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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年06月

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なくしてから、わかるもの

不幸は
 すぐ わかるが

幸せは
 なくしてから わかる


とfacebookにありました。

アベの暴走がとまらず、「中東へも自衛隊を派遣する」等とも言っています。
そして、耳を疑う発言が昨日もあったようですね。
5月28日の国会答弁にて、彼は
「累次にわたる国連決議に違反したのはイラクであり、大量破壊兵器がないと証明できるチャンスがあるにも関わらず、それを証明できなかったのはイラクであったということは申し上げておきたい」と発言。

彼の暴走がとまらず、行き着く所まで行った時に、「私たちは、あまりにも大切なものをなくしてしまった」と気づいても、もう遅いんですよね。

1999年に国旗・国歌法、盗聴法、団体規制法、周辺事態法と制定されましたが、それを制定させてしまった頃から、今の流れはほぼ予想されるものだったのかもしれない。
私はそういう法律はおかしいと思いましたが、でも、実際に我が身に降りかかることもないだろうし、腹が立つけれども、まあ仕方ないかと思っていました。

「私には直接関係しないだろうから、まあいいか」
でも、そう思っていたら、本当に引き返せない所まで行ってしまう。その時に「あの時に徹底的に反対していれば」と思ってももう遅いんですよね。

「幸せは なくしてから わかる」
大切なものは、なくしてから わかる。

| ひとりごと | 19:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『アドラーを読む』

3年程前にアドラー関係の本を読んだけれども、忘れていたことを思い出した。

何かあると、○○が原因と考えることがあります。
あるいは、こういう経験をすると、きっと後々に問題が起こるよ、とか。

でも、アドラー心理学ではそうは考えない。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。・・・意味は状況によって決定されるのではない。われわれが、状況に与える意味によって自らを決定するのである。

過去にあることがあったのは事実だけれども、それに自分が何らかの意味を与え、そこから目的に適うものを見つけだしている。

卑近な例を出すと、例えば、大声を出したのは怒りに駆られたから、と考えますが、アドラーは、そうではなく、大声を出すために怒るである。

何かをする、あるいはしないという目的がまずあって、その目的を達成する手段を考え出す。怒りという感情が私たちを後ろから押して支配しているのではなく、他の人に自分のいうことをきかせようとして怒りを使う。

言われてみれば、そうかもしれない。
子どもに対する時を思えば、特に。子どもがなかなか言うことを聞かない時、大きな声で怒りがちです。大きな声を出せば、子どもが言うことを聞くって考えるんですよね。

でも、必ずしもそうではないんですよね。

先日、職場で子ども(A君)がある子の持ち物をわざと放り投げたのです。それを見た私はA君に「投げたものを拾いなさい」と言いました。無視するので、今度は少し声を大きくして、「拾いなさい!」と。でも、無視します。その時、このアドラーの言葉が思い出されて、子どもに言うことを聞かせようと、大きな声を出しているだけだ、と気づき、今度は静かな口調で、「投げものは、拾いなさい」と。すると、A君渋々という感じはあったのですが、拾い始めたのです。

この場合、求められたことは、A君が自分のしたことに気づき、いけなかった行動は改めることであって、私が大声を出して言いきかせることではなかったんですよね。

ちょっと卑近すぎる話ですが、まず目的があって、その達成の為に手段を考える、それが感情、心理の場合でもあるのですね。


あと、なるほどって思ったのは「善」ということ。

「誰一人悪を欲する人はいない」とのソクラテスの言葉。
この言葉を聞いて、「その通り」と思う人はほとんどいないと言ってもいいと思います。
世の中を見渡せば、悪いことをしている人はたくさんいるのだから。
でも、そういう人たちにとっては、「悪いこと」が「善」なのだ、と著者は書いています。

「善」を道徳的意味で考えるのではなく、「自分のためになる」という意味で捉えると、それが実際に「善」であるかどうかは別にして、少なくとも、「悪いこと」をするその時には、そうすることが「善」、すなわち「自分のためになる」という判断がされた。

神様から見た「善」ではなく、人がその時々に応じて、今これをするのが自分の為(善)であるという判断をすると、確かに、このソクラテスの言葉はその通りなのかもしれない。

