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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

2017年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年12月

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お兄ちゃんの誕生日

今日は長男の誕生日。18歳になりました。誕生日になると、誕生した時のことを思い出します。出産予定日よりも11日遅れで出産。初産で3560グラムとちょっと大きめに生まれてきました。子どもを授けられて初めて「愛おしさ」って、こういう感情なんだって知りました。

あらから18年。色んなことがありましたし、これからもあるでしょう。空気は読めない、目の前のことに精一杯で周りに配慮が行き届かない時はよくある。友だちはほとんどいません、今は。でも、素直で優しくて、笑顔が最高に似合う。すれたところが全くない。私のことをとても気遣ってくれる。

そんなとっても素適なお兄ちゃん。あなたの希望する道へと進めますように。恵み豊かに溢れる18年目となりますように。誕生日ケーキは土曜日に作ります。

18歳

お兄ちゃん

子どもとの日々。
子ども達との時間を楽しむ時もあれば、一人でいたいなって思う時もある。
色々と要求(いや、強要?)してしまう時も。
笑い合う時もあれば、腹立つ時も。

いろんな時を子どもと一緒に過ごすけれど、
愛おしさは、いつもある。

そんな愛おしい子ども達に・・・

♪ きょうまでまもられ(聖歌292番)

今日まで守られ 来たりし我が身
露だに憂えじ行く末などは
いかなる折りにも 愛なる神は
すべてのことをば 良きにしたまわん

か弱き者をも 顧みたもう
我が主の恵みは この身に足れり
にぎおう里にも 寂しき野にも
主の手にすがりて 喜び進まん



| 今日の出来事 | 21:30 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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「いじめ」報道に思うこと

今日11/28 朝日新聞の社会面の記事より。

神戸市内の私立高校に通う高校3年生の女子生徒が今年の2月に自殺未遂をしたという記事を読みました。(詳しくはこちら

女子生徒は去年の秋以降イジメを受けていたということです。机や椅子に大量の紙切れを貼りつけられることもありました。その様子を映した写真が新聞に出ていました。こちらです。

1127朝日

これを見たら尋常じゃないと誰だって思うのではないでしょうか。なのに、担任教諭はこの紙を貼りつける行為を「(仲間同士の)じゃれ合い」と判断したということです。この担任の判断が私には信じられません。もし本当にそう思ったとしたら、そういう人に教師の資格はない。

もし、自分がこういうことをされたら、「じゃれあいだから、気にしない」と思えるのか。子どもと真剣に向き合わなければいけないのに、こんな浅はかな思考しかできいない教師がいる。“いじめ”は、それをする人が悪い。ただ、この担任のような教師は、“いじめ”をさらに悪質なものとするのではないかと思います。

この写真の状況で女子生徒は授業を受け続けたようですが、どうして、そういう状況で教師は授業ができたのでしょう。クラスで話し合うとか、その女子生徒に詳しく話を聞くとかするべきではなかったのか。

この事に関して、学校が設けた第三者委員会は「いじめが日常的にあった」と調査報告をまとめたようです。ただ思うのは、こういう結論でまとめたのは、この女子高生の命が助かり、話せる状態にあるからなのではないかと・・・。もし彼女の命が絶たれていたら、同じように「いじめはあった」と結論づけられたのか・・・。

この女子高生は「いじめが認められたことはうれしかったけど、まだ『生きていてよかった』とは思えない」と話しているようです。

「生きていてよかった」と思えない。この彼女の言葉に、泣きそうになりました。こんな思いを誰かにさせていいはずがない。しかも故意にさせたなのなら、なおさらに。

学校は勉強さえしていればいい所ではありません。そこで学ぶ子ども達が「生きていてよかったとは思えない」と思うような状況に追い込んでは決していけない。

林竹二さんが強く強く訴えていた「生命への畏敬の欠けたところに教育はない」との言葉を、特に教育に関わる人たちは忘れないでほしい。

| 新聞記事 | 19:50 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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朝日新聞「折々のことば」より

