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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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教育って何?

教育って何なのでしょう。

何度か書いてきていますが、私には子どもが二人いて、二人とも軽度ですが発達障がいを抱えています。
アスペルガー症候群、高機能自閉症("高機能"とありますが、これは知能指数が75以上であるというだけのこと)という言葉を耳にされた方は多いと思います。


6月の終わり頃に長男がちょっと問題を起こしてしまいました。
詳しくは書けませんが、女の子の後をつけてみたり、女の子を触ろうとしたり(でも反撃をくらいました)。
その後、長男一人で登下校させないで下さいと学校から言われ、夏休みに入るまでは、弟が同じクラブと言うこともあって、登下校は弟と常に一緒でした。

でも、9月になって、長男はクラブも終わったので、一人で帰ってくるようになりました。
すると、先日、授業通の長男が少しハイのような感じなので、大丈夫ですか?という電話が学校からあり、そのついでに、最近は長男が一人で登下校しているようだけど、当の女子生徒からしたら恐いと思うので、なんとかならないか、というように言われました。

長男が授業中にハイのような感じというのは、みんなが本を黙読している時に、読んでいる箇所が面白いのかもしれないけれど、静かな中、一人声を出して笑ってみたり、友だちの発言に突っ込んで見たりしていると。

だから、そんなハイ状態の長男が一人で登下校なんて危ないでしょ、と。

この言われ方に、私は正直な所、カチンときました。
確かに長男が起こした問題は、長男に非があります。でも、学校できつく叱られ、家でも私はきちんと息子に話したつもりです。長男も自分のしたことがどういうことか、理解できたと思っています。
学校側の心配も分かりますが、でも、今なお、一人で登下校させるなんて・・・と言われても。
それに、長男に常に誰かがつきそって登下校することが問題解決になるとでも言うのか。

終わった話はぶり返したくはありませんが、今年の2月頃にだったでしょうか、長男がクラスの女の子に、授業中にカッターナイフを突きつけられたことがあります。それも1度ではなく、2~3度。
その時、相手の女の子は親や先生にきびしく叱責を受け、反省しているということで、それでしたら、学校側の対応を信頼して、もういいです、としました。
だから、学年が変わるまで、長男はその女子生徒と同じクラスの中で過ごしました。

長男が起こした問題と、カッターナイフ事件は違います。そのことは分かっていますが、でも、長男の場合は、3ヶ月ほど経った今でも言われ続けるけど、その女子生徒については、学校側からの事情説明だけで終わりです。

考えすぎかもしれないですが、やはり長男のことを見る時に、「障がいをもっているから」という目でまず見ているのではないかって思ってしまいます。卑屈すぎるかもしれませんが・・・。


次男については、勉強が嫌いというのか、面倒なことが嫌いなので、「これは難しそう」って思ってしまうと、すぐに拒否してしまいます。
そして、9月に入ってから、支援学級で勉強する時に、机の下に潜り込んで出てこないという状態が続いたそうです。
そして、「分からないよ~」「できないよ~」って甲高い声で呟き続ける。その声のトーンに我慢できない上級生と、ついに先日トラブルになってしまったようです。

そういう連絡を受けた時に、「そこまで勉強が嫌いならば、○○中学校(今行っている中学)はやめて、支援学校に行く?という話もしています」と先生に伝えました。すると、先生は「○○君(次男)は、支援中学校に行くのは、やはり嫌なんですか?」と言われました。

その言葉に、私が切り出したとは言え、やはりショックでした。

で、考えたんです。学校って何なのだろうって。特に義務教育における学校って。
学校っていうのは、勉強するところで、それが嫌なら、できないなら、それが許される学校に行けばいい、という思いがある、というのがあるんだなって、先生とのやりとりを通して感じました。

でも、学校って、勉強するだけのところなのでしょうか。


少なくとも義務教育の学校にあっては、いろいろと異なる境遇、さまざまな資質や能力をもった子どもたち全部に入学を義務づけているのですから、学校はさまざまに異なる能力資質をもつ子がみんな平等に学ぶ場になっていなければならないのです。学校をそういう教育の場にすることに対して学校が本気で責任を持とうとしないで、ただ、名の聞えている高校に何名入れた、いわゆる名門の大学に何人入れたというようなことを競い合う状態に学校が堕してしまっている。それが学校の空洞化で、学校が教育の場でなくなってしまっている。

