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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2015年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年12月

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一人一人を

早いもので、今日で11月も終わり。今年も残すところあと1ヶ月。
時の経つのの、なんて早いこと。もっとゆっくりと過ぎていってくれてもいいのに。


今の日本という国を思うと、「平和」とはどんどんかけ離れていってしまっている、そんな思いになります。
でもですね、こんな日本ですが、「日本人は平和のシンボルであると思っています」と言って下さっている人々がいるのです。

イラクから日本を訪問している医師の講演会が名古屋市で開催されたようですが、そこで次のように語られたとのことです。(記事元こちら)

「私たちは、日本政府ではなく、日本の人々の方を見ています。日本政府がどんな決断を下そうとも、日本人が平和的な人々であり、政府の方針に反対の人が多いことも知っています。日本人は平和のシンボルであると思っています」


このイラク人医師の言葉は、折に触れて思い出すこの言葉と同じことを言っています。今まで何回となく引用してきましたが、しつこいですが、また引用します。

戦争というのは、誰かが仕掛け、敵意をあおらなければ始まらない、ということです。
そして、その誰かとは、自分たちの政治目的のために、人びとに他の民族や国家などへの恐怖心を植えつける政治指導者やメディアであることが多いのです。
・・・
ふつうの人たちは、誰も戦争なんかしたくありませんでした。
なのに、気がついたら、戦争が始まっていたのです。
そんなことにならないためには、いったいどうしたらいいのでしょうか。

答の一つは、集団ではなく、ひとりひとりの個人を見ることでしょう。
所属する集団に関係なく、人間どうしとして交流することです。

(『平和の種をまく』より一部転載)


小澤征爾さんも同じような事を仰っています。

「冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている。」

「政治的なことはよくわからないけど、一人ひとりがもうちょっと、ちゃんと考えるべきだよ。政府がどう言ったからだとか、新聞が書いているから、とかじゃなくて。大事なのは一人ひとり。政府よりも、政府じゃない普通の人がどう考えるかが一番大事。僕はそう思う。」



大事なのは一人一人。だから、まずは身近な人から。

| ひとりごと | 21:07 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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藤木正三さん

本は好きで読んでいますが、最近は心癒やされる本を読みたいなと、キリスト教関係の本とダライ・ラマの本を読んでいます。
「ほっこりしたいな」と、今までになく、そんな思いが強い今日この頃。

政治に関する関心は薄れてはいませんが、何かあって、「これってなんかおかしい・・・」と思って呟いたりすると、
「そういうのって、反○○」って言われたりすることがあって、「ちょっと疲れるな」と。

それで、珍しく疲れを強く感じたので、心癒やされる本を読みたくなりました。
今はまっているのが、藤木正三さんの本。
牧師をされていたのですが、今年の1月に召天されました。
この方のことは最近知ったのですが、なんと私はこの方と、学部は違いますが同じ大学で学んでいたのです。
同じ大学の卒業生というだけで誇らしくなる単純な私・・・。


藤木正三さんとは関係ありませんが、なぜかゼノ修道士のことをふと思い出しました。

ゼノさんのことを、ある中学生が次のように書いています。

「私たちは 神様を知らない
 でも
 神様を知っているという人の目の
 やさしさが 心にしみる」



藤木正三さんはこのような目をしていらしたのだろうと思います。
私もそんなふうに思ってもらえるような人になりたいです。

| 聖書・信仰 | 20:13 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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今を生きる人が

俳優の伊勢谷友介さん。私は全く知らなくて、「いせたにともすけ?」「いせやゆうすけ?」と何と呼ぶかも知らないのですが、この伊勢谷さん、いいことを言っています。

以下、少しだけ転載します。(記事元はこちら)

〈今回のパリの事件は、どこにでも起こる可能性がある。人が人に銃を向けた事の人類のツケだ。正義の武力はないのだ。この繰り返しを過去の物にしなければならない。〉

〈人生は苦しい。社会も不具合だらけ。受け入れ難い事実もある。でも現在はそれが人間というものであり、事実そのもの。見つめることで、できることを見つける。人間が作る不具合は、今を生きる人が改善する。その行動が「志事」となり、社会を支え、未来を創る。〉



