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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2013年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年06月

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記憶を育てる

今日で5月も終わり。
5月、私には大きな事件が起こりました・・・ブログ削除!!
やはり今でも悔やまれます。

バックアップしていなかった記事を今でも拾い集めています。そして、なんとか5月のなくなったデータは取り戻すことが出来ました。oth_pen56よっしゃ


 拾い集めていく中で、「こんなこと、書いていたんだ」って思うことがしばしば。自分なりに一所懸命書いていたのですが、その割りには書いたことを、結構忘れているんですよね。

 そんな中、長田弘氏の『なつかしい時間』の中のこのエッセイが心に響きました。以下一部転載します。

記憶を育てる

 人間の人間らしさを、記憶はささえます。しかし、記憶は、何もしないでもおのずから自分の中にあるのではありません。それぞれが自ら時間をかけて育てるべきものが記憶であり、人は記憶によって育てられ記憶に導かれて自分にとって大切なものを手にしてきました。

(中略)

 記憶と言うのは、「覚えている」と言う事ではなく、「自ら見つけ出す」ということです。と言うのも、全てを覚えていることはできないために、人の記憶は本質的に不完全であり、そのために記憶と言うのは、断片、かけらを集める、そしてまとめることだからです。記憶は心に結ばれる像の、イメージの倉庫でした。「心の中」という言葉は、「記憶の中」と同じ意味をもっていました。大切な事柄は「あなたの心の中に記しておきなさい」と言った、とされます。

 記憶は、言い換えれば、自分の心の中に、自分で書き込むと言う行為です。驚きを書き込む。悲しみを書き込む。喜びを書き込む。そうやって、自分で作り上げるのが、記憶です。

(中略)

 ひるがえって今、私たちは人間がとうてい及ばないような記憶力を持ったコンピューターに自分たちの記憶をゆだね、記憶すること助けてもらっている。人間が自ら記憶力を手放してしまっているような危うさを感じます。

 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、自分のうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけて育てることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭に育ってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。(詩集『記憶のつくり方』あとがき)


 人の考える力、感じる力を作ってきたのは、常に記憶です。けれども、もっぱらコンピューターに記憶をゆだねて、自分を確かにしてゆくものとしての生きた記憶の力が、一人一人のうちにとみに失われてきているようにみえる今日です。あら改めて、人間的な記憶を日々に育てていくことの大切さを、自分の心に確かめたいものです。



 「コンピューターに記憶をゆだねていた」・・・私はまさしくそうでした。それが悪いということではないけれど、「生きた記憶の力」というものは、確かに失われつつあったように思います。

 「手をかける」ということをしていなかったなと。

 平易な言葉で語りかけてくれる長田氏の文章は、どれも心にスーッと入ってきます。


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| 本・評論、新書、エッセイ | 21:06 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「自民、教科書会社を聴取」

5/29 朝日新聞 教育欄の記事は看過できないと思います。

自民、教科書会社を聴取 ――検定見直しへ 慰安婦記述など問題視

記事によると、

教科書検定の見直しを検討している自民党の部会が28日、教科書出版会社の社長らから編集方針などを聴いた。
教科書の記述内容をめぐり、南京事件や慰安婦問題などの質疑が続いた。
党側は「出版社に圧力をかける考えはない」と説明している。

この会で、萩生光一衆議院議員のこんな挨拶から質疑が始まった。

「教育基本法や学習指導要領が変わり、教科書の記述が変わると期待したが、そうなっていない。より良い教科書を作るために考えを聞かせていただきたい」

そして会では、以下のような意見が出たという。

「南京事件の犠牲者数は事件自体がなかったという説も含めて様々ある。なぜ、『十数万人』や『30万人』という説しか紹介しないのか」
「慰安婦について、旧日本軍の強制性をうかがわせる表現が強い」
(領土問題、原発稼働の是非に関する記述について)「経緯の説明が足りない」「偏っている」