そんなことを思うと、やはり私たちには絶対者なるお方がどうしても必要なのだと思います。


久しぶりにアドラー心理学に関する本を読んで、以前読んだ時とは違って、アドラーの言っていることって、結構厳しいなって感じました。

何かあると、過去の出来事や、周りの事情のせいにできたのに、アドラーはそうではなく、自分自身がそのことに意味を与え、選択してきたことなのだ、と言っている。


「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ。」

「確かにこの世界には、悪、困難、偏見はある。しかし、それが我々の世界であり、その利点も不利な点も我々のものである。我々はこの世界の中で働き、進歩して行くのであり、誰かが自分の課題に適切な仕方で臆することなく立ち向かうならば、世界を改善するにあたって自分の役割を果たすことができることを希望していい」


希望していくには、あまりにも酷いことばかりが繰り広げられていますが、でも、意気消沈して黙り込んでいては、ますます悪くなっていくんですよね。

臆することなく立ち向かっている人たちがいる。その人たちの後ろから小さな声を挙げるだけしかできませんが、しぶとくしつこく、おかしいことは、おかしい、と言える者でありたいです。

| 本・その他 | 15:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『人間の生まれた日』

『人間の生まれた日』
教会に置かれていて、何気なく借りて読みましたが、よかったです。

進化論と創造論について、とても分かりやすく説明されています。
最後に書かれていた著者の言葉がいいです。

なぜ人間は、天地万物の創造主の最高の作品であるより、サルの子孫であるほうを選ぶのだろうか。私は、自分が創造主の最高の作品であることに、自分の価値を見出すことができた。それなのに、なぜ人々は創造主を否定したがるのか。

私も同じように思います。

なぜ人々は創造主を否定したがるのでしょう。

その理由の一つとして、次のように著者は書いていました。
少し長いけれど転載します。

 ・・・人間は、人間の上に君臨するものを好まないからであろう。・・・昔、シヌアルの地で、人々が町と塔とを立てて、その頂を天に届かせようとしたことがあった。人間には、そうした気持ちがいつでもあるのかもしれない。天に至ろう、最高になろうと・・・・・・。その結果人々は、創造主の怒りをかって、言葉を乱されてしまい、まとまらなくなり、全地に散り散りになったと言う。この話はバベルの塔の物語として有名である。

進化論は現在のバベルの塔のような気がしてならない。自分につきまとい、自分を支配するものを取り除いて、自分を解放して自由にし、また自分を最高の地位につける。そんな人々の気持ちを進化論は満足させてくれたように思う。人々はまず創造主を否定した。そして人間を進化の頂点にすえた。まさに人間こそ万物の霊長であると。

バベルの塔の事件は、結果として人間を高めるどころか、波乱を増大させ悲惨さを増した。進化論は創造主の支配から人間を解放して、人間に自由と最高の地位を与えたはずである。しかし結果は全く逆であった。創造主を否定して手に入れた自由は、秩序を破壊し、混乱を増大させてきた。また創造主を否定して、自らを最高の存在としたつもりがそれも全くの逆で、自らをサルの子孫にしてしまったのである。

また、自らの頼って立つ土台を取り去ってしまい、自らの人生を浮き草のようにしてしまった。・・・もう一度、人間の尊厳を、創造主との関わりにおいて回復すべきことを、声を大きくして叫びたい気持ちである。


 進化論も人々に創造主なる神を見えにくくしている一つなのでしょうね。

話は全く変わりますが、

毎朝ディボーションといって、聖書を読んだり祈ったりする時をもっています。
結婚する前は、結婚したらだんなと二人でそういう時を持てるって楽しみにしていました。
でも、信仰には全く無関心になってしまった主人と、そういう時を持つことは皆無です。
ずっと一人のディボーションは寂しいなって思っていたのですが礼拝メッセージを聞いて、「そうだ、私は一人ではないんだ。イエス様がずっと一緒にいてくださったんだ。なのに私はそれに気づかないでいた」って、そんな思いが強くわき出てきました。