この記事を書いた方は、次のように書いていました。

“対テロ戦争は仕方ないこと”だと思考停止する人びとに“諦めるな”と警鐘を鳴らしたかったのかもしれない。


世の中、受け入れがたいこと、理不尽なことがたくさん起こります。
でも、諦めてはいけないんだ、って。

この伊勢谷さんの言葉に、昨日引用した言葉を思いました。

「闇の中に光を見いだすなんて言いますけれど、
 光なんてどこかにあるもんじゃありませんね。
 何がどんなに辛かろうと、それをきっちり引き受けて、
 こちらから出かけて行かなきゃいけません。
 光ってるものを探すんじゃない。
 自分が光になることなんです。
 それが闇の中に光を見いだすということじゃないでしょうか。」

| ひとりごと | 20:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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闇の中に光

先日のパリのテロで、奥様を亡くしたご主人の言葉が多くの共感を呼んでいます。
facebookでも、朝日新聞でもそのメッセージが紹介されています。
私もそのメッセージを読んで、心打たれました。

 金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。

 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。

 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。(朝日新聞デジタルより)


「憎しみという贈り物はあげない」。
なかなか出来ることではありません。このような目に遭ったら、憎む方が簡単だから。
でも、誰かを憎んだら、その憎む誰かに心は支配される。
そんなことに支配される人生はいらない。
だから、憎まない。憎しみを連鎖させない。


今読んでいる本で、明治時代に生まれたある女性のことが紹介されていました。
その方は、18歳の時、縁談が整った後にハンセン病になりました。
それから2~3年の内に父親と母親が相次いで亡くなりました。
度重なる不幸に自殺を図るけれども、その度に助けられ、療養所の入れられます。
病状が進んで、全身が麻痺し、目も見えなくなりました。
目が見えなくなってから、口述筆記で本を出しました。
その中に次のような一節があるようです。

「闇の中に光を見いだすなんて言いますけれど、
 光なんてどこかにあるもんじゃやりませんね。
 何がどんなに辛かろうと、それをきっちり引き受けて、
 こちらから出かけて行かなきゃいけません。
 光ってるものを探すんじゃない。
 自分が光になることなんです。
 それが闇の中に光を見いだすということじゃないでしょうか。」


この引用文のあとに、著者は次のように書いています。
全部取り去られて、自分を生かそうとしても生かしようがない、そんな状態を恨まず、呪わず、誰彼の責任にせず、それをきっちり引き受けることによって、彼女のタラントは僅かであるにかかわらず十分に生かされて、人をして奮い立たしめるような生き方をしておられる。

この女性の言葉を読んだ時に、このフランス人のご主人のことを思いました。

憎んでも、恨んでも仕方の無い状況であっても、それはせずに生きていく。
楽な生き方では決してないけれども、そういうことが、誰にも奪えない幸せに繋がっていくのだろうと思いました。

私にはまだまだ達し得ない境地ですが・・・。

| ひとりごと | 19:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「障がいのある子どもの出産を・・・」発言

今日、大きな怒りを覚えた記事を読みました。目にした方も多いと思いますが、茨城県の教育委員に就任した長谷川智恵子(71)の言葉。

以下、朝日デジタルより転載。

茨城県の教育施策を話し合う18日の県総合教育会議の席上で、県教育委員が障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」と発言した。

 発言したのは、今年4月に教育委員に就任した東京・銀座の日動画廊副社長、長谷川智恵子氏(71)。発言を受け、橋本昌知事は会議で「医療が発達してきている。ただ、堕胎がいいかは倫理の問題」と述べた。長谷川氏は「意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などとした。

 会議後の取材に、長谷川氏は出生前診断の是非などについて「命の大切さと社会の中のバランス。一概に言えない。世話する家族が大変なので、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」などと話した。

 橋本知事は取材に「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」とし、長谷川氏の発言に「問題はない」と話した。


