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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2013年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年03月

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この国の「壁」

<この国の「壁」 ひとりでぶつかってみる>と題して、高橋源一郎氏の時評が掲載されていました。
そこで紹介されていた「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」という動画を見ました。15分ほどの動画で、面白いというものではないですが、でも多分、この動画で目にする候補者達の姿勢は、多くの議員たちの姿勢ではないかと思いました。

自民党、共産党、維新の会、民主党、未来の党からの候補者達に質問をしたい旨を告げるのですが、インタビューに答えてくれたのは共産党の候補者だけ。

自民党は「時間が取れない」と断り、未来の党は「個人の質問に答えている時間はない、マスコミじゃないのだから」と断り、維新の会は「一般の取材は断っている」と断り、民主党は取材がOKかダメかの連絡すらなかった。反対に共産党の候補者は質問にとても丁寧に答えておられました。

人からの質問に答えるか答えないかはその人の自由だし、一人一人みんなに答えていたら、大変だと思いますが、「マスコミじゃないから、一般人だから」という理由で断るというのは、どうなのでしょう。彼らは誰のために政治をするつもりなのでしょう。彼らに一票を入れるのは、一般人です。
この動画を作った人の質問には答えなくても、例えば著名人の関係者ならどうしていたのでしょう。

共産党の候補者に最後に、「良い政治家を見分けるために候補者に質問をするとしたら、どういう質問をするか」と聞いています。それに対して、候補者の方は、
日本の政治の問題点の一番奥底にあるものはなんですか」と聞くと、

今の政治は「アメリカの言う事には絶対逆らわない、財界中心」だと述べています。「原因の大元に何があるのか、それを明らかにしないと、どうしたらいいのか方針がだせない」と。




この動画について述べた後に、高橋氏はこう書いています。

この映像を見ていた者は、突然、この青年がぶつかって弾き飛ばされる「壁」の正体に気づくんだ。実は、その「壁」に、ぼくたちみんなが弾き飛ばされていることにも。

その「壁」とは、
自分たちを絶対正しいと考え、それに疑いを抱いた「ひとり」の声をはねのける「壁」、だと。

そして続けて言われます。
眼の前の「壁」は高く、ぶ厚い。でも、それを壊すには、まず「ひとり」が必要なんだ


また、この「壁」を前に絶望せず、ひとりひとり、それぞれの場所で、眼の前で起こっていることを「記録」し続けた人たちがいると。
例えば、水俣病と半世紀にわたって向き合ってきた人たち・・・彼らは記録し続けた。「悔しいけれど歯が立たない。でもだれも読まなくても記録だけはしておこう」と。どうしてか。それは、「いつか、未来の誰かかが、それを読むかもしれないから。それが未来に繋がると信じるから

そして、現在、そう信じて3・11の被災地を追い続け、記録している「ひとり」を紹介されています。
「THE FUTURE TIMES」・・・サイトはこちら
まだちょっとしかこちらのサイトは読んでいないのですが、これから少しずつ読んでいこうと思います。

この新聞の発行者の後藤正文さんがこう書いておられました。

紙の魅力とは何か。

 それは、例えば、このTHE FUTURE TIMESを誰かがどこかの喫茶店に忘れることから起こります。或いは、忘れる場所が会社の食堂でも構いません。実家の食卓の上でもいいのです。そうすると、THE FUTURE TIMESをもらってきた本人以外の誰かが読むかもしれない、というチャンスが発生します。これは紙ならではの出会いです。置き忘れることができる肉体があるからこそ得られる機会です。また、上書きされたり、流れてしまったりしませんから、その紙の上でゆっくりと情報が発熱します。急激な盛り上がりを作ることは難しいかもしれませんが、ゆっくりと、確かな温度が持続します。誰かが紙面を開く度に、その熱は立ち現れます。

 (中略)

 僕の尊敬する思想家・作家の佐々木中さんはこのような単文を以前にツイートしていたそうです(ある編集者の方からお教えいただきました)。感銘を受けた言葉ですので、ここに引用します。

「史実。紙の本は戦争に強い。塹壕のなかでも列車来ぬ待ち時間でも配給待つ長蛇の列にあっても電源なしに読める。夜でも蝋燭一本で。両大戦中再読に耐え検閲官が理解できぬ高踏な良書は売れている。どんな大空襲でも完全消失した本は無い」




