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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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一人

今日10/6(火)の天声人語。

 折しもノーベル賞ウィークである。1901年に第1回平和賞を受けたデュナンは赤十字の創始者で知られる。波乱の生涯ながら、「どんな場合でも人間が人間らしく扱われることを求めて」という一貫した意思が流れていたそうだ。

 その赤十字から、ナイジェリアの内戦に派遣された医師たちがいた。経験をもとに、迅速で自在な医療活動を求めて作ったのが「国境なき医師団」だった。71年に発足し、昨今は報道でその名をしばしば聞く。

 「国を超えた人道」の理念はデュナンと同じだろう。人災でも天災でもまず駆けつけ、人の苦難に向き合う。世界から敬意が寄せられ、99年にノーベル平和賞を受けると惜しみない拍手がわいた。

 その運営する病院への、あるまじき空爆である。アフガニスタン北部で少なくとも22人が犠牲になった。12人が医療スタッフ、患者10人のうち3人は子どもだという。アフガン駐留米軍が関与した疑いが強まっている。

 国連高官は「戦争犯罪に等しい」と厳しく非難する。オバマ米大統領は徹底した調査を命じ、「最大の哀悼を示す」と声明を出した。皮肉なことにオバマ氏も6年前、平和賞の栄誉に輝いた人だ。

 〈小さな戦争やむをえぬ/大きな戦争防ぐため……一人死ぬのはやむをえぬ/千人死ぬのを防ぐため/千人死ぬのもやむをえぬ/ひとつの国を守るため〉。谷川俊太郎さんの古い詩句だ。米主導の対テロ戦争は無辜の人をどれだけ犠牲にしてきたか。世界はそれで平穏になっただろうか。


「国境なき医師団」への空爆、「誤爆」だとアメリカは言うけれども信じられないし、「誤爆」だったとしても、絶対に許されてはならない。

「BLOGOS」というサイトによると(記事こちら)、
 国境なき医師団によると、死傷したスタッフは計31人。アフガン現地時間の3日午前2時8分から同3時15分にかけ、クンドゥズ州にある国境なき医師団の外傷病院が約15分間隔で空爆を受けた。病院の主要ビルのほか、集中治療室、救急処置室、物理療法病棟の入った建物が繰り返し、正確に爆撃された。

アフガン政府や米政府に対し、国境なき医師団が「病院が空爆されている」と連絡した後も、30分以上、爆撃は続けられた。

病院の周囲にある建物はほとんど無傷で、米軍が病院に狙いを定めて空爆が行われたことをうかがわせる。国境なき医師団のアフガン北部地域責任者は空爆の状況をこう振り返る。

「空爆が行われたとき、航空機が上空で旋回している音が聞こえた。間を置いてから、その後、空爆は激しくなった。それが何度も何度も繰り返された」



ただ、天声人語を読んで思ったのは、「国境なき医師団」が空爆されたから、ニュースにもなったけれど、それがなければ、アフガニスタンで今もなお戦闘が行われていると”知っていた”人は多くはなかったのではないでしょうか。そして、私はその中の一人です。

このBLOGOSを読むと、先月28日から戦闘が激しくなったという。
アフガニスタンで戦闘が行われて犠牲者が出てても報道はそんなにされないけれど、このような事件が起こると大きく報道される。情報の非対称がここにも。


天声人語の最後に引用されていた谷川俊太郎さんの詩。

小さな戦争やむをえぬ/大きな戦争防ぐため……
一人死ぬのはやむをえぬ/千人死ぬのを防ぐため
千人死ぬのもやむをえぬ/ひとつの国を守るため


こう考える人は、自分がその「一人」になるかもしれない、なんて絶対に思わないのだろう。
じゃあ、自分がその「一人」になったら?
一人よりは、多数の方が大事だって思うから、「やむをえぬ」を受け入れる?

一人って、無視されてもやむをえぬものだとは思いません。
むのたけじさんが、「数字だって、万も億も1が土台だ。」って仰っていますが、一人がいるから、多数となる。
一人を大事にしないなら、いつかは立ちゆかなくなるのではないの?


