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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2013年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年01月

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一年の終わりに

あと6時間ほどで今年も終わりです。

年齢を重ねるごとに、月日の経つのの早いこと!
今年の目標の一つとして、矢内原忠雄全集を読む、というのを掲げたのですが、半分近く読めたかな。
そして、読みながら、手元に置いておきたいという思いが高まって、購入してしまいました。矢内原忠雄全集。全部で29巻あるのですが、第1巻だけ欠で古書店が販売していて、価格的にかなり安かったので、買いました。
初めて持った全集。全集がずらっと並ぶとなかなか見応えがあります。

日本の現状を、そしてこれからを思うと、矢内原氏から学ぶことはたくさんあると思います。
矢内原氏の言葉をじっくり読み、噛みしめていきたいです・・・ただ私の場合、本が手元にあると、ついつい後回しにしてしまう悪い癖があるので、本棚に飾ったままにしないで、読み進めていきたいです。そして来年末には全巻読み終わったと記せたらいいな。


先日、よく訪問するブログ(浜名史学)に「マガジン9」の記事が紹介されていました。
その一部を転載します。(記事全文こちら)

 マンデラ氏から学ぶべきものは、安倍首相だけではない。特定秘密保護法の反対に立ち上がった人たちにマンデラ氏の言葉を伝えたい。「何もせず、何もいわず、不正に立ち向かわず、抑制に抗議せず、それで自分たちにとってよい社会、よい暮らしを求めることは不可能です」
 秘密保護法は成立してしまったから仕方がない、と無力感に陥るのではなく、抗議を続けることが大事なのだ。日本の民主主義、日本の平和主義を守るために。


 不満があっても、おかしいと思っても、黙っていたら何も変わらないんですよね。

 暗いと不平を言うよりもすすんであかりをつけましょう
 と渡辺和子シスターが言っておられますが、よく訪問させて頂くブログにも大晦日の今日、同じような言葉を掲げておられました。

 小さな明かりでも、いくつも集まれば、それは人々を導く光となりうる。
 そしてまた、光となるためには、やはり神への信仰が何よりも必要なのではないかと思います。


今年の年頭に書いた言葉で今年のブログを締めくくります。

専門家ではないからといって、自らの役割を過少に見積もる理由はありません。絶えず新たに批判的な問いをする権利と義務をもっています。共に考える風潮がなくなってゆくことが社会に対する最大の害です。
(ヴァイツゼッカー大統領)

人がこの地上で歩む暗い小道には、次の一歩を踏み出すのに必要なだけの光が射している。
(モーゼス・メンデルスゾーン)


神様は光を与えて下さっているのです。その光はイエス・キリスト。

そしてまた、神様が造られたこの星は、本当は美しい星なんですよね。



拙いブログですが、訪問して下さった皆様、今年一年ありがとうございました。
そして、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

よい一年をお迎え下さい。

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| ひとりごと | 18:45 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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「かたすみの人間賛歌」

やすもの

ろくにものをいえないくちはやすもの
じぶんのいしもほかのひとにいえない
くちは
あるくことのできないあしはやすもの
ひざさえものびきらない
あしは
いつもしばられているてはやすもの
かのじょのてもにぎれない
ては
やすもの
こんなじぶんのわるいことばかりをかくぼくは
いちばんのやすもの


これは草島昇さんという重い障がいを持つ青年が書いた詩。教育を受ける権利を放棄させられ、小学5年の時、17歳だったという。

その草島さん、河原正美という教師に出会い、詩を書くようになります。
この草島さんの詩を偶然新聞で知ったある女性が、河原先生に手紙を書きます。

その女性・・・
二児の母親、3年前にご主人がなくなり(ノイローゼとなり、自殺をはかり、ある日ふと家を出たまま帰ってこず、次に発見されたときは、白骨死体だったという)、生活が苦しく、生活保護を受けている。
自身が身障者であるため、子どもが学校でいじめられ、隠れて泣いている長男を見るのがつらくて、死にたい思いがする。何度も親子心中をはかっていたそうです。
そして、河原先生に、草島さんに、私たち親子に生きる希望を与えてほしいと頼む。