イエス様が一緒に座ってくださっている光景が心に浮かんで、一人感動して、ちょっぴり涙なんか流していました。
実に幸いな礼拝の一時でした。

| 本・その他 | 19:30 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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「迷信」

よく訪問させていただくブログで「迷信」について書かれていました。(そのブログはこちらです・・・タイトルが同じになってしまいました <(_ _)>)

子どもの頃、私は迷信を信じていましたが、たいがいの人も迷信を信じていたのではないでしょうか。
でも、いつの頃からか「迷信なんて必要ない」と思い、特に子どもの前では口にはしないようにしていました。
子どもが誰からか聞いて迷信を口にすれば、「そんなの嘘、信じることはないからね」と。

でも、そのブログを読み、そこで紹介されていた阿久悠さんの言葉を読んだ時に、迷信というものも、人の行動のなんらかの抑止力になっていたのだなって思いました。

紹介されていた阿久悠さんの言葉はこれです。
「迷信を絶滅させたら文明社会になると思ったら 人間が機械仕掛けになった」

迷信にがんじがらめになってしまうのは、考え物ですが、そういうものもある程度は必要なのかもしれない(人を貶めるような、誰かを傷つけるような迷信は問題外です)。
神への信仰があるのならば、神様を神として畏れているのならば、その必要はないのだろうって思いますが、こう思うのは傲慢なのかな?

ここまで書いてきて、ふと『里という思想』という本を思い出しました。
一度読んだのですが、よく覚えていなくて・・・。
ここで言う「里」とは「村」のことではなくて、
「過去の自然の営みがみえる場所、過去の人間たちの営みがみえる場所」
「自分が還っていきたい場所、あるいは自分の存在の確かさがみつけられる場所」
のことです。

この「里」という概念がなくなっていく時期と、迷信がなくなっていく時期って重なっているのだろうか?
もう一度、この『里という思想」を読み直してみよう。

| ひとりごと | 16:37 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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屈せずに

「美味しんぼ」へのバッシングは酷く、休載になりましたが、こんな言論弾圧を許していていいのかなって思います。

小学館編集長の村山広氏は「表現のあり方について今一度見直す」と発言したそうですが、彼がすることはそんなことではない、彼がすべきことは、「憲法が保障している表現の自由であり、雁屋哲氏を評価して書かせたのなら、攻撃から雁屋を守ることだ。何をバカなことをいっているのだ。」との発言を読みました。

その通りだと思います。
小学館の対応はあまりにも酷すぎると思います。こんなことをしていては、それこそ、体制よりの表現しかできなくなってしまいます。

「美味しんぼ」を批判する人たちは、「風評被害」だとか言いますが、では、福島に被害はなかったのでしょうか?
「あるか、ないか」「100か0か」そんな二者択一の問題ではないはずです。
被害がゼロなんてことは決してないのです。だったら、きちんと精査すべきなのに、「風評被害」という言葉で片付けようとする。本当にそんなことでいいのでしょうか。

また、アベはこんな発言をしているようです。
訪問先で『美味しんぼ』について記者団から聞か、「政府としては根拠のない風評を払拭していくためにもしっかりと正確な情報を分かりやすく提供していく。国として全力をあげて対応していく必要がある」

何を根拠に「根拠のない」と言えるのか、まったくもって分かりません。
アベの「汚染水は完全にコントロールされている」との発言は、根拠がないどころか、まったくの嘘だったではないですか。

アベは好き放題やっていますが、それは私たちが押し黙ってしまうせいもあるし、長いものには巻かれろ、で言いなりになるから。
そして、これはやはり教育の結果の一つだと思えてなりません。

