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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年09月

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問題となっているのは

facebookより二つほど・・・。

一つ目・・・
自民党のタカイチさんが、ヘイトスピーチについて、「口汚い言葉でののしるのは、誇りある日本国民として大変恥ずかしい。人種差別的な言論は(国際的に)法規制の流れになっている」と述べ、行き過ぎた表現に対する規制の必要性を強調、と報道されています。
それに併せて、国会周辺での大音量のデモに対する規制も議論する、と。

この報道について、次のように書いている方がいて、すっきりしたので、一部転載します。全文はこちらで。

では高市早苗にぜひ聞いてみたいんだけど、口汚い下品な言葉で罵るのをやめて上品な言葉遣いで人種差別をすればお前はアリだってことでいいんだね?
国連決議にかぎらず、多文化多民族で暮らす国々と日本との大きな違いは何か。
対日審査で国連から勧告されたものの肝の部分は何か?

人種差別問題というのは、それが差別だからやめろと言われているんだよ。
つまり迷惑だったり下品だったりするからダメなんじゃなくて、差別だからダメなんだよ。


これは下品だ迷惑だといった近所の迷惑ペットみたいな次元の話なはずがなくて、そもそも論として政治への反対姿勢と差別スピーチを相対化する頭がオカシイと言わざるをえない。

じゃぁ国会周辺のデモや拡声器による絶叫を何と相対化すればいいのか?
それは自民党議員がお得意のドブ板選挙演説がまさにそれだろう。
頼んでもないのに選挙期間中だけ、どうせ実行できるはずもない絵空事を街中に拡声器で喚き散らして走り回る。

これこそ下品で迷惑なデモと一緒であって、悪質さで言えば国会周辺に限定させているデモより押し売りの選挙演説のほうがまだ迷惑かもしれない。


差別問題は迷惑だからでも騒音だからでもなく差別だからこそ問題なのであって、本当はやっている当事者は何がダメなのか言葉に出来ないながらも知っているからこそいろんな行動と相対化してごまかそうとする。

結論:この問題で日本人が問われるのはなにか?それは表現の自由度でもなんでもない。正義というものを外国人と共有できるかどうかを問われている。



「恥ずかしいから」とタカイチさんは言っていますが、では、恥ずかしくなかったら、してもいいのかっていうことにもなります。

日本は「恥の文化」、西欧は「罪の文化」とはベネディクトの言葉ですが、どちらが良いとか悪いとか簡単には言えませんが、正義、義、ということに関して、日本はまだまだ認識が甘いのだろうか。


二つ目・・・
「ドイツからのゲスト・コラム -アメリカは我々を脅えさせている」と題したブログ記事がありました。(記事元コチラ)

そこでは、日本だけでなく、西欧でもマスコミはアメリカ政府の言いなりになっていると書かれていました。
そして、最後の方に次のように書かれていました。

広島土砂災害の救援活動報道一辺倒ではなく、沖縄の辺野古の状況報道こそ必要だ。

この一文に、その通りだと思いました。

広島の土砂災害を軽く見ているのでは決してありません。
でも、あれだけ広島の報道がなされながら、沖縄の辺野古の報道がされていないのは、やはりおかしい。
どれだけの沖縄の人たちが反対し、抗議活動を行っているか。海保が何をしているか。



大切なことのはずなのに、報道されていないことがあります。そして、それは権力側が隠しておきたいこと。
「何が報道されていないか」、そのことに考えが及ぶようになりたいです。

| ひとりごと | 15:53 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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「積極的平和」

facebookにこんな投稿がありました。

「この国にいると、政府の国民への殺意を感じるね。棄民の背景にあるのは殺意ですよ。どんどん消費税増税や非正規雇用で経済的に追い詰めていく。食べていけなくなった若者を自衛隊に入れ、戦場で殺す。戦争が一番儲かるビジネスだから、それをやりたい。国際金融資本(米金融ユダヤ)の戦略でもあるし。」