今日11/26日 朝日新聞「折々のことば」より

30人の子どもを一人の保育者がうけもつより15人を2人でうけもったほうがいいということが、それほど大それた理想であろうか。(松田道雄)

(鷲田さんの言葉)
 小児科医が『育児の百科』にこう書いてちょうど50年。次世代を育てる仕事は長く苛酷な条件の下に置かれたままだ。「保育者の労働条件が、とりもなおさず、子どもたちの保育される条件である」のに、この「つつましい理想」の実現は遅々として進まない。何が大事かを定める価値の遠近法が、この国ではひどく歪になっていないか。



松田道雄氏の言葉に、その通りだと思います。

この松田道雄氏のことを知ったのはつい先日。朝日新聞に松田氏についての読者投稿がありました。松田氏は6月頃に亡くなられたそうですが、その事に触れ、彼のように素晴らしい小児科医がもっと誕生して欲しいといようなことが書かれていました。

そして今日のこの記事。松田道雄氏の著書を読みたくなりました。と言ってもすぐには手に入らないので、どんな方だったのか、どんな言葉を遺していらっしゃるのかを少しだけ調べてみました。二つだけ引用しますが、どちらの言葉にも、私はその通りだと思います。

子どもを窮屈なところへ押しこめておいて、おとなの決めた禁制を守らせるために、自由に遊びたい欲求をおさえる「自制心」を育てようというのは、おとなの利己主義だ。子どもが、楽しく遊ぶために協力しようとして、自分のわがままをおさえるところに、「自制心」が自然に育つ。


大人が子どもに言う言葉に、「○○だって約束したよね」というのがあります。でも、それは多分子どもから見たら“約束”ではない時の方が多いと思います。大人が一方的に子どもに要求したことで、子どもは納得して約束を交わしたわけではない。なのに、「約束したから、守りなさい」というのは、子どもからしたら理不尽に思えるのでは?

でも私たち大人は「約束を守らせる」ことが、子どもの“わがまま”を抑えることにつながると思ってしまう。

社会というものは冷酷なものだから、それに適応できるように、家庭のほうで努力してほしいという。 私はそう思わない。やさしい感じやすい子もはいっていけるような社会をつくることが、いまの社会のとげとげしさと無神経をあらためることになる。


我が子達のことを考えると、この言葉に強く強く賛同します。「冷酷だから」「競争社会だから」「厳しいから」と、そういう社会でやっていけるようにと考えてしまいます。でも、そういう社会って、私はやっぱりどこかおかしいと思うのです。

「やさしい感じやすい子もはいっていけるような社会」がいいな、って考える人は多いのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。

「こんな世の中であってほしい」と思う世の中が、人それぞれの中にあると思うのですが、どんな世の中であってほしいって、人は思っているのでしょう。

| 子育て・教育 | 20:28 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「ALWAYS 三丁目の夕日'64

「ALWAYS 三丁目の夕日'64」が昨夜放映されました。映画館で観たときと同じで、今回も感動して涙が出てきました。そしてまた、前回と同じようなことを思いました。

1964年は私が生まれた年。だから、生まれた当時の日本の町がどのようだったかは覚えていません。でも、この映画を観て懐かしく感じるのは、原風景として体に染み込んでいるからなのかなって思います。

薬師丸ひろ子扮するお母さんが、息子を見つめながら「未来が楽しみだわ」って呟きます。子ども達を見ていて、「未来が楽しみ」でない、ということはありません。でも、「楽しみ」と手放しでは言えない。今の日本や世界の状況を思うと、楽しみよりも、不安の方が大きいです。

そして、そんな社会へと子ども達は出ていかないといけない。“そんな社会”にいつからなってしまったのでしょう。


映画を観ていて一番感じたのは、前回と同じく、あの頃は助け合えるつながりがあったということ。お節介なところもあったけれど、近所の人が気にかけ合い、座り込んで愚痴を言い合ったり、時には喧嘩をすることもあった。でも、いざという時には助け合う。みんながみんなそうだったわけでもないでしょうが、でも、多分そんなことが普通にできていた時代だったのはないかと思います。

助け合えるということは、とても大事なことなんですよね。(この映画を観た時に書き留めていたことですが、もう一度書きます)

『慈悲の怒り』の中で、次のようなことが書かれていました。

3・11直後、東京でも買い占めが起こり、スーパーから商品が消えていきました。そういった風景は寂しい。でも、その行動には前提がある、と書かれていました。その前提とは、なんでしょう?