この手紙がきっかけで、河原先生、草島さん、母親と子ども(長男)との文通が始まった。

長男はこう言っていた。
「ぼくは大人が大きらいだ。人をだましたり、うそをついたり――。動物はうらぎらんし、正直だから大すき。できれば、大人になりたくない」

その長男が草島さんに書いた手紙・・・

 ぼくは、お兄ちゃんと知り合って、もう一年あまりになります。それまでのぼくは、つらいことばかりで、楽しいことなんかひとつもなかった。こんな世の中を誰が作ったのかと、にくらしく思う。毎日毎日泣いてばかりで、今思うと、あの当時、ぼく達は大きな池の中でおぼれて、死にかけていたような気がする。そこへ、お兄ちゃんが大木をなげてくれました。必死につかまって助かったんです。
 そうでしょう、お兄ちゃん。
 『ひとしずくの雨になりたい』。この詩集は、ぼく達にとっては、とても大切なものとなりました。いろんなことの連続で、みんな悲しみや苦しみだけでしたが、そのつらさからすくってくれたのが、詩集であり、お兄ちゃんからくる手紙でした。
 これは、一生忘れることのできない大切なものとして、ぼくの心にふかく残るものとなりました。
 タイプライターがどんな物かも知らなかったぼくは、毎日のようにお兄ちゃんの手紙をまっていました。名によりもぼくの苦しみを忘れさせてくれるからです。
 ある日、とつ然、ぼくは河原先生に会うことができました。いろいろお兄ちゃんの話を聞いているうちに、タイプライターを打つ苦労を初めて知りました。それからのぼくは、お兄ちゃんの手紙をまたなくなりました。
 そりゃあ、来たらとってもうれしいけど、何も知らないで自分のことしか考えず、お兄ちゃんにあまえて手紙をまっていたことを大変悪いことでもしたようん、申しわけない気持でむねがいっぱいになりました。手紙は来なくていいと思うようになりました。(中略)ぼくは、どんな時もお兄ちゃんを信じていて、本当に良かった。勇気も出てくる。それに、メソメソ泣かなくなった。
 お兄ちゃんの手紙に『前向きに強く生きるんだ』と書いてありました。この言葉は忘れていません。きっとがんばるからね。そして、大人になったらぼくは、人の役に立つ人間になりたい。ぼく達よりももっと苦しみ、つらい思いをしてくらしている人達に、生きる希望を持たせてあげたい。命の大切さを教えてあげられる、そんな人間になりたいのです。
 お兄ちゃん、こんな願いをもっているぼくに、何でも教えて下さい。そして、弱い者、苦しんでいる人達の力になりたいのです。お兄ちゃんに助けられたぼくは、これを生かして、人を助けられる人間になりたい。そんな思いは、ぼくの心に大きく広がっていきます。


以上書いていることは、灰谷健次郎著『灰谷健次郎の発言<1>』の中の「かたすみの人間賛歌」に収められていたものを一部転載したものです。

この手紙に深く感動しました。何度か読み返しているのですが、そのたびに涙が滲んできます。

重い障害の故、教育を受ける権利を剥奪されていた青年。そして「自分はやすもの」と書いた青年。
でも、その青年の書いた詩に救われ、文通を通して、「ぼく達よりももっと苦しみ、つらい思いをしてくらしている人達に、生きる希望を持たせてあげたい。命の大切さを教えてあげられる、そんな人間になりたい」と言う少年。

絶望の中にあっても、生きていくことをやめない。その中で、出会いがあって、つながりができて、生きていく希望を見出していく。

「この小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのと同じです」
とイエス様は言われました。

小さな一人一人が大切にされる社会であってほしいと思う。
ならば、まず自分が小さな一人一人を大切にする者とならなければ。

そしてまた、小学生の子どもに「楽しいことなんか一つもなかった」と言わせるような世の中を、私たち大人は作り出してしまっていることに思い至らなければ。


この『灰谷健次郎の発言<1>』、なかなかいいです。
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| ひとりごと | 12:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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凋落は復興の兆

葉が落ちれば枝はむなしい。けれども知る、芽ができずに葉は落ちないことを。木を割ってみよ、厳冬の梢がすでにその皮下に春陽の花を蔵(かく)すのを見るだろう。凋落は復興の兆しである。世が日に日に朽ちゆくのは、革新の準備がすでにできたことによる。(内村鑑三)

『内村鑑三一日一生』にある12月29日の言葉です。去年もブログに書き留めたような気がするのですが、今年の誕生日に間違ってブログを消去してしまい、書いた記事はもうないようです。

