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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2012年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年10月

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「国旗に一礼しない村長」

と題して、朝日新聞にインタビュー記事が掲載されていました。 この村長さんは長野県中川村の村長さん。 発言を読んで、こんな首長さんがもっと多く誕生したらと思わずにはいられませんでした。 921 朝日新聞 クリックすると、大きくなります。

| 世の中のこと | 19:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『希望の大地』(桃井和馬)

フォトエッセイ 希望の大地――「祈り」と「知恵」をめぐる旅 (岩波ブックレット)フォトエッセイ 希望の大地――「祈り」と「知恵」をめぐる旅 (岩波ブックレット)
桃井 和馬

岩波書店 2012-06-07
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先日『「戦地」に生きる人々』読んで、桃井和馬氏のことを知り、彼の著書を読んでみました。
これ、本当に良かったです。80ページほどの小冊子ですが、大切なメッセージが凝縮されているのではないでしょうか。

Amazon内容説明には、
24時間、明りに照らされた生活を手に入れた現代。しかし、私たちは本当に大切な「光」を見失っていたのではないか。自然への畏怖を忘れ、人間を最も優れた生物とする価値観が、大震災と原発事故を経て、いま根本から問われている。世界各地の自然や人の暮らしを見つめてきた著者が、自らの体験をもとに震災後の生き方を探る。
とあります。

これは、3・11以降、様々な本で取り上げられているテーマだと思いますが、桃井氏には、また違う視点というのでしょうか、独特な視点があって、大切なことを問いかけているように思います。


電気製品を使うことができる環境は、次に何を生みだすのか?
と著者は問います。
そして、それは、人の「押さえがたい"欲望"」だと言います。

電力が供給されることで生まれるのは、単純に「電気製品」が使える生活環境だけではなく、人の心の中で幾何級数的に増加し続ける、押さえがたい「欲望」なのだ。

そして、その欲望が本当なら必要のないものまで生みだしてしまっているのでしょうね。

物理的に明るい社会は、より危険が少ない安全な場所であることは事実だ。だが、夜も昼間のように明るく、24時間いつでも食料が手に入り、午前4時に大型テレビが買える社会が本当に必要だったのか。そうした社会が、大量の電力を必要としていたのではないのか。

本来必要ではないものなら、なくなっても支障はないはずなのに、やめられない。
どうして?
不安になってしまうから? 
それは、勇気がないということ?


原発をあくまでも推し進めようとする人たちは言います。
「経済成長のためには、電力が必要。原発が必要」だと。
きっと、中国にGDPを追い抜かれたから余計にそう思うのでしょう。

そんなGDPの上下に一喜一憂する日本経済から「フクシマ」を考えると見えてくる構図として、こう述べています。

フクシマの除染対称区域で除線作業をしている、県外から来た関係者が、
「近年公共事業の減少で仕事が少なくなっていた。でもフクシマで除染作業が始まったことで会社は活気を取り戻した。『原発バブルですね』」と笑いを押し殺したような表情で言ったそうです。

そして、桃井氏はこう続けます。

 爆発した福島第一原発での作業、それに周辺地域での除染作業も、従事する者たちが確実に被曝する不条理を絵に描いたような作業だ。
 しかし、こうした仕事を通して、多くの会社や人が収入を得る。そしてそれは国家の経済目標であり、「豊かさの指針」と考えられているGDPを、ミクロ・レベルでは確実に引き上げる要因となる。
 原発の汚染処理作業、または除染作業のどこが「豊かさ」なのか?
 数字にダマされたくはない。本気でそれが「豊かさ」だというのなら、私自身はGDPは低くても、原発事故が起きない社会、放射線の除線作業をしなくても良い社会、つまり原発が「ない社会」を選びたい。
 何が人々を本当の意味で幸せにする「豊かさ」なのか? また何が「豊かさ」を装って、人々を不幸にする要因なのか?
 私たちは一度立ち止まって、これらのことを本気で考え直してみる必要がある。



今の日本を牛耳どる人たちが、豊かさ=お金 (「彼らのお金が増えること」とした方がいいかもしれない)と考えている。お金さえあれば、それでいいのだと。
お金は無いよりはある方がそれはいいかもしれないけれど、大切なものを犠牲にしてまでお金を追い求めるのは、それは違うと思う。

ただ、いくら違うと思ったところで、彼らには通じない。
だったら、どうすればいいのか。
どうすればいいのでしょうね。
特効薬なんかないと思う。
ただ、できることを一つ一つ積み重ねていく。