眼の前の壁は高くてぶ厚い。でも、やはりあきらめない・・・きっといつか、それが未来につながっていくのだから。

| 世の中のこと | 19:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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報道の陰で

久しぶりにゆっくりとfacebookを見ていました。
そしてやはり目に入ってくるのは、原発に関する投稿。

「そこまでやるか、NHK!」と題した記事が投稿されていました。(記事元コチラ

NHKは24日の朝のニュースで、「中国の地方都市で、工場による環境汚染に対して、『青空を返せ』と約1000人の人たちがデモをおこなった」と報道。でも、前日の23日に、「東京のドマンナカで、東京電力による放射能汚染に対して『子どもたちの命を守れ』と、約600人を超える人たちがデモをおこなった」ことは報道しないNHK。

その記事に引用されていた肥田舜太郎医師の言葉を一部転載します。

「福島の被害は、世界中にいる『核を擁護する勢力』には、たいへんな脅威なのです。〈内部被ばく〉した子どもたちの実態が明らかになることは、彼らにとって何としても避けなければいけないことです。原子力発電所の事故は起きたが、ことに放射線に関する被害は無かったということにしたいのです。

 なぜなら、日本だけではありません、福島の事故の実態を世界中の人たちがつぶさに検証して、その結果、原発や核兵器について『NO!』と言うようになれば、核兵器を持っているわけにはいかなくなるからです。

 ――これまで通り、核兵器を作り続けたい

 ――原発も輸出したい

 こう考えている勢力が、『核を擁護するための運動』を福島に集中させているのです。そして、〈内部被ばく〉が危険ではないという空気を作りだして、福島の人たちが『体の具合が悪い』ということを言いにくくするのです。」



 3・11のことを忘れてはいけないとは思っていますが、被害を受けた地域が今どうなっているかは、ほとんど分かっていない私。
 フォトジャーナリストの森住卓氏が警戒区域の浪江町の風景をブログに載せておられのを今日初めて見たのですが、心が痛みました。(森住氏のブログはコチラ
 3・11のことなどなかったかのように、原発を推し進めようとしていますが、今もなお人の住めない町があるというのに、それもないことにするのでしょうか・・・どうせ大手マスコミは報道しないから、知る人はほとんどいないだろうと。



大手マスコミが報道する様々なニュースの陰で報道されないニュースがあります。
特に絶対に国民には考えて欲しくない、知って欲しくないニュースは報道しないのでは。
TPP問題、日銀の人事問題、北朝鮮問題と色々と報道されていますが、それよりももっと大事な問題ではないのか、と思うことが報道されていないように感じます。
それは、憲法96条改正問題です。

「ニュースの教科書」というサイトによれば、その問題は加速しているということです。(記事コチラ

一部転載します。

 実際に憲法改正の話が具体化してくると、これまでには表面化することがなかった、さまざまな問題も明らかになってきている。
 もっとも深刻なのが、本当にまともな憲法が日本人の手で作れるのかという根本的な疑問である。例えば自民党は独自に策定した「憲法改正草案」を公表しているが、この内容がかなりお粗末なのである。
 自民党の憲法改正草案は、基本的人権に関する理解が根本的に間違っているという基本的な問題に加えて、犯罪被害者への配慮、緊急事態への対処、個人情報の取り扱など、つい最近、時事問題になった細かいテーマをただ盛り込んだだけの内容に終始している。また官僚が責任回避に用いる「等」という文字が多用されており、作文を官僚に丸投げしたのがバレバレの内容となっている。



こちらのサイトではこんな記事も。
安倍さんがアメリカに行って、TPP交渉参加を表明し、日米同盟強化などと言われていますが、アメリカでの待遇は冷遇だったとか・・・「夕食会も出迎えもなし。日米首脳会談で見せ付けられた日本軽視の厳しい現実」(記事コチラ


報道されていないところでは、どのようなことが起こっているのでしょうか。
それらが明るみにでたときには、取り返しの付かないことになってしまっていたというようなことが本当にありそうで、恐ろしいです。

| 世の中のこと | 18:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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変わらないかもしれないけれど

