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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2014年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年02月

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ひとりごと

早いもので、もう1月も終わり。
世界では大きな事件が起こりました。
私自身は、気持ちを上手く表現できなくて、乱暴に見えるような言動をとる子どもの姿が、いつもより気になった1月でもありました。

色々な思いが行ったり来たりします。
ふと目にしたこのカードに書かれていたみことばが、深く心に響きました。

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神様にもっと信頼して歩んでいきたいとの思いをより深くしたこの1月。

| ひとりごと | 19:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「先生、ずっと寝てたよ」

ちょっとばかり愚痴になりますが、

中学1年の次男は、学校で英数国は支援学級で授業を受けています。
支援学級での授業時はだいたい一人で、その時間空いている先生が来てくれます。
その教科専門の先生が来てくれることもあれば、そうでない時もあります。
そして、このことは入学時から分かっていました。

ただですね、最近次のようなことがあって、いくら何でもそれはないでしょって言いたくなるようなことがありました。

家庭学習で次男は進研ゼミのチャレンジをしています。
そのチャレンジを学校に持って行っているのは知っていましたが、学校での空き時間に自主勉としてしているのかなって思っていました。

ところが、そうではありませんでした。
支援学級での授業で、先生が授業をしてくれない時に、チャレンジをしていたようです。

先日次男が、「今日の数学でチャレンジをしたよ」と言いました。
「授業は?」と聞くと、「していない。」
「先生は?」 -- 「寝てた」
「ずっと寝てたの?」--「たまに起きてた」

その先生とは時間中一言も話さず、次男がその時間にしたチャレンジを見ることもなかったそうです。
その先生は、数学の授業の特にたまに来るようですが、来る時はいつも「寝ている」とのこと。

その先生は体育の先生ということなので、数学は専門外で分からないのかもしれませんが、でも忠一の数学です、分からないということはないと思うのですが・・・。

いくら専門外とは「寝ている」というのは問題なので、担任にその事実を伝えました。
と同時に、次の3点も伝えました。

1)いくら支援学級の授業とはいえ、専門教科以外の授業を見させるのは、人員が足りないとはいえ、考え直す必要があるのではないか。
2)授業中に先生が寝てしまうほどに、先生を多忙に追いこでいる現状を改善すべきではないか。(学校の授業の他に、クラブ活動で放課後も土日もないような先生もいる)
3)どうしても専門外の教科をみる場合には、学校側がプリントなどを準備するべきではないか。

早速、支援学級での授業に関わっている教員に周知してくださり、二度とこのようなことが起こらないように気をつけますとのことでした。

それで、今日帰ってきた次男がまたこんなことを言いました。

「今日は英語の時間に、社会のチャレンジをしたよ!」
「英語の時間に社会のチャレンジ?」
「そうだよ、その後に、フレンドノート(英語のノート)をしたよ。」(ノートに教科書の英文を写した。日本語訳とか、文法の勉強とかは一切なしということでした)

「先生は英語の時間に社会の勉強をしていても、何も言わなかったの?」
「何も言わなかったよ。先生、時々寝てたけどね。」

お~~~、また寝てた。pen1_41慌

そして、英語の時間にチャレンジの社会!

ちょっとあんまりではないの?と思ってしまいます。

1年次もそろそろ終わるという今頃になって、気づく私も私ですが、その教科の時間に、その教科をきちんと教えてくれないというのは、いくら支援学級での授業とはいえ、ちょっと酷くないかと思ってしまいます。

それに、ほんの2~3日前に関わる教員には周知されているはずなのに、またも同じようなことが起こっている。

中学校は義務教育です。教育を受けさせる義務があります。
教師の任務の第一は、授業を行うことだと思うのですが、この次男の現状は、大袈裟に言えば教育の放棄?
勿論、毎回そうなわけではなく、ちゃんと授業をして下さる先生方はいらっしゃいます。
ただ、次男に聞くと、「教科書を使って、こうだよって説明してくれる」先生の方が少ない、と・・・。

こういう現状は、いくら人手不足とはいえ、問題ではないのかなって思うのですが、どこの学校でも支援学級とういうものはこういうものなのでしょうか?

