお薦めです。

原子力、科学技術ということを取り上げ、以下のようなメッセージを語っておられました。

 原子力と国際連合と科学文明をもつ現代というものは、幸福な時代であるか詛われた時代であるか。人類の将来に希望があるか絶望があるか。人間個人についても、人の生涯は確かな足どりをもって胸を張って歩くことが出来る人生であるか。それとも積極的な喜びと平安のない虚無的なものであるか。こうした矛盾と不安が現代の特色であります。
 しかし、だんだん人々がわかって来たことは、結局は人間の問題だということであります。
(P141)

「人間の問題」ということについてはこのように・・・
科学について言えば、その成果の何のために使うかということを決めるのは人間であり、人間そのものの責任である
そして、人間の問題は結局人間以上のもの、すなわち神に対する恐れというところから出てこなければならない
また、人間の心を啓発してゆくことは、教育の任務とするところである


 義務と責任の伴わないところに、権利と自由の要求はあり得ない。(中略)自由と責任を伴うところの人格という理念、人間を人格として見る考え方を身につけさせるのが、民主的人間を教育するということの主旨でありましょう。(P149)

 「教育によって人類の文明に目的を与え、その目的に適って、文明の利器と言われる科学技術を人類の幸福のために用いるような人間をつくるべきである、それは教育の任務だろう。」と言った外国の物理学者の言葉を受けて、このように言っています。

確かにそれは教育の任務であるけれども、教育というものも、その根本に人間観の問題がある。正しい人間観が与えられていないと、正しい教育はできない。(中略)人間とは何であるかという問題は、神を畏れ、神に信頼するとき、すなわち信仰の次元において初めてたしかな根拠づけを与えられる。


このような方が、今も東大の総長としておられたら、日本の教育のあり方も変わっていたのではないかとも思えました。
そしてまた思うのですが、効率的な人間を作り上げることを第一とするような橋下市長の教育に対する考え方とは次元が違うと・・・。


日本の水平線にはあちらこちらに黒い雲が起こり始めている。思想のない科学技術信仰のかけ声、地球の上の平和と自由の必要を忘れて宇宙にバベルの塔を築くことへのあこがれと喝采、教育に対する政治の圧力、再軍備の靴音等々、日本国民は民主主義のほんとうの精神も平和の心も体得しないままに、もと来た道へのあともどりを始めているのではないだろうか。

これは、矢内原氏が発刊していた『嘉信』に書いたメッセージ。昭和33年1月のものです。
半世紀以上も前の言葉ですが、この言葉がそのまま現在にも通じるのではないでしょうか。
発達したのは科学技術だけだったのかな・・・。


原子力村という存在を知り、御用学者というものを知った今、これも書き添えておきたい。

 「東京大学に望むこと」と題して:
学問をする学府としての権威を維持するということです。金さえもらえばどんな研究でもするというのではなくて、真理を学ぶ場所としての権威は維持しなければならない。(中略)教授でも学生でも、一般の学風として学問的精神、科学的精神の盛んな学府となり、政治的勢力と妥協したり、政治的宣伝によって軽挙妄動したりしないところの学風的気質を養うことは、東京大学のみならず、日本のために必要だろうと思う。・・・

 大学辞職の日の最後の講義で(「日本の理想を生かすために、まずこの国を葬って下さい」との発言が問題となって辞職に追い込まれました。でも敗戦後復帰):
実行者の現実の政策が本来の国家の理想に適うか否か、見分け得ぬような人間は大学教授ではない。大学において国家思想を涵養するというのは、学術的に涵養することである。浅薄な俗流的な国家思想を排除して、学問的な国家思想を養成することにある。時流によって動揺する如きものでなく、真に学問の基礎の上に国家思想をよりねりかためて、把握しなければならない。学問的真実さ、真理に忠実にして真理のためには何者をも怖れぬ人格、しかして学術的鍛錬を経た深い意味の国家思想、そのような頭の持ち主を教育するのが大学であると思う

(その最後の締め括りのメッセージがこれだそうです。ある学生の手紙より)
「諸君は身体だけふとって精神の痩せた人間にならないように……」


その矢内原氏の懸念が現実のものとなってしまい、精神が痩せたどころか、その魂を富・名声・権力に売り渡してしまった人をテレビの向こうにいっぱいいるような気がします。

| 本・人生、啓発 | 14:31 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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一声かけてみる