暗闇では、前方を照らすひとつの「明かり」に向かって、小さくても一歩ずつ足を前に出すしかない。

人間は安易に「希望」や「理想」、そして「真理」と同化してはいけない。それは遠くにあってこそ光を放つ目標なのだろう。私たちはいつまでもそれらを見失わず、追い続ける。そのプロセスこそが大切なのだ。
 

一歩一歩、諦めずに進んでいけば、いつかきっと光にたどりつけると信じたい。


桃井氏は、ラインホルド・ニーバーのあの祈りを引用してこう結んでいました。

変えられないものは、ひたすら受け入れるしかないのだ。
 しかし同時に、「変えられるもの」を変えない愚も、また、「変えられないもの」を変えようとする愚も犯してはならない。
 今、人間に必要とされているのは、カネを儲けるための知識ではないし、モノを増やすための情報でもない。地球はひとつしかない。その事実を正面から受け止め、人が人としてこの地球で生きるために必要な、本物の知恵であり、叡智なのだ。


私たちは、十分な便利さも快適さもすでに得ているし、モノももう十分あると思います。
必要ないのに、ただ欲望にひかれて、もっともっとと求めることをやめにすることができたら・・・きっと自由になるだろうな。


桃井氏はオフィシャルサイト(こちら)を持っておられて、そこにある「stories」がまたいいです。

| 心に響いた言葉 | 20:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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昨日のこと・・・お兄ちゃんに捜索願?

昨日、子どもと市内のショッピングセンターに買い物に行きました。
長男も次男もそこのホビーショップにあるwii等の体験版で遊ぶのを楽しみにしています。
体験版は人気で、並んで待たなければなりません。
子どもたちがその体験版で遊んだりするのに30分ほどかかります。
なので、子どもたちがそこで遊んでいる間に、私が買い物をして、子どもたちはゲームが終わったら、買い物売り場のお菓子コーナー(アンパンマンコーナーがあって、そこには椅子があり、ビデオが見られるようになっている)で私を待つことにしています。

6月頃からそのスタイルで、今までは何の問題もなく、お菓子コーナーで子どもたちと落ち合い、精算を済ませて帰っていました。

ところが、昨日はそうはならなかったのです。


買い物を終え、いつもの如くお菓子コーナーに行ったけれど、子どもたちはまだ来ていませんでした。
「まだゲームをしているのか」と思い、ホピーショップまで行ってみました。
でも、そこにいたのは次男だけ。体験版をしようと並んでいた次男に聞くと、お兄ちゃんがどこにいるかは分からない、と。
行き違いになったのかと思い、もう一度お菓子コーナーに行ってみたけれど、長男はいない。

しばらくその場にいたけれど、長男も次男も戻ってこない。
今日は人が多いから、もうしばらく時間がかかるのか、それにしても、ゲームのしすぎだな・・・と少しイラッとした私。
どうせもうしばらく時間がかかるならと、サーティーワンがキャンペーンをしていたので、同じフロア内にあるサーティーワンに行き、そこでアイスを食べ、もう一度お菓子コーナーへ。
でも、そこにいたのは次男だけ。
「お兄ちゃんは?」と聞いても、次男は知らないと。

そこでもう一度、ホビーショップに行ってみたけれど、長男はいない。
その近辺を探したけれど、どこにもいない。
駐車場に行ったのかと思い、行ってみたけれど、そこにもいない。

しばらく探してみたけれど、どこにもいない。

そこで、館内放送をお願いしました。長男が発達障がいを持っていることを伝えると、警備員さんにも捜索をお願いして下さいました。
待つこと3~40分。でも、まだ長男は見つからない。
不安になって、スタッフの人に聞くと、これだけ探しても見つからないので、警察に連絡した方がいいと。
そこで、警察に連絡。しばらくすると、2名の警官が来て下さり、館内を捜索して下さいました。

1時間ほど探したでしょうか、それでも見つかりません。
警官の方が増員され、4名体制で捜索に。
そして、教会の牧師に長男のことを祈っていて下さいと連絡をしていたのですが、そのショッピングセンターまで奥様と一緒に来て下さり、一緒に探して下さいました。

警官の方が来られてから2時間ほど経って、それでも見つからなかったので、家出捜索人届けを出したほうがいいと。
その前にもう一度、駐車場を見に行こうと、地下に降りていく途中で、携帯に電話。
自宅から!
そう、長男から。
「家に帰ったよ。」
「どうやって帰ったの?」
「歩いて」