過激な言葉ですが、今の政府を見ていると、そう思ってしまいます。
本当に国民のことを考えているのならば、政府の動きは今とは全く違うものになると思います。


アベが「積極的平和主義」との言葉を使っていますが、「積極的平和」について、ウィキペディアに次のように説明されていました。

「積極的平和」は1942年、米国の法学者クインシー・ライトが消極的平和とセットで唱えたのが最初とされる。その後、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは消極的平和を「戦争のない状態」、積極的平和を戦争がないだけではなく「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」と定義した。この定義が「積極的平和(主義)」の世界での一般的な解釈となっている。

積極的平和とは、戦争がないだけではなく、「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」。
でも、政府の政策は貧困化を増長し、貧富の差を広げているような気がしてなりません。
それに、カジノ構想・・・。
そして、対外的には武器輸出。


人間は、「わたし」という個で生きているのではなく、「わたしたち」という、他者と共に生きているのである。他者を無視した生き方が生まれた時、人間の生命が、平気でおかされる社会がうまれてくる。他者の生命をおかしても、私だけが生きたらよい。このような社会は、なんと恐ろしい社会であろうか。
私が生きるのでなく、私たちが生きる。
(福井達雨)


強い者も弱い者も等しく、共に生きていける世の中になってほしい。

| ひとりごと | 20:23 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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『生命をかつぐって重いなあ』

夏休みは昨日で終わり、今日からまた仕事。2学期が始まりました。
「8月いっぱいは休みがいいなぁ~」と、いまいち気持ちが向かわなかったのですが、学校で久しぶりに子どもたちを見たら、もう、かわいくて、かわいくて。気持ちが引き締まりました。

私は支援員でしかありませんが、子ども達がより学校生活を楽しめるよう、できることを精一杯していきたいなって思います。

今、『生命をかつぐって重いなあ』(福井達雨 著)という本を読んでいます。
1975年初版発行の、古い本です。今から40年程前になりますね。
著者の福井さんは重度の知的障がい児のための施設(止揚学園)を運営されています。
その福井さんがこんな体験を書かれていました。

福井さんの息子さん達が通う学校に、止揚学園から通っている子どもたちがいました。
PTAの役員を福井さんがしていた時に、夏休みにソフトボール大会をしたいと、先生が原案を持ってきました。
でも、そこには止揚学園の子ども達の名前が全部載っていませんでした。それで、先生に言いました。

福井さん「私の所(止揚学園)の子どもは一人も載っていませんね」
  先生「お宅のお子さんはソフトボールはできないからはずしました。お宅の子、ソフトボールができるんですか」
福井さん「できませんね」
  先生「そしたら、できなかったら、はずすのがあたりまえでしょう」 (周りの先生も同調します)
福井さん「ちょっと待って下さい。ここは教育の場でしょうか、それとも一般ビジネスの場でしょうか」
先生たちは「教育の場です」

福井さんは思っていました――できるかできないか、できないからはずしてしまうのは教育の場ではない。
そこで、先生方に次のように話しました。

「 うちとこの子は確かにソフトボールはできない。でも、うちとこの子が走れなかったら、貴方が一緒に手をつないで走ってくれたら走れます。とべなかったら、貴方が後ろから抱いて一緒にとんで下さったらとべますよ。バットを振れなかったら、貴方が一緒になってバッドを振って下されば振れますよ。

 教育というのは、できるかできないかで、できないものをほかすのでなく、やるかやらないか、私たちがその子と共になってやるかやらないか、やろうという決断があったらなんでもできるんです。教育というのは、できるかできないかというのではなく、やろうか、やらないかじゃないんでしょうか」



「福井さんは言い出したら、後に引かない。しかたないから、思い切って止揚学園の子をいれてソフトボール大会をしましょう」 ということになりました。

ソフトボール大会が終わって、先生が次のように言われたそうです。

「 今度のソフトボール大会は、とってもすばらしかった。それはなぜかというと、いつもソフトボール大会は勝つか負けるかということが主体となっていて、下手な子は小さくなっていて、上手な子はいばっている。
 それが今度は止揚学園の子が入った為に、子ども達なりにあの子ども達を助けて、どうして勝とうかと一所懸命考えた。そのうちに人の助け合うことのすばらしさ、うつくしさを子ども達なりに知ったんです。人は助け合うことが本当にすばらしいことだということを、子ども達が知ったと言うんです。
 勝つか負けるかではなく、みんなが力を出して一所懸命やろうという姿勢に変わっていった。
 今の学校教育ではどうしても教えられない人間の心のあり方、それをこの子ども達が入ってくれたために体をとおして感じ、そして学んでいった。・・・」