私には想像できなかったのですが、それは、「自分が困っても、誰も助けてくれない」という前提。誰も助けてくれないから、買い込んでおかなければいけない。

困った時にはお互いに助け合いましょう・・・それは本当はきっと人として当たり前のことなのだと思います。でも、その当たり前のことが崩れかかっている。どうしてなんでしょう。

自分のことで精一杯だから? 余裕がないから? 困った時には助け合い、支え合う。困っている人がいたら助ける。そんな社会であってほしいと思うのですが、それは、今自分自身が生きている場所でできることなんですよね。


幸せになりたい、幸せでありたいと人は思うもの。その幸せということについて、アルブーゾーというソ連の劇作家は次のように言っています。

幸福というものは、一人では決して味わえないものです。

誰かと分かち合ってこその幸せなんですよね。



(この映画の主題曲も好きです)

| 心に響いた言葉 | 16:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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『モリー先生との火曜日』

図書館で借りてきた、『モリー先生との火曜日』を読みました。気になっていた本ではあるのですが、「よくある自己啓発ものだろう」と思いこみ、読まずにいました。でも、ある本にこの本の紹介がされていたので、読んでみました。読み終わって、もっと早くに読んでおけばよかったと思いました。

これは実話で、モリー先生はアメリカの大学の教授でした。定年間近にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、余命2年と言われました。そんなモリー先生に、生徒だった著者は16年ぶりに再開し、モリー先生が亡くなるまで毎週火曜日にふたりだけの授業を受けます。簡単に言えば、その授業の記録。でも、モリー先生の言葉、生きる姿勢が心にじわーっと沁みてきます。

ドラマティックな展開があるわけではなく、静かに話は進みます。でも、深く心に訴えてくるものがあり、折に触れて読みたいと思う本です。特にもっともっと年齢がいった時に、忘れず読み返したいと思います。

ありのままの自分を受け入れ、楽しもうとモリー先生は言いますが、モリー先生が一番伝えたいことは「愛する」ことだと思います。

「愛とは、死んだ後にも生きてとどまること」

「人間はお互いに愛し合えるかぎり、またその愛し合った気持ちを覚えている限り、死んでもほんとうに行ってしまうことはない。つくり出した愛はすべてそのまま残っている。思い出はすべてそのまま残っている。死んでも生き続けるんだ。・・・この世にいる間にふれた人、育てた人、すべての心の中に」



この世に生まれてきた人は、いつか必ずみんな死にます。例外はありません。そして、「死」に対して恐れの感情を抱いていない人はいないのではないでしょうか。「死」について、モリー先生はこう言っています。

「死ぬっていうのは、悲しいことの一つにすぎない。不幸な生き方をするのはまた別のこと。」

「死」はこの地上での命の終わり。そしてまた、愛する人との別れを意味し、愛する気持ちが強いほど、悲しみは深くなります。でも、だからと言って、不幸なことではない。ただ、死が悲しみだけでなく、不幸につながることのないように、生きている今を、生かされている今を愛おしんで過ごすことを忘れてはいけない。

「死で人生は終わる。つながりは終わらない」

このモリー先生の言葉に、やはり子どものことを思いました。終わることのない“つながり”を、そのつながりの始まりとなる、いつまでもとどまる“愛”をちゃんと注いでいけますように。


ふたり2

| | 15:50 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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子育て