まず共産党員が狙われた。
 わたしは黙っていた。わたしは共産党員ではないから。
次に社会主義者が狙われた。
 わたしは黙っていた。わたしは社会主義者ではないから。
次に労働組合員が狙われた。
 わたしは黙っていた。わたしは労働組合員ではないから。
次にユダヤ人が狙われた。
 わたしは黙っていた。わたしはユダヤ人ではないから。
次にカトリック教徒が狙われた。
 わたしは黙っていた。わたしはカトリック教徒ではないから。
次に私が狙われた。
 わたしのために声をあげてくれる人は、ひとりも残っていなかった。
(マルティン・ニーメラー)



こんなことを考えていたら、イエス様のことを思いました。
羊が100匹いて、その中の1匹がいなくなったら、見つかるまで探し、見つかったら大いに喜ぶ、と言われたイエス様。
私たちにはこんな深いイエス様の愛が必要なのだと思います。
愛されているから、愛することができる。
大切にされているから、大切にすることができる。

どうして、一人を大切にするのか。それは、矢内原忠雄が言っているように、「一人の存在を重んずるのは、一人一人が神のつくりたもうた生命としての絶対価値を持つから」。

| ひとりごと | 20:09 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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頑固ですか?

先日、いのちのことば社というキリスト教書店の通販でCDを購入したら、一緒に「いのちのことば10月号」という小冊子が同封されていました。

そこに、「ふり返る祈り」というエッセイがありました。

「自分が頑固だと思っている人は、どれくらいいるだろう?」
という書き出し。

私は頑固かな、どうかな?って考えた時に、私はそうでもないかな、って思いました。
でも、読み進めるうちに、「あっ、私って意外に頑固だったかも・・・。そう、身内に対しては。」と気づきました。

では、その頑固さ、心の頑なさを柔らかにする秘訣は?
このエッセイには次のように書かれていました。


なぜ、何のために、人は頑なになるのか。

あなた、何で頑固やめないの?と聞かれたら、「これは正しいことです!」と、自分の正しさにしがみつき、あくまで相手の悪さを言い募ることに執念深く固執している。自分は別に、頑固であろうとしているのではない。周りがそうさせている。

だから、それを譲ったら自分が崩れてしまうと思われる。すべてがダメになってしまうように感じるのだ。

でも、実際には崩れてしまわない。あたかも、そうなってしまうかのように恐怖を覚えるにすぎない。だから必死にそれを守ろうとして頑固になり、人に自分の主張を強要する結果になってしまう。そして、周りがそれを許してしまう環境ならば、自分が頑固であるのをずっと気づかずに過ごしてしまう。

いったい、心の頑なさを柔らかにする秘訣があるのだろうか?

それは安心することだと思う。
自分はこれを譲っても大丈夫。譲っても自分は崩れない。安心するには自分より大きな方に身を委ねることだ。
自分を守るために頑なにしている必要などない。
この大きな存在に自分を任せることができたら、柔らかで強い自分に変えられる。
ちょっとやそっと妥協しても、自分は崩れない。


自分を守るために、頑固であり続ける。言われてみれば、確かにそうかもしれない。

ただ、このエッセイでいう「頑固」は「意固地」とも言えるかも。
だって、事と場合によっては、頑固でなければいけない時もあると思うから。

では、私は意固地か?と問われたら、意固地になってしまう時もある、かな・・・。

| ひとりごと | 16:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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♪「美しい ひととき」

歌うのは好きですが、特に秋になると、何かと歌を口ずさむことが多くなります。

「美しいひととき」という賛美があります。
夕方、仕事からの帰り道にぴったりの賛美なのですが、特に秋にふさわしいのではないかって思います。
昭和の匂いがいっぱいの歌で、なんとも懐かしさを覚える歌です。
大阪の教会でコーラスをしていたのですが、教会である「歌と音楽のコンサート」で、何回か歌ったこともあります。




♪歌詞

①夕暮れ迫る街並みを包み
 すみれ色の空が広がる
 仕事を終えて家路を急ぐ
 心をいたわるように
 なんて美しいひとときなのでしょう
 1日の疲れいやす神のやさしさよ
②目を移せば川の流れも
 すみれ色に染まってゆく
 多くの人の喜び悲しみ
 運んで海に帰る
 なんて美しいひとときなのでしょう
 1日の重荷をおろす神のみもとへ

| 賛美 | 19:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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