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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年11月

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三浦光世さん

三浦光世さんが敗血症のため逝去されたとのニュース。(こちら)
とても悲しいです。

三浦光世さんは、三浦綾子さんのご主人で、病気がちだった綾子さんの文筆活動を支えられました。
綾子さんが本に何度も言及された光世さんは、本当に素適です。
三浦光世さんがクリスマスの時期に四国でメッセージをされた時に、話を聞いたことがあります。
そして、その時に光世さんが書かれた本を購入し、目の前でサインを頂きました。

その時、まだ小さかった子供を連れて行きました。サインを頂く時に、ちょっとぐずっていた子供を、すっごく優しい眼差しで見た、光世さんの表情は今でもうっすらと覚えています。


三浦綾子さんは光世さんと出会う前に、前川正さんというクリスチャン男性と交際をしていました。
でも、その方は結核のため亡くなりました。
それから1年後に、ふとしたことがきっかけで三浦光世さんと会いました。
光世さんは前川さんとそっくりで、綾子さんはとても驚きました。お二人の写真を見たのですが、本当にそっくりでした。

光世さんはある方に頼まれて綾子さんを見舞っただけなのですが、前川正さんが亡くなった時に綾子さんが書いた歌に、深く心を打たれたそうです。この歌をみるまで、女性の真実を信じることができなかった、この歌が自分の女性観を変えてくれたと。

こんな詩です。

妻の如く想ふと吾を抱きくれし君よ君よ還り来よ天の国より

一人の男性を真実に愛した綾子さんの愛の故に、光世さんもまた綾子さんへの心を深めた。
そのうち、結婚という話が出て来た時に、綾子さんは光世さんに、前川正さんのことを忘れられそうにありません、と伝えました。
光世さんは綾子さんに、次のように答えました。

「あなたが正さんのことを忘れないということが大事なのです。あの人のことを忘れてはいけません。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのです。わたしたちは前川さんによって結ばれたのです。前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」


三浦綾子さんが自身の青春時代を書いた自伝『道ありき』。
ここには、前川正さんとの出会いから、その氏、そして光世さんと出会い、結婚するまでのことが書かれていました。
何度も読み返した本ですが、今もう一度読みたくなりました。

この本を初めて読んだのは、大学生の時でした。
その時、前川正さん、そして三浦光世さんという人を知って、「こんな人がこの世にいたなんて」とただただ感動し、当時お付き合いをしていた男性が、小さく小さく見えました。


前川正さんが自分の死を予期して、綾子さんに書いた遺書の一部を転載します。

綾ちゃん
お互に、精一杯の誠実な友情で交わって来れたことを、心から感謝します。
綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。
綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。
万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんよね!
一度申したこと、繰返すことは控えていましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自由な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。・・・・



相手に対する、なんと深い思いでしょうか。
そして、そんな前川さんのことを忘れてはいけないと言う光世さんも、また綾子さんを深く愛されていたのだと思います。

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| 今日の出来事 | 16:46 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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エドワード・サイード

最近、エドワード・サイードの本を続けて読んでいます。
サイードがどういう人物だったか、詳しくはこちらを・・・
簡単に言ってしまえば、パレスチナ系アメリカ人で、クリスチャン。パレスチナ人の権利を擁護し続ける一方、アメリカやイスラエルの政策を批判。

『ペンと剣』を昨日、読み終えました。対談が本となったもので、サイードの考え方をとても分かりやすく知ることのできる一冊ではないかと思います。

その中で、あの言葉にまた出逢いました。
自分の知性は悲観的だた、意志は楽観的だ」とのグラムシの言葉。
(このグラムシという人は、その主張故に、ムッソリーニの時代に捕らえられ、獄中生活を送る。釈放直後に死亡)

このグラムシの言葉について、次のように語っていました。

単純に「状況は悪い。だがくよくよしないで前進しよう」とは言えない。
「状況は悪い。ゆえにそれを知的に分析し、その分析を踏まえたうえで、状況を変えたいという願望や可能性を信じて前向きに新たな動きを構築していこう」と言うのでなければならない。


