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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年07月

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73年前の警告

矢内原忠雄氏の全集に「歴史と人間」を読んでいたら、とても興味深いことが書かれていました。
どうしてここまで、今を見通したようなことを今から73年も前に書けたのか、改めて凄い方だと思います。


この「歴史と人間」は昭和16年に行った講演です。
矢内原氏は、ここで、今は現代の思想的危機であると書かれています。

少しだけ転載します。

科学教育は普及しても、人の道徳は改善せられず、社会の犯罪は減らない。人類生活の社会的国家的矛盾はますます激化して、人は歴史の将来を見透すことが出来ず、不安と動揺に襲われている。之が現代の思想的危機でありまして、人々は何処からか光明の出現を切に待ち望んでいるのでありますが、理窟からは力は出て来ません。

(中略)

ここに於いて理窟を超えた非合理主義的な信念を以て、ぐんぐんすべての人を引っぱって、目的に向かって行動せしめようとする思想が現れた。その主たる一つがナチス主義であります。

ナチスの思想に於いて非常に著しい一つの特色は、個人よりも優位なる価値として民族を高調してをる事であります。・・・民族の為に世界があり、民族の為に個人がある。而して民族の指導者たるもの、即ちフェーラーが歴史を造って往ってをるのであり、そのフェーラーに服うことがフェーラー以外の人間の歴史参与の道である。こういうのがナチスの思想の一つの特色であるんです。それ故に世界主義とか国際主義とか人種の平等とか、そういう観念を排斥します。

(中略)

第二の特色は技術を尊重することであります。・・・常に或目的の為の手段であります。・・・政治的目的の為にする学問の応用、即ち技術的学問があるだけです。学問に対する政治の優位である。・・・

第三の特色は、基督教の歴史観、人間観を排斥するという事であります。

(中略)

その独断の赴くところ、結局世界は民族間の支配闘争ということになりまして、之まで人類の歴史が数百年かかって造って来た世界兵の思想を破壊し、また昔の未開時代に返すことになるでありましょう。



矢内原氏が昭和16年に語られたこのことは、今の日本そのものではないでしょうか。

自分が歴史を造っているかのような思い込み。ただ破壊しているだけなのに。
そして、「この僕ちゃんに皆は従わないといけないんだぞ」って言うかのような振る舞い。
政治目的の為に利用できるものは何でも利用する。
そして、人間排斥の思考。


今、東京官邸前では「集団的自衛権の行使容認に反対」のデモが繰り広げられています。かなりの数の方々が参加されています。
そして、そのデモを、それが仕事だからでしょうが、多くの警察官が動員されています。
それが仕事だとしても、彼らは今回のことにどう思っているのかと思います。

犯罪を犯しているわけではないのに、このように警察官や機動隊が投入されるというのは、おかしいのではないか。


こういう危機が絶えず繰り返されるのは、「罪という事がわからないから」だと矢内原氏は言います。
そして、罪が分からなければ、
何度文明を築き上げても何度も毀れてしまう。大きく築き上がれば大きく毀れてしまう。」と警告しています。

「罪という事がわからない」。それは、キリストの十字架を棄てたから。
だから、やはりキリストの十字架がどうしても必要なんだと私は思います。

| 世の中のこと | 21:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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理性

「理性」って何だろう。
辞書には「道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力」「善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力」とあります。

「理性に頼む」「理性に訴える」「理性を失う」等とも言います。

「理性」、それはいい意味を持つものだと思います。
でも、必ずしもそうではない、ということを最近教えられました。

人間の理性というものは、人間に都合のいいように使われる」と矢内原忠雄氏は述べています。
人間の理性だけによりたのんでいては、悲劇的な成行となることがある、と。

古来いかに理性の名によって戦争が弁護されて来たか。平和を作るための戦争などという事が、もっともらしく理性主義者によって唱えられて来ました。理性だけで事を解決しようとすればそのようなノンセンスな事態を作り出し、またそれらを弁護する事になってしまう


