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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年10月

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いいな!

こういうの、いいな!

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| ひとりごと | 19:36 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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大切なのは根っこ

「上品と下品」と題して、なるほどって思うことを書いているブログがあります。こちらです。

教育について書いています。
この方、元教師なのですが、教師を辞めた後の人生が、もうとにかく凄い。その行動力は私には絶対まねできません。
どんな人生を歩まれたかは、こちらをどうぞ。

「上品と下品」から少しだけ転載します。

・礼や仁の気持ちが無い人間が知識を身に付けても、ロクなことに使わない

・人として基本的な挨拶や人助けの出来ない輩に知識を植え付けることは、狂人に刃物を持たせることと同義

・人間として一番格好わるいのは、身に付けた力を私利私欲の為に使うことです

そしてそういう人間は、一律で 下品、です


ちょっと厳しいって感じるかもしれませんが、でも、書いていることを読んでいると、そうだなって思います。
ここまではっきりと言わないと、勘違い、他人任せが闊歩して、大切なものが捨て去られていくのかもしれない。

そして、下品、上品というのがどういうことかについても書いていますが、なるほどって納得できるのでは。

そして、最後はこのように・・・

大切なのは、目に見える枝葉ではなく根っこ

我が子に
力強い根っこを与えることが
親としての愛情であると思います
それが人間としての品格を高める第一歩になる



力強い根っこ。このことについては、今その必要性を痛感しています。
それは私にとっては、やはり神への信仰であり、子ども達に絶対に持って欲しいものです。

先日知った動画。感動しました。

| 子育て・教育 | 20:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「トイレは貸しません。借りたい人はアマゾンで借りろ」

店じまい直前の大手チェーンの本屋が「トイレは貸しません。借りたい人はアマゾンで借りろ」って張り紙してたのはとても真理を突いていると思った。
とfacebookにありました。

本屋さんには行きますが、読みたい本を実際に手にとって見たり、何かいい本ないかなって本を探したりするけれど、実際に買うのは、ネットを通してが多いです。

だって、安く購入できるから・・・。

でも、やっぱり思うんです。
安さ、安さに群がって、結局は自分の首をしめることになるのだろうと。
でも、家計状態を考えると少しでも安いほうになびいてしまう。だから安さを求めるけど、だからなお家計も厳しくなっていく。
安く、少しでも安く。そうすると企業は収益があがらない。それは、給与にはね返ってくる。家計は厳しくなる。だからより安さを求めていく。・・・この悪循環。

安い所で物を買うのがよくない、というのではないのではありません。ただ、このままではよくないって思うのです。

昨日、経済学者の宇沢弘文さんが亡くなったと新聞に書かれていました。私は新聞記事を読んで初めて、この方のことを知りました。
「人間が人間らしく生きられる経済学」を唱え続けたと天声人語に書かれていました。

また、こんなことも。
「日本の狭い国土を広く使うには電車の速度を半分に落とせ」と主張したそうです。
二つの地域を高速で結べば途中の地域はすたれてしまう。
遅くすれば途中駅も人が降りて栄え、つまりは広く使えると。

とても便利な世の中になりましたが、すたれていっている地域、場所も確かにある。
時代の波だから仕方ないよ、で済ませている場合じゃないんですよね。
経済効率ばかりを追い求めていては、すたれゆく場所がどんどん増えていくような気がします。


東京新聞27日の「筆洗」にも宇沢氏について書かれていたようです。転載します。(記事元コチラ)

 国が子どもたちへの金融教育に力を入れ始めたころ、時の日銀総裁が講演で、こんなことを話した。「自分の持っている大切なものを手放してお金に換えても、そのお金は価値をきちんと保全し、次に必要なものを手に入れる時に役立ってくれる」

 先日、八十六歳で逝去した経済学者・宇沢弘文さんはその言葉に怒りを感じたそうだ。「大切なものは決してお金に換えてはいけない。人生で一番大きな悲劇は、大切なものを国家権力に奪い取られたり、あるいは追い詰められてお金に換えなければならなくなった時です」