今日から嬉しい4連休。やりたいことがいっぱいあるので、きっとあっという間に時間は過ぎてしまうのだろうな・・・。

今日は子ども達が「ゴジラ」を観たいと言うので、映画館へ連れて行きました。子ども達が映画を観ている間、私は本屋さんで本選び。

気になった数冊の中から3冊購入。
『スミレのように踏まれて香る』(渡辺和子著)・・・“渡辺和子”という名を見たら、ほぼ条件反射で手が伸びます。

『えほんのせかい こどものせかい』(松岡享子著)・・・松岡享子さんの書いたものも好きで、彼女の本を読むと、絵本を無性に読みたくなります。

『これからの日本、これからの教育』(前川喜平・寺脇研著)・・・パラパラと見て、良さそうだったのと、出版社が「筑摩書房」だったので、購入決定。


キリスト教や信仰関係の本、生きるということに関する本、子どもや教育に関する本が気になります。

子どものことと言えば、“子育て支援” イコール “親のニーズに応えること” と捉え、延長保育、長時間保育を積極的に行っているところは結構多いと思います。保護者がみんなフルタイムで働いているなら、そういう支援は必要かと思います。でも、そうではなく、親が望むのなら、子どもを預ける理由は問わない、いくらでも子どもを見ますよと言うのは、子どもにとってはどうなのでしょう。

「親のニーズにばかり応えていたら、親が親でなくなってしまう、親心が喪失していく」との懸念もあります。

子育ての時間は思っているより短い。だから、子どもと楽しむ時間をたくさんもてたら、それはとても素晴らしいことだと、心からそう思います。

ふたり

| 子育て・教育 | 20:08 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「未来」のためにあるものなのかも

声優の林原めぐみさんがご自身のブログ(こちら)で、あるファンへのメッセージが話題ということで読んでみました。

そのファンの方は高校生。最近自閉症だと診断されたそうです。そう診断されて、とてもショックなこと、母親に対して申し訳なくて辛いと、その胸の内を吐露しています。

それに対する林原めぐみさんのメッセージは、あたたかい。

ファンの方に、まずは「心が揺れたことでしょうね」と、その心の内に思いを馳せています。そして、その上で、前向きなメッセージを伝えています。

病名や診断っていうのは、そもそも、『未来』のためにあるものなのだと思う。

そこからどう生きるか、これからどうするか、を手に入れた。

この先、どう生きることが、あなたにとって苦しくないかを探すことでもある。



子どもを育てていて、「もしかしたら我が子は発達障がいかな?」って感じる親御さんはいると思います。
でも、体調を崩したら、お医者さんに診て貰い、例えば「インフルエンザです」とか「盲腸です」とか診断してもらいますが、そのようにはお医者さんに診てもらうことに抵抗を覚えたり、勇気がなかったり、そういうケースもあります。

自分自身のことを振り返っても、やはり発達障がいだと診断されるのは辛いです。我が子がそう診断された当初は、涙したときもありました。

でも、落ち込んでばかりもいられない。「辛い」というのは親の気持ち。発達障がいがあろうがなかろうが、目の前にいる子どもは日々成長していきます。泣いてばかりもいられないし、抵抗ばかりもしていられません。

その我が子が将来少しでも生きやすいように、できることをしていこう、そう思える日は来ます。どうしていけばいいのか、それを考えていくようになります。

そして、そう思える日は子どもが少しでも若いほうがいいと、私は思います。

「発達障がい」という診断名は辛い。でも、未来のため、これからどう生きていくか、どうしていくかを見出していくためには必要なのだろう・・・そう思って歩んでいければ。


林原めぐみさんに手紙を書いた高校生の女の子と、長男のことがややだぶりました。今は辛いと思いますが、前向きに歩んでいってほしいです。

弱いものは弱い、それではいけないのか。強さを欠いた残り物が「弱さ」なのではない。ピアニシモな旋律がそうであるように、「弱さ」も、それ自体あっていい。(誰の言葉かは忘れましたが・・・)


異なっていることこそ正常です。人間であることに基準などはありません。目が不自由であったり、耳が聞こえなかったりする人もいれば、学習が困難な人、精神ないし身体に障害を持った人々もいます。その一方、ユーモアのない人々、永遠の悲観論者、反社会的、いやそれどころか暴力的な男女もいるのです。
 障害があるというのは異なっているだけのことなのだと理解するのは、われわれが取り組まざるを得ない目標です。