自民党がとくに問題視するのは、日中戦争や太平洋戦争などをめぐる「自虐史観」と呼ぶ記述。

部会は、参院選前に中間まとめを安倍首相に出す予定。各教育委員会による教科書の選択や、検定をする委員の選び方などにも言及するとみられる。



政治家が教育への口出しの度合いをかなり強めています。そういうことが許されていいのでしょうか。
それも、自分たちの歴史観が正しく、それに合わないものは認めないという姿勢。
人格観念を持っておらず、魂を悪魔に売り渡したようなヒトたちが、教育に口出しをする資格はない。

しかも、この会は5/28にあったわけですが、この日はハシモトの外国人記者に向けての釈明会見があった日です。自民党はハシモトの発言について、攻撃をしたのではないでしょうか。その日に、このような発言。自分たちもハシモトと考えは同じです、と外国人記者たちに、アメリカに言いなさいよ、と言いたくなります。

こんなアベ内閣を、こんな政府をそれでも、経済の故に、支持するという人は多いのでしょうか。


矢内原氏が聖書のたとえ話を引用して、このようなことを書かれています。 

 自由、自由、自由である。日本は世界一で何でも自由な国である。神を畏れる畏れなくして人間が自由になった国、それが今日の日本である。このような社会を、悪鬼は最も好んで来たり住むのである。

  汚れた霊が人を出でたが、水なき処をめぐって休みを求めても得ないので、「わが出でし家に帰らん」と言って、旧巣の家をのぞいて見た。それは掃ききよめら れて飾られたまま、誰も住んでいないのを見て、自分よりもさらに悪い他の7つの霊を連れて来て、共に入って此処に住んだ。その結果、その人の後の状態は前 よりも悪くなる。よこしまな此の代もまたこのようになるだろう、とイエスは語り給うた。(マタイ12:43)

 戦後の日本の社会を例えるのに、これ以上に適切な比喩はない。戦後の民主化は日本から一つの悪鬼を追い出した。座敷の掃除はでき、民主主義の飾り付けもできたが、民主主義精神の中心である「人格」の神を迎え入れないまま、空家になっている。一度出て行った筈の官僚主義や神社崇拝や権力主義や唯物主義は、己にまさる七つの悪鬼を連れてきて再びこの家に入り込み、自由、自由と叫んでいる。

 邪曲なる此の代は神の審判を免れないであろう。預言者イザヤの声は再び国民の耳に鳴りととろかざるを得ないであろう(イザヤ書3章参照)




 政界の汚職又汚職と、それが司直の手によって最後まで追究されぬ歯がゆさ、官僚的支配の傾向、防衛隊の軍隊化、修身教育、大学の堅実な充実をおろそかにし て天降り的な科学技術振興の賑やかな掛け声、科学技術と軍事の結びつきの可能性等々を思えば、なんだか昔聞いた靴音に似た音が少しずつ交わって聞こえるよ うな気がする。(1958年2月)


「自由だ、自由だ、経済は上向きだ、お金は儲かっている」と叫んでいるその裏で、何が進行しているのか。
気づいたときには、あの時代が舞い戻っていた、ということになってしまってからでは、もう遅い。
 

| 世の中のこと | 17:43 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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新箴言

矢内原忠雄氏作の新箴言(1961年5月)・・・書き留めておきたくて。


 心に喜びが湧いていると、人に対して寛容になる。
 心に信仰が溢れていると、何事にも耐えることができる。
 人から奉仕を求める心は、傲慢と不平と怒の基となる。
 人に仕える心は、柔和と謙遜と平和を生む。
 人を奴隷のように使う人は、みずから怒の奴隷となる。
 憐れみをもって人を見る人は、神から憐れまれる。
 神の事で怒ることを知らぬ人は、信仰の人ではない。
 自分の事で腹を立てる人も、信仰の人ではない。
 柔和な人と同席することは心を休める。
 腹を立てた人と共に坐るのは、狂風の中にいるようだ。
 怒は愛を失い、
 いらだちは平和を奪う。
 怒を鎮めるものは憐憫であり、いらだちを治めるものは柔和である。