今日、日本の思想界を見るに、殆ど思想がないと言って、いいのではないかと思う。・・・政府の弾圧と責任と相まって、マルクス主義防止の為に取った教育者の政策は、随分不幸なる影響を今日の青年学生に残した。青年をして「思想」せざらしめる手段として、むやみにスポーツを奨励したのは、日本の教育者の為した根本の間違いであると思う。この為に学生の頭は空っぽになり、魂の緊張を失って思想的動脈硬化症に陥った。思想がなければ、社会が弛むのは当然である。


これは矢内原氏の言葉です。
決してスポーツがだめだと言っているのではなく、若者達を考えさせないために、むやみにスポーツを奨励したことの弊害を述べているだけだと思います。

子供が学校に行くようになって知ったのですが、何らかのスポーツをしている子供達は本当に多いんですよね。
水泳、サッカー、野球、テニス、ダンス、バドミントン、バスケットボール、空手、柔道、剣道・・・挙げれば切りがありません。

やるだけの何かがあるから、このようにスポーツをする子供達が多いのでしょうね。

そして、スポーツと言えば真っ先に思い浮かぶのが「炎のランナー」。
この映画、5〜6回は見ていると思います。教会で10月になると、必ず伝道集会で上映されていました。
実話を元にして作られているのは周知のことですが、主人公のエリック・リデルの言葉が忘れられません。

彼は敬虔なクリスチャンでもあったのですが、映画でこのように話しています。
神は僕が速く走れるようにお創り下さった。 そして走る時、僕は神の喜びを感じるんだ。

スポーツや芸術、研究など、人それぞれにそれに打ち込む理由はあると思いますが、エリック・リデルのように「神の喜びを感じるんだ」と言えるのは、素晴らしいことだと思います。

そのエリック・リデル氏。第二次世界大戦中、中国で宣教師をして働き、中国を侵略していた日本軍によって収容所に入れられました。収容所での日本兵の中国人へのむごい仕打ちを見せつけられ、メティカフ氏(後に宣教師となって来日)を始め収容所の少年達が、その行為をどうしても赦すことが出来なかったとき、彼はこう言ったそうです。

聖書には『迫害する者のために祈りなさい』と書いてある。ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。

そう言われて、メティカフ氏は祈り始めたそうです。
でも、日本と日本人のために祈っても、日本兵の振る舞いは変わらなかった。
しかし、それを見ているメティカフ氏の心の中には変化が生じていた。
目に映ることは相変わらず受け入れがたい。しかし同時に、「この人たちは、命の価値というものを知らないのだ」と理解することができるようになった。この思いはやがて、宣教師となって日本へ行き、神の愛を伝えたいという祈りに発展していった。


TPPへの交渉参加を決めてしまった安倍氏。
そして、そんな安倍政権を「幸行が良い」「首相の決断を評価する」などと書く新聞には本当辟易します。
でも、聖書はそういう者達のためにも「祈りなさい」と言います。
日本兵の振るまいが何も変わらなかったように、権力者達の振るまいも変わらないかもしれませんが、それでもやはり、祈っていくしかないのでしょうね。


それにしても、「炎のランナー」のテーマ曲はいいですね。

| ひとりごと | 17:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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どうしても咲けない日には・・・

今日の朝日新聞オピニオン欄に尊敬する渡辺和子シスターのお話が掲載されていました。
「思うに任せぬ春に」というテーマです。

以下一部抜粋。

 私はサラリーマンのことについてはよくわかりませんが、いろいろ不平や不満もあることでしょう。私でも心が乱れて眠れない日もあるし、思い切り言い返してやりたいと思うこともあります。私が意地悪くしようと思ったら、かなりの意地悪になれる人間なんです。でも、それを実行したら、自分が情けなくなるだけです。

 思い出すのは厳しかった母の言葉です。「くだらないことで腹を立てるあなたはその程度の器、小さな人間なのよ」。冷たいなぁ、一緒に怒ってくれたらいいのに、と幼い私は思いました。
 でも母の言う通りでした。誰かに腹を立てることは、その人の支配を受けることなのです。あなたが環境を支配する主となることが大切なのです。私も修道院で尊敬できない人、私と異なる価値観を持つ人との共同生活を経験しました。でも意地悪に意地悪で対抗してはいけないのですね。相手のレベルに、自分を下げたくありません。