 障害の基準なるものは偶然であり、これが確かかどうかは疑問です。そうした基準の前提は相変わらず、いわゆる社会の要求、とくに合理的で活動的な能力、生産過程における生産能力です。しかしかりに、(共に生きるという)社会的態度が模範的な基準であるとするなら、ダウン症群の人々を見習わなくてはなりますまい。耳や目が不自由な人が肌で感じる感受性を基準にすれば、見えたり聞こえたりする人にこそ障害があるといえます。(ヴァイツゼッカー大統領)

| 発達障がい | 20:39 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「あなたの人生を変えた本や、本のくだりがありますか?」

特に何もなく毎日が過ぎています。そして、特に書くこともなく日々が過ぎています。たいしたことは書いていませんが、1週間近く何も書かないでいるのはちょっと気になる。かと言って、特段書くようなこともなく・・・。

数年間に借りた時は、「なんか合わないな~」と思って挫折した本を今回また借りてきました。
『エンデのメモ箱』。読み始めたばかりですが、以前とは全く違った印象で、結構面白い。冒頭の部分に「愛読者への44の問い」という項目があるので、その問いの一つに答えてみようと思います。

「あなたの人生を変えた本や、本のくだりがありますか?」

今までで一番衝撃を受けた本は、ヴィクトール・フランクルの『それでも人生にイエスという』。彼は『夜と霧』で有名ですが、私はそれを読むよりも先に『それでも人生にイエスという』を読んだので、こちらの方が印象が強いです。

  私たちが「生きる意味があるのか」と問うのは、初めから誤っているのです。・・・
人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生が絶えずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。

  人間はあらゆることにもかかわらず-
困窮と死にもかかわらず、
身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、
また強制収容所の運命の下にあったとしても-
人生にイエスということができるのです。


人生を変えた、というほどではありませんが、真に人を愛するとは、こういうことなのかと教えられたのが、三浦綾子さんの『道ありき』。

三浦綾子さんは三浦光世さんと出会う前に、前川さんという恋人がいました。でも、彼は肺結核で35歳で召天。その彼が綾子さんへ宛てた遺書。

「綾ちゃん お互いに精一杯の誠実な友情で交わって来れたことを、心から感謝します。綾ちゃんは真の意味でわたしの最初の人であり、最後の人でした。綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。
-中略-
決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです・・・」


そして三浦綾子さんは言います。

ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。


子ども達がまだまだ幼いときに作ったフォトコラージュ。偶然見つけて、懐かしかったので。これを作ったときは無料でしたが、今は有料になってました。

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ゆっくりと

忙しいわけではないのですが、行事などがあって、ここ1週間仕事でした。それと、先週初めに風邪を引いたのもあって、昨日はかなり疲れを覚えました。ということで、普段は飲まない栄養ドリンクを飲んで、夜の8時半過ぎに寝ました。

久しぶりに見た7年前に撮った動画が、疲れていた体にとびきりの栄養となりました。



長男が4年生、次男が2年生の時のものです。当日働いて職場の校長が「カニを食べたい」ということで、希望者だけで行った日帰り鳥取ツアー。その帰路、蒜山でのサービスエリアでの子ども達です。私たちが住んでいる所は、ほとんど雪が降りません。ですので、雪が珍しくて、嬉しくて雪遊びに夢中になる2人。若い男の先生が子どもと遊んでくれて、2人は大はしゃぎ。

この動画を見ていて、親ばかですが「なんてかわいいの! この表情とこの声!」と思い、2~3度動画を見ました。
子どもはいつまで経っても子どもで、愛おしいですが、幼い頃の子どもって、特にかわいい。子どものあどけない様子を見るだけで、ほのぼのとしてきます。

そしてまた、思うのです。私はどれだけ、あの時を楽しんだだろうか・・・と。

何度か引用している詩があります。

いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが生きるってこと?
これが愛するってこと?
いそげ、いそげ、いそげ、ほらいそげ、
 あっちへ行ったり、
  こっちへ行ったり、
ぼくらはどこへ向かっていそいでいるの?
これが成長するってことなの?
これが学ぶってことなの?
なんのためにこんなにもいそいでいるの?
たくさんのものを失っているじゃないか--
立ち止まることもしないで、いつも素通り。
どこへ向かって、ぼくらはいそいでいるの?
ぼくらは目的を達成したときに、“やった”と満足できるだろうか?
それとも、ぼくらはあいかわらず
いそいで
 いそいで
  そしてまた、いそいでいるのだろうか……
(『Listening to the Littelest』)