恐怖に屈すれば、真実さえも抹殺されてしまう。
自らが正しいと信ずることを恐れずに実行する。

(by ガンジー)

| ひとりごと | 16:01 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ありがとうございます

誕生日おめでとうメッセージを心から、ありがとうございました。
メッセージを頂けるなんて、思ってもいなかったので、本当に嬉しかったです。

昨日、ある神父様のこんなメッセージが目に留まりました。(記事元コチラ
『真の謙遜』

 ・・・「わたしは何もできません」というのは、「わたしは何でもできる」というのと同じくらい間違っているとわたしは思います。なぜなら、神様はわたしたち一人ひとりに、必ずかけがえのないよさを与えて下さっているからです。世間の目を引くような華々しいことでなかったとしても、ある人には根気よく部屋を掃除する力、ある人には病人の世話を丁寧にする力、ある人には困っている人の話を辛抱強く聞く力、それぞれにかけがえのない素晴らしい力を与えられているのです。「わたしは何もできない」というと一見、謙遜にも見えますが、それは違います。「わたしは何もできない」というのは、神様から与えられたよさをあえて否定するということであり、「わたしは何でもできる」というのと同じくらいに間違ったことなのです。・・・(一部転載)


 「神様が与えて下さったよさを神様が与えて下さった強さも弱さも、あるがままに受け入れる。」
とも書かれていますが、強さも弱さも神様が一人一人に与えられたものなのですよね。
「弱さ」はそうではない、って思ってしまいがちですが、強さも弱さも神様からのもの。
それをあるがままに受け入れることができたら、その心は周りの人たちにも向くのでしょうね。

| ひとりごと | 21:05 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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誕生日

誕生日。ついに大台に乗りました。
実年齢に精神年齢がついていっていない私ですが、これからも古代君大好き!、マッチ大好き!で・・・。

子どもの頃も、20代の頃も50歳なんて、しっかりとした大人って思っていましたが、なってみると、そうでもないんですね。(私だけかもしれませんが)

命を与えられてちょうど半世紀。
どんな半世紀を歩んできたのか、ゆっくりと振り返ってみるのもいいかなって思います。

子どものことはおいておいて、一番の想い出は、やはりニュージーランドで過ごした1年。
不仲な両親のもと、そんな家族が嫌で、就職して1年間とにかく一所懸命働いてお金を貯めて、ニュージーランドへ。
そして、そこで神様にとらえられました。

振り返ってみると、神様のことを信じていなかった時でも、神様が守って下さっていたことがきっと身に沁みてわかるのだろうなって思います。

二番目の想い出は、高校卒業祝いとして、当時人気絶頂だったマッチに会わせもらえたこと!
その時の(一応)ツーショット写真。(明日まで→削除しました・・・代わりに古代君!?)

古代君 イラスト02 沖田艦長怒る1
(後ろで怒っている沖田艦長が面白い)(画像はこちらからお借りしました。作者tsuka様、サイト名「惑星ファンタム」URL http://www.geocities.jp/phantamstar/index.htm


わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(聖書)

神様の良くしてくださったことを忘れず、これからも神様を信じて、歩んでいきたいです。

| ひとりごと | 21:09 | comments:15 | trackbacks:0 | TOP↑

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『犠牲のシステム 福島・沖縄』

『犠牲のシステム 福島・沖縄』を読みました。
犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)
高橋 哲哉

集英社 2012-01-17
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色々と本は読むのですが、読むだけで、そこから深く掘り下げて考えるということがない私。
そんな私なので、この本を読んで、また新たな考え方、とらえ方を知りました。

読んだばかりで、まだ整理しきれてはいないのですが、少しだけ書き留めます。

著者の言う「犠牲のシステム」とは、
「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

社会には犠牲が必要だと言う人たちがいます。その「犠牲」について、著者は言います。

そう語る人たちは、では自分は犠牲になる覚悟があるのか。
だれが犠牲になるのか。だれを犠牲にするのか。それを決める権利をだれがもっているのか。


「犠牲」は必要だと当然のように言いますが、その犠牲を他の誰かに押しつける権利なんて誰ももってないんですよね。

だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか。

そう主張する著者の言うとおりだと、私は思います。


あと、「戦争絶滅受合法案」というものについて、触れられていたのですが、確かにこういう法律があれば、原発も戦争もなくなるのではないかって思います。

この「戦争絶滅受合法案」というのは、デンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが考えたものです。
彼は、戦争は国家の権力者たちがおのれの利益のために、国民を犠牲にして起こすものだと考えた。だから、まっさきに権力者たちが犠牲になるシステムを作れば、地上から戦争をなくせると考えた。それが「戦争絶滅受合法案」。どういうものかと言うと(本文より転載)、

