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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2016年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年09月

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ひとりごと・・・

早いもので、今日で8月も終わり。
夏休みだからと言って、休みが多いわけではない私。
ということで、特に何もしないまま過ぎてしまった・・・例年の如く。


最近、内村鑑三関連の本を読み続けてます。
数年前に読んだ内村鑑三による『一日一生』より、今日8/31のメッセージ転載。

おお来たれ、来てキリストの僕となれよ。
何ゆえに世の罪悪を罵って憤死しようとするのか。
何ゆえに社会の無情を怒って切歯するのか。
汝は汝自身について憤っているのである。
汝自身の内に調和がないために、汝は汝の不安を木と岩と世と人とに向かって発しつつあるあのである。
来て主の平安を味わってみよ。
これがすべての思念に過ぎる平安である。・・・


私の現状を思うと、タイムリーなメッセージ。


何かと思うことの多い8月でしたが、こんなかわいいわんちゃん達に、心和みました。

犬と子ども
画像拝借・・・こちらから。他にもわんちゃんと子どもの胸キュン写真がいっぱい)

| ひとりごと | 21:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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内村鑑三

『身近に接した内村鑑三』という本を読んでいます。
上中下巻と3巻あって、今下巻を読んでいる最中ですが、ますます内村鑑三に魅せられていきます。

内村鑑三の色んな言葉が紹介されていて、教えられることが多いです。
その中で、昨日はこんな言葉に出合いました。

愛を与えよと祈るのではない。
すでにもっている愛を、使うことを得しめ給えと祈るべきである。



ふとした折に、愛のない自分を感じ、神様に愛を与えてください、と祈ることがあります。
でも、この内村鑑三の言葉が、すとんと腑に落ちました。

生きていく上で大切な愛を、神様はちゃんと与えて下さっているんですよね。
それをいかに生かすか、それは一人一人にかかっている。


もしもタイムスリップすることができるのなら、内村鑑三の話を聞いてみたい。
あの時代に、彼の話を聞くために、朝に夕に500~800名近い人が集まったというのだから、それも毎週日曜日、凄いなと思います。

| 聖書・信仰 | 14:14 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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エアコン

控えないといけないとは分かっていますが、愚痴です・・・苦手な場合はスルーして下さい。


夏は暑いです。
気温が30度になれば、県からのお達しでエアコンをつけてもいいということになっています。
30度に達してなくても、つける所もあります。
でも、私が勤務する所では違うんです。

夏休み前、登校時刻の頃から気温は30度。
子ども達も暑がっている。
そこで、1人の先生が「30度を超えているから、エアコンをつけてもいいですか?」と上司に聞いた。
すると、上司は
「10時までは、つけてはダメ」

そのやりとりを知らない、他の先生がエアコンをつけてもいいかと聞きに行った。
すると、上司は
「みんなそうやって、楽をしようとする。10時まではつけてはダメ」

と言うことで、気温が30度を超えていて、どんなに暑くても、汗が流れてきても、10時なるまではエアコンをつけられない。
ただ我慢あるのみ。


そして、夏休み。
夏休みでも、働いている保護者のために、必要のある子ども達を見ています。
朝から暑くても、上司がいる時はエアコンをつけるのは10時を過ぎてから。

上司が夏休みを数日間取った時は朝からエアコンをつけました。
久しぶりに上司が来る日、8時にはすでに30度。
上司が来るのは分かっていたけれど、先生方は
「(気にせず)エアコンをつけよう」とエアコンをつけました。


しばらくして、上司が出勤。
職員室のドアを開けるなり
「朝からエアコンがついてるわ。どうして?誰がつけたの?」

「気温が30度になったから、エアコンをつけました」
と言うと、
「それは、単なる目安。つけないといけないわけではない」

と締めていた窓を全開にした。

昔はエアコンなど学校機関にはなかったことを思うと、エアコンをつけたいと思う私たちが甘えているのか?
扇風機があるのだから、10時まではそれで我慢すべきなのか?

| ひとりごと | 21:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ホップ ステップ・・・それから?

今日8/25の朝日新聞のオピニオン面の下の方に「注目の論点」として小さな記事がありました。
その中で7月に起こった障害者施設の殺傷事件について、
「亡くなられた方々は、なぜ地域社会で生きることができなかったのか?」
という論考について少しだけ書かれていました。

この論考が「シノドス」というサイトに掲載されているということで、読んでみました。(記事元こちら・・・ぜひ読んでみてほしいです)
書かれている事に、私はその通りだと思います。以下少しだけ転載します。

●生まれる前から、死にいたるまで、障害者のまわりには、「いないほうがいい」というメッセージがいたるところにある社会なのだ。その社会のあり方こそ、まずは問われるべきでないだろうか。

