『犠牲のシステム 福島・沖縄』を読みました。
色々と本は読むのですが、読むだけで、そこから深く掘り下げて考えるということがない私。
そんな私なので、この本を読んで、また新たな考え方、とらえ方を知りました。
読んだばかりで、まだ整理しきれてはいないのですが、少しだけ書き留めます。
著者の言う「犠牲のシステム」とは、
「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」社会には犠牲が必要だと言う人たちがいます。その「犠牲」について、著者は言います。
そう語る人たちは、では自分は犠牲になる覚悟があるのか。
だれが犠牲になるのか。だれを犠牲にするのか。それを決める権利をだれがもっているのか。「犠牲」は必要だと当然のように言いますが、その犠牲を他の誰かに押しつける権利なんて誰ももってないんですよね。
だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか。そう主張する著者の言うとおりだと、私は思います。
あと、「戦争絶滅受合法案」というものについて、触れられていたのですが、確かにこういう法律があれば、原発も戦争もなくなるのではないかって思います。
この「戦争絶滅受合法案」というのは、デンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが考えたものです。
彼は、戦争は国家の権力者たちがおのれの利益のために、国民を犠牲にして起こすものだと考えた。だから、まっさきに権力者たちが犠牲になるシステムを作れば、地上から戦争をなくせると考えた。それが「戦争絶滅受合法案」。どういうものかと言うと(本文より転載)、
戦争が開始されたら10時間以内に次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
1、国家元首。
2、その男性親族で十六歳に達せる者。
3、総理大臣、及び各国務大臣、並びに各省の次官。
4、国会議員。但し戦争に反対した議員は除く。
5、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。
だったら、同じように原発についても。
原発を推進するのは、政治家、官僚、電力会社、学者などからなら「原子力ムラ」。
だから、大事故の際にはまっさきに、次の人たちが「決死隊」として原子炉に送り込まれる。
総理大臣、閣僚、経産省の次官と幹部。電力会社の社長と幹部。推進した科学者・技術者たち。
原発を過疎地に押しつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない。
問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心なのだ。恥ずかしながら、知らなかった事を。
横須賀に米軍の原子力空母ジョージ・ワシントンが寄港しているという話ですが、これは、東京湾には原発が2基あるのと同じだ、と著者は指摘しています。もし、これが事故でも起こしたらどうなるのか。