戦争が開始されたら10時間以内に次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
1、国家元首。
2、その男性親族で十六歳に達せる者。
3、総理大臣、及び各国務大臣、並びに各省の次官。
4、国会議員。但し戦争に反対した議員は除く。
5、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。

だったら、同じように原発についても。
原発を推進するのは、政治家、官僚、電力会社、学者などからなら「原子力ムラ」。

だから、大事故の際にはまっさきに、次の人たちが「決死隊」として原子炉に送り込まれる。
総理大臣、閣僚、経産省の次官と幹部。電力会社の社長と幹部。推進した科学者・技術者たち。

原発を過疎地に押しつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない。

問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心なのだ。


恥ずかしながら、知らなかった事を。
横須賀に米軍の原子力空母ジョージ・ワシントンが寄港しているという話ですが、これは、東京湾には原発が2基あるのと同じだ、と著者は指摘しています。もし、これが事故でも起こしたらどうなるのか。

| 世の中のこと | 21:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『自発的隷従論』

『自発的隷従論』を読みました。
これを16か18歳の時に書いたと言われていますが、凄いなと思います。そんな若い年齢でこれだけのことを書けるなんて。

権力者達は実にとんでもないことをしているのに、彼らに迎合することばかりが支持される日本で、読んでもらいたい一冊かなと思います。

少し長いですが、本文を転載します。

 哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの悪にしがみつき、善には盲目な人々よ! あなた方は、自分の罪のうちで最も大切でひときわ目を引くものが、目の前から奪いされるのを見過ごしている。自分の畑が略奪され、家屋が強奪され、そこから父祖伝来の家具調度がもち去られるのを黙って見ている。(中略)このような災難、不幸、破産状態は、いく人もの敵によってではなく、まさしくたった1人の敵がもたらしている。そしてその敵をあなた方は、あたかも偉大な人物であるかのように敬い、そのもののためなら勇ましく戦争に行き、その威信のためなら、自分の身を死にさらすことも決して厭わないのである。

 そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか。

 あなた方は果実を種から育てたながら、わざわざ敵が荒らすに任せている。住まいに家財を整え、蓄えながら、わざわざ敵の略奪の餌食としている。娘達を育てながら、わざわざ敵の淫欲を満たす道具としている。あなた方が子どもを育てても、そのうち敵はその子らを戦争に連れて行き、殺戮の現場へと送り込むようになる。その敵はその子らに自分の邪欲を満たす手はずを整えさせ、自分に代わって復讐を遂げさせるようになる。だがこれにしても、敵がその子らに対して為し得る最もましなことにすぎない。あなた方が身を粉にした働いても、それは結局、敵が贅沢にふけり、不潔で卑しい快楽に溺れるのを助長するばかりなのだ。あなた方が衰弱すれば、敵をますます強く頑固になり、あなた方をつなぎとめる手綱を持って引き締めるようになる。

 かくも卑劣な行いを少しでも感じたならば、獣たちでさえ決して耐えられないだろう。あなた方は、わざわざそれから逃れようと務めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなた方は自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落せと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろ。

 しかしながら、医師たちはなるほど、不治の傷には手を触れないようにといつも忠告する。そこで私も、上のことに関して、民衆に説教を試みることが賢明だとは思わない。彼は長らく判断力を完全に失ってしまっているのであり、もはや自分の不幸も感じ取れないことからして、その病が致命的だということが、十分にうかがえるのだから。 (P22)


圧制者がどのように民衆を取り込んでいくか、その手段を述べていました。そのうちの二つ。もうさまに今の日本ではないでしょうか。

圧制者の詐術
―遊戯
 淫売屋、居酒屋、公共の賭博場を建て、・・・ありとあらゆる遊戯を考え出すことにうつつを抜かした。・・・
 こうして民衆は阿呆になり、そうした暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎる下らない悦びに興じたのであり、そんなふうにして隷従することに慣れていたのだった。

