1月をふり返って
体調不良が続いたので、ブログを訪問しても読むだけのことが多かったのですが、それでもそこに書かれている事に、色々と思い出すこともあって感謝です。
その思い出したことの一つが、今までに2~3度紹介させてもらったことがあるのですが、5年程前にいただいたコメントのこんな言葉です。
「天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見ると処に、何故、天才は難問を見るという事がしばしば起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。」 (小林秀雄の『モオツアルト』の一節) |
この言葉を改めて思ったのは、ある方がブログに書かれていた「人の心は、まるで水のようなもので、高みに上るには相当のエネルギーを使いますが、下に流れる分にはわけはないのです。」との言葉からです。
楽な方へと流れていきがちな私。でも、それでは進歩がない。一度きりの人生だもの、高みを目指して歩んでいきたいです。
と言っても、何か大それたことを考えているわけではありません。
主よ、あなたは私に、
きよらかな新しい年を与えて下さいました。
どうか私を助け、 そのページをそこなうことなく
美しく保つことを得させて下さい。
その巻物に 情け深い思いだけを書き記し、
見苦しいしみによって汚すことのありませんように。
これほどに白く、清純で 汚れのないこのページを、
私の思い、言葉、 あるいは行いによって
傷つけることのないように守ってください。
(『山頂をめざして』より転載)
上記のような一文を読みました。そして、読んですぐに思ったことが、友人知人の批判はしない、ということ。
働いていていると、職場で色々と愚痴とかでやすいですが、建設的でない批判、人を陰で中傷するような言動はとらない。「高みを目指す」ということからすると、本当に小さなことです。でも、人の口って、弱いもの。このことを心がけていきたい。
今日嬉しかったこと。それは、 今日の朝日新聞の「折々のことば」に、聖書の言葉が取り上げられていたことです。
見える望みは望みではありません。……われらに見えぬものを望む以上、忍耐して待つのです。 (「ローマ書」) 「見えるものを、そのうえ何で望みましょう」と使徒パウロは言う。希望は、苦難に満ちたこの世界をそっくり別の光で照らしてくれるであろう、今は不在のものに向けられる。望みが断たれてもそれでも耐えて待つことができるとしたら、それは自分が誰かに待たれていると感じるからにちがいない。「新約聖書」(前田護郎訳)から。 |
| 心に響いた言葉 | 19:48 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