40年も前のことだから、もしかしたら今はそんな風にはなかなかいかないかもしれませんが、でも、私はこの話は大切なことを教えてくれていると思います。

子どものために、弱い人たちのために、って考えますが、より大切なのは、「共に」何かをする、ということなのではないか。

その子が「できるか、できないか」で色々なことを図ろうとしますが、私たちが「やろうか、やらないか」。

教育は、ビジネスの場ではないんですよね。なのに、できるかできないか、あるいは生産性とか、効率性とかそういうことに重点をおいてしまいがちな場となっているのではないかと思います。


次男が小学2年の時に、次男を含む同じ学年の支援学級の3人が運動会のある種目で「外される」という経験をしているので、より一層、福井さんの言葉が心にしみました。

「できるか、できないか」ではなく、「共にやってみる」、そんな気持ちで、子ども達と接していこうと思います。

| 子育て・教育 | 19:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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カナダの12歳少女の講演が凄い

カナダの12歳少女の講演が凄い。12歳でこんなことを堂々と発言出来るなんて。
是非、動画を見て下さい。全文は「追記」に転載しています。


この少女、「どうしてだろう?」っていう疑問を持ち、それから色々と調べたのでしょうね。
こんな気づきがないんですよね、私には。そしておそらく多くの日本人も。
そして、大勢に流されていく・・・。

この動画を見て、ネットでちょっと調べてみました。
そしたら、こんなサイトを見つけました。(こちら)

そこにこんなことが書かれていました。
「現在、日本国内の銀行では1日にキャッシュカードで引き出せる上限金額、送金できる上限金額等が設定されている。」

自分の預貯金をどれだけ使おうが自由なはずなのに、制限されている。
どうして?
私は考えたことがありませんでした。

そのブログで書かれていたのは、

「銀行がいつ倒産するか分からない状況にあり、破綻のウワサが流れることによって預金者達が一気に預金引き出しに押し寄せる、いわゆる取り付け騒ぎが起こる事を全銀行が恐れ、日本国家が恐れている事が原因となっている。」

「大部分の銀行は、預金された資金を日本国債で運用している。その国債が紙クズ化すれば、破綻に追い込まれる。そして、銀行経営者達は、破産寸前=紙クズ化寸前の日本国債の内情を知っているため、その時、どうしてくれるのか?と、政府に問う。そこで政府は、国債が紙クズ化し政府が破綻した場合、市民が自由に預金を引き出せないよう、、キャッシュカードで引き出せる金額の上限を設定。」


私は、経済のことは全然分かりません。だからこのブログで書かれていることが事実かどうかは分かりません。
でも、いつの頃からか引き出せる額に制限がつきました。そのことを考えると、ここに書かれていることは、全くのデマだとも言えないと思うのです。

その下を読み続けていけば、もっと驚くようなことが書かれていたのですが、今のアベ政権を思うと、あり得ないことではないと思いました。


カナダの12歳の少女で思い出すのは、12歳の少女が環境サミットで語った「あなたが世界を変える日」という伝説のスピーチ。
どちらも、カナダの12歳少女というのは偶然なのだろうか?

こういうのが、本当の教育の結び実なのでしょうね。


ちょっと堅苦しい話になったので、こちらを見て、笑ってください。

吹いた吹いた!思わず吹き出しそうになる誤字15選

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| ひとりごと | 09:53 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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夏休み

長かった夏休みもあと1週間・・・。
でも、私の働く学校は今週の水曜日から授業が始まります。給食なしの4時間授業です。
「2学期は9月から」のほうがいいと思うのですが、こういうの、これから増えてくるのでしょうか?