最初の一歩を踏み出せばやがてすべてが変わると言うのは、無責任で、意志に基づく楽観論などというものではない。魔術的な思考である。とも述べています。

教えられました。私の場合、おそらくサイードが批判する「無責任で、意志に基づく楽観論などというものではない」ものだったと思います。


また、この本の中で「知識人」についても簡単に言及していました。
権力の誘惑、威信を持つ喜び、対話の欠如、こういうものは、知識人なら拒否しなければならないもののはずです。

サイードの言う「知識人」を思った時、一番先に思い浮かんだのが小出裕章さんです。

| 本・その他 | 17:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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それが民意?

facebookの投稿より、山崎マキコさんという人を知りました。
彼女は栃木に住んでいましたが、原発事故後に高知へ避難。その山崎さんのエッセイの最終回を読みました。
今から2年程前に書かれたものです。
書き留めておきたいので、全文転載します。長いです・・・。(記事元はコチラ)



山崎マキコの時事音痴(最終回 2012.06.27) 「それでは皆様、さようなら」

もう終わりにしよう。
叙情に流れっぱなしの、このエッセイにも、そろそろ終止符を打とう。
栃木で最後に言えることは、わたしは人の命を金で買ったということだ。
 
夫は集落の人にさんざん罵倒されたあと、無言で草を刈っていた。
怖かった。
夫と地面の距離が怖かった。
さんざんフォールアウトした土地の土ぼこりを、夫に吸わせるのが怖かった。
日没を待って、それとはないそぶりで声をかけた。
「疲れたでしょう?
それにね、栃木に滞在していられる時間はもう残り少ないでしょう?
不動産屋を巡るとか、荷物を処分するとか、色々あるし。
そっちが優先事項じゃないかと思うんだなあ。
産廃の人にはどうしても頼らなくちゃならないから、その人たちにお願いしようよ」
 
我ながらとても、薄気味が悪い。
自分の、優しさを装った声が、気味がわるい。
だれが知らなくとも、わたしだけは自分自身に騙されない。
人の良い夫は、わたしに容易く騙された。
本音を言ったら、この人はむしろ引かない。
それと同時に、原発の構造自体を、自分のなかの醜さを通して理解した。
 
人の命を、金で買う。
経済が、経済がと言いながら、人の命を金で買う。
翌日には産廃業者がやってきて、国の基準値が甘くなったので、雑草も燃やせますと嬉しそうに胸を張った。
もっとも効果的な方法なのだ、燃やすというのは、放射性物質を拡散させる手立てとして。
現在進行している瓦礫の受け入れと焼却。
それが、放射性物質をばら撒く、もっとも効果的な手段なのだ。

わたしたちに草を枯れと迫った集落の人たちは、この枯れ草を燃やしたら、自分たちの身になにが降りかかるのかを知っているのか。
そしてこの産廃業者の人たちは、わたしの代わりに被曝する。
金を握らされて、被曝する。
かき集められた枯れ草は、燃やされて拡散する。
わたしが夫を連れて高知に逃げたあとに、すべての事態は進行する。
 
なるほどなあと、淡々と思った。
ああ、わたしはこんなに醜悪な人間なのかと。
それを認めると、世間の輪郭が妙にクリアに見えてきた。
わたしはわたし自身を善人だと思い込みたいがために、これまで歪んだ鏡で自分を写し、それを基準にして世間に当てはめていたから、輪郭がクリアにならなかったのだ。
輪郭がクリアになれば、物事はとてもシンプルになる。
 
バイスタンダー効果を理解してみればいい。
線量に閾値があるのかないのかなんてくだらない論争は、一発で終止符を打つ。
科学は為政者の都合で、平気で嘘をつく。
 
線量は、蓄積する。
確実に。
 
水俣病の被害者たちの過去に学んでみればいい。
まったく今と同じ構造だ。
念のため過去最大の公害病を振り返ってみよう。
わたしは我が目を疑ったのだが、皆さんはどうだろう。
あまりの類似性に、いまの事態が予言されていたのではと思うほどである。
 
最初の公式患者は5歳の女児だった。
よだれ・嘔吐・歩行障害・言語障害・痙攣。
1953年12月頃からこうした症状に苦しみ、59年に死亡する。
 
熊本大学水俣病研究班は、調査・研究の結果、相次ぐこうした不審死の原因物質は、有機水銀だと特定するに至る。
すると次にどうなったか?
清浦雷作・東京工業大学教授が「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は「腐敗アミン説」を発表する。
「患者は腐った魚を食べた」
 