| 聖書・信仰 | 20:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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第27回憲法フェスティバルが開催されます

facebookより・・・
近郊の方で、参加できる方はぜひどうぞ。以下転載です。




第27回憲法フェスティバル「貧困と平和~25条と9条の未来」で、特別ロビー企画として、福島菊次郎写真展が開催されます。

これに合わせて、会場で福島菊次郎写真集「証言と遺言」の販売がございます。

第27回憲法フェスティバル

どの命も同じ重さのはずなのに、なぜ違いが生まれるのか?
憲法は「貧困」と「平和」についてどう語っているか?
私たちはそれをどう活かせるか?
第27回憲フェスのステージを見ながら一緒に考えてみませんか。

日時 2013年6月1日(土)11:30開場 12:00開演 15:40終演予定
場所 日本橋公会堂ホール(日本橋劇場)
〒103-8360
東京都中央区日本橋蛎殻町1丁目31-1

参加券
当日:2,500円
前売:2,000円
障害者・付添人:各1,000円(前売・当日とも)
大学生:1,000円(前売・当日とも)
高校生以下:無料(前売・当日とも)

詳細はこちらクリック

| 世の中のこと | 20:14 | comments:2 | trackbacks:1 | TOP↑

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「壁を乗り越える」

 「今の子どもたちは打たれ弱い。その理由の一つとして考えられるのは、この子たちは海で泳ぎを習わず、プールで習ってきているからだ」と言った人 がいます。つまり、波にぶつかる機会がないまま育ってしまったために、世間の荒波にぶつかった時に、対処できないのだということでした。

 道路についても同じことが言えます。今やほとんどが鋪装されていて、デコボコの道、泥んこの道、石ころ道を歩くこと は少なくなりました。しかしながら、私たちの一生は決して平坦な道ばかりではなく、波風の立たない、適当な温度調節がされたプールでもないのです。沢山の 障害物が立ちはだかり、行手を塞ぐ壁となっています。

 育っている間、したいことは何でもさせてもらい、したくないことはしなくてもいい。そして、それが"自由"であるかのように育てられた子どもたちは、壁にぶつかった時にどうしてよいかわからず、落ち込んだり、生きる勇気まで失ってしまうことがあります。

 "壁"というものは、人間が成長するためになくてはならないものなのです。世の中の厳しさを知るために、何もかもが自分の思い通りに行かないことに気づくために必要なものなのです。

 今まで持っていた自分の価値観と異なる価値観があることに目覚め、自分を振り返り、自分の生き方、主義主張を見直す良い機会ともなります。

 "壁"は必ずしも、乗り越えないといけないものばかりではなく、必要な存在でもあるのです。世の大人はもちろんですが、親、教師の立場にある人たちこそは、愛情をこめて、子どもの壁になるべきだと考えています。


記事元はこちら



渡辺和子さんの書かれたものです。

自分自身が何かの「壁」にぶつかれば、それを「乗り越える」あるいは、「(身を低くして)くぐり抜ける」と、よく言われていると思います。

自分が出会す「壁」はあるけれど、自分が「壁」となることも、時には必要・・・『親、教師の立場にある人たちこそは、愛情をこめて、子どもの壁になるべきだ』と思った事はないような気がします。

「したいことは何でもさせてもらい、したくないことはしなくてもいい」そんな風に子どもを育ててはいないと思いますが、でも、時には「壁」になる必要があると思った事はない。
自分以外の何かを「壁」にしようすることはあるけれど・・・。

何故なんだろう。

| 子育て・教育 | 21:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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生きているということは、・・・

先日、図書館で借りた長田弘さんの『なつかしい時間』、いいです。平易な言葉遣い、でも、心に静かに響いてくる。今まで考えもしたなかったことに気づかされ、新しい発見のある一冊でした。