昨日の朝日新聞 投稿欄に「学校の夏休み 2週間にして」と、40代の主婦の投稿がありました。

 ・夏休みが長くて親子でイライラが募る。
 ・最大の者代は自由研究、工作、ドリルの答え合わせ等、私の小中学生時代には全部自分でやるのが当たり前だった宿題が、今では親の手助けなしには完成できないものが多くなっている。
 ・昔は外で遊ぶのが当たり前だったが、最近は猛暑で一日中エアコンの効いた自宅にこもり、手持ち無沙汰にしている。
 ・大人は自分の仕事の都合をつけないと夏休みは取れない。

 だから、

 夏休みを2週間に短縮し宿題は一切なしにすれば、親は負担軽減、子どもは開放感いっぱいの充実した休暇になるのではないか。



 この主婦の方の不満は分かります。特に宿題の部分。
 自由研究、これはもう、子どもがする研究というよりは、親がするものではないかと思います。自由研究を自分一人だけの力でやった子なんて、いないと思います。どこかで親の助けが入っている。

 中学生になった次男。小学校の時は自由研究は強制ではなかったし、支援学級ということもあって、しなくても何も言われませんでした。
 でも、中学ではそうもいきません。やらなくてはいけません。でも、次男にそれだけのパワーも、興味も、やる気もありません。なので、私が自由研究の80%をすることに。

 それでは子どもの為にならない。そう思いますが、全部一人でできないのですから、手伝うしかなくて・・・。
 宿題の出し方に一考あってもいいと思うのですが、どうなのでしょう?


「夏休みを2週間に短縮し宿題は一切なしにすれば、親は負担軽減、子どもは開放感いっぱいの充実した休暇になるのではないか。」
との意見は、それは違うと私は思います。

 宿題がなければ、確かに親も子もストレスは減ると思いますが、それがイコール、子どもの開放感や充実につながるわけではない。

 そもそも夏休みって、どうしてあるのでしょう。
 暑い夏、家でゆっくりする為、普段出来ないことをする為、勉強する為・・・人によって色々だと思いますが、どうして夏休みがあるのかを考えれば、学校側も、親も、変わってくるのかな?


 夏休み、こんな長期の休みは社会に出れば、なくなります。だから、子どものうちは、ゆっくりしてもいいじゃない。
 特に何かを感じなくても、ゆったりと過ごす時間、ボーッとしている時間はあってもいいと思います。いつも何かを生産していないといけないわけじゃなし。

と、思いつくまま書いてきたら、こんな詩を思い出しました。


いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが生きるってこと?
これが愛するってこと?
いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
 あっちへ行ったり、
  こっちへ行ったり、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが成長するってことなの?
これが学ぶってことなの?
なんのためにこんなにもいそいでいるの?
たくさんのものを失っているじゃないか--
立ち止まることもしないで、いつも素通り。
どこへ向かって、ぼくらはいそいでいるの?
ぼくらは目的を達成したときに、“やった”と満足できるだろうか?
それとも、ぼくらはあいかわらず
いそいで
 いそいで
  そしてまた、いそいでいるのだろうか……
(『Listening to the Littelest』)



「子ども時代にはこの時期だけの見かた、考えかた、感じかたがあり、これを私たち大人のものと取り替えてしまうほど愚かしい行為はない」(『エミール』)

| 子育て・教育 | 11:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『いとし子』より

色々なところで紹介されていて、ご存じの方も多いと思うのですが、今のこの時勢、やはりこの言葉を書き留めて起きたいと思います。全文を知りたくて、『いとし子』、購入しました。

永井隆氏の『いとし子』の中の「鳩と狼」より。少し長いですが、その一部転載します。

いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。
お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。
そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
――原子爆弾。・・・・・・いいえ。それは原子の塊である。
そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。

人間は、一人ひとりとしてつきあってみると、もののわかった、心の優しい、にこにこした、善い人であるのに、それが階級とか、組合とか、民族とか、国民とか、まとまった団体になると、お互いに疑い、憎み、そねみ、怒り、争い合うようになるのは、なぜだろう?
 ――そうして静かに話し合ってみれば、お互いにわかって、話がまとまるものを、大勢寄った勢いにのぼせて、戦線だの、攻撃だの、闘争だのと血なまぐさい言葉を盛んに使っているうちに、ほんとうに暴力を振るい、血を見るような恐ろしいところまで運んでしまうのである。人間が大勢集まると、どうしてこうも愚かになるのであろうか?

戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。
そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、
――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。
どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?

私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)

わが子よ――。
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。
憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。
どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。
自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。
しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。
そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ・・・・・・誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!
たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても、「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか? ――という人が多いだろう。
しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?
武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?