そのショッピングセンターから自宅まで約20キロ。車で20~30分。
歩いて帰るなんて、全く想像していませんでした。
昨日は、長男は財布を持ち合わせてもおらず、電車に乗って帰ることは考えられない。
だから、絶対館内にいると思っていた。
でも、彼は歩いて帰っていた。3時間ほどかけて。

警官の方も牧師夫妻も、とにかく無事でよかったですねと言って下さったのですが、私はなんとも複雑な心境でした。
悪い方に考えてしまっていたので、無事であったことは本当にほっとしたのですが、無事であることが分かると、自分の取った行動がどんな結果を招くのか想像できなかった息子に、長男を責める思いと、私自身を責める思いが交錯。


帰ってから、長男にどうして勝手に歩いて帰ったのか聞いてみました。
初めは「待ち合わせ場所に誰もいなかったから」と。
「それならば、どうして駐車場に行かなかったの。第一、お母さんがあなたを置き去りにして帰ると思う?」
そんなことは、思わないと。それにも関わらず、帰ってしまった長男。
しばらくして、長男はこう言いました。
「待つのが嫌だった」

待つのが嫌だからと言って、3時間もかけて歩いて帰ったのか・・・。

長男に聞きました。
「待つのが嫌だと言うけれど、望は人を待たせたことはないの?」
「ないよ」

この「ないよ」という返答には驚きました。
なので、どんな場合に長男が私を待たしているかを説明しました。
そして、私もまた、子どもたちを待たせることがあることを。

人というのは、お互い様の中で生きている。
人を待たすことがあれば、待たされることもある。
人に迷惑をかけることもあれば、かけられることもある。
人に助けられることもあれば、助けることもある。

自分だけが何かをされているわけではない。

そんなことを長男に話しました。
どこまで理解できたかは分かりません。
自分が取る行動によって、他の人がどういう思いをするか、そこにまでまだまだ思いが至らないようです。
長男が黙って帰って、それを知らないお母さんはどんな思いをするかな、と聞いても、「よく分からない」と答えていた息子。
牧師夫妻がわざわざショッピングセンターまで来てくれたのも、どうしてか分からないという。

20キロ近くの道のりを歩いて帰る。常識的に考えればあり得ない。
待つのが嫌だったなら、私なら、ふてくされてその場で待っていただろう。
大方の人がそうではないだろうか。
数時間歩いて帰る労力に比べたら、ふてくされてでも待っている方がまだましだから。
それに、黙って帰ってしまって、その後に起こることを考えると、そんなことできるわけがない。

でも、そのあたりの判断ができないのが、息子の生きづらさなのかもしれない。

その時、その時に発見する彼の生きづらさを見逃さず、丁寧に関わっていかないと。
そのことを改めて、教えられました。


今朝、こんな話を知りました。あるアメリカの牧師の体験談です。
彼は学生の時、大きな失敗をして、学校から帰された。
母親には学校から連絡があり、きっと母親にこっぴどく怒られるだろうと、しぶしぶ家に帰った。
帰宅した彼に母親は一言、「あなたは私の大切な息子です。私の誇りです。」とだけ言った。
母親は彼をショッピングに連れ出し、車に乗っている間、母親は再び彼に、「あなたは私の大切な息子です。私の誇りです。」と言った。
そして、家に帰ったときも再び、「あなたは私の大切な息子です。私の誇りです。」と言ったそうです。それしか言わなかったと。
彼は母親の言葉を聞いて、母親が自分を愛してくれていることを理解し、実感し、それからは生活を改めた。


長男の場合とはちょっとケースが違うと思うのですが、母親のこのような子どもに対する眼差し、思い、そしてそれを口に出して伝えることは大切なんですね。



それにしても、昨日は本当に疲れました。
そして、改めて思い知ったことは、平穏な日々は決して当たり前ではないということ。
一つでも何か歯車が狂うと、心が痛む。
事件が起こる前に、子どもとそのショッピングセンターで昼食を取ったのですが、いつも息子はランチにしては贅沢をしすぎるので、「今日は500円で食べられるものを注文してね」と伝え、息子はいつも食べるハンバーグオムライスを我慢して、日替わりオムライスを注文。
息子が無事が分かるまでは、悪い方へと考えていたので、「こんなことなら、ランチ、好きなものを食べさせてあげたらよかった」っと後悔の嵐でした。

取り返しのつかないことが起こってからでは、遅い。
そんなことはわかりきっているはずなのに、「まさか」は起こらないだろうと、惰性に流される毎日を送っているような気がする。