人間すべての内部に生命力、成長する力、自分を変える力があって、そういう力が備わっていることを信じなければ、教育は可能にならないし、この力を信じないで人を思うように変えることができると考えるとき、教育は調教によってすりかえられる。

いまの学校の教育というものは、一定のことを教えて、それをどれだけ覚えているかということによって、その子どもの学校内おける位置が決まってしまう。それに人生の幸、不幸もかかっているかのような思い込みがある。これがほんとうに恐ろしいことだと思います。
(中略)
学校は、人間が持っている、評価を絶した、かけがえのない資質を探って、何としてでもそれを引き出す、掘り起こす仕事をするところなのです。



これらは、林竹二さんの言葉ですが、林竹二さんが指摘するように、学校はその本来の目的を忘れてしまっているような気がします。
教えやすい子どもたちだけを教えるのならば、誰にだってできます。

確かに私の次男は、勉強に関してはかなり手強いです。親の私でも、次男との勉強に関しては時々投げ出したくなります。
でも、親や教師は、教育に携わる者は、投げ出してはいけなと思うんです。
教師にそんなゆとりはないのかもしれないけれど、そのツケは全部子どもにいってしまうんです。


脈絡なく、思うままに書いてしまいましたが、学校の目指すものは何? 教師が目指すものは何? ということを考えさせられました。

最後に灰谷健次郎さんと林竹二さんのこの言葉を。

子どもに学ぶということの根本には、子どもを信頼することが不可欠。そして子どもを信頼する心は、子どもと共に歩む中で生まれてくるもので、共に行動し、共に創り出すものである。
とりあえず子どもを信頼しておこうなどという横着な考えは通用しない。
その道程では、いくたびも子どもに自分自身を打ち砕かれるだろうし、無力感にさいなまれることもある。それでも共に歩みつづけなければならないのだ。その苦しさに負けた者が、子どもを口先で変えようとしたり、子どもに命令したりするようになるのである。(灰谷健次郎)


生命への畏敬の欠けたところに教育はない。(林竹二)

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| 子育て・教育 | 15:51 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

義務教育って…

愛希穂さん、こんばんは!
今回の記事の学校側がとった、長男さんへの態度は自分も腹が立ちました。
そして次男さんへの学校側の態度にも腹が立ちました。
自分の息子も小学生の高学年から現在の中学生まで、ほとんど学校に行かずふれあい教室や福祉センターでの勉強をしています。
その間の学校側は、家庭の問題を理由に教育に対して本気になることはありませんでした。
確かにそれは、ないとは言えませんが、どうして学校に通えないのか…色々な子供達がいる現代で、どうして学校側が対応出来ないのかなど、真剣に考えることもしません。
不登校は子供の学校だけでも、かなりの数がいます。
卒業式にも出てこれない生徒達もいます。
もう少し教育について、考えて欲しいものです。

| 京風 | 2014/09/23 22:18 | URL |

Re

京風さん、こんにちは。
京風さんのお子さん、学校に行けないでいるのですね。
お子さんも、お子さんを見守る親も、辛いものがあるのではないかと思います。
学校に行けない子どもたちは、多分思っているよりも多いのでしょうね。そして、その子ども達は、毎日どんな思いで過ごしているのでしょう。
「不登校」と言われていますが、そこで気になるのは、不登校の原因を本人やその家庭に求めるだけで、学校側に原因があるとは考えようとしないことです。
変わるべきは子どもであると思い、学校側に原因があるとは思わないから、どうすればいいかって、真剣に考えようとしないのだと思います。
子どもは楽しいな、おもしろいなって思えばそこに行くし、自分の居場所があれば、そこに行くと思うんです。
でも、そうじゃないから、行けない。
大人になって、この世の中で生きていく為には、勉強もしないといけない。そのことは分かっているけれども、学校に行けない、どうしても行けない。そういう思いを、心の状態を教育に携わる者は、理解しないといけないって思います。
「いやいや、他の子ども達は来ているでしょ」って、学校は思うかもしれないけれど、子ども達は一様ではなく、それぞれ違う。感受性も強さも弱さも違う。
なのに、それを考えないで、「学校に来ないあなた」は、「弱い」とか「甘えている」とか「家庭環境がよくない」とか並べ立てる。
原因を子どもに求めているから、何も改善しない。どうしてのことに気づかないかなって思います。
卒業式にも出られない子どもの気持ちに、思いを馳せたことがあるのかと。
学校に行けない子どもたちは、物事をすごく真剣に考えているのかもしれない。
一人一人、魂を持った存在なのに、社会に出て、会社に有用な人間を作ろうとしているのを感じて、僕たちはモノじゃないんだ、って。人格を持った私を見て、と。
林竹二さんは繰り返して「生命への畏敬の欠けたところに教育はない」と仰っていましたが、教育に携わる者は特に、「生命への畏敬の念」の必要なことを思わされます。

