『人間の生まれた日』
教会に置かれていて、何気なく借りて読みましたが、よかったです。
進化論と創造論について、とても分かりやすく説明されています。
最後に書かれていた著者の言葉がいいです。
「なぜ人間は、天地万物の創造主の最高の作品であるより、サルの子孫であるほうを選ぶのだろうか。私は、自分が創造主の最高の作品であることに、自分の価値を見出すことができた。それなのに、なぜ人々は創造主を否定したがるのか。」
私も同じように思います。
なぜ人々は創造主を否定したがるのでしょう。
その理由の一つとして、次のように著者は書いていました。
少し長いけれど転載します。
・・・人間は、人間の上に君臨するものを好まないからであろう。・・・昔、シヌアルの地で、人々が町と塔とを立てて、その頂を天に届かせようとしたことがあった。人間には、そうした気持ちがいつでもあるのかもしれない。天に至ろう、最高になろうと・・・・・・。その結果人々は、創造主の怒りをかって、言葉を乱されてしまい、まとまらなくなり、全地に散り散りになったと言う。この話はバベルの塔の物語として有名である。
進化論は現在のバベルの塔のような気がしてならない。自分につきまとい、自分を支配するものを取り除いて、自分を解放して自由にし、また自分を最高の地位につける。そんな人々の気持ちを進化論は満足させてくれたように思う。人々はまず創造主を否定した。そして人間を進化の頂点にすえた。まさに人間こそ万物の霊長であると。
バベルの塔の事件は、結果として人間を高めるどころか、波乱を増大させ悲惨さを増した。進化論は創造主の支配から人間を解放して、人間に自由と最高の地位を与えたはずである。しかし結果は全く逆であった。創造主を否定して手に入れた自由は、秩序を破壊し、混乱を増大させてきた。また創造主を否定して、自らを最高の存在としたつもりがそれも全くの逆で、自らをサルの子孫にしてしまったのである。
また、自らの頼って立つ土台を取り去ってしまい、自らの人生を浮き草のようにしてしまった。・・・もう一度、人間の尊厳を、創造主との関わりにおいて回復すべきことを、声を大きくして叫びたい気持ちである。
進化論も人々に創造主なる神を見えにくくしている一つなのでしょうね。
話は全く変わりますが、
毎朝ディボーションといって、聖書を読んだり祈ったりする時をもっています。
結婚する前は、結婚したらだんなと二人でそういう時を持てるって楽しみにしていました。
でも、信仰には全く無関心になってしまった主人と、そういう時を持つことは皆無です。
ずっと一人のディボーションは寂しいなって思っていたのですが礼拝メッセージを聞いて、「そうだ、私は一人ではないんだ。イエス様がずっと一緒にいてくださったんだ。なのに私はそれに気づかないでいた」って、そんな思いが強くわき出てきました。
イエス様が一緒に座ってくださっている光景が心に浮かんで、一人感動して、ちょっぴり涙なんか流していました。
実に幸いな礼拝の一時でした。
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