 ところで、あなたは何のために働いているのですか。家族の為ですか? 恋人のため? あなたより大きな存在のために働いていると考えると、心が落ち着きます。
 神の話をすぐ持ち出すのは、あまり好きではないのですが、私が修道院で辛い思いをしていた時、ある米国人宣教師に教わった「ONE to one」という言葉があります、大文字のONEは神を、小文字は自分をさします。「神と私」ぐらいの意味でしょう。「あなたが神に仕えるために修道院に入ったのであって、あなたの心を煩わせる人のためではない」。宣教師が私にそう教えたのです。何の為でもいい。あなたにとっての「ONE」を明らかにすることです。

 (中略)

 私は学生に「死にたいほど苦しいとき、『苦しいから、もうちょっと生きてみよう』とつぶやいください」と話します。生きる決意に勇気と力が宿るのです。サラリーマンの方にも、死にたいほど苦しい時があるでしょう。その時は、つぶやいてみてください。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」と。
 若い頃はおしゃれだった私も年をとって、大きな病気を節ために背中が丸くなり、身長も低くなって、鏡に映る自分を見るのが嫌になりました。しかし鏡を割ったところで、自分の姿は変わりません。

 「どんな自分でも受け入れなさい。自分が見捨てたら、誰も拾ってくれないのですよ。ふがいない自分としっかり向き合って生きていくのです」
 学生たちにそう教えてきました。私が老いた自分と向き合えるようになってから、より真実味を伴った言葉になったようです。サラリーマンの方にも伝わるでしょうか。

 環境を変えてみるのもいいでしょう。ただ、今の環境を不平や不満で満たさず、その環境で得られるものを獲得してから場所を変えたらいい。いい事を見つけてから変えるのです。辛かったことを肥やしにして、花を咲かせるのです。
 逆風の中で花を咲かせるには、自分自身との厳しい闘いが必要です。どうしても咲けない日には、根を下へ下へとおろし、咲くのです。次に咲く花は嬉しいこと、楽しいことだけを肥やしにした花とは違う、美しい花となることでしょう。




渡辺和子さんを知ったのは『愛と祈りで子どもは育つ』という本を通して。
初めこの本を手に取り、著者がシスターと分かったとき、「シスターに子育ての何が分かるのか」と傲慢にも思った私。
でも、なぜかその本を購入し、読み始めたら、本当に多くの事を教えられました。

この短いお話からも教えられました。

私もそうです・・・「意地悪くしようと思ったら、かなりの意地悪になれる人間」。
でも、そういう自分を情けなく感じられ、思いとどまれるのは恵みだと思います。

どうしても咲けない日には、根を下へ下へとおろし、咲くのです。」
この言葉は、昨日書いた事への励まし。

誰にでもそういう日はあるんですよね。
根をしっかりと張る時、上へと咲いていく時、人生には様々な時があるんですよね。

天の下では、何事にも定まった時があり、
すべての営みには時がある。
(聖書)

| 心に響いた言葉 | 20:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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一人の価値

これも少々長いですが、『矢内原忠雄全集 第20巻』より、「一人の価値」と題した時論を転載します。


デモクラシーは多数の政治であって、 一票でも得票の多い人が当選し、一票でも賛成の多い議案が成立する。署名運動やデモは人数の多いことが威力となり大衆的であることそれ自体が有意義であると解される。従って少数の反対があってもこれを押し切るとか、自分1人が反対しても意味はないから沈黙するとか、とかく「一人」というものの存在が軽く見られる傾向がある。

 しかしデモクラシーが全体主義と異なるのは、その多数が一人一人をみ重ねての多数である点にある。「一人」が単位になっているのである。デモクラシーの社会では、1人の存在が重んじられ、1人が傷つけば全体が痛み、1人が正しくあれば全体が清められるというような関係に立つのであって、1人や2人はどうなってもよい、どうあってもよい、と言うわけのものではない。もちろん全体もしくは多数のあり方が1人の存在と生活に影響持つことが、デモクラシーの下においても大きいのであるが、しかし「一人」は全体の中に埋没して、自己の存在を失うのではない。