でも、そうだとすると、それは差別ではないかと思ってしまいますが、考えすぎ?

| 子育て・教育 | 19:26 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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反対意見を言ってみる

あるSNSにこんな書き込みがありました。

後藤さん母「うちの息子を許してください」 (朝日新聞デジタル - 01/28 01:33) 。まず不謹慎な発言を許して下さい。もちろん無事生還が望ましいけど、ある意味自業自得では 家族ならなにがなんでも行くのを止めるべきだったのでは?今さら訴えももう遅いと思う。

この母 イスラム国に対して息子を許して、と言っているけど、まともな人なら日本人に、日本政府に謝罪するべきでは?ズレてますね

(上記投稿に対するコメント)

>家族ならなにがなんでも行くのを止めるべきだったのでは? そう思います。危険だと知られてないならともかく、過去にも類似事件は沢山あります。知っていて行かせたのなら酷い親だと思うし、無関心だったなら何をか況や。先ず日本政府に謝るのが筋でしょう。

そして、湯川さんが捕まったのではないかという情報を聴いたなら、自分が確かめに行くより先に日本本国の方にその情報を出し、指示を仰ぐのが筋ではないかと思います。危険地域に危険な相手に単身乗り込むのは無謀すぎますでしょう。今まで自分が無事だったことで過信していたのでしょうか。

この書き込みを読んで、悲しくなりました。日本政府に謝罪するべきというのは、私には理解できません。むしろ、こういう事態を引き起こしたのはアベではないかでしょうか。
私も、後藤さんがISISの中心であると言われているラッカに行ったことを聞いたときは、「どうしてそんなに危険な所に行ったの?」と思いました。「自業自得、無謀すぎる」、確かにそうかもしれません。「どうして?」という問いはあっても、でも、それを批判するのは違うと思います。

私たちはどうして、あの地域が危険地域だと知っているのでしょうか?それはその地域を取材し、伝えてくれる人がいるからです。ジャーナリストが命の危険を冒しても、今世界が何が起こっているのかを伝えようとしてくれているのです。


これらの書き込みに、「私はそうは思わない」というようなことを書き込みましたが、けっこう勇気がいるものですね。反対意見を述べるのは。それなら、わざわざ書かなくてもいいのかもしれませんが、この書き込みだけはスルーしたくありませんでした。

そういうこの国の空気、反対意見を述べにくい、体制側と反対の意見を述べると攻撃されるのではないかというような空気を感じるのは、私の思い過ごしだったらいいのですが、もしそういう空気があるのならば、危険だと感じないといけないのかなって思います。

| ひとりごと | 15:01 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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人の命とテロに屈しないこと

ISISによる人質事件のことを考えていて、こんな疑問が起こりました。
こんなことを書くと、「何言ってんだ!」と言われるかもしれなくて、そのことを思うと躊躇するのですが、書きます。

「テロには屈しない」、それはその通りだと思います。
ただ、「身代金を払う」ことや「釈放要求」に応じることが、「テロに屈する」ことになるのか。

「テロに屈する」のではなく、「何よりも人の命を大切にする」のだと考えてはいけないのでしょうか。

テロは許されるべきことでは決してありません。でも、だからと言って、「テロには屈しない」と、助かるであろう命を見捨てることが本当に賢明な方法なのでしょうか。

また、身代金を支払うとテロリストはそれに味を占め、益々人質事件が頻発する、と言いますが、本当にそうなのでしょうか?身代金を払わなければ、人質事件は今後一切発生しないのでしょうか。


彼らの訴えを聞こうともしないで、「彼らは非情なるテロ集団だから、壊滅させるのだ」という行動をとれば、相手も同じように非情な手段に出るのではないか。

彼らの行為は絶対に許せないけれども、でも、彼らの訴えをまずは聞いてみよう、話し合ってみようというのは、出来ない相談なのでしょうか。テロというものの温床を解決しない限りは、例え、ISISを滅ぼすことができても、第二第三のISISが出てくるのは明白です。

それに、ISISが誕生したのも、もとはと言えば、アメリカのあのイラク戦争が直接の原因。
なぜ、欧米や日本がターゲットにされるのか、そのことをまず考えないといけないのではないでしょうか。