(中略)

狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・・・・
愛されるものは滅ぼされないのだよ。
愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。
敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。
愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。
愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。



65年近く前に書かれたものです。
「愛で身を固めよ」「敵をも愛しなさい」・・・そんなの理想論にすぎない、と思われるかもしれません。
でも、愛だけが、憎しみを取り去り、赦しを与え、平和への道を築くものだと、私は思います。
そういう私は、愛の足りない者ですが・・・。

「こちらを憎むすきがないほど愛しなさい」・・・・・・それほどに、愛することができたら、と思います。

| ひとりごと | 19:13 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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無限の樹形図

子どもの登校日も終わり、夏休みの宿題も何とか間に合い、ホッとしています。
ということで、『最上の命医』というドラマのDVDを借りてきて、2~5巻を一気に観ました。(1巻は貸出中でした)
なぜ、このDVDを借りてきたかというと、最近、いいなぁ~って思っている斎藤工さん主演のドラマなので。

どのようなドラマかは、こちらをどうぞ。もう最終回は号泣でした。

とにかく、子どもを救いたいと、自分のことは省みず、医者としての使命を果たす主人公。
その主人公が「無限の樹形図」という言葉をよく使います。

「小児外科は目の前の命を救うだけじゃない。その先にある無限の未来の子孫や仲間たち、つまり無限の樹形図の先にいる人々をも救っている」という信念を持っています。

目の前の子どもはひとりに見えるけれど、ひとりじゃない。 ひとりの子どもは次の世代へ、また次の世代へと、どこまでも無限に拡がっていく。

子どもの命も、大人の命も大切だけれども、まだまだ誰かの保護下にある子どもの命は、やはりより大切にされないといけないって思います。

辛いことは確かにあるけれども、「生きたいんだ」「生きていきたいんだ」って、その思いは子どもも大人も変わらないと思います。
なのに、大人の勝手で、その子どもの命が、簡単に奪われてしまうことがあります。
戦争で、暴力で、言葉で・・・。

このドラマのテーマとも言える、「子どもの命を救うことは未来を創ること」、忘れてはいけないって思います。



話は全くそれるのですが、このドラマの主人公は天才的な腕をもっています。
で、同僚が「あいつは医者としては天才的だけど、男としては相当バカタレよ」・・・みたいなことを言ったのです。
その言葉を聞いて、「あっ、古代君と一緒!」・・・なんて思った私。
やっぱり、雰囲気は似ていると思うんです。古代君と斎藤工くん。

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| ひとりごと | 19:34 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ひとりごと

長い夏休みも、あと10日。
今日、明日と登校日。登校日には宿題を持っていかないといけない。
で、毎年の光景ですが、登校日直前になると、
「も~何やってんの! どうしてちゃんと宿題をしておかないの!」
と、そんな声が舞う我が家。

昨日なんて、長男、次の日が登校日だというのに、英語の宿題が11ページも残っているという。
どうして、計画的にできないかなぁ・・・。

そんなこんなで、登校日近くになると、ゆっくりパソコンをしている時間もないです。

そんな中、facebookは一応目を通しているのですが、辛淑玉さんが、次のように書いていらっしゃいました。

 アフガニスタン、イラクの両戦争に派兵された自衛官は約1万5千人。日本に戻ってきた後、40名が自死した。(2014年3月末現在。)
 生きて帰ってきて、そして死を選ぶとは、どんな思いだったのだろうか。
 紛争地域から帰ってきて、「語る場」があっただろうか。その苦しさを受け止めてくれる人がどれだけいただろうか。
 日本の敗戦から69年。戦地に赴いた人の多くが、その悲惨さを語ることなしに生きた。バンザイと言って送られて、九死に一生を得ても、多くが「沈黙の家庭」で時代を見送った。地上戦となった沖縄では、被害者もまた語ることができない。あまりにも酷くて語れないのだ。
 人殺しを美化する輩は、決して、自ら犠牲を払うことはない。



この投稿があった頃と、シリアで日本人男性が拘束されたというニュースが同じ頃で、自衛隊のことを思いました。
もしも自衛隊がまた海外に行かされたら、拘束された男性のように、おそらく拘束される自衛隊員も出てくるだろうし、生きて帰ってきても、自ら命を絶つことを選ぶ人が出てくるかもしれない。