 デモクラシーの社会でも、リーダーとなる人の人物・能力が大きい意味を持つことは当然であるが、その資格の中には「一人」もしくは少数者を重んじる精神が含まれなければならない。また一般の人々も「一人」の価値を自覚し、正しい主張は自分1人でもこれを守っていくという心ぐみを持たなければならない。これが人格観念の根本であり、基本的人権という思想の源である。それなしにはデモクラシーはあり得ないのである。

 日本のデモクラシーに最も欠けているものは、この「一人」の価値と責任の自覚であろう。その自覚がないから、自分1人反対しても大勢を動かすことができなかろうとか、自分が損をするばかりだとか、自分1人ぐらいは義務を怠ってもよかろうとかいう考えになって、結局、大勢順応、長いものには巻かれろという全体主義的悪弊と同じ傾向に陥る。これではデモクラシーは育ちようがないのである。

 「一人」の価値はどこから来るか。なぜ「一人」の存在を尊重しなければならぬか。なぜ「一人」は自分の義務を果たせなければならぬのか。イエスの語ったたとえ話の1つに、 100匹の羊を所有する羊飼いがいて、そのうち1匹が道に迷って見失われたとすれば、 99匹をそこに残しておいて、失われ1匹を探しに行く、というのがある。なぜそのように「一人」の存在を重んずるかといえば、一人一人が神のつくりたもうた生命としての絶対価値を持つからである。

 同じように、一人立ってよく真理を死守することも「一人」の価値は神から出ているのであり、従って「一人」の責任は根本的には神に対して負うのであるという認識に基づくのである。ドイツの詩人シラーの句に「勇者はひとり立つとき最も強し」といっている。全世界を相手にしてでも真理を守ると言うのが、デモクラシー下における勇者の姿であり、このような勇者である「一人」の存在によって、デモクラシーは腐敗から救われる。

 「一人」が立つときなぜ強いかといえば、彼が神の支持を確信するからである。デモクラシーの政治体制では「多数の支持」が力であるが、精神的には「神、われとともにあり」という信仰が、人に自由と勇気を与える根本である。この信仰に生きる人は、たとえ少数者であっても、あるいは唯一人であっても、よくその生と死によって世の光となり、地の塩となることができるであろう。

| 心に響いた言葉 | 20:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「百年の時計」

今日、「百年の時計」を見てきました。
この映画は高松琴平電鉄(ことでん)開業100周年を記念して作られたご当地映画で、オール香川ロケ撮影で制作されました。
全国公開は今年の5月だそうですが、ここ香川では去年10月から先行上映。「さぬき映画祭」の一環で今日、町内で特別上映されるということで観てきました。なんと監督の金子修介氏(デスノート、ゴジラ、ガメラシリーズの監督)も来られていました。

ご当地映画で、しかも出演者はほとんど知らない人ばかり。初めは観に行くつもりはなかったのですが、観た人のレビューを読んで、観に行くことにしました。

よかったです。単なるご当地映画ではないと思います。特にラスト、電車で100年前から今までの情景が繰り広げられていくのですが、そのシーンに感動すると共に、考えさせられました。


映画の中で心に残った台詞。

「"私たちはいつも命の短さを嘆きながら、あたかも命がいつまでも続くかのように振る舞う" (ローマの哲学者セネカの言葉)」

(出征する兵士に「バンザイ」と日章旗を振る光景のあと、老婦人のつぶやき)「孫に付き合ってTVでスポーツ観戦するたび、いつも重い気持ちになる。観客席の様子がこの時代を思い出させるからや。でもそんなことは言えん。言えんことが多すぎて、私の口は漬物石みたいに重うなってしもた

この老婦人の言葉にはっとしました。よく見かける「バンザイ」に、そんな思いを持つ人がいるということに。そしてまた、あの時代を生きてきた人には、言えないことが多すぎて、何も言えなくなってしまった人たちがいるということに。

だからその代わり、言うことのできる者が、声を上げることのできる者が、声を上げていく。
「どうして何も言わないのか」と批判するよりも。


(東日本大震災の写真を見ながら若い女性のつぶやき)「大きな地震と大津波がたくさんの人の命を奪った。あの頃、毎日テレビに釘付けだった。それなのに今はもうみんな忘れたような顔をしている。私もそう。後ろめたい。でもどうすればいいのかわからない。だって私に何ができるの?


