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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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「私たちは信頼できる大人か」

4/28の朝日新聞のコラム・・・「私たちは信頼できる大人か」

 女性記者が虐待を受けた子どもを取材しようとして知り合った一人の少女、彩美との十数年にわたるつきあいを書いていました。長文になりますが、記事を転載します。


 「5年先、この子は生きているだろうか」
 それが、彩美の-第一印象だった。髪を金色に染め、胸やパンツが見えそうな服に厚底の靴。年齢は18歳。オヤジ狩りや援助交際、シンナーや覚醒剤にも手を染めていた。
 「大人は悪魔だ」。彩美は何度もそう言った。「大人になる前に死にたい」とも。
 当時、彩美は知人宅に居候していた。1年近く通っていくうちに、彩美はポツリ、ポツリと自分のことを語り始めた。


 彩美は幼くして母親をなくし、児童養護施設で育った。施設長らから虐待大受け、自傷行為で気を静め、無断外泊や万引きを繰り返した。16歳の春、突然、施設を追い出される。父親に壊れかけの家に連れていかれたが、父親は2万円を置いて姿を消した。「捨てられた」。自暴自棄になった彩美はキャバクラで働き、体を売った。家は悪い仲間のたまり場になった。

 ある夜、電話が鳴った。駆けつけとる、鏡は粉々、戸障子が破れ、ピンクのセーターは引裂かれていた。彩美は恋人に殴られ、腕を腫らしていた。家主は、私に彩美を預かってもらえないか、といった。
 力にはなりたい。だが、私は彩美の苦しみや思いを世の中に伝えたいと考えていた。自宅に連れて行けば利害関係者になり、記事は書けない。でも断れば、彩美は怒り出すかもしれない。でも、やっぱり嘘はつけない。悩んだ末、正直に説明し、「引き取れない」と伝えた。代わりに婦人相談所に行ってはどうかと提案した。
 彩美は黙した後、つぶやくように言った。「わかった。だけど、あいに来てくれる?」。私が彩美に救われた。

 数日後。「仕事見つけて出て行けって言われた。高校中退で住み込みだと、パチンコ屋しかないよ。面接の行き方もわからない」。彩美は電車の乗り方を知らなかった。施設で育ち、普通の社会経験が極端に少なかったのだ。駅から電話をかけてきた彩美に、切符の買い方を教えた。不安に押しつぶされそうな声だったが、人生をあきらめていたかつての彩美ではなく、なんとかしようともがく彩美がそこにはいた。


 先日、「子供たちの声なき聞こえを聴く」という学習会が都内で会った。非行少年らに向き合ってきた寺尾絢彦さんが語ってくれた。「問題を起こすのは、自分を認められたことのない子がほとんど。鑑別所に来て『初めてこんなに話を聞いてもらえた』という子もいる。盗みや乱暴を働く子が本当は何を求めているのか。その意味を見極めることが大切です」。

 さらに、「大人は性急だが、子供は何事にも時間がかかる。待てるかどうか。でも信頼できる人に出会った子どもは変わっていきます」。

 彩美を変えたのも、まさに信頼できる大人との出会いだ。施設での虐待を問題視した住民や弁護士らがいた。ある住民は「困ったら飯を食いに来い」と声をかけてくれた。弁護士は真剣に話を聞いてくれた。居候を許した知人は社会に出る準備ができるまで待ってくれようとした。「悪魔のような大人だけじゃないんだ」。その実感が、彩美の「生きる力」を芽吹かせていった。

 この4月、彩美は溢れんばかりの笑顔で百貨店の店頭にいた。数年前から正社員として働く。売り上げは入社以来ほぼトップで、社長表彰も受けた。実績を認められて大卒社員との肩を並べて幹部候補生になり、今は転勤先の関西にいる。電車に乗ることもできなかった彩美が元パチンコ店から携帯ショップ、百貨店と転職し。職場のリーダーになり、休みにはストリートチルドレン支援などで海外にも出かける。