そういうことにさせられたのだ。  
結局、1956年に公式に患者が“発見”されてから、チッソ水俣工場から流出したメチル水銀化合物が原因だという政府の公式見解が出るまでに12年、
裁判で元社長らの業務上過失致死罪が確定するまでに32年かかった。  
その間、有機水銀説を認めず、チッソに有利な説を唱えていた学者たちの責任が問われることはなかった。
そして最高裁が国と県の責任を認めたのは、手を汚した人間たちが「おはかに避難」したあとの2004年。
患者の“発見”から48年後だった。
 
為政者はこうして、そしてそれにおもねる「学者」たちは自分たちの利益のために、いけしゃあしゃあと嘘をつく。
今回の原発も、50年たてば誰の言っていることが正しかったかわかるだろう。
 
この国は原発推進派の「真っ赤なデマ」は批判しないのに、反原発派の誤りを重箱の隅をつつくように探す。
そして「不安を煽った」として、糾弾するのだ。
 
どうしてか知っているか。
わたし自身は気づいているが、自分自身でその理由に気づいているか。
 
わたしは長らく不思議だった。
どうして「愛国者」を自称する人たちが、「経済が」と言いながら、おのれの子孫を喰らうような真似をするのかが。
いわゆる「核のごみ」の処理は、「自分たちでするのは危険だ」という理由で、子孫につけを押し付けたものだ。
そんな方法がないことなんて、薄々気づいていたはずなのに。
 
理由は単純だ。
彼らの本音は、単純だ。
「お上に逆らうな」。
愛国者の化けの皮を剥げば、「お上には逆らうな」という、唾棄すべきへつらいがあるだけだ。
五人組制度と隣組制度の卑しい性根を残したまま「愛国者」たちは言う。
「放射能は安全だとお上が言っている」
「お上に逆らうのは、非国民である」
戦時中とどこが違うのだ? 
「一億総玉砕とお上が言っている」
「死なない者は非国民である」
そして生き残ったあとはこう言うのだ。
「戦争はいかんですよ!」。
 
なぜ、言わない?
「お上に逆らわなかったわたしたちが悪いですよ」
「そうなんです、相互監視しあってました」。
「お上に逆らった奴は、率先して密告してました」
 
なぜ、言わない?
「お上に従えば、身の安全は保障されると思ったんです」
「だから“愛国者”じゃない人間は、一致団結して虐殺してまわりました。侮辱と汚名をかぶせて、殺しました」
「いちばんこの国でえらいのは、お上です。つまり役人だと思います」
「わたしたちもはやく、役人になりたーい」

なぜ、ごまかす?
「わたしたちは、“騙された”」

違う、民意だ。
すべて、民意だ。
周囲の顔色をおもんぱかり、風潮に必死に乗り、若者を特攻機に載せ、死ぬために死ねと命じて、卑怯に生き残り、そして言う。
「戦争は悲しみしか生みません」
今度はこう言っている。
「放射線は安全だ」
「瓦礫も安全安心だ」
「なぜなら、お上がそう言っているから」
こうして必死に「風評被害」という新たな風潮に乗り、「被災者のため」という名目のもとに瓦礫を我先にと引き受け、
そしてその瓦礫の処分の費用が被災地の自治体の借金となって残るのも無視して、「これが被災地のため」と、美辞麗句にのみ浸る。
さらに相互監視して、「避難」という自主的な行為に及んだ人間を、「非国民」としてなぶり殺しにしようとするのだ。
精神的に。

「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。
「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」

わたしには反論する術がない。
そう、民意だ。
すべて、民意だ。
歴史は、選択と選択の連続だ。
 
ここに言おう。
この国の成人は、これからおのれの身にどれだけの重篤な健康被害が現れようと、決して、「騙された」などとは口にしてはならない、と。
騙された、ふりをした。
騙された、ふりをすれば、自分自身に受ける被害よりも、貰えるおこぼれのほうが多いと判断したからこそ、騙されてみた。
そこにはそろばん勘定がある、と。

「知らなかった」。
これも、口に、するな。
怠惰もまた、選択のひとつだ。
自国の原発が爆発したというのに、必死に目を背けて、AKB48の選挙に熱中することを、「選んだ」のだ。
 