そしてまたこうも指摘しています。

科学的であることを誇る現代人は、目的という観念を失ってしまっている。何のために文明を築くか、科学は何を目的とするかということについて、確信を失っている。
 (中略)
 政治もしくは実業もしくは学問に対して目的を決定するものは、理性自身ではない。理性を越えたものである。理性に方向を指示し理性に光を与えるもの、それは信仰です。



「理性的でないね」と言われた記憶はありませんが、でも、そう言われたら、私は返す言葉を失ってしまうと思います。
「理性」って、案外人を黙らせる言葉なのかもしれない。


何を書きたいのか、自分でも分からなくなってきましたが、何を言いたいかと言えば、
『理性の暴力』という本が1月に出版されて、初めは「理性が暴力?」とぴんとこなかったのですが、矢内原先生のこういった言葉に、「理性の暴力」ということも、あるんだなって納得出来た、ということ。

『理性の暴力』、ずっと読みたいと思っているのですが、ちょっと価格が私には高めなこともあって、まだ手を出せずにいます。でも、やっぱり読みたい。

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古賀 徹

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「内容紹介」(Amazonより)

社会の合理性が行きつくところ、意図せざる暴力が湧き出る必然性を原理的に問う画期的な論考。

● フクシマの原発事故は、想定外のリスクを排除した全体主義的 な科学のイデオロギー化による。事故防止のための思想とは?

● 〈いじめ〉はなぜなくならないのか。本来、自由と自律を訓育 する近代の学校の本質と今日的状況から考える。

● 沖縄戦「集団自決」の悲劇を、軍の直接命令の有無にかかわら ず、どこにでも起こりうるものとして全体主義の視野から考察する。

● ハンセン病の強制収容のように、公共性の空間は内部から他者の 権利剥奪と殺戮の強制収容所を生み出す。公共性空間について再考する。

● 水俣病の原因には科学的根拠がないとし水俣病の発見を遅らせ た専門家の過度に科学的・論理的思考法を問う。

● 死刑判決は裁判官の推論という誤謬と被害者擁護の応報から成 り立つ、その理性のありようを明らかにする。

● 理性の限界と可能性を考える、秀抜な哲学者の登場。日本哲学界が無視する日本社会を徹底思考する稀有な書。

| ひとりごと | 20:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ある中学生の投稿

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これは昨日6/25(水)の朝日新聞の投稿です。

私はこの登校を読んで、本当に胸が締め付けられました。

戦後に日本に生まれた者の中で、
「おそらく戦場にむかわされるであろう世代のひとり」
と自らをとらえた人はいるでしょうか?

私の長男も同じ中3です。
今の中高生、小学生を見てください、思ってください。
彼らに武器を持って、人の命を奪うようなことをさせたいのか。
彼らは、戦争を望んでいるでしょうか。人の命を奪うことを望んでいるでしょうか。

普通の人は誰も戦争なんて望んでいない。

「人は何のために生まれてくるのでしょうか。
 戦いで人を殺したり、殺されたりするためでははいはずです。
 全ての人間に与えられる人生は、たった一度です。
 人を殺したり罪を引きずって生きたり、自分が望まない時に命が無理やりおわったっりすることは、あまりにも残念で、悲しいことです。」


本当にその通りで、私たちのこの人生は、たった一度きりなんです。
そのたった一度きりの人生を、大切な人生を、好き勝手にする権利なんて誰にも与えられていません。

軍靴はもうやって来ている。今朝、このことを強く感じ、本当に怖くなりました。
本当にこのまま、ウマシカなアベたち一派によって、この国のあり方が全く変わってしまっていいのか。
私は絶対に嫌です。

こんなに大切すぎることを、ごく一握りの者どもが、それもアメリカの国益、大企業のことしか考えない者どもが、簡単に決めてしまっていいのか。

人の命をなんだと思っているのか。
日本を「美しい国」にするとよく言えたものです。

戦争はしてはいけないんです。絶対に。
武力で平和なんて絶対に来やしない。新たな憎しみを生むだけ。
「抑止力」なんて言葉遊び。
武器を作って、儲けたい。戦争が起これば、もっと儲かる。それが本音でしょう。