●まず、なぜ、施設入所者は、施設で暮らさざるをえなかったのか。言葉は悪いが、地域社会から見捨てられたからではないだろうか。地域社会が受け止めてくれるのなら、なにも住み慣れた地域を離れて、不自由な集団生活がまっている施設に入ることはない。

●社会からの差別と排除のはてに施設に入り、多くの尊厳が奪われている命が、容疑者の目には社会にとってのムダと映った。そういう思考の道筋は、容疑者固有のロジックではなく、現在の社会のあり方、あるいは人々の障害者に対する意識によってつくられているのではないだろうか。

●名前の公表すらはばかれるということは、入所者は社会から忘却されるべき存在と見なされていたということでないだろうか。


●「津久井やまゆり園での大量殺人事件には、強い怒りと深い悲しみを感じる。現在、多くの報道が特に容疑者に関して行われている。加害者のことを含め、なぜこのような残虐な行為が行われてしまったのか、私は知りたい。

同時に、暴力的に命を奪われてしまった被害者の方たちのことも、もっと知りたいと思う。生前お一人お一人、何を楽しんでいた方たちだったのだろう。何に取り組んでおられただろうか。

被害者には「障害者」という共通項はあるだろう。しかし、障害者である前に、どなたも障害者でない人と同じように、喜怒哀楽のある人生をそれぞれ送られていたに違いない。

被害者個人個人の姿、人となりを知ることで、私たちはこの悲惨極まりない事件からより深く、くみ取ることができるのではないだろうか。命の大切さを、一層痛切に学べるのではないか。」(2016年7月28日神奈川新聞 長瀬修氏(立命館大学)寄稿)



この記事を読んで、北海道にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点である「べてるの家」を思い出しました。(サイトはこちら)

そのサイトで、べてるの家が発行している「メールマガジン」のお知らせがあるのですが、その名称にすごくほっとしたものを感じました。

どんな名称かというと、

ホップ ステップ だうん

なんか、ほっこりするような気がしませんか?
「ホップ ステップ ジャンプ」はよく言いますが、「ホップ ステップ だうん」。
ダウンすることがあっても、いいじゃない。

高校進学に向けて、次男のことを考える今、こういう寛容さを次男は求めているのではないかって、胸がキューッとなりました。

| 心に響いた言葉 | 20:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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オリンピック

リオ・オリンピック。
見たい気持ちはあるけれど、ほとんど見てなくて、新聞で確認するぐらいです。
日本選手のみなさん、頑張っていますね。

日本選手ではありませんが、新聞で"いいな!”って思う記事を読みました。

一つは、キリバスの重量挙げの、デービッド・カトアタウ選手。
順位は14位でしたが、競技後のコミカルな動きで、会場を爆笑の渦に包んだそうです。

そのコミカルな動きには理由があるという。
キリバスは南太平洋にある小さな国で、平均標高が2メートルほど。
海面上昇の影響を受けやすく、「地球温暖化の影響を最も受けている国」の一つとされる。
30年以内に水没する危険性があるとも。

そのことに衝撃を受たカトアタウ選手。
「私たちにとっては国が消えるかどうかの切実な問題。それに気候変動は地球全体の危機だと、多くの人に気づいてほしい」
「私たちの国を救ってほしい」

世界の耳目を集めるオリンピックは絶好のチャンス。
そんな思いをもって、踊っているそうです。





もう一つは、今日の天声人語でも紹介されていた、陸上女子5000メートルでの出来事。

リオ五輪の陸上女子5000メートル予選で16日、接触して倒れた米国とニュージーランドの選手同士が互いを助けあった。米国のアビー・ダゴスティノ選手とニュージーランドのニッキー・ハンブリン選手のその姿は、オリンピック精神そのものだと称えられている。
(記事元こちら)

「助けたのは本能。私が助けたというより私の中の神様が助けた感じ。一瞬のことだったけど、世界中で共感を呼ぶなんて」
とは、アメリカのダゴスティノ選手。

「私の中の神様が助けた感じ」だなんて、素晴らしい。

さらに、いいなって思うのは、この2人の選手はこの予選では決勝進出はならなかったけれども、助け合う姿には多くの称賛が集まり、大会側は2人の決勝出場を認めた、ということ。
残念ながら、ダゴスティノ選手は右膝は前十字靱帯断裂などの重傷で棄権するということですが、ニュージーランドのハンブリン選手にはぜひとも頑張ってほしいです。


オリンピック、メダルだけではないんですね。
日本人選手の活躍はとても嬉しく、感動しますが、こんな素適なエピソードにも感動します。

| ひとりごと | 20:14 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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そんな母になりたい?