そう、あなたたちは薄々気づいている。
この国の行動の異様さに。
封じ込められた核汚染物質が、なぜ拡散されようとしているのかに。
その裏にある権力の強大さを、ひしひしと感じているから、必死におもねって、自分だけは生き残ろうと利己的になる。
健康被害にしてもそうだ。
「子供たちに重篤な健康被害がでようが、おのれの世代は癌になる確率が少しあがるだけ」。
そう思えるから、平気で子供たちに、高線量の被曝を強いる。
声なきものから死んでいくのを、よくよく承知しているからだ。

わたしは昨日、NHKのドキュメンタリー番組を見ていた。
11年前、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教にまつわる番組だった。
番組では、ナレーターがこう語っていた。
「命じられるままに、無差別テロを引き起こしていった若者たち」
 
オウム真理教には、高学歴の幹部たちが多かったのも、世間を驚かせた。
なぜ、高学歴の若者が、安易に「洗脳された」のかと。
違う、逆なのだ。
安易に「洗脳される」からこそ、高学歴なのだ。
彼らは、洗脳してくれる存在を求めている。
そしてその命令を、おのれの能力によって実行して、幹部という名誉で「称えられる」ことを欲している。
オウム真理教が霞ヶ関を狙ったのも、偶然ではないのだ。
必然だ。
なぜなら、彼らは、高学歴の人間から一定の割合で発生する、悪性腫瘍であるからだ。
霞ヶ関の人間は、自分たち自身の組織が変異して、正常なコントロールを失い、自立的に増殖された細胞によって、攻撃を受けたのだ。

「命じられるままに、原発推進を行った若者たち」
「命じられるままに、瓦礫の拡散を行った若者たち」
「命じられるままに、原発の再稼動を行おうとしている若者たち」
 
上祐の喋り方は、なんと、霞ヶ関の役人と似ていることか。
彼は平然と嘘をついていたが、それは麻原によって「命じられている」という、主体性の放棄が完了していたからだ。
自分自身は手を汚していないと、彼は信じている。
だから平気でいられるのだ。
「ああ言えば上祐」と言われようが、それは、おのれの罪ではない。
主体性を持つ「大人」の命令を、素直に実行に移せる「良い子」なのだ、彼らも、霞ヶ関の役人も。
そして賞賛を待っている。
「素直な良い子ね」

彼らは、「大人」が方針を転換しない限り、永遠にその立場を貫き通すだろう。
決して、真の意味で、自分自身で思考しようとはしない。
 
ワイマール共和国は、まもなく滅亡する。
 
それは事実かもしれない。
だが、わたしは、滅亡の先を見ようと思うのだ。
自分の足でたどり着けない未来であっても、その先を望むのだ。
虚無に喰われていた時間の空虚さと、息をしているのもしんどかった日々を知っているからこそ、望むことを選択する。
 
栃木で、産廃に出す荷物の整理を黙々と夫と行っていたとき、玄関のチャイムが鳴った。
とっさにわたしは、夫を制した。
「わたしが行く」
これ以上、夫が言葉の暴力に晒されるのを、わたしは防御したかった。
わたしは平気だ。
なぜなら、平気で人を見下せるからだ。
嘲笑という武器が、わたしにはある。
夫のように、他者と理解しあえる日を、期待しない。
わたしは荒っぽい足取りで玄関にむかった。
引き戸をあけた。
するとそこにいたのは、酪農を営む生産者の若奥さんだった。
「わあ!本当だ。戻ってきたんだ、戻ってきたんだ!」
恨むどころか、満面の笑顔でわたしとの再会を喜んだ。
何度も全国の品評会で表彰されるような、凄い肉牛を育ている、真剣に生きているご家族だった。
その若奥さんだった。
綺麗な人だった。
「元気だったんだ、元気だったんだ、よかった、よかった」
わたしはとっさに、彼女と抱擁を交わしていた。
「会えたね、また、また会えたね」
自分の醜さを認めたら、人の尊さも見えてきた。
わたしは正しく、尊い人と再会した。
生きているってそれだけで素晴らしい。
こんな時代にあろうが、生きているって、それだけで素晴らしい。
わたしはまた出会う。
そして驚く。
目を見張る。
世の中には、だれに知られることもなく、尊い努めを果たしている人がいることを知る。
 