世界大戦、太平洋戦争が終わって、約70年。
それを、もう過ぎ去った過去の出来事と片付けてしまっては駄目。

過去は忘却の彼方に過ぎ去ったものではなく、「未来の始まり」。
過去に何かが起こった。その事実に基づいて、「では、どのように生きるべきか」と自問自答するのが、未来への扉を開くこと。

今朝、聖書を読んでいて、そのことを教えられました。

「未来への扉を開くために、私は、あなたは、どのように生きるべきか。」

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| 新聞記事 | 14:51 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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「福島県に修学旅行を誘致強化へ」

昨日の社説に書かれていたことを書こうと思ったのですが、あまりにも腹立たしいニュースを知ったので、書きます。

「福島県に修学旅行を誘致強化へ 風評被害対策で」(記事元こちら)
記事転載します。


 原発事故による風評被害の払拭に向け、政府は、修学旅行先として福島のモデルコースを設定し、全国の学校に提案することなどの強化策をまとめました。

 根本復興大臣:「被災地産品の安全と消費者の信頼確保に向け、全省庁が一体となって、これからも風評払拭に向けて、全力で取り組んで頂きたい」
 風評被害を巡っては、漫画「美味しんぼ」で主人公が福島第一原発を訪問した後に鼻血を出す描写が波紋を広げました。このため、安倍総理大臣が先月、福島県を視察した際に、風評被害への対応を早急に行うよう指示しました。これを受けて、根本大臣は関係省庁を集めた会議で、放射線に関する情報発信や福島県への修学旅行誘致を強化する方針を確認しました。また、福島県産の食品の利用を民間企業に促すため、近く経団連に対して要請する考えです。



「風評払拭」と言うけれども、風評ではなく、実際に被害が出ているではないですか。

子どもを犠牲にするようなことを、どうして平気でするのか。もう腹立たしいです。
子どもを福島に行かせて、「ほら、安全でしょ」と言いたいのでしょうが、もう順序が反対です。
「安全だから、来て下さい」と言うのが本当ではないでしょうか。

どうしても、「風評」と言うのなら、そう言う人たちが何年も福島に住んで、そこで地産地消したらいいのです。
そんな覚悟もないくせに、子どもを実験に使うなんて、許せません。

もし、修学旅行先が政府のお達し通りになったら、私は子どもを行かせません。

やらなければいけないことをしない、この国。
自分たちは安全圏において、庶民に危険ばかりを押しつける、この国。

こんなとんでもない国ですが、だからこそ、なおさらに、昨日書きましたが、子ども達に、「『希望』という道筋を残していく」ことが何としても大切なのだと思います。

| ひとりごと | 18:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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希望