 「彩美」は仮名である。この14年、生身の彼女と付き合ってきて、つくづく思う。子供には「力」がある。それを引き出せるかどうかは、その子が出会う大人にかかっている。道を踏み外す前に、あるいは、もし踏み外したとしてもその後に、どんな大人と出会うのか。私たちは信頼されるにたる大人だろうか、と。

 「私の人生はラッキーだと思う。本当にいろんな人に支えられてきたから。私も人のためになりたい。マジ信じられないけれど、いまは年を重ねるのが楽しみだよ」
 そう笑う彼女はもうすぐ32歳になる。



 様々な家庭環境があります。愛情をいっぱいに受けて育っている子ども達もいれば、そうでない子ども達もいます。でも、なかなか子ども達の家庭環境は分かりません。だから、子ども達の外に現れ出る言動に左右され、子どもにレッテル貼りをしてしまうことがあると思います。

 でも、「嫌われたい、嫌がられたい」と思う子どもはいないと思います。それは大人だって同じだと思います。冷静になって、どうしてこんな言動を取るのかと考えることができたらいいのですが、なかなかそうできない。大人が性急しすぎるのもあるのだと思いますが、考えようとしない、ということが大きな原因なのでしょうか。

 表面に現れ出ることだけで判断するほうが楽だから・・・。

 改めて、この言葉を思います。

天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見ると処に、何故、天才は難問を見るという事がしばしば起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。


 それにしても、この記事の彩美さんの、「私の人生はラッキーだと思う。本当にいろんな人に支えられてきたから。私も人のためになりたい。マジ信じられないけれど、いまは年を重ねるのが楽しみだよ」との言葉にはグッときました。

 彼女の育った環境を思うと、恨み言を言ったって許されると思いますが、そうではなく、「ラッキーだった。いろんな人に支えられてきた」って感謝を口にしている。

 そんな「人」の一人になりたい・・・。

| 子育て・教育 | 19:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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憲法問題

 なんだか、最近ふっとむなしくなるときがあります。いったいこの日本という国はどうなっていくのだろうって。あまりにも軽く考えすぎていないかって。

 それとも、私がへんに考えすぎているだけなのか。

 特に今、本当に危機感を覚えているのが憲法問題です。
 アメリカが作り、押しつけられた憲法だから、日本人が考えて作らないといけない、
 「普通の国」になるためには軍隊を持たなければいけないから、9条を変えないといけない、
等と色々言っていますが、それはあくまで改憲派に受ける口実ではないでしょうか。勿論、そういったことを考えてはいるけれど、何よりも権力者達が意図しているのは、国民を縛りつけることではないでしょうか。でも、そういうことを前面に出すと、改憲なんてできっこない、だから、改憲派に受ける口実でカモフラージュしている。

 何よりも、「押しつけられた憲法」って言いますが、日本が軍隊を持てないことに反対した議員が一人います。あとの人は賛成しましたが、反対した人がいたのです。それでも、「押しつけられた憲法」などと言うのでしょうか。


憲法問題について、朝日新聞になかなかいい記事が掲載されていました。以下一部転載。

米コロンビア大教授 ジェラルド・カーティス(4/27)

 首相は「戦後レシーブからの脱却」を唱えるが、一国の首相が、自国の体制変革(レジームチェンジ)を求めるとは、どういうことなのか。日本国憲法は、占領期に米国によって作られたのだから改憲すべきだと言うが、制定から60年余りになる憲法は、日本人が「日本化」させて支持を与え、平和と繁栄を享受して来た。憲法を部分的に直すべきだという立場と、憲法の精神を否定するという立場には大きな違いがある。

 首相は、憲法96条が定める改正手続のハードルが高すぎる、と主張する。しかし米国など先進国の多くの憲法は、改正手続を難しくしており、日本だけが特別なのではない。それは、「アメリカに民主主義」を著した政治思想家トクビルが警告した「多数者の横暴」を防ぐためのものだ。

 自民党は、集団的自衛権を主張し国防軍創設を掲げ、「普通の国」になって何が悪いのかと主張する。だがその前にやるべきことがあるのではなかろうか。経済連携、政治や軍事問題の対話、人的交流などを通じて東アジア諸国との信頼関係を強める。それは、歴史問題を取り上げて不必要に外国関係を緊張させるよりも、よほど生産的であり、日本の国益にかなうことではないだろうか。