1/22の朝日新聞に野中章弘氏(早稲田大教授、アジアプレス・インターナショナル代表)の次のような談話が掲載されていました。

 昨年パレスチナがイスラエルから受けた攻撃で、2千人以上が死亡し、このうち約500人は子どもでした.明らかに戦争犯罪ですが、イスラエルの責任は国際社会では問われません。

 今回のような事件では大きな騒ぎになるのに、パレスチナで多くの市民が殺されても日本政府が問題視しているようには見えない。多くの市民、子ども達が殺されたパレスチナからすれば非情に不合理なことですが、国際社会はイスラエルの責任をまったく追及しようとはしない。このようなダブル・スタンダードに対するアラブ社会の怒りを我々は知ろうとしません。

 アフガンで私が取材した高校の先生は、米国の攻撃で子ども殺されて、生き残ったいちばん下の子に「おまえが生きている限り、アメリカに報復しなさい」と言いました。このアフガンの家族からすれば米国の攻撃は国家テロです。このようなイスラム社会にある反発を生み出した責任の一端は、欧米、そして日本にもあるのです。

 「イスラム国」のやり方には激しい憤りを感じますが、軍事力でたたいても対症療法に終わるだけです。事件の背景を根源的に考える必要があります。


この野中氏の意見に私は賛成です。

今日の朝日新聞の社説では、「民族や宗派間の憎悪をあおり、平和的な統治の秩序を破壊する組織は、アラブ諸国の政府にとって重大な懸案だ。」と書いていましたが、そういう組織は何もISISだけではなく、前出のアフガンの先生からすれば、アメリカだって「民族や宗派間の憎悪をあおり、平和的な統治の秩序を破壊する組織」なのです。

そのところを問わずに、自分たちが行った非道な行為には「正義を守るため」と言い訳をする、そういう欧米の傲慢さをアラブの人たちはどのように思っているでしょうか。

同じく今日の社説より。

「これ以上、命を奪うな。」
「人の命を一方的に奪うことは許されない。」

それは、ISISもそうだし、ISIS討伐目的で爆撃を繰り返す有志連合もそうではないのでしょうか。


「安倍首相が最近表明した2億ドルの拠出は、周辺諸国への難民の「命をつなぐ支援」にほかならない。」

本当にそうなのですか。アベが中東訪問に軍需産業に携わる人たちを多く連れて行ったのは、本当に純粋なる「命をつなぐ支援」なのでしょうか。本当に「命をつなぐ支援」をするつもりなら、少なくとも軍需産業の人たちは連れてはいかないでしょう。

あまりふさわしい例ではありませんが、次のような人道支援が行われました。

 ジェニンの大虐殺というのがありました。イスラエルがパレスチナに対して行ったものです。その大虐殺で家屋も破壊し尽くされ、難民キャンプが作られました。難民キャンプといえば、テント小屋を連想するのですが、ジェニンの難民キャンプはそんなものではありませんでした。
 3階建ての鉄筋コンクリート、1階は16畳ほどの居間、8畳の台所、10畳と8畳ほどの寝室3つ、バストイレ、それに中庭。2階、3階もほぼ同じ間取り。この建物が同じサイズの建物と連結し、その隙間に中庭が設けられている。それが何百と並んでいた。
 その新しい住居の費用を負担したのは、UNRWAとあのイラクのサダム・フセイン大統領だったそうです。フセインはジェニンでの惨禍を聞いて、全住民に1人あたり2500ドル相当の金額を送ったそうです。(『見ることの塩』より)

本当に人道支援を考えているのならば、金額が問題ではありませんが、苦しんでいるその当事者に確かに届く支援をするべきで、軍需産業に携わる人たちが、そんな支援をできるとは到底思えません。


「人道支援をします」というのならば、実際にそれを行って見せないといけない。
「人道支援をします」という者が、武器輸出を奨励していて信用されるとでも思っているのだろうか。


以前に引用したガンディーの言葉。

神の選民であると主張するユダヤ人たちよ、地上における自分の地位を要求するために、非暴力の道を選ぶことによって、神の選民の名にふさわしいことを証明したまえ。パレスチナをも含めてすべての国が、攻撃によってではなく、奉仕を愛することによって彼らの故国となるのだ。