どうしてこんな人権感覚のかけらも無いヒトが教育委員になれのか。本当に酷い発言。
胎内に命が宿ったのです。その命を、「障がいの可能性があるから、生むのは止めるべき」と言うのは、「こ ろしてまえ」と言っているのと同じです。
批判が殺到して「言葉が足りなかった」と発言を撤回しているけれど、そういう問題ではないでしょ。

私の子ども2人とも軽度の発達障がいがありますが、私は彼等が生まれてきてくれてよかったって思っています。
大変なこともありますが、子育てをしている人は誰でも、何等かの大変さを感じていると思います。

それに、障がいがあることが”大変”だと言うならば、それは障がいのある人たちの責任ですか?
違います。
”大変”にさせている社会の責任でしょう。
この教育委員のように、自らは何の努力もしようとせず、弱さある者を排除しようとするのは、許せない。

それに、県知事の「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」と、この教育委員の発言を「問題ない」と言うのも、おかしいです。

「産むかどうかを判断する」って、「生かすかこ ろすか判断する」っていうこと。 


障がいがあるのは、そんなにいけないことですか?
障がいがあって「大変」と言うのならば、「大変」にならないような社会を作る努力をするべき。
なのに、そんなことはしようとせず、「障がい」ということにレッテルを貼り、差別を助長していくような発言を繰り返す。

私は本当に、そういうの許せません。

| ひとりごと | 20:54 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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パリの同時テロに思うこと

パリの同時テロ。
新聞の一面ばかりではなく、数ページを割き報道をしている。
写真だけでも、その悲惨さが伝わってくるのだから、その場にいた人たちはどんな悲しみ、苦しみを負ったことでしょう。
このようなテロは決して許されるものではありません。どんな理由があろうと、人の命を奪うことは、誰であっても許されるものではありません。

このパリの同時テロで、facebookでは、自分のプロフィール写真をトリコロールに染めることができて、利用している人もいます。

でも、私はそんなことをするつもりはありません。
犠牲になった人たちのことを思うと、胸が本当に痛みます。でも、だからと言って、フランスという国に哀悼の意を示そうとは思いません。

どうして、フランスが狙われたのか。どうしてテロが繰り返されるのか。

フランスの振る舞いについて、簡潔に書いている方がいました。以下、一部転載。

 フランスが帝国的な国として振る舞い続ける限り、フランスはいつまでも、このような悲劇のリスクを負い続けるだろう。

 サイクス・ピコ協定でオスマン帝国支配下にあったアラブの地を山分けし、現在のシリアとレバノンの枠組みを作り出したのはフランス。
 その地に今、「対テロ」空爆を仕掛けているのもフランス。

 アフリカに広大なフランコフォニー(フランス語圏)とフラン通貨圏を維持し、(ソマリア紛争に深い関わりを持つジブチをはじめ)大規模な軍事的プレゼンスを継続させ、アフリカに強力な政治的・財政的・軍事的グリップを有する「帝国」であり続けるのもフランス。

 1990年代に「英語圏」から侵攻した愛国戦線を嫌ってルワンダの虐殺勢力を支援・庇護したのも、西サハラを占領するモロッコ王権を支持し国連PKOに人権監視任務を付与することを拒否し続けているのもフランス。多数のアフリカの独裁者らを支えてきたのもフランス。

 そして、リビア、マリ、中央アフリカの紛争に軍事介入し、イスラーム聖戦主義勢力との戦いに次々踏み込んでいったのもフランス(その背景にはフランコフォニーの盟主としての「責任」意識はもちろん、サハラ・サヘル地域のフランコフォニーに対する支配的影響力を脅かしたカッザーフィー大佐の排除、ニジェールにおけるウラン権益の擁護などの動機があった)。

 こうした紛争、占領、独裁の犠牲になった人々に―それどころか、ほぼ同時に発生したレバノンにおけるテロ事件の犠牲者たちに―今のパリの犠牲者や、(あの糞みたいな自称「諷刺画」でムスリムを嘲笑った)シャルリー・エブド誌の人々に対するのと同じくらいの哀悼の意を、私たちは示してきただろうか?