 宇沢さんは十七歳で終戦を迎えた。貧困と失業、経済混乱に苦しむ人々の姿を見て経済学の道を歩み始めた。もともとは医師志望。「経済学は社会を癒やす学問」と考えてのことだ

 数理経済学でノーベル経済学賞候補に挙げられるほどの成果を挙げた頭脳は、社会・経済の病理に苦しむ人に向けられた。その深い洞察力が認められ、ローマ法王の助言役を務めたこともある

 生活の糧の海を大企業の利益のため汚され、健康と命を「換金」させられた水俣の人々や、国策による開発で先祖伝来の地を「換金」させられた人々…。そういう人たちの心が救われるまで「日本経済の貧困は解決できない」と言っていたそうだ

 経済とは、経世済民。世をおさめ、民をすくう。言葉の本来の意味の経済学者だった。


「大切なものは決してお金に換えてはいけない。」
当たり前のことだと思うけど、言われないと、気づかず、大切なものをお金に換えてしまう愚行を繰り返していってしまうのかな。

| 新聞記事 | 20:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日本の貧困

「母子家庭」「20代前半男性」「子ども」に際立つ日本の貧困 (記事コチラ)

日本の貧困化が、思っている以上に深刻になっています。
ひとり親世帯の貧困率はOECD諸国の中で最悪。
貧困率はOECD諸国で4番目に高い貧困率。(記事コチラ)
そして、先進7カ国中、日本だけ給与水準が下がっています。(記事コチラ)

それだけ、企業が搾取していると言うことなのですよね。

すぐに解決のできる問題ではないと思うのですが、切に願うのは、誰かが書いていましたが、本人の努力だけではどうにもならない環境を子供に与えないで、ということ。

| 世の中のこと | 20:04 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「徴兵制のリアリティを日本の若者に感じて欲しい」

"徴兵制のリアリティを日本の若者に感じて欲しい"〜兵役を拒否し亡命中のイ・イェダ氏が会見

このイ・イェダ氏は言います。
「徴兵制とは、兵士になり、人を殺すように訓練されることです。これは僕の良心と信念に矛盾するものです。 」

軍隊は、国を守るために必要、って言いますが、守るよりも攻め、命を奪うことのほうが大部分を占めるのではないでしょうか。
本音は、戦争をしたいから、軍隊が必要なだけなんですよね。

徴兵制。こんな制度が認められること自体がおかしい。人の命を奪う人間を養成する制度なんて。

そのうち、「戦争に行くのが国民の義務」なんてそのうち言われるようになるのかもしれない。そして、それは、「人の命を奪いにいくのが国民の義務」なんてことと同じ。

結局、徴兵制なんていうのも、人間をモノとしてしか見ていないから、できることなんだと思う。
どうして、こんなことになってしまっているのか。神を認めていないからではないか。

 神なくしては人間の尊厳を口にすることはできません。人間性の尊厳は、神によって与えられたものです。もし人間が無意味の過程、すなわち進化の産物であると説かれるとしたら、どうしてそこに人間の尊厳がありえるでしょうか。無神論者は神なくして、なおそれを尊重しようとします。しかしこれは関連性を失ったものの見方です。神なくしては、人間はたかだか高度に進化した「猿」に過ぎません。しかし、高度に進化した「猿」に人間性を見出す事は困難です。・・・では、どこに人間性の尊厳が認められるのでしょうか。

 無神論者の結果するところ、人権の蹂躙となり、国家は人間に対して何でも欲することを平気で行うようになります。今日においては、人権の蹂躙は全体主義国家と同義に解しておそらく誤りはないでしょう。これは戦前および戦時中に日本が親しく経験したところであり、欧州においてはヒットラーのもと、また共産主義の下に行われたし、今なお行われているのです。このような状況の下では、人権は無視され、責任の所在はなくなります。「愚かな者」の生み出すものは、まずこのようなものであり、社会を破壊する故にはなはだ剣呑であると言わなければなりません。