自分たちに正義があると思うのならば、非暴力の道を選ぶことによって、正義の名にふさわしいことを証明したまえ。
とも言えるのではないでしょうか。


テロに屈しないことと、人の命を助けることを交換条件のように考えることがまちがっているのではないか。
今日、ふとそんなことを思いました。

| ひとりごと | 18:29 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「私たちにはなすすべがない」

今朝1/25の朝日新聞にシリア市民男性の言葉が書かれていました。

「カネのために何でもやり、言うことをきかない相手は暴力で屈服させるのは『イスラム国』だけじゃない。多くの人がモラルを失ってしまった」

この言葉を読み、今のアベ政権も同じだと思いました。言うことをきかない相手は暴力で屈服させる。今、辺野古で起こっていることがまさしくそれ。

海保がどれだけの暴力行為を一般市民に対して行っているか。
「オイルフェンス、辺野古の海分断 海保職員、市民に馬乗り」(琉球新報

おそらくは官邸がそういう行為に及ぶことを容認しているというのか、どんな手段を使ってでも、市民を黙らせろ、みたいな指示がでているのではないかと思います。

イスラム国は残忍ですが、アベ政権も残忍。自分と考えを異にする人たちの声には耳を傾けないどころか、暴力を使ってでも排除する。


シリアの男性は次のようにも語っています。
「戦争で心すさんだ人々がどういうこをやるか、日本人も痛感したと思う。市民の殺害と街の破壊を一刻も早く止めたい。でも、私たちにはなすすべがない」

「私たちにはなすすべがない」。
辺野古で頑張っている人たちも、もしかしたらこれ以上なすすべはない、って思っているかもしれません。

そして、世界で起こっている様々な惨状に、心を痛めている人々も同じように感じていると思います。

人の命を軽視し、尊厳なんてまるでないかのように思い、自分たちの野望のためなら何でもやる者たちが大きな力を持っているこの世界。このままでいいよ、なんて思わないですよね。

どうすれば、いいのでしょう。
ただ思うのは、やはり黙っていてはいけないということ。

「わたしの敵は二つしかない。ひとつは大きいな雑音であり、もうひとつは沈黙だ」(バレンボイム

| 新聞記事 | 11:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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気づき

家の前の空き地の梅の木につぼみが。そこまで春が来ているのですね。

DSCN5119.jpg

先日、倉本聰さんのインタビュー記事を目にしました。
「戦後70年特別企画 遺言 日本の未来へ」というものです。全文はこちらに。

人の話や本を通して、今まで気づかなかったことに気づかされることがよくあります。
このインタビューの中で倉本さんが語っている「需要と供給」についても、言われてみればそうなのですが、指摘されてやっと気づく。

 そもそもは「需要があるから供給がなされる」というのが筋でした。「腹が減るから食料が欲しい」という需要から物事は始まってきたんです。だけど戦後、資本主義が入ってきちゃった後は、供給が王座に就いた。これだけ供給できるから、それに需要を合わせろという思想に転換してしまった。

 そんな無茶なと思いましたね。「これからは再生産できるものは作っちゃいけないんだ」「壊れるものを作れ」「壊れたら直すんじゃなくて、捨てて新しく買え」という言い方をされたけれども、それが僕にはとてもショッキングでした。

 戦後は供給が先行したことで、生産者が力を失い、消費者が力を持つようになった。今の原発の再稼働についても、代替エネルギーについて議論が盛んになされています。あれも、供給の話ばっかりしていると思いません?需要の方の話は全くしてない。あれはおかしいと思うんです。需要仕分けをまずすべきでしょう。

 例えば今、本当に24時間くだらないテレビをやっている必要があるのか。コンビニはあれだけ長時間営業する必要があるのか。ネオンはこんなに煌々と光らないといけないのか。需要側の論理が並行してなされないことが、誠におかしいですよね。

 その原点は、僕流に言うと「人間の活動時間」だと思うんです。


物についても、時間についても「足るを知る」。


話は全く変わりますが、イスラム国に人質になっている二人の日本人。
ネット上では「わざわざ危険な場所に行くなんて、自己責任」と自己責任論が飛び交っています。

そう言われることについて、ジャーナリストの佐藤和孝さんは次のように言っています。
「ではなぜ読者や視聴者はシリアが危険だと知っているのか。伝えようとした人が現場にいたからです。」