1人で農業 祖母の姿に学ぶ

 部活引退後、農業をしている祖父母を手伝っている。祖父の目が見えにくくなり手術した。祖母は足が不自由で大変なのに1人で野菜を育てている。「野菜を世話せんと。おいしいのが育たん」と、しんどい体を動かす。

 祖母をずっと手伝いたいが、私は学校に行かねばならず、休日か放課後しか手伝えない。いつも帰り際、「たくさん手伝ってくれてありがとね」と言ってくれる。うれしいが帰るのが嫌な気持ちになる。休校になればいいと思うこともある。

 ある日、祖母にそれを言ったら怒られた。自分のすべきことが出来ないならくるなと。心に響いた。めんどくさかろうが、しないといけないことは、やらないといけない。弱音を吐かず頑張ろうと思えた。祖母が私の祖母でよかった。祖母のような姿を私もいつか誰かに見せたい。


今日8/19の朝日新聞「声」欄にあった投稿です。投稿主は高校生の女の子。

祖父母を手伝いたいという思いが、優しい。
そして、祖母の言葉に、その通りだ、頑張ろうって前向きにとらえている姿がいいな。

自分のために言ってくれていると分かっても、「自分のすべきことが出来ないならくるな」と言われたら、さて、私だったら、どう感じただろう?
この女の子のように、前向きに考えることができるだろうか?
「そんな言い方をしなくても、いいじゃない」って、思ってしまいそう。

おばあちゃんの日頃の言動から、おばあちゃんのことを信頼しているから、そのようにとらえられる、ということもあるでしょうね。

「めんどくさくても、しないといけないことは、やらないといけない」
そう、私も子どもに言いますが、そんな私の言葉を、子どもはどんな風に聞いているのだろう?

この女の子のように、その通りだって思ってる?

それとも、
「お母さん、またうるさいことを言ってるな」?
「そう言うお母さんはどうなの?」


子どもは信頼してくれているかな? そんなことをこの登校を読んで、ふと思いました。
「母の姿に学んでいます」・・・なんて言われたら、嬉しいですよね。
そんな母になりたいです。

| 新聞記事 | 19:24 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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ピアノ

ピアノの調律をしてもらってから、ピアノの上の蓋を開けて弾くのにはまっています。
音の響きがいいんです。
響きがいいから、上手に弾いているように感じられて、気分もよくなります。単純ですが。

平日は仕事をしているので弾く時間はありませんが、休みの日には楽しんでいます。
北側と東側に一軒ずつ家がありますが、うち一軒は大きな庭のある家、もう一軒は外出の多い家、そしてあとは田んぼなので、音も気にせずに弾けます。
(簡単な)クラッシックや賛美や、ポール・モーリアをよく弾きます。

今特にお気に入りなのが、これ。

"O Lord You're Beautiful"



ポール・モーリア「蒼いノクターン」



あと、ピアノを弾いている時に思うのが、「ピアノってボケ防止になるよね」って。

| ひとりごと | 20:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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8月15日に

今日8/15の朝日新聞 「声」に、

<残された者が語り継がねば>と題して、六十代後半の男性の投稿が掲載されていました。
その後半部分を転載。

いつの世も、一握りの人間が起こす戦争で逃げ惑い、殺され、家を焼かれるのは無辜の民である。
戦争体験者がいずれいなくなっても、あるいは平和憲法が骨抜きにされてしまったとしても、
そのことだけは残された私たちが語り継いでいかなければならない。
それが、新たな戦争体験者そ生み出さないための唯一の方途である。



日本国憲法は守りたい。
でも、もしかするとアベ政権によって、日本国憲法が壊憲されるかもしれない。

万が一にもそうなってしまったとしても、それで終わりではない。
もしも、たとえそうなったとしても、だからと言って、そこで諦めてしまっては、投げ出してしまってはいけない。
やらなきゃいけないことは、やっていかなきゃいけない。

日本国憲法は守りたい、その気持ちに嘘はない。
ただ、たとえ日本国憲法が骨抜きにされようが、壊憲されようが、それで平和が、平和への願いが消え失せるわけではない。

日本国憲法を偶像にしてしまってはいけない。
そんなことを、この投稿記事を読んで思いました。

そして書きながら、
「私は、憲法は絹ハンカチではない、台所を朝昼晩清めるぞうきんのように使えということを言いたいです。日用品です。」との、むのたけじ氏の言葉が思い起こされました。


この投稿欄の次頁の朝日歌壇にあった短歌も。

死ぬ側で無残に戦死せし人を死なない側の人が称える(群馬県の男性投稿)

戦争を始めようとする人たちは、自分たちは絶対に安全地帯にいると確信している人たち。



吉永小百合が「戦争反対を言えない空気」に危機感を表明し「憲法9条は絶対に変えさせない」と戦闘宣言(リテラ記事)

| 新聞記事 | 19:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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赤川次郎さんのコラムを読んで