1年経って、またこの言葉を読んだわけですが、去年読んだ時よりも、この言葉に、より希望が与えられたというのか、力を与えられた、そんな感じです。

「自分の不義のうちにいながら、奮い立って生きることはできない」(聖書 エゼキエル書)
と聖書に書いています。
自分の欲望のままに振る舞う人たちは、一見栄えているように見えるかもしれないけれど、そこに義がない限り、その終わりは必ず来る。

また、そういう人たちに踏みにじられている現状を思うと、朽ちゆくだけかと、もう何をしてもだめなのではないかと思い込んでしまいそうになる。

でも、あきらめない限り、その先にはきっと復興の兆しがあるんですよね。


図書館の新刊コーナーに『わたしはマララ』が置かれていました。あのマララちゃんが書いたものです。
読み始めたばかりですが、プロローグにこう書かれていました。

(タリバンに対して、こう言いたい。)
「わたしは撃たれてもかまいません。でもその前に話をきいてください。あなたたちのやっていることは間違っています。わたしはあなたたちに反抗しようとしているのではなく、ただすべての女の子が学校に行けるようなってほしいだけなんです。」


今の政権がしていることは、やはり私は間違っていると思います。だから、マララちゃんのように、その間違いを指摘し、私たちはどうしていきたいのか、そのことを鮮明にして、できることをしていく。そして、それがいつになるかは分からないけれど、きっと実を結ぶ日がくるのだと信じていきたい。

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女
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| ひとりごと | 19:55 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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子どもから教えられたこと

算数の時間、割り算の筆算をしていました。
割り算をする時には、かけ算が分かっていないとできません。そのかけ算は2年生で習います。

その割り算の筆算が苦手な子がいました。
その子の所に行き、その子が問題を解けるようにアドバイスをしていました。そして、
「この問題は、七の段のかけ算を思い出してみて」と。その子は、
「俺、あほやから、そんなん、分からん」
「じゃあ、7×1からやってみよう」
すると、その子は声を少し荒げて
「だから、分からないんや!」と。

その声に驚いて、その子の顔を見ると、目には涙が。そして、机に突っ伏してしまいました。
その涙を見て、その子の辛さがすごく身に沁みると同時に、私はその子を傷つけてしまったと、申し訳ない思いでいっぱいになりました。

私はこの子の思いを汲み取ろうとせず、ただ、問題を早く解くことだけを考え、その子を追い詰めてしまっていたのです。私も泣きそうになってしまいました。

その子に
「ごめんね。せかしてばかりで。」と謝り、紙に七の段のかけ算を書いて、その子に見せようとしました。
しばらく待ったのですが、顔を上げてくれません。

「解らないから、教えて」という子どもが他にもいのたで、
「この紙おいておくから、また落ち着いたら見てね」と声をかけ、その場を離れました。

そして、別の日。
また割り算の筆算の問題。

その子が、「先生、解らないから教えて」と自分から言ってきました。
そして、一緒に筆算をしていると、
「これは、七の段やろ。ちゃんと置いてるんやで」と言いながら、先日私が七の段を書いた紙を机の中から大事そうに出してきました。(正直、かなり嬉しかったです)

それ以来、その子は「解らんから教えて」と言ってくるようになりました。


一人一人の能力はそれぞれ違うし、家庭環境によっても、いわゆる「勉強の出来」は違ってきます。
確かに、問題を解くことが苦手な子どもはいます。授業を聞いていないように見える子どももいます。
でも、「子どもたちは、みんな学びたがっている」(林竹二氏)のです。

その学びたがっている子どもの芽をつんでいるのは、大人なのではないか。

林竹二さんが指摘しているのですが、今の学校の授業は「予習をしてきた子ども」「勉強のできる子ども」中心の授業になっている、と。そういう子どもたちを中心にしているから、そうでない子どもたちがお客さん状態になっている。

子どもの置かれた環境で、予習や復習ができない子どもたちはいます。
怠けている場合もあると思いますが、したくても出来ない子どもたちもいるのです。
その子どもたちは、学校での授業で学ぶしかないのですが、その授業が「予習をしてきた子ども」「勉強のできる子ども」中心になってしまっていると、蚊帳の外に置かれてしまうのです。そして、「どうせ俺はできないから・・・」と思い込んでいってしまう。

そう思い込んでしまっている子どもたちに、少しでも役に立つことが今の私の願いの一つ。


お楽しみ会の計画を立てる時に、ドッジボールやサッカー、おにごっこのような案と共に「パソコン」という案がありました。普段活発に発言している子どもたちが発言していました。