 この「愚かしさ」はどこから来たのでしょうか。・・・「心のうちに神はないと言う」ときに、です。この点に関して正直だった人は、他ならぬニーチェでした。もし神が存在すれば、彼は頭がつかえて自分が「神」として振る舞えない。だから神は存在してはならないのです。・・・・・・彼は自分が神たらんと欲したのです。そして、これこそが無神論者の起源を指摘する聖書の答えなのです。神より高くなりたい。権威に服従したくない。自己が最高のものになりたい。自己が絶対に権威を持ちたい。すなわち神になりたい。そして、人間のこの願望はまず国家の形態において実現しました。すなわち全体主義国家です。
(byエーミル・ブルンナー)

| ひとりごと | 19:18 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「清水の舞台から飛び降りる」勇気

昨日の朝日新聞に<「高4」の私 充実しています>との女子高生の投稿が掲載されていました。

彼女は中学の時にいじめが原因で不登校となり、フリースクールに中学卒業まで通った。
その後、高校に進学したが、3日間した登校できず、退学も考えた。でも、その高校が好きだから、休学の道を選び、休学中は今しかできないことをしようと、不登校などで悩む少年少女らを支援する施設に通った。
そして、翌年の4月から高校一年に復学し、今「高校4年生」です、と。

回り道をしたけれど、精神的に強くなることができたと書いています。そして、次のように結んでいました。

人生は一本道ではない。今、悩んでいる人、迷っている人、決断できずにいる人は「清水の舞台」から飛び降りる勇気を持って下さい。きっと人生が開けてきますから。


これを読んで思ったのは、「清水の舞台から飛び降りる」勇気を持つ必要があるのは、大人も同じ。いや、大人の方がよりその必要があるのではないかって。

大人の方がより、世の中の「当たり前」と思われていることに縛られて、そこから身動きできないでいる。
義務教育は9年間で終了し、高校は3年間、その後、そのまま大学や専門学校に行くか、社会に出て働くという道筋から外れてはいけないと考える。

だから、子どもが立ち止まりたくなっても、「この道からそれてはだめ。回り道しないで、真っ直ぐに行かないとだめ。」と、子どもが立ち止まることを許さない。
そうなってしまうのは、他のみんなと同じ道筋にのらないと、将来困るからというのが、一番の原因でしょう。

私も「将来のために」と子どもにどれだけ言ってきました。そして、そのことに何の疑問も持っていませんでした。
でも、前回の記事に頂いたコメントを読んで、「未来」ばかり優先して子どもの「いま」を大切にしていなかった自分に気づかされました。

今日の朝日新聞に養老孟司さんと上橋菜穂子さんの対談が掲載されていたのですが、そこで養老孟司さんが、その頂いたコメントと同じようなことを仰っていました。

現代の日本では子どもが簡単に亡くならなくなった分、「早く大人になれ」「将来のためにこれをやれ」と大切な子ども時代を犠牲にしています。本来、子どもは子どもであることそのものに価値がある。

大切な子ども時代を犠牲にしないために、関わる大人こそ「清水の舞台から飛び降りる」覚悟が勇気が必要なのでしょうね。


この対談記事で、初めて上橋菜穂子さんを知ったのですが、彼女の本はかなり多くの人に読まれているのですね。
読みたくなりました。今日最新作『鹿の王』が発売されたようですね。PVを見たら、ますます読みたくなりました。



『鹿の王』特設サイト

| ひとりごと | 19:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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教育って何?

教育って何なのでしょう。

何度か書いてきていますが、私には子どもが二人いて、二人とも軽度ですが発達障がいを抱えています。
アスペルガー症候群、高機能自閉症("高機能"とありますが、これは知能指数が75以上であるというだけのこと)という言葉を耳にされた方は多いと思います。


6月の終わり頃に長男がちょっと問題を起こしてしまいました。
詳しくは書けませんが、女の子の後をつけてみたり、女の子を触ろうとしたり(でも反撃をくらいました)。
その後、長男一人で登下校させないで下さいと学校から言われ、夏休みに入るまでは、弟が同じクラブと言うこともあって、登下校は弟と常に一緒でした。