アメリカに同調ばかりする日本はアメリカの味方と思われるようになって、今まで中東で築いてきた日本に対する印象が変わってきていると聞きます。

アメリカの言いなりにはなるけれど、その他の国とは良好な関係を築こうとするどころか、反対に良好な関係を崩そうとばかりして、「積極的平和主義」なんてお題目のように唱えて、自衛隊を海外に派兵するようなことまで考えている人たち。

そんな人たちは、決して自ら犠牲を払うことはしない。
「私たちは国のことをまず第一に考えています」とか何とか言いながら。

| ひとりごと | 19:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「障がい」

昨日、『見えないものを―愛は損をすることです』という本を読みました。

福井見えないものを―愛は損をすることです
福井 達雨

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この本の著者は、福井達雨さんと言って、知的障がい者施設 止揚学園を設立し、今も知的障がいの人たちと生きている方で、日本の福祉の父と言われている3人のうちの一人。
こちらのブログでその止揚学園を訪問した時の様子が書かれています。ぜひ読んでみて下さい)
止揚学園のWEBサイトはこちら

この本の中で、このようなことが書かれていました。
よくテレビで「障害を克服して・・・」というような番組があるけれども、克服するという言葉から、克服するものは、何かよくないことのように感じる。

そんな感じのことが書かれていました。
知的障がい、発達障がいと言われるものがあります。「障がい」と今は言われていますが、でも、これらの「障がい」は克服するものでもないし、克服できないものだと思います。

それは、生まれつきの特性だから。

「障がい」という言葉がつくから、「何かよくないもの」と思われがちです。
でも、「何がよくない」のでしょう。

神様は神様自ら「よくない」ものを、人に与えはしない。

知的障がい、発達障がい・・・人に関わることに「障がい」という言葉を使って欲しくない。
言葉だけ変えても、何の解決にもならないのは分かっていますが、でも、「障がい」という言葉の持つインパクトは大きい。

先ほどのブログで福井達雨さんの言葉がいくつか紹介されていたのですが、この言葉がいいなって思いました。

「~~のために ではなく ~~とともに」

そう言えば、この夏休みに読んだ自閉症児のことを描いた漫画も『光とともに』で、「ともに」となっていたな。

軽度とは言え、発達障がいを持つ我が子たち。
「子どものために」という意識が強かったけれど、「子どもともに」、このことも忘れずに、意識していこうって思います。

| 発達障がい | 19:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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好きなんですよね

年齢を考えなさい!と言われそうですが、好きなだからしかたない。

子どもがテレビを見ていて、「外国人に聞いたアニメのあこがれのヒーローは?」というので、古代君が10位に入っていたと教えてくれました。

古代君、10位・・・喜んでいいのか、悲しむべきなのか。
でも、古代君はヒーローという言うそのものの意味では、少し違うかなって思うので、10位でもいいか。

古代君1
(しつこいですが、古代君pen1_16萌

で、その古代君なんですが、「なんとなく古代君と似ているんじゃやない?」と思う俳優さんを見つけました。
斎藤工さん。こんな人↓ (画像拝借・・・コチラから
斎藤工

つい2~3日前に知ったのですが、こういう雰囲気はタイプかな・・・って。
で、この「斎藤工」という名前を見て、息子が、
「あっ、この人、バトルシップヤマトに出ていたよ。加藤の役だったよ」
と一言。まさか、それはないでしょ。加藤君のイメージじゃないよって思い、一応調べたら、息子の言うとおりでした。

息子はバトルシップヤマトをDVDで2回観ただけなのに、ちょい役だった斎藤工さんのことまで覚えているなんて、その記憶力に改めて、凄いなって。

この斎藤工さんと古代君がなんとなく雰囲気が似ているなって思うのは私ぐらいかもしれませんね。
それにしても、この年齢になってまで、「古代君♡」とか「○○さんステキ」と言っているとは、思いもしませんでした。
でも、人って、年齢に関係なく、何歳になってもトキメキってきっとあるんですよね。
ああ、でもそう言ってられる私は、やはり一応は平穏な国に生きているんですね。

| ひとりごと | 20:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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