 フランスが「帝国」に執着する政治を続ける限り、無辜の(ひょっとすると「帝国」的なフランスを支えてきたという意味で「無辜」ではない人もいるかもしれない)市民を巻き込む悲劇が繰り返される危険は決して消えない。

 しかし、シャルリー・エブド襲撃事件に続く今回の事件で面目を丸潰れにされたフランス社会党政権は、今後さらに中東やアフリカでの「対テロ戦争」にのめり込むだろう。イスラーモフォビアもますます強まる恐れがある。

 これは、「新安保法制」が成立してしまった日本にとっても他人事ではない。自省のためにしっかりと問題を直視しなければならない。

 フランス国旗をアイコンに掲げたところで、問題を直視することにも、上に挙げたような広範な犠牲者たちに想いを馳せることにも、つながりはしない。

 連帯を示すつもりで、フランスの愛国主義をいたずらに煽るようなことを、私たちがするべきとは思えない。それは何の連帯にも哀悼にもならないと思う。



また、ある方は、
「フランスの犠牲者と違って日々のニュースとしてやり過ごされていく、パレスチナや、アフガニスタンや、イラクや、シリアや、トルコや、マリや、ソマリアや、スーダンや・・・その他多くの国で日々犠牲となっている人々のために(その中にはフランスの軍事力による犠牲になった人々もいる)、哀悼の意を表したい。」
と書いています。

また、インドのブロガーのKaruna Ezara Parikh(カルナ・エザラ・パリクさん)は次のような詩を書いています。 

私たちが捧げるべきなのは、パリへの祈りではない。
世界への祈りだ。

パリの2日前に連続自爆攻撃にさらされたベイルートのことは
ニュースで伝えられない、そういう世界に祈りを捧げよう。
バグダッドの葬儀場が爆撃されても、死者に白人がいなかったから、
誰も「バグダッド」について投稿しない、そういう世界に。
祈りを捧げよう、

テロ攻撃を難民危機のせいにする世界に。
攻撃者と、あなたと全く同じものから逃げようとしている人とを
区別しようとしない世界に。

祈りを捧げよう、
背中に背負ったもの以外何ひとつ持たず、
何ヵ月もかけて国境を越えてきた人びとが
おまえたちに行くところはないと言われる世界に。

パリのために、ぜひとも祈りを捧げよう、
でもそれだけではいけない。

祈ろう、
祈りを持たない世界のために。
もはや守るべき家を持たない人びとのために。
身近な高層ビルやカフェだけでなく
いたるところで崩壊しつつある世界のために。


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命の重さは同じはずなのに。
パリでのテロは報道されて、レバノンでのテロは報道されない。(ベイルートでの自爆攻撃)

何度か引用していますが、改めて、筑紫哲也さんが広河隆一氏の『写真記録集 パレスチナ』に寄せた推薦文を。

9・11の前にもあとにも、もっと多くの「罪もない人々」が殺され続けた。
彼らについては、9・11のように個々の物語が語られ、メディアの脚光が当てられ、大々的な追悼行事が行われることはない。
アメリカ人もアフガニスタン人もパレスチナ人も、生命の価値は同じはずなのに、ここには不当といってよいほどの情報の「非対称」が存在する。

9・11の「衝突」に至る道筋の根源として「パレスチナ問題」があり、その解決なくして、どんな「衝突」が繰り返されようとも終わりはやってこないことは今や明らかである。



祈ろう。
あらゆる人の命が、その国籍や肌の色にかかわらず、同じように尊重されるように。
この地球上のすべての人が、理不尽に命が奪われることのないように。

いつの日か、憎しみが一掃され、争いがなくなり、全ての人が安心して笑顔で生きることができますように。

そして、憎しみを一掃するのは、自分自身の決断。



「テロ組織が起こすテロだけがテロか?ガザで学校にいた子ども達にミサイルを撃ち込むことはテロではないのか?結婚式の車列の上にドローンから爆弾を落とすことはテロではないのか?無差別に国民の頭上に樽爆弾を落とすことはテロではないのか?中東をここまで崩壊させた事が憎悪と狂気を産んできた」(ツイッター)