でも、9月になって、長男はクラブも終わったので、一人で帰ってくるようになりました。
すると、先日、授業通の長男が少しハイのような感じなので、大丈夫ですか?という電話が学校からあり、そのついでに、最近は長男が一人で登下校しているようだけど、当の女子生徒からしたら恐いと思うので、なんとかならないか、というように言われました。

長男が授業中にハイのような感じというのは、みんなが本を黙読している時に、読んでいる箇所が面白いのかもしれないけれど、静かな中、一人声を出して笑ってみたり、友だちの発言に突っ込んで見たりしていると。

だから、そんなハイ状態の長男が一人で登下校なんて危ないでしょ、と。

この言われ方に、私は正直な所、カチンときました。
確かに長男が起こした問題は、長男に非があります。でも、学校できつく叱られ、家でも私はきちんと息子に話したつもりです。長男も自分のしたことがどういうことか、理解できたと思っています。
学校側の心配も分かりますが、でも、今なお、一人で登下校させるなんて・・・と言われても。
それに、長男に常に誰かがつきそって登下校することが問題解決になるとでも言うのか。

終わった話はぶり返したくはありませんが、今年の2月頃にだったでしょうか、長男がクラスの女の子に、授業中にカッターナイフを突きつけられたことがあります。それも1度ではなく、2~3度。
その時、相手の女の子は親や先生にきびしく叱責を受け、反省しているということで、それでしたら、学校側の対応を信頼して、もういいです、としました。
だから、学年が変わるまで、長男はその女子生徒と同じクラスの中で過ごしました。

長男が起こした問題と、カッターナイフ事件は違います。そのことは分かっていますが、でも、長男の場合は、3ヶ月ほど経った今でも言われ続けるけど、その女子生徒については、学校側からの事情説明だけで終わりです。

考えすぎかもしれないですが、やはり長男のことを見る時に、「障がいをもっているから」という目でまず見ているのではないかって思ってしまいます。卑屈すぎるかもしれませんが・・・。


次男については、勉強が嫌いというのか、面倒なことが嫌いなので、「これは難しそう」って思ってしまうと、すぐに拒否してしまいます。
そして、9月に入ってから、支援学級で勉強する時に、机の下に潜り込んで出てこないという状態が続いたそうです。
そして、「分からないよ~」「できないよ~」って甲高い声で呟き続ける。その声のトーンに我慢できない上級生と、ついに先日トラブルになってしまったようです。

そういう連絡を受けた時に、「そこまで勉強が嫌いならば、○○中学校(今行っている中学)はやめて、支援学校に行く?という話もしています」と先生に伝えました。すると、先生は「○○君(次男)は、支援中学校に行くのは、やはり嫌なんですか?」と言われました。

その言葉に、私が切り出したとは言え、やはりショックでした。

で、考えたんです。学校って何なのだろうって。特に義務教育における学校って。
学校っていうのは、勉強するところで、それが嫌なら、できないなら、それが許される学校に行けばいい、という思いがある、というのがあるんだなって、先生とのやりとりを通して感じました。

でも、学校って、勉強するだけのところなのでしょうか。


少なくとも義務教育の学校にあっては、いろいろと異なる境遇、さまざまな資質や能力をもった子どもたち全部に入学を義務づけているのですから、学校はさまざまに異なる能力資質をもつ子がみんな平等に学ぶ場になっていなければならないのです。学校をそういう教育の場にすることに対して学校が本気で責任を持とうとしないで、ただ、名の聞えている高校に何名入れた、いわゆる名門の大学に何人入れたというようなことを競い合う状態に学校が堕してしまっている。それが学校の空洞化で、学校が教育の場でなくなってしまっている。

人間すべての内部に生命力、成長する力、自分を変える力があって、そういう力が備わっていることを信じなければ、教育は可能にならないし、この力を信じないで人を思うように変えることができると考えるとき、教育は調教によってすりかえられる。