天声人語(4/28)

 原点に立ち返って憲法を議論し直そうという国会議員らの動きが広がっている。憲法とは何か、何のためにあるのか。そもそもから考える、という。確かに、それ抜きの議論が先走っている。歓迎したい。

 民主党の議員らが25日に「立憲フォーラム」という超党派の議員連盟をつくった。同じ日に、やはり超党派の議連「13条を考える会」も発足した。いずれも、憲法の根っこにある立憲主義という考え方を改めて確認しようとしている。

 個人の権利や自由が、国家権力なり社会の多数派なりによって奪われることがあってはならない。そのために権力を憲法によって縛っておく、というのが立憲主義である。様々に異なる価値観を持つ人々が、公正に平穏に共存できる社会をつくる。そのための知恵である。

 個人の尊重という思想は従来の改憲派には好かれていない。いまの憲法のせいで、「ほっといてくれ」と国家に背を向ける国民が増えた。憲法を通じ、国家が国民にもっと「ああしろ、こうしろ」と言うべきだ。そんな発想が根強い。立憲主義への無知なのか、あるいは懐疑か嫌悪か。

 もとより憲法とは国民からの国家への命令であり、逆に国家からの国民への命令が法律である。ああしろ、こうしろが必要なら法律のレベルでやればいいことであり、憲法でどうこうする話では本来ない。

 立憲主義を蔑ろにして改憲をする。そのとき憲法は憲法という名前の別物になる。それでいいのか。目下の議論の最前線は実はここにある。



 カーティス氏の「憲法を部分的に直すべきだという立場と、憲法の精神を否定するという立場には大きな違いがある」という指摘。憲法の精神を否定する、ということはどういうことなのか、そのことを私たちはしっかりと考えた上で改憲について考えるべきだと思います。改憲を肯定する一般の人たちは、前者の立場だと思いますが、安倍氏は完全に後者だと思います。安易な改憲は自らの首を絞める結果になるだけではないでしょうか。

 もし、万が一にも改憲されてしまったら、その先はどうなるか。戦争のできる国、徴兵制の復活というのは誰でも想像できると思いますが、植草克秀氏は彼のブログで次のように指摘していました。(記事はこちら


しかし、もし憲法の内容の改正を実現できた場合には、今度はこの憲法を再改正されないことを画策するだろう。今度は憲法改正の発議要件を厳しくする再改正を提案するのではないか。

私たちが気をつけなければならないことは、今年の夏の参院選が終わると、丸3年間、国政選挙のない空白期が生まれる可能性があることだ。

初めは96条改正だけが強調されるかも知れないが、96条改正は目的ではなく手段である。憲法本体を改変するために96条改正が掲げられているのだ。

96条改正が実現したその瞬間から、羊の仮面が消えて狼の本性が姿を現すことになる。

その狼の本性は隠されていない。すでに、『自民党憲法改正草案』として、公衆の面前ではないが、ネット上の片隅にはっきりと姿を現している。

その根幹は、

人権抑制・国権強化・戦争体制確立 である。

最大の特徴は、主権者が国家権力を抑制するとの立憲主義の大原則が棄て去られていることだ。

つまり、国民の権利と自由を守るために国家権力の暴走を防ぐために憲法を定め、国家の権力、統治のあり方を憲法の制約下に置くという、「立憲主義」の根本思想が排除されるのである。

自民党憲法改正草案は主権者が国家権力を縛るためのものではなく、国家権力が人民を抑制するための基本法なのである。

憲法についてさまざまな論議があるのは事実だ。その論議を妨げる必要はない。

しかし、憲法は国の基本法であり、立憲主義の原則を踏まえれば、永久不可侵の人民の権利を守り、国家を暴走させないために権力の活動を憲法の制約下に置くことが必要不可欠である。