高知の借家は、生き物の気配で満ちている。
冬場は野うさぎが家のまわりを徘徊し、山側から春先はうるさいぐらいに、ホトトギスが鳴き声の練習を重ね、
それが終わると、田んぼの側から、カエルたちが異性を求めてゲコゲコと鳴き、猫が玄関先に殺気を漂わせた目でたたずみ、屋根裏はねずみが、猫の捕獲から逃れようと走り回る。
 
生きているって、それだけで素晴らしい。
さよなら、皆様。
いつかまた会えるかもしれないし、もう会えないかもしれない。
だけどいままでありがとう。
それではこれにて「時事音痴」を終了します。
さようなら。




昨日の福島知事選。予想していたとはいえ、本当にあれでよかったのでしょうか。
投票率が45.8%と報じられていますが、原発事故後初の知事選なのにこの低投票率。

候補者全員が県内の全原発廃炉を公約に掲げていて、原発が争点にならなかったと新聞には書かれていました。
でも、原発問題って、廃炉だけが問題となるのではないでしょう。
「避難指示・解除の基準(年20ミリシーベルト)を見直す。年1ミリシーベルト以下を目指すことは譲らない。」との井戸川克隆氏の訴えが、今早急に取り組まなければいけないことだと思います。
でも、今回の結果は、それよりは経済を優先した、ということを表しているのでしょうね。

大人はそれでいいのかもしれませんが、子どものことはどうするの?

この記事を読みながら、こんなことを思いました。

| 世の中のこと | 19:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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お祭りで見かけたもの

今日は住んでいる町のお祭り。
町長が替わり、新たに始まったお祭りで今年で3回目(だと思います)。

ぶらぶらと歩きながら出店を見ていたら、去年までは確かになかった所が、物は売っていないけれど、店を構えていました。
さて、それは何でしょう。私はすっごく違和感を覚えました。いったい町は何を考えているのかと。

それは、自衛隊のお店。子ども用の制服を着用できる、というようなことが書かれていて、店先には自衛隊員募集のポスターやパンフレット、自衛隊機の大きな写真が貼られていました。
そして、そこに数名の人が集まっていて、写真を手にとっていました。

どうして、町のお祭りに自衛隊のお店があるのか、私は納得できません。

自衛隊と言えば、まず真っ先に思い浮かぶのは災害救助における働きでしょうか。
災害救助だけなら別にいいかなって思っています。
でも、これから自衛隊員になるということは、「戦争」がつきまとい、戦争に加担しなければならなくなるかもしれないのです。
戦争、言ってしまえば、どこかの国を破壊し、そこに住む人の命を奪ってきなさい、というもの。

なのに、どうしてお祭りに自衛隊?

こうやって、庶民の目に自衛隊を慣れさせていこうとしているのでしょうか?

先週日曜日の朝日新聞に「日曜日に想う」という論説で、ヘイトスピーチのことが取り上げられていました。
その最後で論者は次のように書いていました。

「ヘイトへの慣れや無関心は、それを弄する者を増長させる。
 ヘイトは雑音ではない。聞き流さず、拒まなければならない。」


拒まなければならないことは、拒んでいかないといけないのだと思います。

自衛隊は災害救助で活躍しているし、別にとやかく言わなくてもいいのじゃないの、という考えのほうが多いかもしれません。
でも、自衛隊を軍隊にして、戦争に加担させようとしている現政権のことを考えると、「別にいいんじゃないの」ですませてはいけないように思います。

| 今日の出来事 | 19:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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頑張っている子どもたち

こんなニュースを知りました。素晴らしいなと思います。

イギリスの女の子が学校給食の現状を変えるために起こした行動が感動の展開に!(記事元コチラ)

当時9歳のイギリスの女の子が、学校給食が酷いから、その現状を変えようと、ブログを開始しました。
すると、あちこちから共感のコメントが多く寄せられたそうです。
その中に、「ご飯が食べられるだけでも幸せなことなのに、なぜ不満があるの」とのコメントが一つありました。
そのコメントに対して、彼女は寄付を集める行動に出ます。
そして、世界から寄付が集まり、アフリカのマラウイ共和国の給食がない子供たちのために集まったお金を寄付。
その結果、学校には給食センターが出来て、子供たちは、学校に行けばご飯が食べられると学校に通い、勉強をするようになった、ということです。


日常の出来事の中で、「これ、なんとかならないかな」、「現状をなんとか変えたいな」と思い、行動を起こしたら、当初は想像もしていなかった、素適な結果へとつながっていった。