事実を伝えてくれる人がいるから、私たちは知ることができる。

| ひとりごと | 16:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『天、共に在り』

『天、共に在り』(中村哲著)を読みました。
よかったです。特に今この時に読んで貰いたいなって思う一冊です。
天、共に在り天、共に在り
中村 哲

NHK出版 2013-10-24
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中村氏が影響を受けた人として、内村鑑三、ビクトール・フランクルの名前を挙げていたのですが、尊敬する人の名を本の中に見るのは、嬉しいものですね。

 この本は簡単に言えば、中村氏の生い立ち、ペシャワールで医療活動に関わることになった経緯、灌漑施設の建設について書かれたたものです。
 井戸や用水路を作る描写の部分は、正直な所、よく分からなかったのですが、その部分を差し引いても、この本はお薦めの一冊。平和とは、安全保障とは、支援するとはどういうことなのか考えさせられるのではないかと思います。

 中村哲さんは、アフガニスタンでの現地体験を通して、「世界が捏造と錯覚で成り立っていることに愕然とせざるを得なかった。」と書かれ、「いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。」と警鐘を鳴らしています。そして、そのツケが今、日本にも及んでいます。

 テロには屈しない、と強硬姿勢をとっても何の解決にもならない。そのことは十分分かっているはずなのに、そういった声が各国のリーダー達から止むことはない。
 もしかしたら、"テロ"を口実に、どんどん武器を作って、売って、さらに儲けようとの魂胆なのでしょうか。

そんな自分たちの利害だけを考える人たちとは違って、アフガニスタンで30年もの長きにわたり、現地の人たちと共に闘ってきた中村哲さんの言葉には、強い説得力があります。

 アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によってこの身が守られたことはなかった。

 1992年、ダラエヌール診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と、報復の応戦を引き止めたことで信頼の絆を得、後々まで事業と私たちを守った。

 現在力を注ぐ農村部の建設現場は、常に「危険地帯」に指定されてきた場所である。しかし、路上を除けば、これほど安全な場所はない。私たちPMSの安全保障は、地域住民との信頼関係である。こちらが本当の友人だと認識されれば、地元住民が保護を惜しまない。

 そして、「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全保障を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。私たちは、いとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、そして本当に守るべきはものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。


「いとも安易に戦争と平和を語りすぎる」という指摘に、ハッとさせられました。
「平和とは理念ではなく現実の力」、また「平和とは観念ではなく、実態である。」とも述べています。
「平和とは」と議論をしたり、定義したところで、平和になるわけではない。どこかの強い国と同盟関係を結んだからといって、平和になるわけではない。

平和について、他にも中村氏は書いていますが、その描写がまたよかったです。


東日本大震災という大きな危機が日本を襲いました。
中村氏は大きな転機が日本に訪れたと思ったのに、その後のいきさつはあまりにも気落ちさせるものであったと述べ、次のように書いていました。

 世の流れは相変わらず「経済成長」を語り、それが唯一の解決法であるかのような錯覚をすりこみ続けている。経済カさえつけば被災者が救われ、それを守るため国是たる平和の理想も見直すのだという。これは戦を図上でしか知らぬ者の危険な空想だ。戦はゲームではない。アフガニスタンの体験から、自信をもって証言しよう。

 物騒な電力に頼り、不安と動揺が行き交う日本の世情を思うとき、他人事とは思えない。だが、暴力と虚偽で目先乗りを守る時代は自滅しようとしている。今ほど切実に、自然と人間の関係が根底から問い直された時はなかった。決して希望なき時代ではない。大地を離れた人為の業に欺かれず、与えられた恵みを見いだす努力が必要な時なのだ。それは、生存をかけた無限のフロンティアでもある。


けれども、そんな努力をしない日本。今からでも遅くはないと思います。生き延びる道を、次の世代に確かにバトンを渡していくために、

「いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。」

「何が真実で何が不要なのか、何が人として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである。」

との中村氏の言葉に耳を傾けなければと思います。

大切なことを教えてくれる本です。他にも教えられたことはありますが、本の表紙に書かれている中村氏の言葉と本の最後の言葉で締めくくります。

現地30年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。

科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。

| 本・その他 | 16:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「共存の道を」

「イスラム国」と称するグループが日本人2人を人質に取り、身代金2億ドルを72時間以内に支払わなければ殺害すると警告するビデオメッセージを出したと報道されています。
アベがイスラム国対策としてイラクなどに2億ドル程度の支援を行うと表明したのが原因のようですね。