昨日書いたブログに頂いたコメントを読んでいて思い出したことがあります。

一つは、コメントを下さった方とのこと。
その方とは、数年前に行っていた教会で出会ったのですが、その方から声をかけてきて下さいました。
その方とは親子ほど年齢が離れているのですが、それ以来親しくさせて頂いています。
あの時、その方が声をかけて下さらなかったら、このように親しくはなっていなかったかなって思います。

もう一つはニュージーランドでの出会い。
初めての海外旅行で、ニュージーランド一人旅を選んだ私。
最終地のオークランド。
日本から「地球の歩き方」という本に載っていたホテルを予約して、書かれていた住所に降り立ちました。
でも、目の前はビル。ホテルらしき建物はどこにもありません。
困ったなーって思い、ビルの前で途方に暮れていたら、父親くらいの年代のニュージーランダーが近づいてきて、「どうしたの?」と。
で、本を見せて、「この住所のこのホテルを探しているのだけど、見つからない」と。
すると、彼は本を見て、
「確かにこの住所はここだけど、この辺りにホテルはないよ。
 ちょうど娘がこのビルの中の旅行会社で働いているから、聞いてきてあげるから、ここで待ってなさい」
しばらしくして出てきた男性。
「娘に聞いたけれど、これは住所が間違っている。私がそこに連れて行ってあげるよ」
ということで、そのホテルに連れて行ってもらいました。
しばらくして出てきて、彼は言いました。
「このホテルはあまり良いホテルじゃない。今日はここに泊まりなさい。明日、私はもう一度来るから」
そして、次の日やって来た彼は、
「昨日、奥さんに話したから、日本に帰るまで私の家に泊まりなさい」

彼には3日後に日本に帰ることを伝えていたのですが、3日間、彼は私を娘さんの部屋に泊めてくれて、奥さんの美味しい手料理とオークランド市内の観光と私を歓待して下さいました。
全然見ず知らずの日本人の私に。

それ以来、私は彼のことを「フランクパパさん。ニュージーランドのお父さん」と呼び、それがニュージーランドに10回訪問するきっかけとなりました。

今思えば、声をかけられてひょこひょこ付いていくなんて危ないことですが、でも、フランクパパさんが途方に暮れている日本人を見てかわいそうに思い、声をかけてくれた。そしてそれ以来、交流が始まった。

そして、私が教会に行くようになったのも、ニュージーランドでホストファミリーと買い物をしていたとき、私がパンに手を伸ばそうとした時に、
「日本人の方ですか?」
と声をかけてきて、これもまた父親の年代くらいのニュージーランダー。
彼に教会に来ませんか、と誘われて行き始め、その後帰国までの9ヶ月くらいでしょうか、教会に集い、帰国直前にイエス・キリストを信じる決心をしました。

一声かけてみる、それはとても些細なことかもしれないけれど、時にはそれが励ましになることもあると思います。
そう思うと、声をかけてみること、心がけていきたいと思います。


書いていることとは関係有りませんが、先日、「いのち」という歌を聞いて感動し、その歌が収録されたCDを取り寄せました。
そのCDが本当に素晴らしくて、音楽も歌詞も歌声も。
聞いていて本当に癒され、励まされ、感動をもらいます。
宮崎カリタス修道女会のシスター達による賛美CD「かけがえのない いのち -大切なあなたへ-」。(こちらで購入できます
そこから2曲サビの部分の一部を抜き出してみました。(歌は more>>に)

あなたは、一番大切
 世界でたった一つの命
 みんな一番大切 共に生きて行こうね

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| ひとりごと | 21:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ひとりごと・・・

昨日の朝日新聞の天声人語に、東京都内のマンションで45歳の女性と4歳の息子らしき遺体が見つかり、母親と見られる女性の死因はくも膜下出血、知的障害がある息子は突然母親を失い、空腹のうちに息絶えたらしい、と書かれていました。
そして、その他にも、時を経てその亡きがらが発見される事例が相次いでいると。
結びに「懸命に生きようとした人の終章を、天上や壁だけが見届ける酷。きずな社会への道は険しい。」と。

この記事を読んで、マザー・テレサのことを思いました。
マザー・テレサは「どうして、もう手の施しようのない人を助けるのか。治る見込みのある人を助けたらいいではないか」というような批判を受けることがあったけれど、「この人達は、今まで誰にも顧みられなかった。だから、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われ、心安らかであって欲しい」と考えていたそうです。

全ての人が誰かに見守られながら最期の時を迎えるというのは、難しいことかもしれません。
ただ、時を経てその亡きがらが発見される、そんな人たちが増えているというのは、心が痛みます。
ただ、そうは思っても、何か具体的にできる自分でもない・・・。