いまの学校の教育というものは、一定のことを教えて、それをどれだけ覚えているかということによって、その子どもの学校内おける位置が決まってしまう。それに人生の幸、不幸もかかっているかのような思い込みがある。これがほんとうに恐ろしいことだと思います。
(中略)
学校は、人間が持っている、評価を絶した、かけがえのない資質を探って、何としてでもそれを引き出す、掘り起こす仕事をするところなのです。



これらは、林竹二さんの言葉ですが、林竹二さんが指摘するように、学校はその本来の目的を忘れてしまっているような気がします。
教えやすい子どもたちだけを教えるのならば、誰にだってできます。

確かに私の次男は、勉強に関してはかなり手強いです。親の私でも、次男との勉強に関しては時々投げ出したくなります。
でも、親や教師は、教育に携わる者は、投げ出してはいけなと思うんです。
教師にそんなゆとりはないのかもしれないけれど、そのツケは全部子どもにいってしまうんです。


脈絡なく、思うままに書いてしまいましたが、学校の目指すものは何? 教師が目指すものは何? ということを考えさせられました。

最後に灰谷健次郎さんと林竹二さんのこの言葉を。

子どもに学ぶということの根本には、子どもを信頼することが不可欠。そして子どもを信頼する心は、子どもと共に歩む中で生まれてくるもので、共に行動し、共に創り出すものである。
とりあえず子どもを信頼しておこうなどという横着な考えは通用しない。
その道程では、いくたびも子どもに自分自身を打ち砕かれるだろうし、無力感にさいなまれることもある。それでも共に歩みつづけなければならないのだ。その苦しさに負けた者が、子どもを口先で変えようとしたり、子どもに命令したりするようになるのである。(灰谷健次郎)


生命への畏敬の欠けたところに教育はない。(林竹二)

| 子育て・教育 | 15:51 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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♪手をつなごう

「手をつなごう」・・・いい歌です。口ずさみやすいメロディー。
「愛と平和の祈りの歌を作ってほしい」という依頼を受けて、水木翔子さんが作詞/作曲されたそうです。



この歌の歌詞のように、この地球が愛で包まれたらいいのに。

何度も引用していますが、『平和の種をまく』より、また引用します。

ふつうの人たちは、誰も戦争なんかしたくありませんでした。
なのに、気がついたら、戦争が始まっていたのです。
そんなことにならないためには、いったいどうしたらいいのでしょうか。

答の一つは、集団ではなく、ひとりひとりの個人を見ることでしょう。
所属する集団に関係なく、人間どうしとして交流することです。


ひとりひとりの個人を見ること、人間どうしとして交流する。
手をつないで、その人のぬくもりを感じて、この地球を愛で抱えることができたら、いいな。

(歌詞)
世界のどこかで今も沢山の人が
見えない敵におびえて暮らしているよ
それは時に自分の心にひそんで
いにしえ人のあやまちくり返す
 無駄な争いはもう二度としないと
 誓った国で生まれた私たち
 資源を奪いあわずに与え合えたら
 太陽も輝くよ境界線越え
手をつなごう 手をつなごう みんなで輪になって
まるい まるい この地球を愛で抱えよう

憎しみ捨てることから始まる幸せ
必ず教えてくれる空が大地が
地雷の代わりに花の種を植えたなら
涙もいえて平和の実がなるよ
 無駄な争いはもう二度としないと
 誓った国で生まれた私たち
 兵器や武器じゃ命は守れないことを
 伝えてくことこそが本当の勇気
手をつなごう 手をつなごう ほほえみの水まき
青い 青い この地球に愛を咲かせよう

 無駄な争いはもう二度としないと
 誓った国で生まれた私たち
 忘れていないからこそ歩いてゆける
 赦しあい 認め合い力を合わせて
手をつなごう 手をつなごう オゾンの屋根の下
こわれそうなこの地球を愛で支えよう

手をつなごう 手をつなごう みんなで輪になって
まるい まるい この地球を愛で抱えよう

手をつなごう 手をつなごう みんなで輪になって
まるい まるい この地球を愛で抱えよう

| 心に響いた言葉 | 19:31 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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素朴な「感謝」が支えるもの

「素朴な『感謝』がファシズムを支えるとき」(想田和弘)

向井理がブログに
 「必死になって日本の行く末を案じながら散っていった人達のことを考えると感謝の気持ちで一杯です。」
と書いていたそうです。それについて、想田氏は、

「英霊」に感謝するとき、いったい何に対して感謝しているのか、つきつめて考えたことが一度でもあるのであろうか?

