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Crescent~小さくても光を受けている。きっと誰かに愛されているから~

本や子ども、聖書のこと、日々の徒然を書きます。トップの画像はその時々で変わります。

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 今週の日曜日も奥田知志牧師の礼拝にライブ配信で参加しました。
 今日のテーマは「あなたがあなたであること」

 コロナ禍の中で、私たちは人を数値化してきていないか。
 全体の傾向を知る上では大切なことだけれど、その数値だけに一喜一憂していないか。コロナに感染した人自身にとっては、100%。個人個人の事象だったことが、数で束ねられてきていないか。

 また、相模原事件で見られたように、差別が横行する中で名を名乗れない社会となっている。

 「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイエス様は語っています。
 これは、何かいいことをしたから、立派なことをしたから記されているというのではなく、良い面も良くない面も含めて神様に知られているということ。

 その名を、神の前で、かけがえのない一人として、唯一無二の存在として、憚ることなく名乗ることができるように。また、かけがえのない一人として思うことができるように。




 先週の礼拝「ユダよ帰れ」もよかったです。目から鱗のメッセージでした。このユダは「イスカリオテのユダ」のことです。



 


| 聖書・信仰 | 19:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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希望

 今日5/10の奥田牧師のメッセージ。今日も大切なことを教えられました。

 今のコロナウィルスの状況に希望が見えなくて、「神はどこに行ったのか」と、呟きたくなることもあるのではないか。 
 
 時には希望は脆く崩れていく。希望は私たちの気持ち一つで存在したり、なくなりもする。
 希望というものがそういう脆弱なものでいいのか。
 どんな状況においても希望を持ち続けるために、希望というものを捉えなおす必要があるのではないか。
 
 礼拝の中で、二人の先人の言葉が紹介されました。(聴き取ったまま転載)

希望は現在経験している現実との矛盾をきたらせる。
それは、なされた経験からの結果として出てくるのではなく、新しい経験へと招き入れる。それが希望
その新しい経験はすでにそこにある現実を照らそうとするのではなく、来たるべき多くの可能性を探り出そうとする(ユルゲン・モルトマン『終わりのなかに始まりが』)


希望は逆説的である。   
受動的に待つことではなく、起こり得ない状況を無理に起こそうとする非現実的な態度でもない。
希望はうずくまったトラのようで、飛びかかるべき時が来たら初めて飛びかかるのだ。
希望をもつということは、まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができているということであり、たとえ一生のうちに何も生まれなかったとしても、絶望的にならないということである。

弱い希望しかもてない人の落ち着くところは太平楽か暴力である。
強い希望もつ人は新しい命のあらゆる兆候を見つけてそれを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようといつでも準備している。(フロム『希望の革命』)



 一喜一憂するような不安定な希望を、揺るぎないものへと変えるために、神は私たちの希望を打ち砕き、新しい経験へと召されるのではないか。

 どんなに苦難や困難がやってきても、それでもなおなくならい希望がある。
 そんな揺るがない希望が確かにある。

 問題が解決されることも確かに必要。だけど、困難な状況、辛いく苦しい悲しみのただ中だからこそ見える風景がある。そこで何が見えるのか、そこから何を見るのかということも重要。

 私たちが抱く凡庸な、神への期待を捨てなければならない。絶望の中で、失望の中で、揺るがない希望へと導かれるために。



| 聖書・信仰 | 15:13 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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奥田牧師のメッセージ

 先日5/3の日曜日も奥田知志牧師の礼拝に、ライブ配信で参加しました。奥田牧師のメッセージに今回も教えられると共に、ひとかたならず慰められました。

 今回もコロナウィルスのことに触れながら、聖書からメッセージをされました。

 コロナウィルスで多くの人がステイホームの状態となり、その中で、ストレスを抱える人が多くなってきています。
 コロナウィルスに感染したくない、感染したらどうしようという不安、恐怖がその原因の一つだと思います。でも、それだけではない。

 人との関わり、交わりから離れていることも、ストレスの原因の一つ。



 
 「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(聖書)

