『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』 (2)
本の中で著者が「人権」について書いていました。その視点が、私には全くなかったもので、教えられました。
少し転載します。
人権をすべての社会に普遍的に妥当するものとして、それが成立してきた歴史を持つ社会の外へ適用していく時、衝突が起きる。現在、「人権VS文化」として語られることの多くは、「西洋文化VS非西洋文化」として解釈することができる。「人権侵害」という判定それ自体が、非西洋文化の側では「文化の侵害」であると響く。この文脈では人権はレトリック以上の意味を持っていない。人権は、最初に使ったほうが勝ち、という極めて反人権的な言葉として強烈な威力を持っている。念仏のように人権を連呼すればたいていの議論にあなたは勝てる。他文化に対する尊敬、自文化に対する懐疑、その両方が見事に欠落した「善人」が、狂信的な熱意を持って、人権という刃物を振り回す。その結果、不幸なことに、人権は『オリエンタリズム』のバージョン・アップの一部品にすぎなくなっている。
私は人権というのは、普遍的なものだと思っていました。でも、著者は"人権=普遍"ではない、それは無邪気な信仰にすぎないと言います。
西洋社会の発展と共に成長してきた人権を、そのまま非西洋社会に適用できるわけではない、と。例えば、ニューギニア高地人の社会と、ニューヨークの社会に同じ基準を適用して人権侵害を判定することに意味があるだろうかと。
西洋で発達した人権を、他文化の事情を無視して押しつけようとするなら、そうい人は、
「人権が人間社会で果たす原理的機能を無視して、形だけの人権唱導の心地よさに狂信的にひたっている人」であり、「『原理主義』の一般的誤用に従って、僕は人権原理主義者と呼ぶ」と断じています。
「人権原理主義」。よく「イスラム原理主義」という言葉を使ったり見聞きしたりしますが、そう言われる人たちからすれば、欧米諸国は「人権原理主義」となるのだろう。
そして、アフガニスタン等中東に豊富にある資源を我が物とするために、「人権原理主義者」は「人権」という名の下に、かの地に爆弾を落とし続けるのだろうか・・・。
「人権」について、次のようにも指摘していました。
メディアにおける人権侵害糾弾がエスカレートするうちに、いつのまにかアフガニスタンの戦闘は、人権を擁護する「善玉」と人権を侵害する「悪玉」の間での戦闘にすりかわってしまった。言うまでもないが、人権をめぐっての戦闘など最初から最後までここには存在しない。政権をめぐる闘争が延々と続いているだけなのだ。
タリバンの人権侵害を非難する国家の行動が明らかにしてきたのは、皮肉なことに人権の本質的軽視のようだ。というのは、そのような国家が一貫してタリバンと同様な政策をとっている他国の政権を糾弾するかと言えばそうではなく、友好国であったりする。また、反タリバン勢力の人権侵害を同様の基準で非難しているかと言えば、これに関しては沈黙している。つまり、最初にタリバンを政権として認めたくないという政治的意志があり、そのために人権が利用されている。人権が政治の道具と化している。結局のところ、彼らはアフガン人の人権など屁とも思っていないのではないかと思わざるをえない。
イラクやアフガニスタン、ガザへの一般人や子どもも巻き込む容赦ない攻撃を思うと、著者の指摘の通りなのかなと思います。
また、発言する者の意図によって、あらゆることが「善玉」や「悪玉」になりうる。その「善玉」対「悪玉」という単純な構図に気をつけなければいけないとも著者は言います。
「善玉」と「悪玉」の闘争という漫画的なフォーマットに安住するメディアの報道には、カブールの「悲愴」を伝えようとする意思は微塵も感じられない。メディアは(それは我々のことでもあるのだが)、「悪玉」を探し出し、それを叩き潰すことに熱狂する。しかし、「善玉」と「悪玉」に明瞭に区別できる世界が現実に存在するだろうか。その境界はどこまでも曖昧で入り組んでいるということが、歴史から学ぶべきことの一つではなかったのだろうか。「善玉」に自己投影し、「悪玉」を発見し、「悪玉」を叩き潰すと信じて行われる行為が壮大な悲劇を引き起こしてきたではないか。
争いごとは人の心を痛める。そこに、「善玉対悪玉」という構図が現れれば、非常に心地よいものだ。しかし、その心地よさは何も解決しない。対立をいっそう深化させ、解決の道をこじらせる。単純な構図が与えてくれる心地よさ、これこそが人間の悪魔性を呼び起こしてきたことを我々は知っている。しかし、そのようなことが繰り返し行われ、今も行われつづけている。
「善玉対悪玉」の構図。これは何か事件が起こると、マスコミが得意になって打ち立てるもので、それに多くの人が引きずり込まれていく。
でも、悪玉を仕立て上げ、それを糾弾して、物事がすっきりと解決してきたか、と言えば、そうではないと思う。
それどころか、似たような問題がもっともっと起こってきているのではないか。
では、どうしたらいいの?ってなりますが、陳腐な言葉ですが、「片方側だけからの情報を鵜呑みにすることなく、自分の頭で考える」ことがやはり大切なんだろうな。
アフガニスタンとは直接関係のないことも教えられた本ですが、アフガニスタンのことも知れる一冊。
明日の朝に凍死していないことを祈りながら子供を寝かしつけるアフガンの人たち。
遠方から来た人や助けを求める人たちを厚くもてなすアフガンの人たち。
経済基盤のない内乱状態から、治安を回復させることはとても難しいこと。その困難な中で必死に生きるアフガンの人たち。
どれだけのことを私たちは知っているだろうか?
色々なことを教え考えさせてくれる一冊です。著者のユーモアがあり一気に読める一冊。
タリバンについて、オサマ・ビン・ラデンについて、こんな面もあったのだと知ることの出来る一冊。
お薦めの一冊です。
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