「テロは許せない。でも、ISに空爆する有志連合だけが人類で、文明国で、普遍的な価値を代表しているの?」

| 新聞記事 | 16:00 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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授業参観で

今週は珍しく忙しく過ごし、これまた珍しく疲れもあって、パソコンに向かう時間がゆっくり取れませんでした。

土曜日の今日も次男の学校の授業参観があったので、あまりゆっくりは過ごせませんでした。

授業参観は4時間目だけで、並行してバザーも開催されていました。
運動場には多くの車が駐車していましたが、次男の授業を見に行ったら、保護者は誰もいませんでした。
途中、お一人来られたのですが、すぐに帰ってしまいました。
中学校の授業参観って、こんなものだったかな?

今日見た授業は体育でバスケットをしていました。
3人チームで初めはシュート練習、それから3人対3人で試合。
細くて、運動音痴な次男はシュートはたまには入るものの、ボールを受けるのが超ドヘタ。

試合が始まると、次男は一応コート内にはいるのですが、次男のチームは残りの2人でゲームをしているようなものでした。
次男にボールをパスしても、後が続かないだろうから、それはそれで仕方ないのかもしれませんが、次男を見ていると、ちょっとやるせない思いになりました。

同時に、ボールはほとんど回ってはこないけれど、相手のボールになんとかくらいつこうとしている姿にジーンとしました。
平均的な中学2年生から見たら、次男のプレイはもどかしいものかもしれませんが、でも、次男は彼なりに一所懸命なのですよね。

次男のチームの様子に気がついた先生(この日は2クラスの男子合同の体育)が、次男のチームに補助的に入り、先生がボールを持ったら、次男にボールをパスして、シュートの機会を与えてくれていました。
一度目は外れましたが、もう一度ボールを回してくれて、二回目はきれいにシュートが決まりました。
その時の次男のガッツポーズが印象的でした。
そしてまた、先生の心遣いも嬉しかったです。

先日、『「みんなの学校」が教えてくれたこと』という本を読みました。
これは、大阪市の大空小学校の校長だった方が書かれた本ですが、もうすっごくよかったです。
その小学校には特別支援学級はなく、障がいがあっても、クラスを分けることはしないで、みんな同じクラス、同じ学年で学んでいるのです。

排除するのではなく、「その子といっしょに学べるにはどうしたらいいか」。
そういうことを子ども達と考えていっているのです。

次男の体育を見ていて、先生はそういうことを、体で教えてくれたのかなって思いました。

「みんなの学校」、映画にもなり、その公式サイトがあります。ぜひ見てみてください。

こちら→「みんなの学校」

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木村 泰子

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| 子育て・教育 | 19:54 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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老い、ということ

先日、仕事から帰ったら、何の連絡もなく父が来ていて、驚きました。はるばる神戸から、高速バスに乗って。
突然何故来たかというと、こちらの方で良さそうな老人ホームがあるから、見に来たということでした。

父が持っていたパンフレットを見せてもらったのですが、年金生活をしている父には、その老人ホームは年金ではかなり厳しいものでした。具体的に数字をあげて説明すると、次の日に電話を掛けて、その老人ホームに断りの電話をかけたようです。

「ああ、こんな簡単な計算も難しくなってきたのか・・・」と、ちょっとショックでした。
また、82才にしてはかなり老け込んでいる父の姿にも。

本当は私と住めたらいいのかもしれませんが、私と父は性格が正反対。
私からすると、父は物事を「○○できない」と否定的にばかり考えます。
そんな否定的な言葉ばかりを聞いていると、しんどくなります。
一人の生活が長い父を思うと、一緒に住むのが娘として当然、との思いはあるのですが、多分、一緒に住む時間が長くなればなるほど、私のストレスが大きくなるような気がします。