この視点を踏み外すことなく憲法問題を論じなければならない。

現在の流れで何よりも危険なことは、国民的な論議が十分に行われていないなかで、憲法改正のハードルが引下げられ、国民論議なしに憲法改正が強行されることである。

次期参院選に向けて日本のすべての主権者がこの点についての認識を明確にしておかなければ、取り返しのつかない事態が生じないとは言い切れない。



「憲法を国民の手に取り戻す」という安倍氏の言葉に騙されてはいけない。憲法改憲のハードルが高いのは、「多数者の横暴を防ぐため」。

取り返しのつかない事態を起こさないために、何をするべきか、何ができるのか。

憲法・・・今まではそんなに深く考えたことはありませんでしたが、本当は生きていくことに大きな影響を与えるもの。

| 世の中のこと | 19:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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水まで民営化?

「賢い国」へとは、なだいなだ氏が言われたこと。そして、今の日本を思うと、日本のトップを思うと、あまりにも遠い遠い道のりに思えます。

こんな驚愕のニュース・・・日本の水道をすべて多国籍企業に売り渡す自民党(記事元コチラ

 4月19日、麻生太郎が、CSIS(米戦略国際問題研究所)でのスピーチで、「日本の国営もしくは市営・町営水道は、すべて民営化します」と発言したということです。詳しくは記事元のブログを読んで頂きたいのですが、この発言といい、安倍氏の歴史認識といい、いったいこれらはなんなのでしょう。

 自民党のダブルAは本当に愚か者。何も考えていない、何も知ろうとしない。ただ、彼らが尊敬しているのだろうおじいちゃんの跡に従おうとしているだけのように思えます。

 小泉・竹中が推し進めた規制緩和で日本が、一般庶民がどうなったか。でも、彼らには一般庶民のことなど眼中にないのだろう。1%の金持ちのことだけを考えていればいいのだろう。彼らのご機嫌さえ取っていればいいのだろう。

 でも、国というものは、1%の金持ちだけで成り立っているのではない。

 みんながみんなそうとは言いませんが、だいたいにおいて、世襲議員という人たちは親から受け継いだ看板で議員になれるから、その土地の人の思いなどを背負ってはいないのだろう。守るべきものは、ただ親から受け継いだものだけ。だから、かくも軽いのでしょうか。何も考えられないお坊ちゃま達が誰かの言うがままにこうどうした結果が、今の日本?

 行き詰まっている。どこに出口があるのかが見えない。そして、あきらめが蔓延していくのでしょうか。

 でも、行き詰まりを撥ね返す力はあると矢内原氏は書いています。
 
社会が行き詰まったから個人も行き詰まるのであるといい、或いは個人の行き詰まったのは社会の行き詰まりの反映であると説明し解釈するに終わって、その社会の行き詰まりを撥ね返す力は自由なる個人の創造であることを思わない。社会的制約の煙幕の中に、現代人は自己を喪失し過ぎている。隠蔽し過ぎている。私は必ずしもこれをもって唯物史観の責任であるとは言わない。併し少なくともそれは唯物史観の大いなる履き違えである。かくて私は、衒学的なる社会的制約説の偶像崇拝から、活々した自由の個人を恢復する事をもって現代の「庶政一新」は始まらねばならないと思うのである。

(矢内原氏の言う、人の自由とは、本能に従い意欲の動くままに行動することではない。個人の自由は神への服従を条件とし、神への服従において始めて神以外の者に対する自由が獲得せられる。個人の自由とは正義への服従において存する)


 一人一人にかかっているのでしょうね。大切な一人、個人。でも、それを締め付けようと画策している人たちがいる。

 それを思うと、今の日本国憲法を改悪させてはいけない。

| 世の中のこと | 14:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「首切り法案?」

安倍政権が推し進めようとしている「解雇補償金制度」。「首切り法案」と言われていますが、どうしてこのような法案を推し進めようとしているのか、私には理解できません。

こちらでその問題点についてわかりやすく書かれています。(ゲンダイネット)

理解できないけれども、なんとなく思ったこと。それは改憲を見据えてのことかなと。
「戦争のできる国」になれば、戦争に行ってくる人が大勢必要。会社を解雇されて、働き場がなくなったら、日々の糧を得るために、入隊するのではないか。そのことを待っているのではないか。アメリカでおこっているように。