近くにいる人たちを心にかける・・・とは言っても、自分の日々の生活に精一杯で、そこまでの余裕がないのも正直な所なのかな。
そして、それが今の社会だとしたら、やはりどこかおかしいのかもしれない。
おかしいとは思いつつ、そういう流れに抗えないのは、思考停止をしてしまっているからなのか、あきらめなのか、そんな世の中の空気に支配されているからなのか・・・。

マザー・テレサの「愛の反対は無関心」という言葉が突き刺さってきます。

| ひとりごと | 21:23 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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今日という日

今日、子供の通う学校で「6年生を送る会」というのがありました。
1~5年生と先生方の出し物で6年生に感謝とエールを送る集いです。
親も見ることができます。
子ども達の出し物もいいのですが、先生方の出し物も面白くて・・・。
今回は「アルプスの少女ハイジ」を題材にしていました。
子ども達の練習もそうですが、先生方もかなり練習されたのではないかと思います。
子ども達は楽しそうに見ていました。

そして最後は6年生による合唱、「あすという日が」。
カメラで動画撮影をしていたのですが、涙が出そうになるのをこらえていました。
これでは、きっと卒業式は号泣かな。

6年間なんてあっという間ですね。
ついこの間入学したと思ったら、もう卒業です。
大きかったランドセルも今は小さく見えます。

毎日を今までの過ぎた日々と同じように過ごしていると思います。
特別な日でない限り、「今日」という日は、繰り返される毎日とほとんど変わらない。
でも、本当は一日、一日が新たな「今日」なんですよね。
「今日」の積み重ねが人生になっていく・・・。

それぞれの朝がきて
それぞれの今日を
旅だってゆく
それぞれの一日を
自分の道にするために
(『あなたが生きる今日が素晴らしい』きむ著)


子ども達の「あすという日が」を聴きながら、そんなことを思いました。
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それにしても、歌詞がいいですよね。

いま 生きていること
 いっしょうけんめい 生きること
 なんて なんて すばらしい
 あすという日が あるかぎり
 しあわせを信じて
 あすという日が あるかぎり
 しあわせを信じて

| 今日の出来事 | 14:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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仕事が決まりました。

こんな人になれたらいいな、と思うことは人それぞれに色々とあると思います。
私も色々と「こうありたい」という自分像があり、その中の1つが
「人の言動に左右されないで、その人を見ていく」

でも、まだまだ左右されている自分です・・・。


この4月からの仕事が決まりました。
去年、一昨年としていた仕事と同じで、小学校で支援員として働きます。
勤務場所は変わりますが。

子ども達は様々な言動をとり、時にはそれに振り回されてしまうこともあるかもしれません。
遠慮のない、ストレートな言動に、心が辛くなったり、腹立たしく思うこともあるかもしれません。
でも、そういった言動に隠されている子ども達の思いに、心をはせることができるようにと願います。

どんな子ども達と出会い、どのような関係を築いていけるのか、期待と不安がありますが、出来ることを惜しみなく精一杯していけたらいいな。

| ひとりごと | 21:47 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『「里」という思想』

サラリーマン的発想しか持たない首相が誕生した

アメリカに全面協力することで、現代世界の一員でいられると安堵しているかのような日本の対応を見ての、内山氏の研究仲間の一人の表現だそうです。
多分、小泉元首相のことなんだと思いますが・・・。
でも、官僚の言いなりで、自ら考えようとしない現首相よりはましではないかと思ってしまいます。

ということで(?)、先日、『「里」という思想』(内山節著)を読みました。

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これもいいです。
読むまでは、「里」って、村里のことかなと思い、「田舎はいいよ」みたいなことを書いているのかなと・・・。
でも、違います。
ここで言う「里」というのは、「過去の自然の営みがみえる場所、過去の人間たちの営みがみえる場所」「自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所」だと定義しています。
そしてまた、グローバルの対極にあるローカルなものとしての「里」。

その「ローカルなもの」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。
私が理解した範囲で、著者の言葉を借りるなら、長い時間の蓄積に支えられながら生きていると感じられる世界
一方、現代はアメリカに付随して、ただ通過する、消費するだけの世界なのでしょうか。


目からウロコの指摘が色々とあったのですが、その中から一つだけ。

アメリカについて、内山氏はこう表現しています。

建国以前の北アメリカの歴史を拒否した」国。
そして、
 近代以前の歴史を拒否したがゆえに、近代の原理だけで突っ走れる自由、過去との摩擦を前にして考える必要のない自由、そして自分たちが知っている近代の原理を正義だと信じられる自由。だから、アメリカは、経済、政治、軍事、情報などのすべてを駆使して、世界のアメリカ化を要求する。