電車の中で繰り広げられる日本の100年の光景を見ていて思ったこと。
当たり前のことですが、私たちは過去の延長上というか、過去があったからこそ、こうして現在に生きている。
その過去を、なかったことにしてしまうと言うことは、現在に生きる自分を否定することになるのではないかと。
どんなに辛いことも、悲しいことも、否定したいことも、過去にそれが現実としてあったことはきちんと見つめて、認めて、今へ、未来へとつないでいかないといけない。



この映画の初めと終わりが、私の住んでいる所から二つ向こうの駅でした。
映画の冒頭、電車に乗り遅れそうな主人公が「待って~」と叫び、主人公が乗るまで停車しています。
「あり得ない」と都会に住んでいる方は思われるかもしれませんが、これがあり得るんです。待ってくれるんです。なんせ、1時間に3本しかないし、乗車客は少ないので。

いい映画でした。また観たいです。




主題歌もよかったです。

| 今日の出来事 | 19:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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安易な名付け方

安易な名付け方
今日は本当に暖かな一日で、オーバーなしで愛犬のナナと散歩をしました。

ナナ


犬種はペキニーズで、多分珍しい犬種なのではないかと思います。
この子を飼い始めたのには、ちょっと変わった理由があります。

数年前、朝仕事に行こうと、玄関を開けるとかわいい白い犬が座っていました。
そのうちいなくなるだろうと、そのまま放っておいたのですが、仕事から帰ってきてもその犬は座っていました。

ナナ2
(このように毛がボウボウに伸び放題になっていました)

見た感じ、誰かに飼われていたように思えたので、警察に届け出ました。
そして期限の日数が来て、飼い主が見つかったかどうかと警察に問い合わせると、見つかっていないとの返事。
そうなると、そのかわいい子犬は処分されてしまいます。
それでは、あまりにもかわいそうなので、我が家で飼うことにしました。

そして、予防接種に連れて行き、そこで初めて「ペキニーズ」という犬種だと知りました。
また、飼う以上は名前をつけなければいけない。そこでつけた名前が「メイ」・・・理由は単純。5月に来たから。

メイを飼い始めて1ヶ月ほど経った頃、飼い主が現れました。
近所に住む一人暮らしの年配の男性でした。
飼い主が現れた以上、メイをお返ししなければなりません。
でも、子ども達は大泣き。犬が苦手だった私も、メイを飼ううちに大好きになり、メイのことを思うと涙が出てきました。

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(毛がボウボウのメイでしたが、カットしてもらい、すっきり・・・子ども達はメイが大好きでした)

そこで、同じ犬種のペキニーズを飼うことにし、ナナちゃんが我が家にくることになりました。
どうして、「ナナ」と名付けたか・・・これも単純。「7月」に我が家にきたから!
なんと単純な名付け方!

以前、同じように実家に犬が迷い込んできました。ポメラニアンでした。
母は男の子だろうと思い「ジョン」と名付けました。
でも、女の子だと分かり、「ジョン」ではやはりよくないと、母がつけた名前が「ジョン子」!

その時、私は大阪で一人暮らしをしていたのですが、たまに実家に戻り、ジョン子ちゃんと散歩をしているときに、「ジョン子ちゃん」っと呼ぶのが恥ずかしくて、恥ずかしくて・・・。
当時は、あまりにお安易な名付け方をした母に、「もう少し考えないと」とだめ出しをしていた私ですが、私も同じでした・・・

ナナちゃんと散歩をしながらいつも思うのは、私の住んでいる所はのどかだなって。

琴電
(県内を走っている私鉄ですが、なんと2両編成なんです。1時間に上下線あわせて6本しか走りません。)

山茶花
(これは、散歩コースにある山茶花)


すごく美しい風景があるわけではありませんが、山があり、田畑があり、鳥のさえずりも聞こえ、季節にあった花が咲く・・・心が和みます。

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(by星野富弘さん)

自然には余分なものがないから、人を包み込める、心和ますことができるのでしょうか。


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(4歳になる前のナナちゃん・・・だと思う)

| 今日の出来事 | 19:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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