ただ、父の後ろ姿を見ると、こんなに老いてしまった親を、そんなふうに思うのは冷たすぎるのではないか、どうしてもっと優しくなれないのかって思います。

いずれは同じように老いていく自分自身を見たくないからでしょうか。


『闇への道 光への道―年齢(とし)をかさねること』 という本を読みました。

そこには、次のように書かれていました。

真の世話は、私たちが恐れの壁で互いを隔てるのをやめて、どちらも同じ土台の上にいることを発見したときに可能になる。その土台とは、我々は死すべきもの、ゆえにこのうえなく貴いものという、人間に与えられた現実である。

「自分も老人と同じく、限られた時間を生きてゆくもの、やがて死すべきもの、ゆえに歴史のなかの一通行人にすぎない」とも書いていました。

私も父も有限の命を生きる同じ人間。限りのある命だから、いつかはその命の期限がくる。
その期限が先に来るか、後に来るかという違いはあるけれど、同じように老いを迎え、終わりを迎える。

そのことを本当に諒解していたら、目をしっかりと開いて、理解しようという思いが出てくるのではないか。


老いていくということが、実際にどういうことなのか、私にはまだ分かりません。
ただ、老いていくということに、抗いたい思いがあるとしたら、それは、もしかしたら「今までのように何も出来なくなっていく自分」を受け入れたくないのかもしれない。

でも、何かができなくなっていったとしても、私であることには変わりないんですよね。
人の価値は、物事をどれだけ効率的にできるとか、どれだけ財産やモノや権力を持っているとか、そういうことでは決してきまらないんですよね。

与えられた命を、生涯をどれだけ大切に生きているか。


まとまりのない文章になってしまいましたが、父が突然やってきて、父の姿を見て、今まで考えたこともなかった「老い」ということに、戸惑っている私です。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(聖書:イザヤ43:4)

この神様の言葉がじーんと心深くに響いています。

| ひとりごと | 19:58 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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渡辺和子シスター

先週の金曜日、金スマに渡辺和子シスターが出演されました。
生で見られなかったので録画したのですが、それを今日やっと見ることが出来ました。(土曜日が仕事だったので、今日は振替休日・・・3連休です♡)

冒頭部分からもう涙が溢れて、感動しながら見ていました。
見終わって、心が洗われた、そんな感じがしています。

『置かれたところで咲きなさい』がベストセラーになり、その名が知られるようになった渡辺和子シスター。
私がシスターを知ったのは、7~8年前になります。

『愛と祈りで子どもは育つ』という本を本屋さんで見かけました。
その時は、「いくらシスターと言えども、結婚していないのだから子育てのことまで分かるはずはない」と思い、通り過ぎました。
でも、その後まもなく、朝日新聞の日曜版に1面で渡辺和子シスターの講演CD集の広告が掲載されました。
そこに載せられている感想に何か感じるものがあったのでしょう。
一度は通り過ぎた『愛と祈りで子どもは育つ』を購入しました。

読み進める内に、「結婚していないシスターに、子育てのことまでは分かるはずはない」と思った自分の傲慢さ、偏見を悔い改めました。

そして、シスターの本を数冊買い求め、図書館ではシスターの著作集を借りて読み進めました。
本を通してだけでも教えられること、励まされることがたくさんあるのですから、実際に大学で教えを受けている学生さん達はどんなに多くのことを学んでいるかと思うと、羨ましいなと思います。

今でこそ、私は本をそれなりに読んでいますが、結婚してからの数年間はあまり本を読んでいませんでした。
でも、シスターの本を読むようになってから、読書の楽しさに目覚めました。
そして、そこから本当に色々な方やジャンルの本を読むようになりました。
読書の楽しさ、大切さをシスターに間接的に教ていただいことになりますね。

なので、一度もface to faceでお目にかかったことはありませんが、勝手に親近感を抱いていました。
でも、今回の放送を見て、より一層親近感を覚えてしまいました。