また、「通過」と題して、
 次第に人々は、心地よく人生を通過することが自由だと考えるようになっていった。わずらわしさは、不自由を意味するようになった。わずらわしい蓄積よりも、心地よい通過が大事になった。
 自分たちの社会に問題がないかを検証することより、自分たちの心地よい通過を阻害するものを、排除しようとする心理を高めたような気がする。
 2001年9月11日のアメリカでのテロ以降の展開でも、私はそのことを感じる。テロは、アメリカ人たちの、心地よい人生の通過をおびやかした。そのときアメリカ社会がとった態度は、なぜアメリカがテロの標的になっているのかを検証することではなく、自分たちの心地よい人生の通過を邪魔する者たちを、地球上から抹殺する、ということでしかなかった。


「テロとの戦い」、これは正義なのだと振りかざしました。
でも、アメリカの言う「正義」とは、本来の意味での「正義」ではないんですよね、たぶん・・・。
自分たちで都合よく解釈した「正義」でしかない。

この「正義」を現在の文明と結びつけて、このように内山氏は述べています。

 経済の面でも、政治や軍事力の面でも、正義は勝利とともにあるという文明世界がつくりあげられたのである。この文明においては、敗北は正義を失うことであった。
 現在の私たちが身を置いているのは、このような文明である。とすれば、この文明に疑問の目を向けない人々、すなわちこの文明のただ中にいるがゆえに、この文明を当然視している人々が、アメリカの戦争を支持するのもうなずける。
 21世紀の世界は、だれもがそれぞれの分野で勝利者になろうとし、勝つことによって正義を維持するかたちで展開した。このような世界のあり方が再び戦争を必要としているのだとすれば、検証されなければならないのは、私たちが身を置いているこの文明だという気が、私にはする。


現代文明は、「勝利しつづけることが真理を守り、正義を守ることだと考える」そんな文明。
そのような思考が子どもにまで広がってしまったのかもしれません。
そして、大人も子どもも疲れてしまっているのでしょうか。
一昔前よりは、ずっと便利に快適になっていると思われる現代なのに、疲れてしまっている。

「勝利しつづけることが真理を守り、正義を守る」という思考が、「勝ち組」という思考を生みだし、勝つこと、効率的であることを求めていく。
そんな社会は持続可能な社会なのでしょうか?


『文明の災禍』でも書かれていましたが、やはり「現代文明をみつめなおさなければいけない」、そういう時に今、いるのでしょうね。


最後に、この本で引用されていたこの言葉を。

自分の力の限界を認識しなくなったときから、人間は自分自身を破壊するようになるのです。
(フランスの人類学者、レヴィ・ストロース)

| 本・評論、新書、エッセイ | 19:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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急がされる子どもたち・・・

朝起きて外を見たら、辺り一面雪景色。
寒いけれど、美しかったです。
2-yuki.jpg
↑家の前の風景。田んぼと空き地。

2-yuki1.jpg
↑家の西方向。田んぼと図書館やお店。

子ども達は少ない雪をかき集めて、雪合戦を楽しんでいました。



一つ前の日記に頂いたコメントに、「なるほど」と深く教えられました。

「教育」「学習」・・・普通によく使う言葉。
子どもに関係する言葉でもあると思います。
そしてまた、本来の意味から外れて、大人に都合のよいように使われているかもしれない。


「教育」とは何かと問われて、一言で「こうです」と定義することは私には出来ませんが、「教育」、ラテン語で「外に引き出す」を意味すると言います。子ども一人一人の中に潜んでいる才能を外に引き出すとも言えるのでしょうか。
でも、日本で見られるのは「押しつける」とも思えるもの。
無から有を生みだすことはできないから、引き出すためにインプットするのは必要だと思います。
ただ、だからと言って、押しつけというのか、どれだけたくさんデータをインプットするかというのは、どうなのかと思ってしまいます。



 試験が教育の中心になるにつれて、子どもには別の形の重荷も生まれている。・・・教師や学校関係者が試験結果こそがその子どもの能力だと考えるならば、子どもたちにいかに正しく学ばせるかではなく、いかによい点数を取らせるしか、彼らの目には見えなくなってくる。こうなると子どもたちも現実を察するには機敏だ。勉強とは意味のあることを学び覚えることなんかではなくて、試験でよい点数をとることなんだ--