その時に、勉強は苦手、という子どもが、傍にいた私にこう言いました。
「お楽しみ会はみんなで楽しむものでしょ。パソコンは一人一人で遊ぶから違うと思う」。
それを聞いて、「すごくいい考えだと思うから、発言してみて」と言いました。
普段、授業で自ら発言することのないその子は「できない」と言いましたが、担任に話して、その子に発言してもらいました。かなりの勇気を出したのでしょう、その子は発言した後、大きなため息をついていました。


こういったことを通して、私たち大人は見た目の「できる」「できない」にとらわれすぎているのではないかって。
だから、子どもたちが抱えている苦悩や、持っている宝に気づかないでいることが多々あるのではないか。
そんなことを、改めて子どもたちから教えられました。

| 子育て・教育 | 17:13 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑

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クリスマス

クリスマス。
イエス・キリストがこの世にお生まれなさったことをお祝いする日。

もし、イエス様がおいでにならなかったらどうなっていたのでしょう。
罪について、神様の義と裁きについて何も分からず、「今さえ楽しければそれでいい」と自由奔放に振る舞っていたのでしょうか。

「クリスマス戦争」とよばれるものがアメリカで続いていると、ヤフーニュースにありました。(記事こちら)
特定の宗教を押しつけるのはよくない、と「メリークリスマス」との挨拶を「ハッピーホリデーズ」という言葉に置き換える、というようなことが起こっているようです。

キリスト教系のサイトに、「イエスの名を、影響を、権威を公共の生活から排除したがっている勢力がある」と書かれていました。そして、その理由は、「 神がいなくなれば、自分よりもより力のある者はいなくなり、自分が神を演じることができるからだ」とありました。

神になりたいのか・・・。
決してなれはしないことは、分かっているはずなのに。


イエス・キリストが人の姿をとって、この世にお生まれなさったこと。
それが何のためか。神様はなぜそのようなことをされたのか。

私たち人間を愛され、私たちが罪のために一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つため。

この喜びのおとずれを噛みしめて、クリスマスをお祝いします。


クリスマス賛美はたくさんありますが、お気に入りの一曲・・・「O Holy Night(さやかに星はきらめき)」


(日本語)
さやかに星はきらめき 御子(みこ)イエス生まれ給う
長くも闇路(やみじ)をたどり メシヤを待てる民に
新しき朝は来たり さかえある日は昇る
いざ聞け、御使(みつか)い歌う
妙なる天(あま)つ御歌(みうた)を
めでたし、清し今宵(こよい)

輝く星を頼りに 旅せし博士のごと
信仰の光によりて 我らも御前(みまえ)に立つ
馬槽(うまぶね)に眠る御子は 君の君、主の主なり
我らの重荷を担い
安きを賜うためにと
来たれる神の子なり

「互いに愛せよ」と説き 平和の道を教え
すべてのくびきをこぼち 自由を与え給う
げに主こそ平和の君 類(たぐい)なき愛の人
伝えよ、その福音(おとずれ)を
広めよ、聖(きよ)き御業(みわざ)を
たたえよ、声の限り

| 聖書・信仰 | 22:17 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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大阪でのクリスマス会

今日はクリスマス集会に参加するため、日帰りで大阪に行ってきました。

大阪に住んでいた時、吹田市にある、日本ではかなり大きな教会に行っていました。
単立教会で、日曜礼拝には子どもも併せると400人近く集っていました。
クリスマスの時期にはクリスマスオペレッタを上演し、500人収容できる礼拝堂が満杯になり、立ち見がでるほどでした。
ただ、それだけ大きくなってくると、人間の弱さも出てくるのでしょう、牧師の言動に「あれ?」と感じることも出てきました。
ずっとその教会で牧師を支えてきたご夫妻が数年間祈り続け、その教会を出る決断をされました。
そして、ご主人は聖書学校で学び、卒業し牧師となって、新しく伝道を始めました。大阪に行く時は、その教会に私は今、行っています。

そこの礼拝や祈り会に参加すると、「神様は本当にいらっしゃるんだ」って心に熱いものを感じます。
そして、今日のクリスマス会で、私の大好きな賛美、「クリスマスおめでとう」を賛美して下さいました。
その時の動画です。
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神様がひとり子、イエス・キリストを与えて下さったクリスマス。
「あなたの心に イエスさまが この夜お生まれなさったら」それは、すばらしい、すばらしいクリスマス。

| 今日の出来事 | 19:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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忙しくしています