 そう聖書に書かれているように、人には助け手が必要。人が一人でいるのは良くない。人は、他の人から助けてもらわないと生きていけない存在。神の創造された人は非自立的存在。

 そんな人間が今、ステイホームしましょう、人との距離を取りましょうと言われると、それは本当に大変なこと。この大変さの根っこはどこにあるのか、ということを考えることが、コロナの後の世界をどう作るのかに直結するのではないか。私たちはどういうコロナ後の世界を生きるのか。

 コロナの前、「一人でいるのは良くない」という人間の脆弱さや、助けを必要としているという人間の相対性をどこかで置いてけぼりにしていた。
 そして、「1人でやれ」、「自己責任だ」、「甘えるな」等と「助けて」と言わせない社会を私達は作ってきた。私たちはそんなコロナの前にもう戻りません、戻るべきではありません。

 コロナの後を私達はどういう世界を作るのか。その基盤になるのが、人間とはそもそも何者かという、この問い。
 
 私達はコロナの前、だんだん人が人でなくなっていってたんじゃないか、人は独りでは生きていけないということを忘れていたんじゃないか。
 私達は今改めて人間とは何か、人がいかに一人ではダメな存在であるかを噛み締めたい。そして、コロナ後、私達はどのように生きていくのかを今しっかりと考え続けたい。


 
 そのように奥田牧師は語っていました。このことともう一つ語られたことがあります。志村けんさんや岡江久美子さんのニュースを見て、強烈に感じたこととして;
 それは、コロナに感染して亡くなると、看取ることも、弔ってあげることもできない。最も一緒にいたい時に一緒にいてあげられない。「たった一人で逝かせてしまった」。そんな思いに人は苦しめられる。

 このことを話されているときに、父のことと重なりました。

 でもね、イエス様は仰ったんです。
 「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」(聖書)

 あの日、彼は彼女はひとりぼっちでは決してなかった。「世の終わりまで共にいる」と仰るイエス様が共にいてくださった。
 「このことを私は信じる」と、奥田牧師はとても強い口調で仰いました。

 私も信じる。「父はあの時、一人ではなかった。イエス様が共にいてくださった」のだと、そう確信できました。「父を一人で逝かせてしまった」という思いが、心の底にずっとあったのですが、もう大丈夫・・・。

| 聖書・信仰 | 10:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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奥田牧師のメッセージ

 先日の日曜日も奥田牧師の礼拝のライブ配信で礼拝をもちました。

 “ステイホーム” が言われています。感染しないため、させないため。
 その“ステイホーム” プラス、“フロムホーム”、家からできることをしようではないかというメッセージが冒頭にありました。
 
 家で、家からできること。何があるだろうか。
 あるブログ主さんは布マスクをたくさん作って、寄付をされています。
 
 “ステイホーム” と言われるけれど、ステイする家さえない人たちがいます。そういう方達の支援も奥田牧師はされています。
 それをサポートするのも、家からできること。

 考えればできることは他にもあるでしょう。できることをやっていきたい。



 そして、もう一つのメッセージ。それは、どういう観点から物事を見るか、ということ。
 コロナウィルスは確かに怖い。もう世界は終わってしまうんじゃないかって思ってしまう人もいるかもしれない。

 もっと大きなスケールで考えよう、見てみようと牧師は語られました。
 
 聖書からの話になります;
 イエス様が十字架にかけられて後、二人の弟子がエマオへと向かっていました。その途上、イエス様のことを話していました。
 そこにイエス様が近づいてきたけれど、悲しみでいっぱいだった二人には、それがイエス様だとは分かりませんでした。
 そんな二人に、イエス様はモーセのことから始めて、神のご計画について話しました。そして、二人と共に食事をするときに感謝を捧げたイエス様に、それがイエス様だと分かった。

 弟子達は3日間の出来事だけを見て、イエス様は死んだ、もうダメだと悲観していた。でも、イエス様がモーセの歴史から話し始めて、神様の救済の歴史を垣間見ることができた。