今日6/24(火)の朝日新聞社会面に、沖縄で行われた沖縄戦没者追悼式で小3の男の子が読んだ「平和の詩」が掲載されていました。

とても心に響く詩ではないでしょうか。facebookに全文が掲載されていたので、転載します。


「空はつながっている」

ぼくのお気に入りの場所
みどり色のしばふに
ごろんとねころぶと
そよそよとふく風がぼくをやさしくなでる

遠くでひびくアカショウビンの鳴き声
目の前ではお母さんやぎがやさしい目で
子やぎたちを見まもっている

青あおと広がるやさしい空

でも
遠くの空の下では
今でもせんそうをしている国があるんだって

ばくだんが次つぎとおとされ
なきさけびにげまわる人たち
学校にも行けない
友だちにも会えない
家族もばらばら

はい色のかなしい空
空はつながっているのに

どうしてかな

どこまでが平和で
どこからがせんそうなんだろう

どうしたら
せんそうのない
どこまでも続く青い空になれるのかな

せんそうは国と国のけんか
ぼくがお兄ちゃんと仲良くして
友だちみんなともきょう力して
お父さんとお母さんの言う事をきいて
先生の教えをしっかりまもる

そうしたら
せんそうがなくなるのかな

えがおとえがおが
遠くの空までつながるのかな

やさしい気もちが
平和の心が
丸い地球を
ぐるっと一周できるかな

まだ子どものぼく
いのる事しかできない

どうか
せかい中の子どもたちみんなが
学校に行けますように
友だちとあそべますように

にこにこわらって
家族でごはんが食べれますように

夜になったら
すてきなゆめが見れますように

しあわせでありますように
いつか友だちになれますように

白い雲
ぼくの平和のねがいをのせて
この地球をぐるっとまわって
青い空にそめてきて

きっと
せかいは手をつなぎ合える
青い空の下で話し合える
えがおとえがおでわかり合える
思いやりの心でつうじ合える
分け合う心でいたわり合える

平和をねがう心で地球はうるおえる

だから
ここに
こんなにきれいな花がさくんだ

だから
こんなに
ぼくの上に
青い空が広がっているんだ




この詩を作ったきっかけは、食事を残した時の母親の言葉。
「世界にはご飯を食べられない子たちがたくさんいるのよ」

この言葉を聞いて、悲しくなったのだと。
そして、また学校で教科書を配ることができない国もあると聞いた。


この男の子の感受性というのでしょうか、素適だと思います。
私も子どもに時々、この男の子の母親と同じように言います。「世界にはご飯を食べられない子どもがたくさんいる」って。
でも、我が子たちの反応はありません。自分には関係ないって思っているのでしょうね。

昨日、鎌田實氏の『あきらめない』を読んでいたら、鎌田氏が高木仁三郎さんと話をした時の、高木仁三郎さんの言葉を記しておられました。

「反原発は何かに反対したいという意味ではなく、よりよく生きたいという希望の表現なのです。
死の予感のもとで、弱い立場の人たちのために、これから生まれる命のために、未来が見えなくなった地球の将来のために、ぼくは『希望』という道筋を残していきたい。
 
 ぼくは最近『希望、希望』と言っている。一生懸命やってきたことの結果を問わず、すべてのことをプラスに転じることのできる魔法の言葉『希望』。 21世紀を生きる、地球上に住むすべての人々が、希望をもって生きられることを祈っています。」


戦争反対、平和を求める思いも同じで、よりよく生きたいという希望なんですよね。

現状を見ていると、希望なんてない、って思ってしまいそうですが、それでも、やはり「希望」は持ち続けたい。
それは、自分のためでもあるし、これから生きる人々のため。
時間はかかるんですよね。行ったり来たり、前進したと思ったら、後進してしまう。
そんな歩みだとは思いますが、でも、希望は持ち続ける。

別れ際に、高木仁三郎さんは鎌田氏にこう言われたそうです。
「理想主義の私は、いつか核のない社会が必ず実現すると信じていますよ」

信じないことには、希望は持てない。
だから、信じたい。

平和をねがう心で地球はうるおえる

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| 心に響いた言葉 | 19:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鎌田實氏の本

最近、鎌田實氏の著書を3~4冊立て続けに読んでいます。
読みやすく、でも内容は深くて、涙しながら読むこともしばしば。

鎌田氏のお仕事ゆえ、書かれているのは病気に関することで、それも難病、余命を宣告された方々のことです。
でも、本に書かれている方々はあきらめないで、とても前向きに生きる人々。
そして、そこに鎌田氏は「命のリレー」を見るという。

私は今は健康そのもの。
でも、5年くらい前でしょうか、乳がん検診でひっかかり精密検査となりました。
結果は、全く問題のないものでした。

健康診断では、出産後は血液検査で毎回「貧血」と記されるようになり、4年ぐらい前にはあまりにも数値が低すぎるので、これも「要精査」となり、胃カメラを飲むことに。
(私は開口障害と言って、口が大きく開きません。指二本分がようやく入るくらいしか開けません。で、このときマウスピースを口に入れることが出来なくて、お医者さんがとても困っていました。代わりに細い管のようなものがあったので、なんとか検査ができました。)
結果は、とても綺麗な状態で問題ないと。

でも、結果がでるまで、どんなに不安だったことか。
「もしも、結果が悪かったら・・・」と思うと、子どものことを思うと、心配で心配で・・・(でも、夜も眠れないということはありませんでしたが)。