| 愛希穂 | 2014/09/24 15:57 | URL |

こんにちは。
教育、なかでも学校教育とは、人間にとってひどいもので、
要するに、国家を支えるのに必要な人材を作る場所、
「社会に出て、会社に有用な人間」を作る場所なんですね。
すんなにそういうコースに乗れた人間は、いい目を見ても、
そうではない人たちは、大変な想いをしていることを、
子どもたちは敏感に感じ取って、抵抗しているのだと思います。
私は、人を道具とみなす「人材」という言葉が大嫌いです。
とにかくなにかの「役に立つ」のが至上の価値とされる。
それって言わば、「便利な使いモノ」なれって意味でしょう。
魂が喜ぶわけがありません。じつに馬鹿げています。
子どものことを、即座に「未来」に結びつけるのも困ります。
自分たちが日々、背負いきれない負債を作り上げて置いて、
そのおそるべき結果である「未来」を「担う」なんて発想、
この莫大な借金と核廃棄物を・・・丸投げされるのですから、
子どもの人生は、最初から搾取されてるんですね。
教育を、未来への投資とするような考えも、理解できません。
そんなのは、カネを生む道具だと見做している証拠ですから。
すこし考えてみれば、そもそもおかしいのです。
子どもは、いま子どもだからこそ、子どもであるはずなのに
子どもの「いま」ではなく、なぜ「未来」が優先されるのか。
病気や事故で、未来を断たれた子どもたちは、無価値なのか。
だれの言葉かは忘れましたが、
「子どもは明日の存在ではない」というものがあります。
今の今を大切にしてやらないで、なにが未来でしょうか。
確かに、将来への備えと学びは必要ですが、
「なぜ学ぶのか」に、いまの学校教育は答えられません。
教師自体がそういうことを、考えてもこなかったからでしょう。
ひとりひとりの才能や個性を、伸ばしてやることよりも、
学業や会社でいい成績をとるための、知識や技能よりも、
もっと大切なことがある。それがわかっていないのです。
どうかそのことを伝えてあげてください。神であると。
お子さんたちが、どんな想いで過ごされているか・・・
想像にあまるものがあるのですが、ある意味ではもう、
いまの学校や教師になにを期待しても、動かない現実があり、
それは社会にでると、さらに厳しいものになると思います。
だれもが例外なく将来が不安な時代ですから、ご家族で充分に
今後の人生設計を話し合っておくべきではないでしょうか。
今後の日本社会の変化には、大変なものがあると思います。
(私自身、障がい者の家族がいますので、そのこともふまえて、
 お話させて頂きました。もし失礼があればお許し下さい)