日曜日の朝日新聞には、本の紹介紙面が3ページだっかな(?)あります。
今日は「これからの君へ ひもとく 歴史に学ぶ」ということで、赤川次郎さんが戦争に関する本の紹介とコラムを書いてました。

「もういい加減、戦争責任の話はやめてほしい」と、うんざりした顔をする人は少なくない。
確かに、今青春を迎えている人々にとって、遠い戦争の「咳に」と言われても戸惑うばかりだろう。
しかし、私たちは常に「次の戦争を起こさない責任」を負っているのだ。
そのためには、かつて戦争がどのように起こり、人々はなぜそれを止められなかったのか、学ばなければならない。

とは赤川次郎さんの言葉。

次の戦争を起こさせない責任・・・そんな大袈裟なって思うかもしれないけれど、それだけの意識を持っていないと、今の状況では簡単になびかされてしまうのではないかと心配になります。

中国人や捕虜に対してだけでなく、同じ日本人に対しても、残虐非道なことをした人たちがいます。医師にもいます。
「戦争がそうさせたのだ」との声もあります。

しかし、罪は戦争にあった、と本当に言えるのだろうか、と私は疑問に思う。
あの東日本大震災での福島原発事故。
放射能被害者に対し、「心配ない」「大したことない」と言い続け、被曝した子ども達への影響まで、平然と否定する医師を見ていると、戦時下でなくても、医の倫理が失われることはあると思わないわけにはいかない。
(by 赤川次郎)


戦争がそうさせた一面もあるだろうけど、それが全てではないのだと思います。
こういうニュースを知ると、なおさらにそう思います。

長崎原爆の式典で安倍首相に「改憲反対」と叫んだ参列者を警察が拘束! 取材中の不当聴取なのにマスコミは抗議も報道もせず(記事こちら)

記事によると、男性は式典の参列者であり、何か暴行を働いたわけでも、妨害行為を行ったわけでもない。たんに「改憲反対」と述べただけ。それだけで無理やり事情聴取をされた。
まるで戦中ではないかと思います。


子どもを守りたい。あの時代のような目にあわせたくないです。
為政者たちが真っ当に行動してほしいと思います。一人一人、その命に尊厳が、自分にもあるように他の人にもあることを分かって欲しいです。



記事で紹介されていた本のうち、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 と 『ピエールとリュース』は読みたいなと思いました。

| 新聞記事 | 20:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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やめてほしい

四国に住んでいる者として、これは到底受け容れられない・・・愛媛 伊方原発3号機が再稼働(ニュース記事はこちら)

なんて愚かな・・・。

「避難などの課題が残されています」と言うけれど、避難がどうのという問題ではない。


「1人だけ反対と言うわけにはいかない」
「行きがかり上なくてはならないものになったが、事故が心配」
とは町民の声。

飯舘村で被曝した女性は、その著書の中で次のように語っています。
(以下、『福島、飯舘 それでも世界は美しい』 小林麻里著 より転載)

福島、飯舘 それでも世界は美しい福島、飯舘 それでも世界は美しい
小林 麻里

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● (原発事故が)起こってしまったら、訓練の賜物で放射能からは迅速に逃れることはできるかもしれませんが、心の危機からは絶対に逃れることはできません。

● 放射能よりも恐ろしいのは心が壊れてしまうこと。

● 確かに、今回降り注いだ放射能によって「ただちに健康被害はない」のかもしれません。けれども、目に見える物は何一つ破壊されていない、この明るく美しい放射能地獄の中で、避難区域だけでなく福島のすべての人たちが、真綿で首を締められるような苦しみに苛まれ、翻弄されて、心が壊れてしまう危険に曝されています。人は心が壊れてしまったら生きることが困難になってしまうのです。このことこそが、原発事故におる放射能汚染の最大の恐ろしさなのではないかと思います。

● 理由を言ってはいけない。この世にはどんな理由があろうとも絶対にやってはいけないことがある。ある正当な理由の元に、戦争もホロコーストも原爆投下も行われた。今も戦争は続き核兵器は数え切れないほど存在している。
 原発をやめない理由なんて、それこそ掃いて捨てるほどあるだろう。理由を言ってはいけないのだ。原発はどんな理由があってももうこの世に存在してはいけないのだ。私は自分が被曝者になり、そんことをはっきり自覚した。



事故が起こらないことを願うけれど、100%ないとは絶対に言えない。
その時、どうするというのだろう?


放射能、直ちに健康に影響はないかもしれない。でも、心へのダメージは「ただちに影響がある」。
この本を読めば、そのことが伝わってくる。

心にダメージを受け、心が壊れてしまったら、人は生きていくのが苦しくなる。
原発の再稼働は、そういったものと引き換えてもいいほどのものとは思えません。
やめてほしい。

| 世の中のこと | 21:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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