(ケネス・ケニストン-1976年-)
 その学校がよい学校かどうかを判断しようという時に私たちが物差しとするのは、学校がどんな人間を育てあげたかではなく、読み書きの試験でどれだけの点数を取らせたかだ。子どもの価値とは何かを決めるときに、大人の経済社会におけるの同様に、私たちは数字こそを評価の物差しにしている。

 試験の乱用による過度の圧力はほかにも弊害を生んでいる。・・・子どもたちは、何を学んでいるかより、どんな成績をとるかに汲々としている。・・・
学んだ内容より成績が大切ならば、要は少しでも高い点数を取ることだ。・・・子どもや若い人たちは工場で作られる製品であり、その価値は試験の成績だけで決まるとするならば、彼らには工業製品として以上の倫理や道徳上の心の痛みなどあるはずがない。ものとして扱われた若者には、倫理や道徳上の責任など問われるはずもない。



3年程前に読んだ、『急がされる子どもたち』という本に書かれていたものです。
子どもはモノなんかじゃないけれど(大人ももちろんそうですが)、効率的であることを求められている。
それが、今のところ、不自由なく生きていくための方法なのでしょうか・・・。


いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが生きるってこと?
これが愛するってこと?
いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
 あっちへ行ったり、
  こっちへ行ったり、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが成長するってことなの?
これが学ぶってことなの?
なんのためにこんなにもいそいでいるの?
たくさんのものを失っているじゃないか--
立ち止まることもしないで、いつも素通り。
どこへ向かって、ぼくらはいそいでいるの?
ぼくらは目的を達成したときに、“やった”と満足できるだろうか?
それとも、ぼくらはあいかわらず
いそいで
 いそいで
  そしてまた、いそいでいるのだろうか……

(『Listening to the Littelest』)

| 子育て・教育 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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子どもを見ていたつもりが・・・

息子達は発達障がいがあるとの診断を受けています。
見た目には全然分かりません。軽度発達障がいと言われ、アスペルガーとも言われることがあります。

先日、下の子が検査を受け、その結果を聞きに行きました。
言語と動作性にかなり大きな開きがありました。
いつもと同じパターン。
今までなら、「言語と動作性にこれだけ差があれば、本人はしんどいでしょうね」という言葉で片づけられていました。
でも、今回は違いました。
病院、医師を変えたのです。
今のお医者さんは小児科医で、障害児医療をライフワークとしていると著書には説明があります。

今回は、検査のデータを見せて下さり、このデータからすると、必ずしも言語性が劣るというわけではないと。
集中力が続かない、自分に自信がない、同じことを何回も繰り返すことに意味を見いだせない、そして、一番大きいと思われるのは、今までの大人との関わりのなかで自信を失ってきたのではないかと。

この言葉にドキッ!

一般的に、例えば宿題は、最後まできちんと集中してするように子どもを励ますと思うのです。
で、私も、途中で息子が「あ~分かんなくなってきた!」と言っても、それまではできているのだから、「できるでしょ。もう少しだから、頑張って終わらせよう」みたいな感じで息子をせっついていました。
それに、「分かんないよ~」という息子の言葉を受けて、「もういいよ」なんて言うと、それは甘やかしではないかとの思いもありました。

息子の場合は、集中力が続かないのは明らかなので、そういう場合は「分かんないよ~」と訴えたなら、そこで一旦切り上げる。
そして、息子の好きな方法でリフレッシュして、気分が向いたときに、もう一度やってみたらいいのでは、と。


子どものことを考えているようで、大人目線で子どもを見ていたんですね。
宿題となると、「やらなければならないもの」で、「これぐらいちょっとした集中力でできるはず」という思い込み。
子どものSOSを、甘えだと大きな勘違いをしていた・・・。


先日、愚樵さんのブログで、

上からなにかデータを注入するようなことは教育とは言わなくて、ひとりの人間が生きるために自分自身を成長させていく、それをサポートするのが教育だと思うんですね。 」という安富氏の言葉を知りました。

その言葉を読んで、私自身、注入されたデータを覚え、問題をいかに速く解くか、ということに重きが置かれているような教育はおかしいと思ったのに、結局同じような事を子どもに押しつけていたのです。

言い訳をすれば、下の子の勉強時間は1日20分程です。
そして、20分という短い時間だからこそ、これぐらいはできるでしょ、って。
でも、子どもにとっての20分と、私にとっての20分は違うんですよね。


家の息子に、神様が用意なさった器の分だけ、知識を入れてほしい。神様の計りを、人間が百も二百も上回ろうとする必要はないと思うから。

| 発達障がい | 20:28 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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