| 星狩人 | 2014/09/24 17:35 | URL | ≫ EDIT

星狩人様

こんにちは。
子どもが小学校に行きだし、そして数年前から小学校で働くようになってから、今の学校教育というものに対して、色々と考えるようになりました。
星狩人様が指摘される通りで、学校教育とは、まさに「国家を支えるのに必要な人材を作る場所」ですね。
誰かの役に立つ、迷惑をかけてはいけない、「ごめん」と言われたら、何があろうと「いいよ」と言わないといけない、とにかく、指示通りにしなければなりません。
「子ども」だから言うことをきいて当たり前、というのも大前提になっています。
子どもといえども、言いたいことはあるし、嫌なことはある。感情はしっかりともっている。
なのに、ロボットのように命令通りにすることが、よしとされる。
考えてみればそれは、おかしなことなのに、当然のこととしてまかり通っています。
おかしいと気づかない。どうしてなのでしょう。
私も「人材」という言葉は嫌いです。でも、「人材」という言葉が、その根底に、人をモノと見なす意識が働いていることに気がついていないんですよね。
だから、簡単に「社会の役に立つ人となりなさい」なんて言えるのでしょう。人は「社会の役に立つ」ために、命を受けたのではないはずなのに。
> 子どものことを、即座に「未来」に結びつけるのも困ります。
この言葉を読んだ時に、初めは「どうして?」って思ったのですが、この後に続く言葉を読んで納得しました。
> 子どもは、いま子どもだからこそ、子どもであるはずなのに
> 子どもの「いま」ではなく、なぜ「未来」が優先されるのか。
そうですよね。子ども達は「今」を生きているから「子ども」なんですよね。だから、その「今」を大切にしないといけないのに、「未来」のことばかり強調する。そして、子ども達は「今」しかできないことを体験できないから、考えたり、大切なことに気づいたりできないまま、大人になっていってしまう。
私、このことに気づいていませんでした。そして、次のこの言葉。
> 病気や事故で、未来を断たれた子どもたちは、無価値なのか。
無価値では決してないです。その子たちは、その時まで精一杯生きてきたのだから、その一生は、その長さにかかわらず、尊い。
でも、子どもを「未来」とだけ結びつけていたら、そのようには考えられないかもしれませんね。
> 「子どもは明日の存在ではない」というものがあります。
> 今の今を大切にしてやらないで、なにが未来でしょうか。
本当、その通りです。
でも、星狩人様がこう書いて下さらなければ、私は気がつかなかったと思います。
どうしても、子どもの先行きを思い、心配し、将来のためにと、子どもから色々と取り上げたり、我慢させたり、無理強いしたりしていました。
でも、大切にすべきはまず、「今」なんですよ。それは刹那主義とは違うのに、「今」を大切に、というと、短絡的に「刹那主義」と結びつけていました。
> ひとりひとりの才能や個性を、伸ばしてやることよりも、
> 学業や会社でいい成績をとるための、知識や技能よりも、
> もっと大切なことがある。それがわかっていないのです。
> どうかそのことを伝えてあげてください。神であると。
ああ、もう本当にそうです。何よりも大切なこと、それは神様を信じて、神様の御心を知って、その道を生きていくこと。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」。まずはこのことから。
これからの世の中、私たちが生きてきたよりも、ずっと厳しい、不安な世になっていきます。
どんな荒波にもまれるか、時には生きていく気力さえ失いかける時だってあるでしょう。
でも、そんな時に、でも「我は生きていく」と言える心の土台を、しっかりと据えることができるように、子ども達と向き合っていきます。
いつもそうですが、今回は特に教えられました。気づかされました。コメントを読みながら、心打たれて、涙が出そうになりました。
私は深く何かを話すということがあまり得意ではありませんが、いつか機会があれば、星狩人様とゆっくりと話してみたいなって思います。

| 愛希穂 | 2014/09/24 19:18 | URL |

愛希穂さん、ブログ拝読しています。
今回の記事の先生の何気ない言葉がに対して、保護者として憤りを感じるのはごく自然です。
私の弟が教師なのですが、とにかく忙しいと言うことです。先進国のなかで教育予算を支出が最下位が日本なのです。
子どもの人権、子育ての予算、教育の資質向上をあげるために、政府は何をしているのか。
子どもたちの教育向上のため、我が日本、子どもに目を向けず、そらし、OECD加盟国の平均まで教育の予算を費やせば、教育者にゆとりが生まれ、国になびく様な教育改革でなく、自由で、夢と希望が持てる国へと変化してほしいです。
発達の凸凹は誰にでもある。子どもに勇気と誇りと自己肯定感が育まれるような社会に期待して!
すみません。

| ぴーちゃん | 2014/09/27 20:30 | URL | ≫ EDIT

ぴーちゃん様

こんにちは。
先生には、私がどのような思いを持ったかを手紙に書いて渡したのですが、うまく通じなかったみたいで、「気になる子ども達には、学校は電話をしたりして連絡を取っています。」「誤解されてしまっていたら、申し訳ありません」と返事に書かれていました。
忙しすぎて、ゆっくり考える時間もないのでしょうか。
> 私の弟が教師なのですが、とにかく忙しいと言うことです。先進国のなかで教育予算を支出が最下位が日本なのです。
そうなんですよね。なのに、なおも予算を削ろうとしているような気がします。
学校では色々な問題があるのに、国はまるで解決しようとしないばかりか、英語を小5から必須にしよう、みたいなやらなくていいことを優先してやろうとしているのが、本当に情けないです。
> 発達の凸凹は誰にでもある。子どもに勇気と誇りと自己肯定感が育まれるような社会に期待して!
そんな社会を期待したいです。でも、そんな社会の実現には、今の学校教育では、もう絶対にむりなのだとも思います。子どもも人格をちゃんともっているのだと、まずはその認識が求められているのではないかと思います。

| 愛希穂 | 2014/09/28 14:59 | URL |















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