今の首相を見ていたら、国のことを思って物事を決めているのではなく、自分のしたいこと、やりたいことをやっているだけの駄々っ子のように思えてなりません。聞く耳を持たず、反対されたら、批判されたら逆ギレする。

国というものは、誰かのおままごと遊びではないのです。

先日『犬と鬼』という本を読み終えたのですが、そこでこう書かれていました。

日本の近・現代史の特徴の一つは、極端に走りやすいことだ。
ブレーキがきかないということだ。スピードを緩めることもUターンすることもできず、破滅的な政策がどこまでも実施される。

一度進み出したら、日本はもう止まらない。舵手がいないから、国家という船が進み始めると、ギヤをバックに入れ直すことのできる者がいない。船はどんどん速度をあげていき、ついには岩に激突してしまうのだ。

| 世の中のこと | 20:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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悪は必要か

「善ばかりでは世の中は成り立たない。だから悪も必要。」
と考える人は多いのでしょうか。

 私は決してそうは思わない。世の中が成り立つために悪が必要だとは決して思わない。確かに、世の中は善ばかりではなく、悪が確かにあるけれども、それは、悪の存在を必要だと肯定することとイコールではないと思う。

 悪は確かに存在している、それを認めることと、悪そのものが必要だとすることには、大きな隔たりがあるのではないでしょうか。

 もし、悪も必要だと考えるのならば、その悪の故に何等かの被害を受けたとしても、文句は言えない。だって、必要だと考えているのだから。


 また、「悪」というものはこの世の、より力あるとこからやってくるような気がします。だから、それが悪であることは分かるけれども、力を持っている人たちがやっていることだからと、黙ってしまう。悔しいけれども、黙ってしまう。情けないけれども、黙ってしまう。あるいは、考えれば考えるほど腹が立つから、もう考えるのを止めよう、と。

 その結果が、きっと今の日本の姿なんだと、私はやはり思ってしまいます。でも、そういう私自身も、黙り込んでしまう一人なのです。

社会の不義に対して戦うことは、神の国の民の為すべからざるあるところであろうか。決してそうではない。イエスの御言は、悪しき者が我ら自身の権利・利益を掠め奪うに対して、抵抗するなとの御教えであって、世に悪が行われ、兄弟が虐げられているを黙過せよとのことではない。否、世の悪と敢然戦えばこそ、かく戦う者の上に「悪しき者」は圧迫・迫害を加えるのである。それには抵抗するな。彼わが右の頬を打たば左をも向け、我が一つの地位を奪わと欲すれば他の地位までも棄てよ。このように自己の個人的利益に執着なき者こそ、悪しき者との戦いにおける最大の勇者たり得るのである。威嚇も彼を屈し得ず、利益も彼を妥協せしむるを得ない。

 これも矢内原忠雄氏の言葉です。これほどの覚悟を、私は今は持ち得ていない。執着しているのでしょう。

 今までは、まあ、なんとなくやってこられました。でも、もしかしたら、これからはこれほどの覚悟を持たなければ、やっていけない時代になっていくのかもしれない。でも、それほどの危機感はまだこの国にはないと思います。

 一方で、これほどの覚悟をもってずっと戦ってきておられる人たちはいます。

 さて、どの道を選びましょうか。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

改めて、イエス・キリストの言葉が深く心に響きます。

| ひとりごと | 09:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「目には目を」の行き着く先

 ブログ、facebookの他に、twitterも利用しています。と言っても、こちらはもっぱら読むだけですが。

 そのtwitterで「ガンディー魂の言葉」といって、ガンディーの言葉を配信してる方がおられます。昨日たまたま目にとまって、心に留まったものを二つ。


目には目を。そんな復讐の連鎖がやむことがなかったら、世界は盲目になるだけだ。

もしわたしたちが「いらない」と声をあげていたら、もっと正しい道を歩めただろう。




 「日本の自衛隊は軍隊ではない。攻撃をしかけられたら、反撃する事はできるけれど、こちらから攻撃をしかけることはできない。」

 「でも、黙って指をくわえてみているばかりではいられない。」

 「やられたら、やり返さないと。」

そんな、会話を耳にしたことがあります。


「目には目を。歯には歯を」、それでは本当にいつまで経っても、争いは止まない。

「目には目を。そんな復讐の連鎖がやむことがなかったら、世界は盲目になるだけだ。」

| 心に響いた言葉 | 20:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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細かなことにこだわってしまう私ですが・・・

