失われていくもの、残り続けていくもの
「あなたは誰?」
認知症と診断され、徐々に息子を忘れていく母。
仕事で忙しいながらも、その母を介護し、母との思い出を蘇らせていく息子。
認知症が進み、息子のことだけでなく、日常のこともままらなくなっていく母は、やがて施設に入所する。
ある時、母が「半分の花火を見たい」と言う。一体どんな花火なのか。
「半分の花火」と検索して見つかった、湖上の花火大会に息子は母を連れて行く。
その花火大会が終わり、帰路につこうとしたら、母が言った。
「半分の花火が見たいのよ」
「母さん、いま見たばっかりだよ」
「ちがうの、半分の花火が見たいのよ、これじゃないの」
「なに言ってんだよ、確かにこれだよ」
「ちがうの。これじゃないの。半分の花火をあなたと見たいの!」
「これじゃない、半分の花火が見たい」とあくまでも言い張る母親に、「いい加減にしてよ」と声を荒げてしまう息子。
それから数ヶ月後、旅立ってしまった母。そして、買い手がついた母の家を片づけに行った息子は、そこで偶然に花火が上がるのを目にした。それは、母が見たがっていた「半分の花火」。
あんなに見たがっていた花火は、こんなに近くにあった。なのに、息子は見せて上げられなかった。
認知症になって、息子のことも忘れていった母は、でも、息子と見た「半分の花火」は覚えていた。
記憶がしゃんとしている息子は、かつて母と見た「半分の花火」を忘れない、と言った息子は、その花火のことはすっかり忘れていた。
『百花』・・・本屋さんで偶然見かけて、帯の紹介文を読んで、なんとなく私と父のようでもあるかな・・・って思い、購入しました。
認知症ではないかと自ら気づき始めた母親が、忘れないようにと、自分の名前や息子の名前を記し、日常生活で気をつけることを書き留めているくだりがあるのですが、その箇所に胸が熱くなりました。
そうではないかと不安があるけど、でも誰にも言えない。その苦しさが伝わってきました。
症状が進んで、母親は施設に入所します。そこで、母の記憶がどんどん失われて、何を言っているのかわからないことも増えて敵、母に話を合わせるのが嘘をついているみたいで辛いと、息子は施設長に言います。
その訴えに対する施設長の言葉が、心に沁みました。
「娘が幼い時、私はいつも彼女に話を合わせていました。些細な発見から、とりとめのない意見、時には突拍子もない空想にも。でもそれが楽しかった。自分の世界が広がっていくような気がしたんです。きっと百合子さん(母親)も、あなたにそうしてきたんですよ。そもそも自分が想像できる世界だけで生きるなんて、息苦しくありませんか?」
この箇所もそうですし、この本を読んでいると、父とのことをあれこれと思い返しました。父が変なことを言ったり、何度も同じ事を言うと、訂正したり、適当にあしらったりしていました。楽しむなんて、全くなくて・・・。
今日は父の日。父の日まではもたないかなって思っていましたが、父は今も生かされています。
そして、見舞う度に、数は少ないですが、父との想い出をたぐり寄せています。
現代において、
失われていくもの、
残り続けるものとは何か。
すべてを忘れていく母が
思い出させて
くれたことは何か。
そう本の帯には書かれています。
この本を読んで思ったのは、その時、その時に生きるのに必要なことは思い出す、蘇るっていうこと。
認知症と診断され、徐々に息子を忘れていく母。
仕事で忙しいながらも、その母を介護し、母との思い出を蘇らせていく息子。
認知症が進み、息子のことだけでなく、日常のこともままらなくなっていく母は、やがて施設に入所する。
ある時、母が「半分の花火を見たい」と言う。一体どんな花火なのか。
「半分の花火」と検索して見つかった、湖上の花火大会に息子は母を連れて行く。
その花火大会が終わり、帰路につこうとしたら、母が言った。
「半分の花火が見たいのよ」
「母さん、いま見たばっかりだよ」
「ちがうの、半分の花火が見たいのよ、これじゃないの」
「なに言ってんだよ、確かにこれだよ」
「ちがうの。これじゃないの。半分の花火をあなたと見たいの!」
「これじゃない、半分の花火が見たい」とあくまでも言い張る母親に、「いい加減にしてよ」と声を荒げてしまう息子。
それから数ヶ月後、旅立ってしまった母。そして、買い手がついた母の家を片づけに行った息子は、そこで偶然に花火が上がるのを目にした。それは、母が見たがっていた「半分の花火」。
あんなに見たがっていた花火は、こんなに近くにあった。なのに、息子は見せて上げられなかった。
認知症になって、息子のことも忘れていった母は、でも、息子と見た「半分の花火」は覚えていた。
記憶がしゃんとしている息子は、かつて母と見た「半分の花火」を忘れない、と言った息子は、その花火のことはすっかり忘れていた。
『百花』・・・本屋さんで偶然見かけて、帯の紹介文を読んで、なんとなく私と父のようでもあるかな・・・って思い、購入しました。
認知症ではないかと自ら気づき始めた母親が、忘れないようにと、自分の名前や息子の名前を記し、日常生活で気をつけることを書き留めているくだりがあるのですが、その箇所に胸が熱くなりました。
そうではないかと不安があるけど、でも誰にも言えない。その苦しさが伝わってきました。
症状が進んで、母親は施設に入所します。そこで、母の記憶がどんどん失われて、何を言っているのかわからないことも増えて敵、母に話を合わせるのが嘘をついているみたいで辛いと、息子は施設長に言います。
その訴えに対する施設長の言葉が、心に沁みました。
「娘が幼い時、私はいつも彼女に話を合わせていました。些細な発見から、とりとめのない意見、時には突拍子もない空想にも。でもそれが楽しかった。自分の世界が広がっていくような気がしたんです。きっと百合子さん(母親)も、あなたにそうしてきたんですよ。そもそも自分が想像できる世界だけで生きるなんて、息苦しくありませんか?」
この箇所もそうですし、この本を読んでいると、父とのことをあれこれと思い返しました。父が変なことを言ったり、何度も同じ事を言うと、訂正したり、適当にあしらったりしていました。楽しむなんて、全くなくて・・・。
今日は父の日。父の日まではもたないかなって思っていましたが、父は今も生かされています。
そして、見舞う度に、数は少ないですが、父との想い出をたぐり寄せています。
現代において、
失われていくもの、
残り続けるものとは何か。
すべてを忘れていく母が
思い出させて
くれたことは何か。
そう本の帯には書かれています。
この本を読んで思ったのは、その時、その時に生きるのに必要なことは思い出す、蘇るっていうこと。
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