―饗応
 ローマの圧制者たちは・・・民衆を折に触れて饗応することで、何よりも口の快楽にたやすく溺れてしまう民ともうまく騙すのだ。・・・圧制者が、小麦1袋、ぶどう酒1杯、小銭を少し、気前よく与えるだけで、「王様万歳!」と言う歓呼の声が聞こえてくるのだ、なんとも情けないことではないか。愚かな者たちは、元の所有物の一部を取り戻したに過ぎないことに気づかなかったばかりか、その取り戻したものですら、以前に自分から奪ったのでなければ、圧制者が与えることなどできないのだと思いいたりもしなかった。


 アベさんは5月15日、集団的自衛権について必要性があれば憲法解釈を変更すると明言した記者会見の後、20時過ぎから報道関係者と会食した。
 各紙の首相動静によると、東京・西新橋のすし店「しまだ鮨」で、田崎史郎時事通信解説委員、島田敏男NHK解説委員、曽我豪朝日新聞編集委員、山田孝男毎日新聞特別編集委員、小田尚読売新聞東京本社論説委員長、粕谷賢之日本テレビ網報道局長らと食事し、22時頃に店を出た。

 という記事を読んだのですが、権力を監視するべきジャーナリストが時の首相と会食をする。ラ・ボエシに言わせるなら、この愚か者たち。

『自発的隷従論』は80ページ程の文章ですが、その締めくくりは、次の通り。

したがって、いま一度、正しく行動することを学ぼう。天に目を向けよ。我らの幸福のために、他への愛そのもののために、もっとはっきりと言えば、我々の行動の確かな証人であり、我々の過ちの公正な審判である全能なる神への愛と栄誉のために。私としては、圧制者とその共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信している。私は間違っていないだろう。圧制ほど、完全に寛大で善なる神に反するものはないのだから。

神を神として畏れよ、ということなのだと思います。


あと、アメリカとの関係について、この本についての解説で次のように書かれていました。

 ・・・アメリカの従属はへ日本にとってあたかも「自然なもの」であるかのような環境が作られ、・・・

 日本の財界・学界・メディア界等のエリートたちは、もはやその従属を従属と意識せず、むしろ自分たちこそ「自由」を身につけていると思い込み、アメリカに褒められることを名誉とし、「アメリカのようである」ことを誇りさえする。もちろん、そんな連中に関しては、「従属を勝ち取った」気になり、「従属を抱きしめている」と憐れんでやればよいが、たちが悪いのは、自分たちが祀りあげるアメリカの意向を、自分たちの恣意的な権力行使の後ろ盾にしたり、自分たちにとってアメリカとの関係が命綱だからといって、他の者たちにまで「アメリカが怒っている」、「日米関係が危ない」と圧力をかけて、日本全体に従属を押し付けようとすることだ。

 「・・・だが、圧制者の周りにいるのは、媚びへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の希望通りにものを考えなければならないし、さらには彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない連中は、圧制者に服従するだけでは十分分ではなく、彼に気にいられなければならない」 こういう手合が、冷戦終結後、20年を経た今も旧態依然の日米関係を不問の前提のようにして支えている。
・・・日本を他に例のない「親米国家」に仕立て上げているのが、支配エリートたちのこの「自発的隷従」なのである。


 言われてみれば、確かにそうだと思います。
 「日米関係」のために、どうして、沖縄に基地を置かなければならないのか、憲法解釈の変更をしなければならないのか。
  
 アメリカを怒らせててはいけないけれど、中国や韓国は怒らせてもいい・・・そんな日本の政治ですが、それ自体がおかしなことなんですよね。

| 本・評論、新書、エッセイ | 20:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ヤマト2199新作・・・驚きの・・・

え~~っ!!! pen1_13驚

全く予想していませんでした。

ヤマト2199新作映画、その敵がガトランティスだとは!!
何よりも気になるのは、そのラストが「さらば愛の戦士たち」になるのか、テレビ版の「ヤマト2」になるのか。

私としては、テレビ版の結末にして欲しいです。絶対に、絶対に!!
だって古代君が死んじゃうなんて、絶対に嫌だから!!



今からドキドキしてしまう私。

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| 宇宙戦艦ヤマト | 20:49 | comments:9 | trackbacks:0 | TOP↑

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