シスターが若くして大学の学長になられた頃の、先輩シスター達との葛藤をお話になっていた時に、大竹しのぶさんが、
「神の道を行く人でも、嫉妬はあるのですか?」
と聞くと、
「でなければ、人間ではないと思います。」
と答えていらっしゃいました。


そう仰るシスターに、正直なシスターになんとも言えない信頼感を覚えました。
人の弱さを知って、認めて、それを裁きの手段にしない。
パウロは「私は罪人のかしらです」と言いましたが、シスターも同じように自分をそうと認識しているからこその答えなのだと思います。

そしてだからこそ、イエス様がどうしても必要で、愛していらっしゃるのだと。

番組の最後で大竹しのぶさんが歌っていた「THE ROSE」も素適でした。

| ひとりごと | 13:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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障がいがあってもなくても

昨日、今日と障がいに関する記事を見つけました。
今まで気づかなかったこと、そうだとは思わなかったことについて教えられ、新たな発見を与えられました。
と同時に、私もどこかやはり偏見を持っていたと教えられました。

一部転載します。

一つは、<子どもたちの「働く」を諦めない>(記事元こちら)

彼らはみんな普通の子です。他の高校生と同じですよ。やっぱり誰かに信頼されればうれしいし、仕事を任されたら一生懸命やりきろうとするものです。「仕事しなくていいから君はそこにいればいいんだ」と言われて、そこに喜びを感じられるでしょうか。自分は頼りにされている、自分の仕事がみんなから感謝されてる、そういう感覚が得られることがとても大事なんだと思います。

彼らと私たちは対等であるべきです。例えば、今の時代に「眼鏡」が存在しなかったら、今眼鏡をかけている人のほとんどは障がい者ですよ。眼鏡があるおかげで「障がい者」とは言われませんけどね。障がいというのは、自分の身体のことではなく「周囲が受け入れられない状態になっている」ことなんじゃないでしょうか。つまり、周囲のみんなが普通だと思えば普通になるということ。「障がい」でなくなるんです。

「ああ、そういえばヤツは車いすだったなあ、いつも座って仕事してるからついつい忘れちゃったよ」みたいな、そのくらいでいいんじゃないでしょうか。例えすぐにはそうは思えなくても、障がい者の雇用は少しずつよくなってきています。今の障がいが、障がいとは思わなくて済む時代に、少しずつ近づいていけばいいですね。


もう一つは、<社員の70%が『知的障害者』 日本理化学工業という会社が凄い!>(記事元こちら)

会社創立は昭和12年ですが、知的障がい者の雇用は昭和35年2人を雇用したのがスタートでした。このような障がい者多数雇用を目指したのは、禅寺のお坊さんから

「人間の究極の幸せは、1つは愛されること、2つ目はほめられること、3つ目は人の役に立つこと、4つ目は人に必要とされることの4つです。福祉施設で大事に面倒をみてもらうことが幸せではなく、働いて役に立つ会社こそが人間を幸せにするのです」と教わったからでした。



初めの養護学校の先生の話と、二つ目の理化学工業の話は同じことを言っているんですよね。

重たい障がいがあっても、必要とされたいし、感謝されたいし、誰かの役に立ちたいというそういう思いがある。
何等かの障がいがあるから、必要な援助は必要だけれど、援助されるだけではなく、自分も何か役に立ちたい、誰かのために働きたい、そんな思いは同じようにあるのですね。

正直な所、重度と呼ばれる障がいがあると、そんな思いとは無縁だと思っていました。
でも、違うんですよね。
障がいがあっても、それがたとえ重度であっても、抱く思いは同じなのですよね。
だって同じ人間だから。

星野富弘さんが、
「いのちというのは、自分だけのものではなくて、
 だれかのために使えてこそ
 ほんとうのいのちではないか」

「自分のためだけに生きようとしたときは、ほんとうの意味で自分のいのちを生かしているのではない。」

と本に書かれています。

誰かの役に立ちたい、必要とされたい、それは、一所懸命に自分の命を生きようとしているからなのですね。

| 発達障がい | 20:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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