 先日、PTA会費のことで書きました。PTA総会で校長の説明を聞きましたが、やはり私はすっきりしません。それで、文科省や町役場に問い合わせました。でも彼らの回答はどれも、他人事かのようなとらえ方。自分たちが考えなければいけない、という姿勢が感じられないのです。

 彼らは言うんです。
「学校経費をPTA会費から支出することは確かに禁止されているけれども、PTAが寄付という形で集めるのならば、かまわない」

 子どもの通う学校のPTA会長に去年聞いたときは「寄付ではありません」と明言。そのことを伝えると、「それならばもう一度PTA会長に聞いて下さい」。「学校に聞いて下さい」

 法律違反の使い方には、納得できない。でも、こだわっているのは、それだけではない。

 一つは、やはり公務員の甘えが納得できない。学校経費を公費で完全にまかなうことが出来ないから、あとは保護者に負担を願う。そういうのを何の問題意識も持たず、当然のことのように考える姿勢。

 一般企業なら、予算が足りなければ、足りるように努力をします。でも、公務員にはそういう姿勢を感じられない。お金をかけなければいけない所にはかけないで、どうでもいいことに使う。例えば、これ・・・万華鏡モニュメント。

1980.jpg


 二つ目は、彼らは法を遵守するように言うのに、自らが法に触れるようなことをすることには、色々と口実を設けて問題なしとするような姿勢。

 三つ目は、保護者の無関心。「子どものためだからいいじゃない」、あるいは「月々600円ほどのことだから、いいじゃない」、あるいは「今までずっとそうしてきたし」というような思いの故でしょうか。

 細かなことにこだわりすぎていると思います。そんなことを言っていたら、しんどいだけかもしれません。でも、やはりすっきりしないんです。


 生活上の便宜がどうであろうが、正は正として守り、邪は邪として排斥し、自分の行動に対してはあくまで責任を取る。
 
 との矢内原忠雄氏の言葉が心に深く響きます。

| 子育て・教育 | 19:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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賢い国へ

 朝日新聞の小さなコラム「CM 天気図」というのがあり、天野祐吉氏が書かれています。今日は「さよなら経済大国」と題して、こんなことを書かれていました。

 安倍さんは日本を「強い国」にしたいらしい。が、作家のなだいなださんは「強い国」なんかより「賢い国」がいいと言っていた。ぼくも経済大国や軍事大国は米さんや中さんにまかせ、生活文化大国(大国じゃなくてもいいけど)に住みたいと思う。

 そして、経済大国にさよならした向こう側、つまり「賢い国」への案内になっているのではないかと、旭化成グループのCMについて紹介されていました。(旭化成グループのウェブサイトでCM見られます・・・こちら。

12のシリーズがあるようですが、そのうちの一つがこれ。


 「強い国」「美しい国」なんかより「賢い国」。単純かもしれませんが、その通りだって思いました。

 では、「賢い国」って、どんな国を言っているのでしょう。調べていたら、こういう記事を見つけました。(記事元こちら
 少々長いですが一部転載します。いいこと言われているなって思います。



 僕は言いたい。戦争の世紀は第二次世界大戦までで、今や21世紀になったのだから、賢い国をつくっていくべきでしょう。

「賢い国とは」

 常識を備えた国ではないですか。教育問題一つをとっても、子どもたちを勉強漬けにして、有名学校に進学する競争ばかりさせていたら、知恵はついても賢くならない。哲学を持とうとしない。哲学がないと行動がぶれる、発言内容がころころ変わる。政治家を見ていたら、よくわかります。