と問うています。・・・きっとないだろうな。

特攻隊員として死んでいった人のことを耳にすると、向井理のように思う人は多いのでしょうか。

想田氏は「戦死者に対して素直に単純に『感謝』することなど、断じてできない。」と書いていますが、私も「感謝」という思いには至りません。「かわいそう」「気の毒だった」とそのような思いはありますが、感謝の念はわいてきません。

こんなふうに書くと、「そんな、酷い」って感じる人もいらっしゃるかもしれませが・・・。
想田氏が書かれているように、「彼らを無駄に死なせた人たちの責任を問うべき」なのに、そういうことに「感謝」してしまうと、そこで全てがストップしてしまうと思うのです。

だから、「英霊を祀る」だとか言って、靖国を作り、自分たちの責任問題から目を反らせる。
靖国って、そういう意味もあるのでしょうね。

「彼らの死を美化するのではなく惜しみ、同じことを繰り返さないと誓うことではないのか…。」とのコメントがありましたが、同じように思います。


他に、こんなコメントもありました。

「戦争はそもそも駄目なんじゃないの、特攻なんて戦争犯罪に参加したってことなんじゃないの、それだけでしょ」
「いや、彼らも戦争はしたくなかったんだよ。でも、そうするしかなかったんだ。そうするしかないって状況で何かのためにそれを成すことができるのは勇気のあることだよ」
そういう会話が少し前にあった。僕はため息をついたものだ。『そうせざるを得ない状況』という免罪符の恐ろしさと言ったら。
・・・
彼らは痛みから逃げているのだ。自分自身の痛みから。


<『そうせざるを得ない状況』という免罪符の恐ろしさ>
この言葉にはっとさせられました。

「そうせざるを得ないから」という言葉のもと、どれだけの妥協が繰り返されてきたことか。

本当にそうせざるを得ないのか、他に選択肢はないのか、どれだけ考え抜いたのか。
特攻なんて、生半可な覚悟でできるものではないと思いますが、でも、それを感謝したり美化したりすることは私にはできません。



また、こんなコメントも。

戦争=特攻 兵隊=国の礎→感謝
と考えさせられる者と
美輪さんのように
戦争=大量殺人 兵隊=殺し屋→戦争を放棄する。
この二つの間には、対話が成り立つのだろうかと心底不安になります。
「共感」を伴う物語vs「恐怖」を伴う物語の伝播力の戦いだと思います。
しかし、未だかつて、美しかった戦争など存在しなかったこと、兵隊は決して庶民を守らない。
彼らは自分と権力を守る為に、進んで庶民を銃弾の盾とする。
「戦争」を「恐怖」「嫌悪」としてもう一度認識してもらはなくてはいけないのだが



「戦争」を「恐怖」「嫌悪」としてもう一度認識してもらはなくてはいけない・・・なのに、今、戦争を当然の権利のように叫ぶ人たちが権力を握っている。

そうではない。戦争はどんな理由があっても絶対に起こしてはいけない。支持してはいけない。「仕方ないんだよ。他にどうしようもないんだよ」と妥協してはいけない。
そのことを、子ども達に絶対に伝えていかなくてはいけない。


この想田氏、アベのコピペ演説について、次のように書いていたのですが、読んでゾッとしました。
なぜ、広島で指摘されたにも関わらず、長崎でも同じようにコピペ演説をしたか・・・。


周知の通り、安倍氏は日中戦争や太平洋戦争で日本が重大な過ちを犯したとは、認めたがらない人である。侵略戦争ではなく、自衛のための正しい戦争だったと主張したがっている。

 ならば安倍氏が日本の過去の過ちを正当化するために、次に行おうとするのは何か?