今日はその本のことではなく、その本で紹介されていた桑原武夫氏の『雲の中を歩んではならない』に書かれていたことを、ほんの少しだけ書いてみようと思います。

「平和についての架空座談会」で書かれたいたことを一部転載します。

国の方向が、日本の場合政府の方向が自分の考えとは違う方向に向かって進んでいる場合、何をしていても若干は自分を裏切る、あるいは矛盾を生じる、ということになるのです。

(中略)

生きているということは、流されているということではありません。
魚は水から離れることはできないが、水の中でやはり泳ぎつづける、そしていついも流れに逆らって泳いでいます。声をかけ合いながら、列を作りながら、泳がねばならない。
そこには大にしろ小にしろ、矛盾はさけられない。しかし、こんにち生きるということは、仙人になるということではない。矛盾の中で、そのカネアイを工風すること、そのカネアイをひっくりかえさぬようにしながら、しかも自分の正しいと信じる方に重みをかけてゆくことで、その重みのかけ方は軍需工場の人と小学校教員と文学者とでは、それぞれ違っているし、また個人個人ちがってよろしい訳です。



「カネアイをひっくりかえさぬようにしながら」という部分は、まだちゃんと消化し切れてないのですが、始めの部分、「魚は水から離れることはできないが、水の中でやはり泳ぎつづける、そしていついも流れに逆らって泳いでいます。」というところに、「ああ、そうなんだ」って、妙に感心してしまいました。

そして、「魚、流れ」という言葉で検索をかけたら、こんな言葉に出会いました。

死魚は流れのままに流されるが、活魚は流れに逆らって泳ぐ。(内村鑑三)

流れに沿って泳ぐのは死んだ魚だけだ、ということを決して忘れないように。

| 心に響いた言葉 | 21:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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オリンピック招致を取り下げよう

オリンピック招致は私は反対です。(あの都知事の発言で東京開催はほぼ絶望的だとは思いますが)
そのオリンピック招致について、「取り下げましょう」と訴えている、こんな方を知りました。

facebookより。

「森田光平オフィシャルサイト」より転載

 原発が倫理と責任の欠如に立脚したものであることがもんじゅ、敦賀2号機問題で改めて露見しております。決定的です。

 (中略)

 福島事故処理が進まず、4号機の崩落をもたらす震度6強の地震の発生がないよう祈るのみの国家的危機に直面している日本の状況下でオリンピック招致の立場をとり続けることは徳性を備えた国家がすることではないとの意見が内外で強まりつつあります。

 去る20日、外国特派員協会で福島の子供の深刻な健康問題を取り上げた映画の試写会がありましたが、その席でも話題となりました。

 この際、招致を辞退することの得失を検討することが緊急の課題になっていると信じます。
 福島第一の悪化しつつある状況に対する異常としか言えない危機感の欠如は限界に達しております。
 地球と人類を守る天地の摂理は再稼働と原発輸出に象徴される不道徳な現状の永続を許さないと確信いたします。
 現に、去る3月11日、イタリアのフロレンスでユネスコクラブ世界連盟は日本の提案を容れ、3月11日を地球倫理国際日とすることを決め、来年3月のワ シントン会議に向けて国連倫理サミットの開催を呼びかけていくこととなりました。マスコミはこれを報じておりませんが重要な進展です。


この方のサイト、読み応えがありそうです。長いこと、原発、核について警鐘をならしてこられた元スイス外交官。

また、2001~2011年12月までの核・原子力関係に対する村田氏の活動・発言のうち、重要なものを当時の原文のまま、まとめられているのが、こちら


それにしても、知らぬは日本人ばかりなり?

| 世の中のこと | 21:21 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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自由は・・・