そう思うと、実際に病と闘われている方々の気持ちを思うと、私が思い悩んだものの比ではないだろうなって。
なのに、前向きに、あきらめずに生きている。

「死を目の前にしていても、人間には死がくるまで、自由に生きる力があるのだと思いたい。」
と鎌田氏は著書の中で書かれていますが、その通りに生きている人々の姿に、大きな励ましを受けます。

facebookにこんな投稿が以前にありました。

「病気であろうがなんであろうが、その与えられた状態のなかで
 喜ばれるようにと思って生きていたら
 神は、この人を
 もうちょっと長生きさせようかなと思うのではないでしょうか。
 なぜならこの人が生きていることが周りを喜ばせているのですから。」

そうとばかりも言えないけれど、でも、そう思えることもあります。

「誠実に、一人一人希望を持ってきちんと生きているということを、子ども達に見せてあげることが大切だ。」(『がんばらない』鎌田實著より)

私はどんな姿を子ども達に見せているのかな。

それにしても、鎌田實氏が名誉院長をしておられる、諏訪中央病院って、素適な病院なんですね。

| 本・評論、新書、エッセイ | 13:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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弁護士 正木ひろし氏

こんな方がいらっしゃったのですね。正木ひろし氏、弁護士です。
メール配信より知りました。
以下転載します。



1945年の元旦(1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾の8か月半程前、ミズーリー号で降伏調印式が行われた1945年9月2日の9か月ほど前)に、正木ひろしは『近きより』に次のように書いている。

「 1月1日(月)
日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。

僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼等は味わっているのだ。

だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。

彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。

当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。

日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総べての問題はここから出発しなくてはならぬ。

日本が、どうぞして健全に進歩するように──それが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。

いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように──。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない」



教育がいかに大切なものか。

| ひとりごと | 20:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「障がい」ということ



上の映像、短いものを以前に見たことがあります。今回はそれよりは長めの映像。
子どもが二人いますが、二人とも、軽度とは言え、発達障がいを抱えています。
そのこともあると思いますが、この映像を見て、涙が溢れました。

私は「障害者」という言葉が嫌いです。その言葉は使いたくない。だから、その言葉を使わざるを得ない時は「障がい者」と書きます。
でも、皆が一般に「障がい者」と言う人たちは、何か特別に大きな害を与えているでしょうか?

「障害とは、病や怪我のある人が出て行ったその先にある障壁」

「障がい」、それは、世の中が作り出しているもの。人の中に巣くう偏見や差別。


そうだとは分かっていても、もし、実際この映像のような場面に自分が出会したら、非難している相手に向かって「間違っている」と言えるでしょうか。
勇気のいることですが、でも、やはり黙っていてはいけないのだと、私は思います。

だって、何も言わないことは、認めたのと同じことだと思うから。
間違ったことに対し、おかしなことに対し、それは「間違っている、おかしい」と、立ち向かえる自分でいたい。



この映像の中で、女性が語る次の言葉にも、その通りだと思います。

「目に見える障がいとそうでないものがある。
 障害の程度は見えないもののほうが深刻ね。」


 異なっていることこそ正常です。人間であることに基準などはありません。目が不自由であったり、耳が聞こえなかったりする人もいれば、学習が困難な人、精神ないし身体に障害を持った人々もいます。その一方、ユーモアのない人々、永遠の悲観論者、反社会的、いやそれどころか暴力的な男女もいるのです。
 障害があるというのは異なっているだけのことなのだと理解するのは、われわれが取り組まざるを得ない目標です。

 障害の基準なるものは偶然であり、これが確かかどうかは疑問です。そうした基準の前提は相変わらず、いわゆる社会の要求、とくに合理的で活動的な能力、生産過程における生産能力です。しかしかりに、(共に生きるという)社会的態度が模範的な基準であるとするなら、ダウン症群の人々を見習わなくてはなりますまい。耳や目が不自由な人が肌で感じる感受性を基準にすれば、見えたり聞こえたりする人にこそ障害があるといえます。おそらく車椅子の人は、泣いたり笑ったりする能力の枯渇した教授の人間性には障害があると判断することでしょう。
(ヴァイツゼッカー大統領)



それにしても、日本と違うなって思ったのは、多くの人が利用するスーパーで、「障がい」と呼ばれている人たちが働いていること。
日本では「作業所」だったり、人目につかない所で働いているのがほとんどだと思います。そして、その賃金も安い。