クリスマスが近くになると、忙しくなる私。
ここ最近、CD作りと年賀状作りにいそしんでいます。
また最近、韓国の賛美で素適なのを色々と見つけて、楽譜をネットで探したり、韓国語賛美をグーグル翻訳で日本語にとりあえず直したりして(韓国語はちんぷんかんぷん)、ブログをチェックする時間があまりありません。

明日は教会のクリスマス礼拝、明後日は大阪でクリスマス集会(日帰りで行ってきます)。
ということで、火曜日までは更新も訪問もできそうにありません・・・。pen1_14謝


もうすぐクリスマス。イエス様が私たちのためにお生まれ下さったクリスマス。
クリスマスになると、必ず歌う賛美が「クリスマスおめでとう」。
この「クリスマスおめでとう」のメロディーがyoutubeにアップされていました。
こんな曲です。


ちなみに楽譜。
DSCN4924.jpg

| ひとりごと | 19:52 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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栄えているように見えるけれど

詩篇73篇(聖書)

まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。
しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。
それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。
彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。
人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。
それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。
彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。
彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。
彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。
それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。
こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」
見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

(中略)

私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。
まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。
まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。
目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。

私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。
私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。



今朝読んだ聖書の箇所です。
なぜ悪者は栄えるのか。
特に今の日本の現状を見ると、そう思う人は多いのではないでしょうか。

このことについて、ある本に次のように書かれていました。

罪を犯し悪いことをしながら、なめらかな見たところ羨ましいような生活をしている。
けれども、それを神の側から見る時、かえってそれが、彼らの滅びになっている。
それが永遠なるものを求めようとする思いを摘み取ってしまっている。



人の命は、この世での命を終えたらそれで、もう全てお終いではないんですよね。
そのことが分かれば、何をなすべきか、何をしてはいけないか、その判断はつくと思います。
でも、それが分からない。永遠なるものを求めようとする思い、神を求めようとする思いがないから・・・。

栄えているつもりかもしれないけれど、本当はそうではなくて、滅びへと向かっているだけなのだと思う。

また、そういう人たちに虐げられても、神を愛する人たちを、時が来れば神は栄光のうちに受け入れて下さる・・・素晴らしい恵みだと思います。


書いた事とは直接には関係ないけれども、これも、素晴らしい演奏です。
「By the Blood of Jesus (보혈을 지나 )」 Jennifer Jeon



By the blood of Jesus - into the arms of God
By the blood of Jesus - into the arms of Him
By the blood of Jesus - into His Holy place
Now I enter step by step

Precious blood - of my Jesus
restore me,
restore my spirit

Precious blood - of my Jesus
restore me,
restore my spirit





Lord, make my heart be full of Your love
Lord, make my mind be full of Your truth
Make my eyes be full of tears
Because of Your saving grace
Lord, make my mouth be full of praises
Make my two hands serve humbly just like You
I deeply want Jesus marks to remain in my whole life

The way of cross, the life of martyr
What a blessed way this is!
Lord, i want to follow Jesus foot print
Lord, make me be Your pure bride
With overcoming all the temptations,
Difficulties, and mockeries
I gladly offer my life to You

| 聖書・信仰 | 21:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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賛美を通して

ピアノで賛美を弾いていました。今日はいつもあまり弾かない賛美を引いていたのですが、その賛美の歌詞に心が熱くされたというのでしょうか、ぐっとくるものがありました。

Youtubeで探したら、韓国語の賛美がありました。これです。

(歌は45秒頃から)

♪歌詞
荒れ果てたこの世界 見てください 憐れみ深い主よ
我らの罪を赦し この地を癒やしたまえ
今心をあわせて この地の崩れた土台を建て直そう
我らの偶像を燃やす 聖霊の火よ来たりませ
リバイバルの火よ燃えよ みことばの力をもって
恵みの川よ流れよ 聖霊の風 吹いてこい
おお主よの栄光満ちる 新たな日
おお み国よ ここに来たりませ



そして、他に見ていたら、私の大好きな賛美「神の愛を求めるものよ」のバイオリン演奏を見つけました。この少女の演奏がとても素晴らしくて、胸に迫るものがありました。


♪歌詞
神の愛を求める者よ 神の平和を見上げる者よ
あなたを造られたお方は あなたを愛される
神様に賛美を礼拝を捧げる聖なる者たちよ
あなたを造られたお方が あなたを子とされた

