育児と育自
私が先生になったとき
自分が真実から目をそむけて
子どもたちに本当のことが語れるのか
私が先生になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるのか
私が先生になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにいったいどんな夢が語れるのか
私が先生になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸を張れと言えるのか
私が先生になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるのか
私が先生になったとき
ひとり手を汚さず自分の腕を組んで
子どもたちにガンバレ、ガンバレと言えるのか
私が先生になったとき
自分の闘いから目をそむけて
子どもたちに勇気を出せと言えるのか
(作者不詳;宮沢賢治とも言われたことがあるようですが、どうも違うようです)
渡辺和子シスターの著書『目に見えないけれど大切なもの』に引用されていました。
再読なのですが、全然記憶に残っていませんでした。
いつも訪問している ざまきさんがこの本に書かれていた「自分の人生に左右されること以外でイライラしない」との言葉を引用されていて(コチラ)、もう一度読み直してみましたが、思った以上に内容を覚えていないことにちょっとショックだったりします。
この詩を引用して、渡辺和子シスターは「子どもの教育にあたる者は、まず、自分自らの生き方を正してかかれという厳しさである」と述べています。
同じことは、親にも言えるでしょう。
自戒をこめてですが、自分自身を正さずに、他人にあれやこれやを要求していてはいけない。
よく思うのですが、育児には親の育自も必要だと。
この詩の「先生」を「親」と置き換えて読むと、ズキッとします。
渡辺和子シスターは、学校についてこうも述べています。
学校は、単なる知識の詰め込み、進学のための通過点として存在するのではいけない
教師を通し、また友だちを通し、生きて行く上でのあれやこれやを体得していくのではないでしょうか。
学校がその全てではありませんが、大きな影響を与えるものだと思います。
だから、学校は知識を詰め込み、経済効率の良い子どもを作り出しさえすればいいのだ、というような考えには賛成できません。
もちろん、それなりの知識は必要で、勉強を疎かにしていいとは思っていません。
ただ、片寄りすぎが心配。
教育の重要な役割は、知識の詰め込みではなくて、子どもたちに、一時的、衝動的善、つまり自分の欲望を抑えてでも、彼らを将来的に幸せにし、自由に導く真の善が選べる人間になるように育ててゆくことにあります。 人間はとかく、追いつめられると、目先の善に走りがちです。だから私たちは常日頃、心にゆとりを持ち、物事に優先順位をつけながら生きてゆく判断と意志の訓練をすることが大切なのです。 私たち大人がまず、自分の「したい性」を抑えて、主体性を身につけてゆかないといけないのでしょう。人は、自分が持っていないものを他人に与えることはできないからです。 |
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