 もう一度同じ過ちを犯すこと、以外にないのではないだろうか。

 もし、首相が集団的自衛権の行使にあれほど熱心な理由がそこにあるのだとしたら、これほどおぞましく、恐ろしいことはない。



黙り込んでいては、絶対にだめなんです。反対なら、声をあげなくては。「何も変わらないから」なんてあきらめてしまうことはしたくない。

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| 世の中のこと | 18:36 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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いい加減、目覚めなさい!

10年ほど前でしょうか、天海祐希主演の「女王の教室」というドラマがありました。
このドラマには天海祐希が演じる阿久津真矢という教師のあり方に大きな反響がありました。

このドラマは、鬼教師と小学6年生の子どもたちとの闘い(?)を描いています。
始業式当日には「時間が無駄になる」と理由で出なかったり、テストの成績が悪い子どもや、真矢に楯突いた子どもに、「代表委員」と称して雑用係を務めさせたりするなど酷いもの。

真矢の真意を知らないうちは、なんと酷いことをって思うのですが、彼女の本当の狙いを子ども達が徐々に気づいていくように、見ている私も最後の方になって、やっとその真意が分かりました。

これから生きていく長い人生の途上、様々な困難にぶつかっていく。困難にぶつかった時に、どうするか。目の前に立ちはだかる大きな壁をどう乗り越えるのか。その力を身につけさせたい、というのが真矢の思いであった。

同僚の教師の台詞にそれは、表れています。
「阿久津先生は、自ら大きな壁になって、自分を乗り越えろと言いたかったんですよ。壁にぶつかったことのない子供は、挫折に弱いし、今は大人が壁になっていないから、子供がなめるんだし。」

そんな真矢の言葉をネットから拾ってみました。

いい加減目覚めなさい。まだそんなこともわからないの?
勉強はしなきゃいけないものではありません。「したい」と思うものです。
これからあなた達は、知らないものや、理解できないものにたくさん出会います。
美しいなとか、楽しいなとか、不思議だなと思うものにもたくさん出会います。
そのとき、もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから人間なんです。
好奇心や、探究心のない人間は人間じゃありません。
自分達の生きているこの世界のことを知ろうとしなくて、何が出来ると言うんですか?
いくら勉強したって、生きている限り、わからないことはいっぱいあります。
世の中には、何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが、あんなもの嘘っぱちです。
・・・
好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。
勉強は、受験の為にするのではありません。立派な大人になる為にするんです。


いい加減目覚めなさい。人生に不安があるのは当たり前です。
大事なのは、そのせいで自信を失ったり、根も葉もない噂に乗ったり、人を傷つけたりしないことです。
・・・
わからない物を、わかったような顔をして、無理に納得する必要なんかないんです。
それよりも、今をもっと見つめなさい。
イメージできる?
私達の周りには、美しいものがいっぱいあふれているの。
夜空には無数の星が輝いているし、すぐそばには、小さな蝶が、懸命に飛んでいるかもしれない。
街に出れば、初めて耳にするような音楽が流れていたり、素敵な人に出会えるかもしれない。
普段何気なく見ている景色の中にも、時の移り変わりで、はっと驚くようなことがいっぱいあるんです。
そういう大切なものを、しっかり目を開いて見なさい。耳を澄まして聞きなさい。
全身で、感じなさい。それが生きているということです。


中学に行っても、高校に行っても、今しか出来ないことはいっぱいあるんです。
それをちゃんとやらずに、将来のことばかり気にするのはやめなさい。
そんなことばかりしていると、いつまでたっても、何にも、気づいたりしません。



で、どうして、急にこの「女王の教室」のことを書いたかというと、facebookで真矢のこんな言葉を目にしたからです。

いい加減、目覚めなさい。
日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる?
今のままずーっとおろかでいてくれればいいの。世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくればいいの。



このドラマを見ていたのですが、この台詞には全く覚えがないので、全然心に残らなかったのでしょう。多分、そんなはずはない、って思って・・・。

でも、今はその通りだと思う・・・。

ほんと、いい加減、目覚めなさい!

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