また、岸田外相も「テロとの戦い」のために約750万ドル(約9億円)を支出すると表明しています。

お金をばらまけば、自分たちの発言力が増すとでも思ったのでしょうか。
こういう時期に中東に行って、あのような言動をとれば、どうなるか、そういう想像力がないのでしょうか。

それに、「テロとの戦い」というけれど、それがテロを根絶することは、まずないと思います。

テロは決して許されるものではありません。でも、どうしてテロが起こるのか、まずはそこを考えるべきなのではないかと思います。

すべきことは、「テロとの戦い」ではなく、「テロの温床」をなくすことではないのか。
西側の理論を押しつけることを止めないといけないのではないか。

今日1/20朝日新聞オピニオン欄に「連続テロの底に」というテーマで、フランスの作家・哲学者のベルナールアンロ・レビ氏と同志社大学教授の内藤正典氏の談話が掲載されていました。

レビ氏は「宗教への批判は絶対の権利」であると述べています。でも、それは西欧諸国からみた意見であって、彼らがそう思うから、イスラム教徒たちもそれを受け入れよ、というのは間違っていると思います。

現代イスラム地域研究が専門の内藤氏は「イスラム教徒にとって、ムハマンドは自分の心身と一体化している存在。預言者を嘲笑されることは、自分を否定されるように感じる。彼らがヘイトだと受け取っている以上、差別なんです。」と述べています。

言論の自由というものはあるし、それは守られなければならないです。でも、そこに、他者の人権を侵害する自由は含まれないのではないでしょうか。

内藤氏は次のように締めくくっていました。

 西欧とイスラムは、パラダイム(構成原理の体系)が違う。西欧、特にフランスでは神から離れることで自由を得た。イスラムでは、神と共にあることで自由になれると考える。神の法が認める範囲では欲望を満たし、人生を楽しむことが許されるからです。

 パラダイムが異なる両者は「共役不可能」な関係にあり、一方の原理を押しつけても他方には通じない。暴力の応酬を断つなら、パラダイムの違いを認識した上で、一から共存への道を探っていくしかない。啓蒙が西欧の普遍的な価値だとしても、圧力でイスラムが変わることは決してありません。


多数派である自分たちこそが正しいから、我らに従え、というのでは何も解決しない。

迫害されているクリスチャンの祈りが 「神は我々と共にいます」と言うのと、
攻撃する者が 「神は我々と共にいます」と言うのは、断じて全く違う。
(『私はパレスチナ人クリスチャン』より)



人質になっているとされるジャーナリストの後藤健二さんはこんな人。
【インタビュー】国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜


国民の財産と命を守ると声高に言っていたアベ。でも、彼の愚行故に、このような事態に。
そして、もしかしたらイスラムにあった日本人に対する信頼をなきものにしてしまうかもしれない。
こんな愚かなリーダーを日本はいつまで野放しにしておくのだろうか。

| 世の中のこと | 20:01 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ある町長さんの印象的な言葉

色々と問題のあるfacebookですが、有益な情報や投稿が多いのも事実。
そんなfacebookで、こんな記事を見つけました。

原発事故に伴って発生した放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場の建設を巡り、栃木県内の候補地とされている塩谷町の見形和久町長が環境省を訪れ、町が国と一緒に候補地の面積について調査するとした発言を撤回する考えを示しました。(記事コチラ)

この塩谷町の町長の言葉がとても印象的です。

「"民意"という考え方。なんでも私が(選挙で町長に選ばれた)承認を得たんだからなんでも出来るんだというのは"民意"ではないんですよね。選挙で勝つと、なんでも全て"民意"を得たんだという なんていうか風潮を感じる。それは違うんだよ。」

「県を国を向いてやるべきことではない。住民サイドに立つべきだ」


放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場についての問題はなんとかしなければならないですが、このように住民を第一に考えることのできる人がトップに立って欲しいです。


| 世の中のこと | 20:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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『ぼくと山の学校 アフガニスタン』