今日は歩いて買い物に行ったり、郵便局に行ったりしました。すべて徒歩5分内にあるのですが、両方行くと20分くらいでしょうか、歩きました。その道中、お散歩をしている保育園の子ども達とすれ違いました。すると、保育士の方が「こんにちは」と挨拶をしてくれたので、私も「こんにちは」と。すると今度は子ども達が「こんにちは!」って元気な声で挨拶をしてくれました。私も「こんにちは!」。車に乗っていたら、こんな嬉しい出会いはなかったでしょう。

今日はまたお天気もよくて、空が綺麗に雲一つなく、綺麗に晴れ渡っていました。そんな吸い込まれるような青空を見るだけでも、清々しい思いになれました。そんな道中、この「いそげ、いそげ、ほらいそげ」という詩がよぎりました。

親になると、この詩にあるように、「いそげ、いそげ、ほらいそげ」というように、子ども達を急かすことがあります。
今更ながら気がついたのですが、子ども達を急かす私たち大人が急ぎすぎている、ということに。時間を無駄にしたくない、とにかく効率よく、節約した時間で何か有益なことを・・・。

仕事をしていると、忙しくなるのは仕方がありません。でも、急ぎっぱなしの日々なんて、つまらない。時間は節約するためにあるのでないし・・・。急いでばかりいて、大切なことを見失いたくもない。ゆっくりとのんびりと時を過ごすこともまた必要。


光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じ取るために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。

本当にそうしたいのなら、待つこともできなくてはいけないね。
(『モモ』より))

| ひとりごと | 15:11 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

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発達障がい

発達障がいのある子どもたち。悲しいことに、そういう子ども達のことを「普通じゃない」と言う人たちがいます。その「普通」の基準は何? この年齢ならこれができて当たり前、と言われることができないこと? 年齢相応の会話ができないこと? 話が伝わらないこと?

発達の子ども達は定型発達の子ども達とは発達の仕方が違うだけで、私たちと同じ人間です。その人間は”普通”とか”普通じゃない”と分類されるものではないはずです。

発達の仕方に違うところがあるから、他の多くの定型発達の子ども達と同じようにさせたいと、物事を無理矢理やらせるのは私は違うと思っています。

その子の状態に応じて、思いを汲んで関わって行く必要があります。それはその子のわがままを許すことになり、周りの子が納得しないと考えてしまう人もいます。”わがまま”と思い込んでしまうことがまず問題なのではないでしょうか。

わがままって、他人のことを考えず,他人に迷惑をかけることになっても気にせず、自分の都合だけを考えて行動することです。それを考えると、発達障がいのある子ども達が、”わがまま”と捉えられる行動は、”わがまま”ではないと思います。

でも、”わがまま”と考えてしまうから、「無理矢理にでもちゃんとさせよう」、「これを放任しておくわけにはいかない」「甘やかしてはいけない」って思ってしまう。


発達障がいは目には見えません。だから、余計に無理をさせてしまうところがあるのではないでしょうか。
足が不自由で車椅子に乗っている人に、「周りの人は車椅子に乗っていないから、あなたも乗らないで」などと言う人はいません。
視力が悪くて眼鏡をかけている人に、「周りの人は眼鏡をかけていないから、あなたもかけないで」とも言わないでしょう。
足を骨折してうまく走れない人に、「さあ、みんなと同じようにがんばって走りなさい」とも言わないでしょう。


生きる力をつけるために、頑張らせたり、無理をさせたりしなければいけない時は確かにあります。でも、「こうあらねばならない」との思いに縛られて、その時を機会を見誤ってしまわないように気をつけなければいけないし、きをつけてほしい。

| 発達障がい | 20:33 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

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