隔離するのではなく、もっと一緒になって活動できるようになればいいのにって思います。

| 発達障がい | 19:56 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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「国旗に一礼しない」村長さん追悼式での式辞

あるブログに、中川村村長の言葉が紹介されていました。
中川村村長、2年程前にこの村長のことを少しだけ書きました。朝日新聞に「国旗に一礼しない」村長として、彼のインタビュー記事が載っていました。

今回の言葉は、「2014年 中川村戦没者・戦争犠牲者追悼式 式辞」です。一部転載します。(全文はコチラ
(前年度の追悼式で国旗の掲示がなかったことに対して、抗議があった)

 確かに、戦没者追悼式では、国旗を掲げるのが一般的です。それはなぜかというと、国のためになくなったのだ、と示すためだろうと思います。

 しかし、日清戦争から先の敗戦に至る一連の戦争・事変は、日本のためになったのでしょうか。戦場となった国々では、多くの人々が犠牲になり、甚だしい迷惑をかけ、被害を与えました。日本は、今に至るまで周辺諸国と良好な関係を築くことができずにいます。日本の側でも、多くの兵士がジャングルなどの過酷な環境に送り込まれ、飢えや病気で次々となくなりました。夢と希望にあふれた膨大な数の若者を失い、日本にとってどれだけの損失となったことでしょうか。そして、愛するお父さんや兄弟を亡くした遺族のみなさんは、悲しみにくれる間もなく、生活のために大変なご苦労を背負いこまねばなりませんでした。沖縄で、東京他大空襲で、また原爆投下によって、大勢の一般庶民も亡くなっています。つまり、戦争は、まったく国家、国民のためにならなかったのです。

 戦争とは、一部の人たちが、自分達の思惑のために、国民の命と身体と税金を使って始めるものであり、それは、歴史の変わらぬ事実です。
 しかし、国旗が掲げられることによって、あたかも戦争が国のためであるかのように思わせます。つまり、国旗は戦争の実態に蓋をして、隠してしまうのです。

 昨今の政治状況について言えば、深い議論を重ねた上で、正式の手続きを踏んで、憲法変更の是非を国民に問うのではなく、安倍政権は、恣意的な憲法解釈の変更によって、日本を、戦争をする、ありふれた、志のない国にしようとしています。その裏には、どういう思惑があるのでしょうか。愛国を掲げることで、その思惑も隠されています。国や国旗を隠れ蓑として利用しているのだと思います。

 特に今、集団的自衛権の必要が喧伝されています。しかし、戦況の情報を米軍が握り、首都東京の周囲に座間、横田、横須賀、厚木などの米軍基地が居座る状況では、自衛隊は、実質的に米軍の指揮命令下に入るしかありません。つまり、集団的自衛権とは、日本の若者を、日本国民の税金で訓練して、米国から購入した高額の兵器とともに、米軍の戦場に差し出すことです。これでは、愛国どころか、何重にも売国的だと言わざるを得ません。

 亡くなった日本の兵士たちは、「鬼畜米英」と教え込まれ、「生きて虜囚の辱めを受けず」と叩きこまれました。もし、このような今の日本の状況を見れば、「米国にこれほどまでにおもね追従するのであれば、あの時、なぜ自分達を、あれほどに餓えさせ、あのような意味のないバンザイ突撃をさせる必要があったのか」と、憤りの叫びを挙げることでしょう。

 今の状況がこのまま進んで、集団的自衛権が現実のものになれば、自衛隊の若者が戦場で亡くなるのも、現実のこととなります。もしそうなれば、自治体でも、かつてのように村葬をすべきだ、という声が上がるでしょう。
 村長は弔辞で、国のために命を捧げた自己犠牲を讃え、お母さんは、悲しみを押し殺して、感謝の挨拶をすることになります。そして、ひとりの若者の死が、「国のために」死のうとする多くの若者を獲得することに利用されるのです。

 私は、そんな村葬はぜったいにやりたくありません。戦没者・戦争犠牲者のみなさんも、そんな村葬を見ることは嫌だろうと思います。この式典に、新たな遺族を迎えいれるようなことは、あってはなりません。