 宮沢賢治がブームになっても、賢治の哲学がわからない。代表的な「グスコーブドリの伝記」は、技術を駆使して自然災害で苦しむ人々を助ける童話ですが、技術は一企業の利益のものではないと教える内容です。賢治の童話からそうしたモラルを学ぶべきなのに、肝心のモラルがないまま強い国を目指したらどうなるのですか、言わずもがなでしょう。

 
「軍隊の保持が議論されるようになりました。」

 軍隊が国民を守るというのは、日本に限れば大いなるごまかしでした。日本の軍隊は皇軍と言われ、天皇の軍隊でしたから、天皇を守ることが最大の使命なのです。だから国体を護持するために「一億玉砕」などと言い出した。国民が玉砕して何が残るというのですか。戦後になって、兵隊は国を守り国民を守った、兵隊さんありがとうの印象を復活させようとしているようですが。

「竹島や尖閣諸島で外交上の衝突が起きています。」

 もう小さい島を巡ってけんかをする時代ではありません。尖閣諸島は、日本も中国も台湾も手をつけなかったために、自然が残っています。日本が領有しても、この自然を守り、守った自然の資源を、共同で利用するための責任者の意味合いでしかない。互いに賢い国になりましょうと話し合って解決することです。

「日米同盟と集団的自衛権の行使については。」

 日本が他国と戦争する局面が仮に起きたとして、そのときアメリカは日本と一緒に戦ってくれると思いますか。僕は一緒に戦争してくれるとは思わない。アメリカは勝手に世界のどこかで戦争を起こし、日本の自衛隊を派遣してほしいと要求することはあり得る。逆のケースはあり得ない。これが日米同盟の本質ではないですか。

 そんな日米同盟の強化を叫ぶより、むしろ沖縄を大切にしたい。沖縄は日本であり、同じ国民なのに、なぜ沖縄だけが、こんなひどい目にあっているのか。日米同盟を優先させるために、沖縄を放置することが日本人の常識であっていいでしょうか。


「改憲については。」

 日本の戦後の平和は、この憲法のおかげで守られてきた。改憲派はいざとなったら戦争をしたい。アメリカは自衛隊に後方から前線に出て戦わせたい。9条はそうしたことを阻止してきた。もっとも9条を護るだけのために改憲に反対するようでは、守りの姿勢になってしまう。9条を護ったうえで、さらに国民の側に立った、より民主的な憲法を目指していく攻めの姿勢も大事でしょうね。


「老人党の提唱者として。」

 健康にしろ、幸福にしろ、失ったときに初めて大切さに気づくものです。平和の大切さも失われたときに初めてわかる。老人党の僕は、戦前と戦後を知っているから、このことだけは断言できる。平和はいい。



「賢い国」へ・・・。今の首相にはとても望めない。大きな変革が必要なのだと思います。それには、やはり、唯一畏れるべき方を畏れる、そのことが何よりも大切なのだと必要なのだと思います。

| ひとりごと | 19:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「悪いことに使っていないから、いい」・・・PTA

今日、次男の通う小学校のPTA総会がありました。去年の6月頃にPTA会長に、PTA会費の使い方は違法だと伝えました。なので、今年は改められているかなと思いきや、全く変わっていませんでした。

体育奨励費として、体育消耗品や石灰などに、
教員研修費として、研修資料、参加費に、
環境整備費として、清掃、園芸、飼育などに、
保健費として、薬品、トイレットペーパーに、
メディア費として、去年度は各学年にCDプレーヤーにPTA会費が充てられていました。

なので、総会でこういった使途は学校教育法や地方財政法で禁止されているのに、相変わらず変わらないのは何故かと質問しました。

すると、PTA会長ではなく、校長が次のように答えました。(突っ込みどころはたくさんありました。一応やりとりを録音しておきました)

・市町が学校経費の全てまかなうのは当たり前のことだが、そう割り切ってしまうと、PTAの本来活動、すなわち広報、研修、懇親会だけをしていればいいというシステムを一からやり直さないといけない。