「いくら声をあげたところで、現状は変わらないわ」って思っていたら、何も変わらない。
そして、日々感じる疑問を封印していけば、何も変わらないどころか、事は徐々に悪くなっていってしまうかもしれない。
やがて、考えることすら止めてしまうかもしれない。

でも、なんとかならないかなって、小さな行動を起こしたら、思いも寄らない事が起こるかもしれない。

また、自分の訴えに否定的な意見がきても、それを切り捨てるのではなく、向き合ってみる。
すると、その否定の背景になっていた状況を変えることにもつながっていくかもしれない。


子ども達が頑張っています。
子ども達より何十年も長く生きている私たち大人も、元気を出して、できることをやってみよう。

| ひとりごと | 19:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『神の国の種を蒔こう』

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ある神父様が撮影した夕焼け。美しい。
この写真と共に添えられていた言葉。

私たちは、自分自身を愛するようにしか、人を愛することができません。
自分の欠点を受け入れられる人は、人の欠点も受け入れることができるし、
自分のすばらしさを見つけることができる人は、人のすばらしさも見つけることができるのです。



『神の国の種を蒔こう』という本を読みました。
これは、ウィリアム・メレル・ヴォーリズという人が書きました。
このヴォーリズという人は、キリスト者で、近江兄弟社の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家であり、日本で多くの西洋建築を手がけた建築家でもありました。
私が卒業した大学も、ヴォーリズが設計していたことを知り、勝手に親近感を覚えています。

この本の中で、聖書にでてくる「からし種の信仰」について書かれていました。
私はこの「からし種の信仰」について、「どんなに小さくても、信仰があれば・・・」と捉えていました。
でも、ヴォーリズは、「そこに命があるかないかだ」と書いていました。

命があれば、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という、聖書の言葉を行えるのですよね。

どうか、私たちの祈りが単なる言葉の羅列にならないように、
またあなたが憎みたもう偽善に陥らないように助けてください。
そして、祈りという仮装のもとに嘘をつくような愚の骨頂を演じないようにさせてください。
(byヴォーリズ)

| 聖書・信仰 | 19:15 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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『茶色の朝』

先日の朝日新聞に福島知事選のことが小さく書かれていました。

知事選は前副知事の内堀氏が優位で、自民、民主、公明、社民が支援している。
私は内堀氏がどういう方かは知りませんが、脱原発を掲げている社民が原発を推進する自民党と同じ候補を支援するその理由が分かりません。

また、この福島知事選とともに実施した世論調査で、
原発について
 「ただちにゼロにする」は27%
 「近い将来ゼロにする」は55%
 「ゼロにしない」は15%
安倍内閣の支持率は
  支持する40%、支持しない40%
との結果が記されていました。

「ゼロにする」を合わせれば、82%ですが、「ただちにゼロ」というのが27%だったというのに、正直驚きました。「ただちにゼロ」と「近い将来ゼロ」が反対の数字でもいいくらいなのではないかと思います。

それに、この「近い将来」の「近い」っていつまでのことを言うのでしょう。
2~3年以内なのか、5年以内、10年以内?
でも、その期間以内に原発事故は絶対に起こらないとは言えない。
でも、「ただちにゼロ」よりも「近い将来ゼロ」を選ぶ。

それで本当にいいの?って、私は思ってしまいます。
「原発がどうのこうの言うけれども、こうして生きているじゃないか。少しぐらいいいでしょう。」って思うのだろうか?
それとも、疲れてしまって考えられないのだろうか?


『茶色の朝』という本を読みました。

茶色の朝茶色の朝
フランク パヴロフ ヴィンセント ギャロ 藤本 一勇 高橋 哲哉

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 突然「茶色のペット以外は飼ってはいけない」という「ペット特別措置法」という法律ができた。この法律ができた当初は、主人公の「俺」は違和感を感じた。でも、ペットは15年も生きれば、その時は来るのだから、そんなに感傷的にならなくてもいいだろう。それに、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と、不安を感じながらも、理由を見つけては、出来事をやり過ごした。何もしなかった。「規則を守っていれば安全だから・・・」