 日本が大きな分かれ道に立っている今、掲げられた国旗はなにに蓋をしているのか、そのむこうにはどんな思惑が隠されているのか、透かし見る努力が必要だと思います。



長くなりますが、「国旗とこの国の姿」 と題して、次のように語っておられます。

 特定秘密保護法が先般あわてて可決されたのは、この動きに怯えた反応だと思う。目覚めかけた国民をなんとかこれまでどおり上意下達で統治し続けようする焦りの現れだ。国民から知識、情報を奪い、考えることを奪おうとしている。今後も今までのやり方が通用するのか、それとも心から誇れる下意上達の国民主権国家を生みだすことができるのか、日本は今大きな岐路にある。例えしばらく上意下達の統治が続いたとしても、目覚めかけた国民を力ずくで寝かしつけることはできない。何度も波は押し寄せ、潮は引いてもまた満ちる。フランスにおいては、国民が主権を安定して手にするまで、バスティーユ襲撃からジャコバン派の独裁、ナポレオンの帝政、王政復古などなど第三共和政に辿り着くまでに90年近い年月がかかった。日本は仮に敗戦から数えれば約70年だ。流血沙汰はご免蒙るが、今後も様々な紆余曲折があろう。そもそも主権とは、手に入れても盗まれないようずっとしっかり身につけていなければならないものだ。腰を据えて、統治側に対抗し続けていくしかない。つまり、学び、意見を表明し、批判し合い、行動することだ。でっちあげられた空気に委縮せず、壁を壊しフレッシュな空気に入れ替えるのだ。


読んでいて思ったのは、私はここまで考えてないなって。
何かあると、一応少しは考えてみたりはするのですが、その事象だけを捉えて、色々な事象をつなげて考えるということをしない(できない、と言った方が正しいかも・・・)。

「主権とは、手に入れても盗まれないようずっとしっかり身につけていなければならない」
とありますが、日本がこういうことになるまで、「主権」というものについて考えたこともありませんでした。

「学び、意見を表明し、批判し合い、行動する」時間はまだあると思うので、危機的な状況に日本はありますが、失望せずに、声なき声でも挙げていきたい。


「日本の平和教育・平和運動は、かえって戦争の苗床? …足立力也さんのコスタリカの本を読んで」も時間があれば、読んでみてください。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=10855">記事はこちらです。 http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=10855

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平和

「野党は解体」、「自民党に逆らう奴は居ない」、「中国と韓国はいずれ擦り寄ってくる」

とアベさんはオフレコの懇談会で語ったとか。(記事元コチラ 『真実を探すブログ』

彼が目指しているのは、独裁国家なのでしょうか。

アベの顔を見るのも嫌だし、声を聞くのも嫌です。
さっさと退場願いたいって思います。

でもですね、退場してくれたら、それでいいと、言っていてるだけではいけない。

なんか、ふと思うのです。

ここまで、アベは国民の半分以上が嫌がるようなことばかりをやり、国民をいじめるようなことばかりしているのに、いくらマスコミを抱き込んでいるとはいえ、ほとんど批判が巻き起こってこない。
これって、やっぱりおかしいのじゃないかって。
その裏で何かが画策されているんじゃないかって。

国民の不満が大きくなった所で、アベが失脚したら、多くの人の溜飲が下がるでしょう。
で、それですべてよし、としてしまうようなことにならないかって。

自分たちの平和が脅かされそうになって、戦争が現実味を帯びてきて、「平和を」「戦争反対」と叫びます。
でも、それはやっぱり、何か足りないような気がします。

本当に平和を求めるのなら、戦争に反対ならば、例えば、パレスチナやイラクで起こっている事に無関心でいられるはずがない。

なぜ平和を願うのか。そういうことを明確にしておく必要があるのだと思います。

「平和はなぜ尊いか。このことを、深い思想的裏づけによって了解しておらなければなりません。そうでないと、戦争のための平和とか、平和のための戦争とか言われまして、平和を維持するための戦争であると称して、戦争をしたりする。・・・われわれは言葉によらず、思想によって物事を了解しなければなりません。

 ・・・やはり人間というものの人格の尊さに帰着して、平和は人格の本質的な要求であると考えるべきでありましょう。」
(矢内原忠雄)

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