『ぼくと山の学校 アフガニスタン』

アフガニスタン ぼくと山の学校アフガニスタン ぼくと山の学校
長倉 洋海

かもがわ出版 2014-10-10
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アフガニスタンの子ども達の笑顔が本当に素適。笑顔でない写真も勿論ありますが、なんとも言えない愛おしさがこみ上げてきます。
そして、この本を読んだ後の清々しさ。悲しいくだりもあるのですが、人と人のつながりって素適だと素直にそう思えます。

図書館で借りてきたのですが、手元において何度も見返したい一冊。この著者の長倉洋海さんは他にも本を出されていて、他のも読んでみたくなりました。

この本は、長倉さんが取材活動で知り合ったパンシール渓谷ポーランデ地区の子どもたちのために、支援者達と学校を作り、その学校に関わる人々の様子を報告したものです。詳しくは、ぜひこちらのサイトを読んでみて下さい。(アフガニスタン 山の学校の会

学校に通うのに、片道1~2時間かけて歩かないといけない子ども達がいます。そして、その子ども達も含め、子ども達はみなそれぞれの家族で自分たちの役割があります。
羊や牛の世話をする、水を汲みにいく、歩き始めたばかりの幼子だってジャガイモや玉ねぎのかわむきをする。
屋根に積もった雪をおろすのも手伝います。しかも使うのは、木のスコップ。

勉強だけしていればそれでいい、好きなことだけしていればそれでいい、というわけにはいかない。「この地で生きるためには、家族がそれぞれの役割を果たさなければならない」ことを、子ども達は知っていると長倉さんは言います。

そんな子ども達の様子に我が子たちを思うと・・・。

勉強やお手伝いばかりではありません。楽しみも勿論あります。

長倉さんがもっていったスイカで行ったスイカ割りを楽しむ子ども達の表情、
日本の人たちから贈られたリュックや手袋や、鉛筆などの文房具、サッカーボール。それらを手にする子ども達の本当に嬉しそうな顔。


子ども達の中には障がいをもった子どもたちもいます。
例えば、小児麻痺の後遺症で両足が内側に曲がっている高校生。彼は杖を使わず3時間はかかるであろう道を自力で歩いて通っているそうです。
そんな子ども達も、のけ者にされたりはしないそうです。

「助け合わないと生きていけない生活だからこそ、まわりの人を自然に助けることができる。・・・障がいをいじめの対象にするのではなく、普通の仲間としてごく自然に扱う。"助け合う"ことは、特別ほめられるような美徳でも押しつけられる義務や道徳でもない。それが『ともに生きる』ということなのかもしれない。」

と長倉さんは書いています。
学校などで「助け合いましょう」とはよく聞く言葉で、そう言われることに何にも感じていなかったのですが、そう言わないと助け合えないとしたら、それは問題なんですよね。


長倉さんが東日本大震災の様子を山の学校の子ども達に見せたら、中2の女の子が、被災地の子ども達への気持ちをペルシャの詩に託して次のように言い表したそうです。

私たちは一人の人間(アダム)から作られた同じ人間
一つの手足が痛むとき、ほかの手足も同じように痛みを感じる。
それを感じられなければ、人と呼ばれる価値はない。


自分たちも苦しいけれど、あの人達も苦しんでいる。その痛みを感じることができる。


長倉さんによると、アフガニスタンでは、多くの人が日本人に信頼を寄せているそうです。
その背景には1960年代、ささやかながら日本政府が行った医療支援と水道支援などがあるということです。

この信頼は一朝にして築かれるものではないのですよね。でも、壊れる時は一瞬にして壊れる。
だからこそ、一般の人々が一所懸命築き上げた信頼を、愚かな選択で壊すことをしてはいけない。

「政治的・領土的な思惑ではなく、庶民の生活第一に考えた支援を今も人々は忘れてはいない。」


この本を読み終わって、今日届いたのがこの本。楽しみに読もう。
天、共に在り天、共に在り
中村 哲

NHK出版 2013-10-24
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| 中東(パレスチナ・アフガニスタン) | 15:49 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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