 でも、そのうち、ペットだけではなく、新聞、ラジオ、本と、茶色以外の、政府を批判するもの取締りが行われるようになった。そして、ついには、過去にまでさかのぼって法律は適用され、「昔、茶色でない犬や猫を飼っていた」すべての人間が逮捕されていく。

 そして、「俺」は激しく後悔します。あの法律ができた時に、抵抗するべきだったのだ、と。でも時は既に遅し。以前、黒の犬を飼っていた「俺」の所にも、奴らがやってきた。


 「なんだかんだ言っても、私たちはまだ自由じゃないか。権力の弾圧なんか受けたことはないし、毎日の生活で不自由を感じることはない。いろいろな法律が国家統制を強めるというけれど、いまのこの自由が近い将来なくなってしまうなど、とても想像できない」

 私たちがいまも感じているこうした「自由」――それが、すでに相当程度「茶色」に染まった自由であり、「茶色の自由」でないと、だれが言い切れるでしょうか?

 社会のなかにファシズムや全体主義に通じる現象が現れたとき、それらに驚き疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことがある。それは、思考を停止してしまうことである。
 「茶色の朝」を迎えたくなければ、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考え続けることが必要だ
、とこの本の後書きに書かれています。


「近い将来」で本当にいいのか。「ただちに」ではなくて、本当にいいのか。
12月10日に施行予定の秘密保護法も、本当にこのまま施行されてしまってもいいのか。

この国で本当に一人一人の人間が大切にされているのか。

毎日の生活で忙しいかもしれないけれど、やり過ごしていいことと、いけないこと、どんなことがあっても守らなければいけないことは、きちんと考えていかないといけないと思います。

| 本・その他 | 20:33 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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一人前

我が子は二人とも国語がとってもとっても苦手です。読解力というものがまるでありません。

なんとかならないかなって思いつつ、今に至っているのですが、先日図書館で『日本語トレーニング』という本を見つけて、借りてきました。

その中の例文にこんな文章がありました。

 ある中学生の先生が二十歳になった教え子たちに「一人前とはなにか」と問うたことがあります。
 ガラス工芸の職場で働く男性がこう答えたそうです。「仕事場で、重い物と軽い物があったら率先して重い物をもつこと、そういう人間になること、それが一人前かな」。ふつうは軽い荷物をもちたがる。が、あえて重い物をもつ。ごく自然にそれができるようになる。そうなりたい、というのです。

 平凡のすばらしさとは、こういうことなのかなと教えられました。別に気張って、いいことをしようというのではない。さりげなく、より重い物をもつ。・・・


 「一人前とは」って問われたら、「一人前らしく」答えようと、精神論的なことをしゃべってしまいそうになるかもしれません。でも、この男性は、自分が日々体験しているなかで、感じていることを通して、自分の言葉で誰にでも分かりやすく語っています。

 それも、きっと「一人前」ということなのでしょうね。
 そしてまた、自然に、さりげなくいいことができる。


この話を読んで、この言葉をまた思い出しました。

 「強いって、いいぞ。強いというのは、いばるためのものじゃない。昔、北海道を開拓した屯田兵という人たちがいた。彼らはくじ引きで耕す土地を決めたが、強いリーダーは自分にいい土地が当たると、それを弱い人に譲って、自分はあえて悪い土地を耕した。強くなるってことは、そういうすてきなことができることんなんだ。」

この言葉は、ある父親がその娘に語った言葉ですが、その娘とは、さて誰か?

今では、もう誰もが知っているのではないかと思います。

山谷えり子さん。そう、自民党の、在特会と親密な関係にあると言われている、あの山谷えり子さんです。
彼女の著書、『ねえ、おかあさん』にこの父親の言葉は書かれています。
彼女の父親はこのようにも語っていたようです。

「地位や、権力や、お金を得ようと走ってはいけない。そういったものだけを目標にして走ると、人間はどんどんお粗末になっていく。偉くならなくていい。エリートにならなくていい。あなたに望むのは、よき市民、よき隣人たること。強くなって、弱い人を守ってあげること。」

人は権力を持つと、変わってしまうのか?
それとも、もともとそういう人だったのか?