いつもいつも、100%完璧ではいられないけれども、「自分がされて嫌なことはしない、してほしいことをしてあげる」それは心がけていきたい。



あともう一つ。
警官の方は本当に親切にして下さいました。それが仕事と言えばそうなんですが、でも、その働きに感謝です。

| 今日の出来事 | 14:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「非人間的な力に打ち勝つ方法は・・・」

パソコン修理中に、色々と本を読んだのですが、そのうちの2冊がこれ。

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山本美香さんの『戦争を取材する』は子供対象に書かれていて、とても読みやすかったです。
レバノン、コソボ、ウガンダ、アフガニスタン、チェンチェン等の国に生きる子供たちのことが書かれています。

コソボでは、地雷のことが取り上げられていたのですが、埋められた地雷を探すのは人だけでなく、地雷犬という犬もいると初めて知りました。
そして地雷のせいで、足や目を失った子供たちが多くいることは周知のことだと思いますが、読みながら心の中で叫んでいました。
「地雷を埋めた奴が、責任を持って掘り出せ!!」って。
みんな幼いときに言われましたよね・・・「自分で出したゴミは自分で片付けなさい」って。

その地雷、世界では約1億千百万個あるそうです。
一番多いのが、私はアフガニスタンだと思っていたのですが、エジプト。
地雷を作っているのは、主にアメリカ、ロシア、中国。
そして日本は約100万個の対人地雷を保有していたけれど、処分したという。
日本が地雷を保有していたことがあるということさえ知らなかった私。



『戦地に生きる人々』はフリージャーナリストの方々によって、チベット、ビルマ、マーシャル諸島、ハイチ、チェチェン、レバノン、パレスチナの様子が報告されています。

「ビルマ」と書きましたが、「ミャンマー」の間違いでは、と思うかもしれませんが、ビルマを取材し続けている方が、マスメディアが何の断り書きもなしに使用する「ミャンマー」の呼称を、「軍事独裁政権が勝手に行った国名変更を認めることになる」と拒否し、「ビルマ」と呼び続けています、とありました。

私は何も知らずに、何も考えずにメディアが言うように、いつしか「ビルマ」を「ミャンマー」と呼んでいましたが、こういうことを知ると、「ビルマ」と呼び続けたい。

パレスチナのことは本で読んで少しは知っていましたが、チベットやビルマについてはテレビのニュースで報じられる以外のことは知りませんでした。

チベットに対し、中国がやっている残虐な行為ゆえ、インドへ逃れる難民が多い。(でも、今は警備が厳しくなり、難民の数は減ってきているそうです。)
インドへ逃れ難民となったある僧侶の言葉・・・
「ここ(インド)には、思想や言論の自由も、宗教の自由もある。けれども、難民であるがゆえに社会的権利はない」



この二冊の本を読んで感じたのは悲しみであり憤り。
争いごとなんて望んでいなかった人たちが、大きな力の思惑の前に、争いに巻き込まれ犠牲になっていく。特に子供たちが犠牲になっていることには、何とも言えない悲しみを感じます。


『戦地に生きる人々』のまえがきにこう書かれていました。

センセーショナルな情報が高速で流れては消えてゆく社会は、受け手の感覚を麻痺させ、いつしか私たちを〈いのち〉に対する謙虚さや、〈自分自身〉から切り離してしまう。無関心が人を殺し、ジャーナリズムが暴力になる。そしてこの流れに抗おうとすれば、取材自体が困難になり、伝える場は次々に減らされてゆく。

これは3・11の前に書かれた本ですが、ここで危惧されている「無関心」は今もなお続いていると思うのです。
確かにネットでは、様々な情報が発信され、それに応えたり、行動を起こす人々が増えていますが、でも、無関心の方が量的には多いような気がします。

大手メディアが未だに権力側のスポークスマンに成り下がっていること、そして、色々な要因はありますが、今なお、投票率が低いのはその現れではないかと思うのです。
先の山口県や鹿児島県の投票率もそうですし、先日行われたといういわき市の投票率は50%だったそうです。

一般庶民が無関心になればなるほど、喜ぶのは権力を持つ人たち。
だから、無関心なっていてはいけないと思うのですが、そう思うのは傲慢なのかな・・・。


「まえがき」に書かれていたこの言葉も心に留めておきたい。

非人間的な力に打ち勝つ方法は、私たちがより人間らしくなることなのだ。

| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 21:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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