 どういう物差しを持つのか。
 
 不安で不安でたまらない、怖くて怖くてたまらない。
 それは正直な思い。
 ただ、今起こっていることも含めて、今のスケールのまま物事をとらえていいのか。
 自分が置かれている立場を大きなスケールで計り直そうではないか。
 神の救済へと向かう歴史の一ページに私たちはいる。
 そこに、新しい可能性、世界を見ることができるのではないか。

 1日も早くコロナウィルスが収束へと向かいますように。
 特に医療現場にいる人たちが守られますように。
 感染している人たちが回復しますように。
 経済的打撃を受けている一人一人が、しっかりと守られますように。
 したくても、ステイするホームのない一人一人が守られますように。
 お互いに思いやりを忘れずに、優しくなれますように。
 

| 聖書・信仰 | 19:41 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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どう生きているか

 旧約聖書のエレミヤ書の最終章で、当時の王のことを、「主の目の前に悪を行なった」と書いています。(この「主」というのは、「神」のことです。)

その人の地位などは関係ない。また、その人が何をなしたかでもない。
どう生きたか。神様の前にどのように生きたか。


 今の日本の政治を見ると、本来ならあってはならないことが、あるいは、そんなことをしったら罰せられるはずのことが、今のところ、何の咎めもないままになっていることが多々あります。

 当事者達には、自分たちが正しくないことをしているという認識はないのでしょうか。罰せられないなら、何をしてもいいと思っているのか。

 自分たちの生き様について、どう思っているのだろう。

 そして、そんなことを思う私の生き様はどうなのか。神様の前にどう生きているか。


聖歌641番「わが罪のために」

| 聖書・信仰 | 19:53 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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♪主の愛が今

 大好きな賛美の一つに「主の愛が今」というのがあります。

 教会では、ずっと歌い継がれている賛美歌や聖歌だけでなく、この「主の愛が今」のように現代に作られた、プレイズソング、ワーシップソングという賛美も歌われています。

 

 初めてこの歌を歌ったとき、泣きそうになりました。そして、今でも口ずさむと、こみあげくるものがあります。

♪ 主の愛が今 ♪
主の愛が今 あなたを包む
打たれた傷も 癒やされる
主の愛が今 あなたを包む
嘆き悲しみ 逃げ去る

傷ついた主の愛の手が動き
あなたの上に留まる
全能の主の愛の手が包み
あなたの心を癒される



 このような賛美を作ることができたらいいなって思います。

| 聖書・信仰 | 19:08 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「いのちの誕生」

 今朝、奥田知志牧師のクリスマス礼拝でのメッセージを視聴しました。
 説教題は「いのちの誕生―クリスマスの原点」。



 「なぜ、クリスマスおめでとう」なのか。
 クリスマスは救いの御子・イエス・キリストが生まれた日。
 私たちを罪から救う救い主が生まれたから、「クリスマスおめでとう」。
 でも、それだけでいいのか。クリスマスの原点は何なのか。その意味をもう一度見直したい。

 クリスマスの原点、それは、“あの日、新しい命がこの世に誕生した”ということではないか。

 救い主が生まれたから嬉しい、おめでたい。確かにそうだが、それだけでいいのか。一足飛びにそう言っていいのか。
 「新しい命がこの世に生まれた」、そのことを喜ぶ。そのことに最大の価値を見出す必要があるのではないか。

 私にとっていいことをしてくれた、利益があるからおめでとう、ありがとう、ではない。最終的には確かにそうだけれども、その原点は、「新しい命が生まれた」「そこに命があった」ということではないか。

 命が誕生したことに対して、「おめでとう」 これがクリスマスの原点ではないだろうか。
 
 価値のない、役に立たない人間は必要ない。そう考える人がいる。

 私たちは、命プラスアルファのところしか見ていないか。
 そしてまた、自分自身に対しても、そう見てしまってはいないか。自分はそういう価値を持っている人間かと。

 生きていること自体に、命そのものに圧倒的価値がある。
 命そのものを喜べる私たちでいよう。



 説教は28分過ぎから始まります。

| 聖書・信仰 | 18:55 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

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