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「アウシュヴィッツは本当に終わったのだろうか?」

アウシュヴィッツは本当に終わったのだろうか?
(中略)「ネオナチ」と呼ばれ、その数は増え続けている。
なぜだろうか・・・

いま、私たちの心の中に、「優秀な人間」と「だめな人間」とを分けようとする考えがないだろうか?
みんなと同じことをできない人を「だめなやつ」だと決めてしまうことはないだろうか?
みんなとちがう意見をいう人を「じゃまなやつ」だと言って、仲間はずれにすることはないだろうか?
強い者にきらわれたくなくて、いけないことが分かっているのに、やってしまうことはないだろうか?
自分さえ得すれば、「他の人なんかどうでもいい」と、思うことはないだろうか?
あの時のように・・・
アウシュヴィッツは、狂った人々が、まちがえて作ったものではなかった。
ドイツ人がどうかしていたのでもなかった。
ただ、自分が困った時に、もっと困っている人々を思いやれなかった。
自分さえ安全なら、ほかの人がすこしくらい苦しんでも、すこしくらい死んでもしかたがないと思っていた。
自分が優秀で正しいと思うあまり、自分がほんとうはなにをしているのか、分からなくなっていた。
もしかしたら、アウシュヴィッツで罪をおかした人々は、みんなどこにでもいる、ふつうの人たちだったのではないだろうか?
私たちと同じように・・・
私たちの中に、アウシュヴィッツはほんとうにないのだろうか?



昨日、図書館で読んだ『アウシュヴィッツの子どもたち』に書かれていた中の一部分です。

アウシュヴィッツのことを聞いて、あのような酷いことをしたのは一部の人間で、自分はそんなことに与することはないと考えることのほうが多いのではないでしょうか。
多分、私も。

でも、ここに書かれていることを読むと、そんな感情や思いを持っている人は、程度の差こそあれ、少ないということはないのではないでしょうか。

イエス・キリストは十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているか分からないからです」と祈られました。
そのように、私たちは、「自分がほんとうはなにをしているのか、分からなくなる」そういう状態になることがあると、謙遜に認める必要があるのではないだろうか。


その本の中で、こういう一文もありました。

ヒトラーは、こう言った。
「優秀な人間が劣っただめな人間を殺すことは、優れた人間だけの社会を作るためには、正しい行いなのだ」
「ただし、だめな人間でも、ナチスのために働くならば生きていてもよい」
「しかし、だめな上に、働くこともできない人間は役立たずだ」
「役立たずは、生きていてはいけない」

必要のないものはいらない・・・ たとえ人間でも。
必要なもは奪え・・・殺してでも


こういう姿勢は、現在にも確かに息づいていると思うのは、悲観的すぎるでしょうか。


色々なことを思うにつけ、イエス・キリストが言われたこの言葉を思います。

一番大切な戒めは、
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの父なる神を愛せよ

その次に大切な戒めは、
あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ
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