それとも、一人前になりきれていない時に、権力なんかもつと、お粗末になってしまうのか・・・?

| ひとりごと | 17:22 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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ひとりごと

こんな空を実際に見てみたいです。感動するでしょうね。

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私は日曜日には礼拝のため、教会に行きます。
一般的に、クリスチャンはどこかの教会の教会員で、その教会に行きます。
私は今行っている教会の教会員ではありません。私は大阪の教会に今でも籍を置いています。

帰省するのは年に2~3回で、大阪の教会に行けるのも2~3回。
ですので、今行っている教会から、「転会しますか?」と聞かれたことがあるのですが、していません。というより、転会する気は全くありません。

教会は神様を礼拝するところなので、その教会の礼拝のスタイルがどうであろうと、それを問題にすべきではないとは分かっているのですが、私は気になってしまいます。

何が気になるかと言えば、それは賛美です。
ピアノを習っていたのにも関わらず歌の下手な私ですが、賛美は大好きです。
聖歌や讃美歌などの伝統的な賛美も、それ以外の賛美も好きです。
でも、今行っている教会で歌うのは讃美歌だけ。
日曜学校では、同じ賛美が2曲、2~3ヶ月続きます。
私はもっと色々な賛美を歌いたいなと思うので、教会の人に「ワーシップソングとかプレイズソング(聖歌や讃美歌ではない賛美)を歌わないのですか?」と聞いたことがあります。すると、
「歌わないです。騒がしいでしょ。」と一言。
ちなみに、聖歌は「言葉が古くて、よく分からない」から、歌わないということです。

確かに騒がしい賛美もありますが、そうではない賛美の方が多いです。
よく知りもしないで、感覚で「騒がしい」と思い込んで、拒否するのはどうなのだろうって思ってしまいます。
何曲か静かな感じの賛美の楽譜を渡したりもしたのですが、教会の規準には合っていないようです。

小さな小さなことですが、やはり、もう少し色んな賛美を歌いたいなと思ってしまう私・・・。
他にも少しだけ気になることがあって、教会に行くのに疲れを覚えてしまう時があります。
信仰を捨てるとか、そういうのは全くないのですが、なんか、教会に行くことに疲れを覚えてしまう。

すべての人に満足を与える仕組みというものはなく、それぞれに長所も短所もあって当然で、そのことはよく分かっているつもりですが、気が進まなくなる時があります。

そんな時は無理をせず、ゆっくりしてみようと思います。

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| 聖書・信仰 | 19:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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The Last Time

夕陽の美しい写真がありました。

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こういう写真を見ると、なんか感傷的になってしまう。
そんなときに、こんな詩をfacebookで読みました。

The Last Time

From the moment you hold your baby in your arms,
you will never be the same.
You might long for the person you were before,
When you had freedom and time,
And nothing in particular to worry about.
You will know tiredness like you never knew it before,
And days will run into days that are exactly the same,
Full of feedings and burping,
Nappy changes and crying,
Whining and fighting,
Naps or a lack of naps,
It might seem like a never-ending cycle.

But don't forget….
There is a last time for everything.
There will come a time when you will feed
your baby for the very last time.
They will fall asleep on you after a long day
And it will be the last time you ever hold your sleeping child,
One day you will carry them on your hip then set them down,
And never pick them up that way again.
You will scrub their hair in the bath one night
And from that day on they will want to bathe alone.
They will hold your hand to cross the road,
Then never reach for it again.
They will creep into your room at midnight for cuddles,
And it will be the last night you ever wake to this.
One afternoon you will sing “the wheels on the bus”
and do all the actions,
Then never sing them that song again.
They will kiss you goodbye at the school gate,
The next day they will ask to walk to the gate alone.
You will read a final bedtime story and wipe your last dirty face.
They will run to you with arms raised for the very last time.

The thing is, you won't even know it's the last time
Until there are no more times.
And even then, it will take you a while to realise.

So while you are living in these times,
remember there are only so many of them,
and when they are gone, you will yearn for just one more day of them.
For one last time.


日本語訳はないようです。簡単に言ってしまえば、
  子どもが生まれると、自由や時間があった頃が恋しくなる。
  でもね、物事には必ず終わりというものがあって、最後の時はやってくる。
  子どものことで忙しいかもしれないけれど、そういう時は限られていることを忘れないで。
という感じでしょうか。
ジーンとしてしまいました。

子どもは、大人もそうですが、「今」を生きているんですよね。
その「今」を大切にする、ということは、この時は限られているということが分かってないと、なかなかできないことなのかもしれない。

| 子育て・教育 | 20:21 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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