矢内原忠雄全集と並行して、他に2~3冊を読み進めているのですが、今回初めて長田弘氏の著書を読んでいます。
『なつかしい時間』という本で、とても読みやすいです。

その中で色々な方のことを紹介されていますが、岡義武の『独逸デモクラシーの悲劇』の一節が紹介されていました。

一部転載します。

 ワイマール共和国の短い歴史、それは不幸の中に生まれ落ち、不幸の中に生き、そして夭折した一人の薄幸なるもの生涯にも似ている。それは、ひとを傷心せしめるもんを含んでいないではない。けれども、今日の我々にとっての課題は、曽ての日の独逸に起こった民主政のこの不幸なる実験にお心を動かすことよりも、それについて考えることであろう。そして、ここに疑いもなく明白なことは、自由は与えられるものではなくて、常にそのために闘うことによってのみ、確保され又獲得されるものであるということである。そして、そのために闘うということは、聡明と勇気とを伴わずしては、何ら意味をももち得ぬということである


 自由は与えられるものではなくて、常にそのために闘うことによってのみ、確保され又獲得されるものである。

 この岡義武氏、私は今回初めて知ったのですが、彼の父親、岡実氏は、農商務省時代に工場法案を起草し、「学問を通じて労働者を解放しようと思った」とのことです。また岡義武の先輩教授は南原繁だそうです。


 どうなっていくのだろうかと心配でならない日本ですが、でも、良い木は良い実を結ぶように、あきらめずに、少しでも良い木となって、すぐには無理でも、いつかは良い実がたわわに実るように、その流れを絶やさないでいければと思います。

| ひとりごと | 21:48 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ありがとうございます

昨日の一騒動から一夜明けて、落ち着いてきました。
皆さんからのあたたかい励ましのメッセージに本当に、元気を頂きました。

本当に本当にありがとうございます。

バックアップしていなかった記事は、ネット上の履歴から少しだけ集めることができました。

パソコンは確かにとても便利ですが、操作一つで、とんでもないことにもなるんですよね。
そんな当たり前のことに、はっと気づいた私です・・・。


新しくまたブログを始めるにあたて、私がブログを始めたきっかけはなんだろうと思いました。

 一番は、イエス様のことを一人でも多くの方に知っていただきたいなと思ったこと。
 それが、東日本大震災をきっかけに方向性は少し変わってきました。
 でも、やはりそのために、本を色々と読んでいくうちに、矢内原忠雄氏を知り、彼の遺した言葉があまりにも現状をよく言い当てていることを知り、しかも、彼を強く支えていたことが、イエス・キリストであり、神への信仰であったことを知り、そのことも含めて、最近は矢内原氏のことを多く取り上げています。
 当初の目的へと返ってきているんですね。


 しばらくは、矢内原氏のことを取り上げることが多くなると思いますが、日々色々と感じたこと、考えたことを、綴っていきたいと思います。

 
 矢内原氏のこの言葉で、今日は終わりたいと思います。

 神によりたのむ者だけが、人間の失敗と欺瞞にかかわらず、平和の遂に地上に成ることを信ずる。それが神の御意だからである。


 日本の現状に、失意落胆しますが、平和の遂に地上に成ることを信じていきたいと思います。

| ひとりごと | 20:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ショック!!(追記)

もう心臓はバクバク!

これほどショックなことはない!

間違ってブログを消してしまった!!

全て最初からやり直しです。

あ~あ!!!





かなり立ち直ってきました。
去年の8月までと、今年の1月のバックアップがあったので、そちらの分はデータ復旧。
残りの記事は、なんとか探していこうと思います。時間がかかるだろうな・・・。
でも、全部は見つからないだろうな・・・。

よりによって、誕生日の日にこんなことが起こるなんて!

これは、
「備えあれば憂いなし」ということを教えるためか、あるいは
「余計なことはするな」ということか、あるいは
「消えてなくなる可能性のあるものに執着するな」と教えるためなのか。


こんなおっちょこちょいな私ですが、これからもよろしくお願いいたします。


380464_476372545725989_536126956_n.jpg(関係ないですが、愛犬のナナちゃん)


賛美フラを見て、一緒に踊って、凹んだ気持ちにさようなら!

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(大阪の教会の人たちによる賛美フラ・・・賛美フラを初めて1年未満の皆さんです)

| ひとりごと | 12:01 | comments:20 | trackbacks:0 | TOP↑

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