・現実問題として公費だけでなかなうのは厳しい。

・公費でやっていることはやっている。例えば、耐震工事、エアコン設置、コンピュータ導入等。

・学校運営費について、PTA会費から出ているのは、本来の趣旨から言えば、問題はあるが、戦後PTAが出来て以来ずっとこういう形で援助して貰っている、会員の皆さんにも理解して頂いている。望ましくはないが、長年の慣例とご理解でこのような形になっている。そんな皆さんの労力や地域の方々の協力のもとに学校は成り立っている。その一つとしてPTA会費もそのようなものの一つ。

・学校のために、子どものために使っているのであって、何ら悪いことに使っているわけではないから、かまわない。


 校長の話を聞いて、校長の言い分も分からないわけではないのです。OECD加盟国の中、日本の教育予算は2〜3番目に低いと言われているほど、教育予算は乏しい。援助を得られるのならば、援助を得たい。

 でも、現行の法律では学校の経費をPTA会費でまかなうことは禁止されている。法律で禁止されていることを、「慣例だから」、「他の学校でも同じ事をしているから」、「子どもの教育のため」という理由でやってもいいのだろうか。

 「悪いことに使っていないからいい」というのは、違うと思う。現法律では違法となることだから、ルール違反だから故意に違反してはいけないのではないでしょうか。
 
 例えば、小学校にはシャーペンを持ってきてはいけないが、書きやすいからと子どもが持ってきたら、校則で禁止だから持ってきてはいけません、と言うだろう。悪いことではないけれども子どもが校則に違反したら、ルールは守りなさいと注意を促すのに、自分たちは、悪いことに使っていなければ、ルール違反をしてもいいというのだろうか。

 「してはいけないことは、してはいけないのです」と指導する者が、「してはいけいないことを、している」。

 第一、PTAは独立した団体のはず。社会一般、ある会社が他の会社の経費を負担することなんてまずしない。ある会社が予算不足だからと、従業員の家族に経費を負担してなどとお願いすることもない。でも、それが「学校」という場になると、OKなのだろうか。

 私には公務員の甘えとしか思えない。
 
 先日、矢内原忠雄氏の次の言葉、

人は生活上の便宜によって行動を規律すべきものでなく、又鳥や獣のように本能的な存在でもない。人というものは義しくなければならない。生活上の便宜がどうであろうが、正は正として守り、邪は邪として排斥し、自分の行動に対してはあくまで責任を取る。この意味の責任観念は人格観念と不可分であるのです。その人格観念は絶対者に対する人間の認識から生ずる。

に出会ったが、「生活上の便宜がどうであろうが、正は正として守り」という態度が大切なのではないだろうか。

 「PTA会費、たかだか月に数百円のこと、そんなこと気にする方がおかしい」と思う人もいるでしょう。でも、そういう姿勢の積み重ねが今の日本の姿ではないのだろうか。

| 子育て・教育 | 21:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「政治に関する随想」(伊丹万作)

 『だまされることの責任』(佐高信、魚住昭)を読みました。この本の冒頭、以前ブログで少しだけ引用した伊丹万作氏のエッセイ「戦争責任者の問題」の全文が掲載されています。

 また、佐高氏と魚住氏の対談もとても面白く、読みやすく、お薦めです。この本のことを少し書こうと思ったのですが、伊丹万作氏の他のエッセイを見つけたので、そちらを転載しようと思います。

 「政治に関する随想」というエッセイで、今にも通じる警鐘です。長いですが、一部転載します。


 選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。

 しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。

 「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
 それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ずる。

 なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。

 今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
 しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。

 もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
 しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
 特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。

 (立候補者について)彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
 このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。

 なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
 思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。

 現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
 彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。

 現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。



 ずっと変わっていないんですね。これだけ変わらないのならば、いっそのこと、伊方氏が書かれていることを国民全員が行ってみてもいいのではないかとさえ思えました。こんなことを書かれています。

日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。


青空文庫で伊丹万作氏の書かれたものをみることができます。こちらです。

ちなみにこの伊方万作氏、伊丹十三氏と大江健三郎夫人の父親です。

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