愛の主はあなたをいつも見つめておられる
慰めのみ手はいつもあなたと共に
暗闇を光を輝かせ あなたの涙をぬぐわれる
あなたはどこにいても主に向かい
主だけ見上げよ


彼女のバイオリン演奏による賛美は他にもあって、時間のある時にゆっくりと聴こうと思います。


また、「君の行く道に(派遣の歌)」という賛美。この歌詞を口ずさんでいると、「眠っている者よ、目を覚ませ」と神様が語られているような気がしてなりませんでした。


♪歌詞
君の道に平安あれ 平安の王が共にいる
君の歩みは主が導く 主の手が君を守る

君の道に祝福あれ 栄光の主が共にいる
君の踏む地は 主が治める

君は主の道備える 主の国ののため
旅立つ我が友よ 使命を握り いざ行け 主の名により
険しい荒野に 花が咲き 世は君を通して主の栄光を見る
強く雄々しかれ 世に打ち勝ったイエスが共におられる
新たな力くださる



2013年も終わりに近づいたこの時に、なんとも言えず神様の思いに圧倒されています。

(韓国語による素適な賛美、たくさんあるんですよね。韓国語がちんぷんかんぷんなのが残念です)

| 賛美 | 20:02 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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学校教育

今日12/15の朝日新聞投稿欄に中学2年の女の子の投稿が掲載されていました。彼女はこんなことを訴えていました。

学校の授業は、生徒が塾に行っているのが当たり前のように進ので困っています。
中学校は義務教育なのに塾などに行かないとテストや入試に対応できないのはおかしい。
どうしたら塾に行かずに難関校に合格できるのでしょうか。


私も同じように思います。塾に行かないとテストや入試に対応できないなんて。
と同時に、「難関校」「有名校」に行くことが、中学の目的となってしまっている現状に、どこか違うのではないか、との思いも。

この女の子の投稿で思ったのが、林竹二さんのこんな指摘。

学校教育の空洞化が受験地獄を生んでいる。

大学の入試というものがあるから教育そのものがゆがむ、そういう面は確かに否定できない。
しかし本質に立ち返れば、高等学校の教師が責任を負っているのは高等学校での教育に対してであって、大学に何人入れるかということではない。そして中学にとっては、高校に何人入れるか、殊に、いわゆる名門校に何人入れるかというようなことではないわけです。

少なくとも義務教育学校にあっては、いろいろと異なる境遇、さまざまな資質や能力をもった子どもたち全部に入学を義務づけているのですから、学校はさまざまに異なる能力資質をもつ子がみんな平等に学ぶ場になっていなければならないのです。学校をそういう教育の場にすることに対して学校が本気で責任を持とうとしないで、ただ、名の聞えている高校に何名入れた、いわゆる名門の大学に何人入れたというようなことを競い合う状態に学校が堕してしまっている。それが学校の空洞化で、学校が教育の場でなくなってしまっている。



この指摘に、はっとしました。
将来のために、今は一所懸命「勉強」しなさい。○○高校に入るためには、もっと「勉強」しないと難しいよ。
そんなことを口にする私もまた、中学校は高校入試に備えるための準備機関であると、捉えていたのではないか。

確かに「学力」をつけることは必要なことだと思います。
でも、そのために、合格するテクニックを身につけさせたらいい、それに必要な学力があればいい、となればそれは、果たして「教育」と言えるのか。「学び」と言えるのか。

「教育」、それは、子どもがもっている最善なものを、子どもから引き出すこと。
でも、それは「受験に合格するための教育」をするよりは、ずっと大変なことだとも思います。

それができないから、「よいよい学校」に行くための技術を身につけることを、知識を詰め込むことを、「教育」だとすり替えているのでしょうか。
それとも、本当にそれだけしていればよいと捉えているのでしょうか。効率的に従順な人間を作っていくために。

でも、そういうのはやっぱり「教育」とは言えない。言葉は悪いですが、「調教」ではないか。
そして、そういうことを敏感に感じ取っている子どもたちは、そんな「教育」に拒否反応を起こし、大人の目には、「勉強しない」子どもと映っていることはないだろうか。


おそらく、私が生きてきたよりは、難しい厳しい時代を生きていかなければいけない今の子どもたち。
だからなおさら、生きていくために必要な力を育む教育が大切なのだと思います。

| 子育て・教育 | 19:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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